五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)
第五節 五蘊は皆空にして全て如来蔵の性質である
一、何故大智慧があれば五蘊の塵労煩悩を打破できるのか
般若真如が本来より有する大智慧を証得する時、識心は同時に般若智慧を生じ、真心が本来生滅せず、真心が本来万法を具え、真心が一切の法を生じ、真心が五蘊身を生起し、真心が身口意の一切の行を現出することを明らかにする。真心があれば一切の法の存在がある。同時に、五蘊は真心より生じた生滅する法であり、その機能作用は全て真心が縁によって生じたものであって、実有ではなく、生々滅々する虚妄の法であることを知る。
かくして五蘊が我ならざる理を知り、我見を断除し、五蘊が我であるという見惑の煩悩を打破する。これにより知見上の迷いや倒錯した想いは無くなり、生々世々に亘る三界・五欲・六塵における煩悩惑業は次第に消失する。つまり、その後の修行により更に思惑の煩悩を断つのである。思惑とは思想上あるいは心理上の煩悩、貪・瞋・痴・慢などの五蘊の煩悩を指す。以後、全ての塵労煩悩は消失滅尽し、これらの塵労煩悩の打破滅尽は、般若の大智慧を証得したことにより得られる。故に大智慧を具足して初めて五蘊の塵労煩悩を打破し、生死を解脱することができるのである。
二、如何にして五蘊皆空を証得できるか
観行し、五蘊皆空を知り得る心は妄心の七転識である。七転識には貪瞋痴の煩悩があり、無明がある。第六識・第七識が禅定の中で五蘊の無我性を観行思惟することにより、五蘊皆空を証得し、無明を打破し、我見を断つ。禅定の中で第八識を参究し、破参の時、本心第八識を証得すると同時に五蘊皆空を照見する。更に禅定を修めて初禅定の定水に潤されれば、貪愛と瞋恚を断除できる。貪愛と瞋恚が断除されると、心は解脱し、もはや貪愛に係縛されず、五欲六塵に係縛されなくなる。もし四果に至れば、三界世間への貪愛と執着が断尽し、三界世間の生老病死の係縛から解脱して三界を出離できる。煩悩を断除し心が解脱した後は、身口意の行は清浄となり、貪瞋痴の染汚業行を造作せず、心は清浄自在となる。
無明があれば貪染があり、身口意の行は清浄でなくなる。業行を造作した後、業縁が成熟すれば業報を受け、その時は苦悩に堪えず、生死は尽きることがない。阿含経を学び、観行して我見を断除し、五蘊が虚妄で生滅し無我であることを知れば、終日五蘊の仮我を巡って悪業を造作することはなくなり、三界世間が全て虚妄であることを知れば、世俗法に貪染せず、世俗法に係縛されず、心は解脱を得る。もし更に大乗法を修め、明心見性し、如来蔵を証悟し、常に如来蔵の清浄無我性を観察し、それに学び、それに倣えば、将来は心に掛礙が無く、倒錯した夢想も無く、恐怖も無く、心は解脱する。
三、何故五蘊は空なのか
観自在菩薩が深く般若波羅蜜を行じた時、五蘊皆空を照見し、一切の苦厄を度した。何故五蘊は空なのか。人形劇の人形に譬えると、人形の四肢と頭は糸で繋がれ、後ろで人が糸を操ることで初めて人形は劇を演じる。人形が劇を演じている時、この事が無いとか存在しないとは言えないが、その劇を演じている事に実質は無く、真実でなく、自在でなく、自主性が無く、空幻である。相は有るが、自らの実質は無い。故に相は真実ではない。
我々の五蘊もまた如是である。五蘊が無いとは言えず、五蘊が存在しないとも言えないが、この存在は虚妄であり、実質的な五蘊は無く、五蘊は自在でなく自主性も無い。故に不実である。また例えるなら、低血圧の人が眩暈を感じる時、目の前に金の花が散るように黒い点が見える。これらの黒点は彼にとって無いとは言えないが、この有は虚妄不実であり、完全に幻相であって、他人には見えない。我々は黒点に恐怖や嫌悪を生じる必要もなく、これらの黒点を追い払おうとする心も起こさず、眩暈の病を治せば黒点は消失する。同様に、我々の無明の病を治療すれば、虚妄の仮相は心の中で消失し、一切の法を実相として見るようになる。
五蘊はこれらの黒点のように虚妄不実であり、あの人形が劇を演じるように虚妄である。これらの道理を真に理解するには、深く般若波羅蜜を行じて深細に観行し、思惟し、参究し、波羅蜜を証悟した時に知るのである。一切の相は有るが、有は仮有であり、虚妄であり、幻化であり、自在でない。ならば五蘊は我ではない。そして我ではないが幻化されないものがある。それは相が無いが、確かに実相であり、真実に存在する相である。
般若智慧の観行は、菩薩の六度を第六度まで修めた時に初めて悟前の観行智が生じ、観行智が有って初めて観行して般若智慧を成就する。観行成就の時、本来より自在なる心を証得すると、この心は無所得の心であり、世間の一切の法に対し何も得ないことが発見される。何故ならそれは何も必要とせず、何もかも具足し、少しも欠けることが無いからである。この心を、我々は仏と呼んでも良く、衆生と呼んでも良く、何と呼んでも良く、何も呼ばなくても良い。それは無関心な心である。どうでも良く、有っても無くても良く、如何に扱っても良く、認識しても認識しなくても、それは無関心である。何故ならそれは自在だからである。我々は自在でなく、どうしてもこうでなければならず、そうでなければ駄目であり、実に自在ではない。
深く観行し、因縁が成熟する時、五蘊の虚妄を証得し、五蘊が我でなく、五蘊が無常であり、五蘊が空であることを明らかにする。五蘊は本来空であるが、無明の故にこの理を知らず、観行によってこの理を証知する。我々が深く般若波羅蜜を行じて真心如来蔵を証得する時、一切の法は皆如来蔵の起用であり、五蘊も如来蔵の起用であり、苦厄も如来蔵の起用であり、全体が如来蔵の妙用であることを知る。元々五蘊は無く、苦厄も無く、これらの仮相は全て如来蔵によって現起されたもので、幻化されたように現れている。
ならば五蘊は空であり、苦厄は空であり、一切の法は仮相であり、全て如来蔵の顕現である。如来蔵の化現があれば、他の一切の法は泡影であり、如来蔵には一切の苦は無い。それが現れると、全ての苦厄は如来蔵の性質となり、苦厄は全て消除される。故に観自在菩薩が深く般若波羅蜜を行じた時、五蘊皆空を照見し、一切の苦厄を度すことができたのである。我々もまたこのように観行し、五蘊が皆空であり、皆如来蔵であることを照見すれば、これ以後五蘊の塵労煩悩を打破できる。
四、一切の法は全て虚妄不実である
一切の法が生じるのは如来蔵から生じる。ならば一切の法が滅する時、どこへ滅するのか。物質色法が生じる時は四大種子が形成され、滅する時は四大種子が散じる。生じる時は如来蔵より来り、滅する時は如来蔵の中へ戻る。故に我々が見る一切の物質色法の消失は、最後は影も形も無く、滅する処所が無い。
後脳の勝義根(しょうぎこん)の中の六塵色法もまた如是である。生じる時は四大種子が形成され、如来蔵より来る。滅する時は四大種子が如来蔵の中へ戻り、影も形も無く消失する。我々は後脳の勝義根の中の六塵物質色法が如何にして出生し、如何にして滅去するかを見ることも感じることもできないが、これらのものは確かに来る時は跡が無く、去る時は影が無い。実は全て如来蔵の中で生々滅々している。生々滅々するものもまた影像であり、刹那刹那に代謝し、捉えられず、触れられず、感覚はあれほど真実であるが、実は幻覚であり、自らを欺き人を欺くに過ぎない。
たとえ我々が毎日部屋一杯の物を見て、とても混雑しているように見えても、部屋全体と物もまた影像であって真実ではなく、混雑した感覚さえも虚妄に現れたもので、非常に不実である。冷蔵庫を見る時、冷蔵庫の影像は勝義根に摂取され、刹那に生滅し、そして消失する。テレビを見る時、テレビの影像は勝義根に生成され、そして滅去する。次にソファや机椅子などに変わり、一つひとつの影像が出生し、そして一つひとつの影像が滅去する。来る時は跡無く、去る時は影無く、刹那に生滅変異し、非常に虚妄不実である。
音を聞く時、全ての音の影像は、あるいは同時に勝義根に形成され、あるいは順次に勝義根に生成される。滅する時は、あるいは同時に滅去し、あるいは順次に滅去する。来る時は跡無く、去る時は影無い。実は全て如来蔵より来り、また如来蔵へ戻る。来ると去るは、実質的な色法が如来蔵より来り、また如来蔵へ戻るのではなく、四大種子が如来蔵より来り、また如来蔵へ戻るのであり、形無く相無く、実際には元々如来蔵を出入りしたことも無い。色身の出生と滅去もまた如是であり、虚妄、虚仮、不実、刹那に生じ、刹那に滅し、来る時は跡無く、去る時は影無い。何の実質的な色法があろうか、ただ人の耳目を欺くに過ぎない。
五識心識の種子が如来蔵から生じ出ると、見聞嗅嘗触があるかのようになるが、実は虚妄不実である。滅する時、識種子は如来蔵に戻り、五識は消失し、影も形も無く、来る時は跡無く、去る時は影無く、幻化して人を欺くに過ぎない。第六識、第七識の識種子が如来蔵から出生し、連続不断の了知性分別性があるかのように形成されるが、刹那に生じ、刹那に滅する。生には来る処無く、滅には去る処無く、形無く相無く、来る時は跡無く、去る時は影無い。蜃気楼のように虚妄であり、人の心識を欺くに過ぎず、実事は無く、実法は無く、全て如来蔵の戯れである。
一匹の猿が湖に映った月に対して、種々の情思や臆測を巡らせ、掬い取ろうと妄る。一匹の痴れる犬が鏡の中の画像に向かい、牙を剥き爪を立てて、追い払おうと妄る。各衆生の生々世々を、適切な言葉で概括すれば、徒労無益である。仏になっても、また夢中の事である。衆生である時は悪夢の一場であり、仏になった時は美夢の一つである。
五、五蘊と万物には如来蔵の執持作用がある
如来蔵は様々な五塵境界と混ざり合わない。何故なら五塵境界は物質色法であり、如来蔵は心法であるからで、二者は互いに混淆できず、如来蔵が景物の後ろにあることも不可能であり、景物と共にあることも不可能である。しかし物質色法は全て如来蔵を離れて存在できない。如来蔵を証得するのは物質色法の背後で証得するのではなく、五蘊の活動の中で証得する。我々が五蘊十八界の虚妄を観行して明らかな効果がある時、心には何らかの動きがあるはずであり、初めて外の境界が全て共業の衆生の如来蔵によって執持されているものであり、真実ではないことを感知する。この程度まで観行できれば、我所見を断つのは早く、心は自らが所有する物質色法を真実と見做さなくなり、自らが所有する物質色法を空と見ることが多くなり、内心の感受が空に近づく時、定力は迅速に向上する。
五蘊と万物には明らかな区別がある。万物には識心が無く、霊性が無く、受想行識が無く、ただ四大で構成されているが、全てに如来蔵の執持作用がある。五蘊の上には八つの識の活動があり、霊性があり、受想行識があり、行為造作がある。故に一切の法の背後には如来蔵が維持し変現している。それ故に一切の法は生滅虚妄であり、全て如来蔵の功徳作用であると言う。
六、真の心と妄の心の区別
五蘊の一切の虚妄法の上には真心と妄心の共同運行があり、二つの心は共に形無く相無く、内外中間の何れにも存在しないが、二つの心の体性は全く異なる。妄心には生滅があり、動転があり、分別があり、染汚があり、習気があるが、真心如来蔵にはそれらが無い。我々が世間の一切の現象に接触する時は、常にこれらの現象の不実性、虚妄性、不自主性、変異性を仔細に分析思惟し、次第に心が攀縁せず、貪恋せず、煩悩が軽微になれば、観行して我見を断つのは早い。
もし更にこれらの現象の背後に、何が現象界の存在と運行を維持しているのか、何故一切の現象がこのように虚妄であるのに、なお出生し存在できるのかを観察すれば、このように疑情が生起した後、次第に万物の主を見出し、万法を生起する如来蔵を証得できる。常に一切の法の無我無人性、一切の法の空性を観察すれば、果を証するだけでなく、明心して証悟し、その後如幻観、陽炎観、夢幻観など様々な観行を相続して獲得できる。
七、虚相仮相には虚仮の用がある
真空とは、即ち如来蔵を指し、真実でありながら性空であり、心体には一法も無いが、また一切の法を変現できる。妙有とは、五蘊十八界の法相は有るが実質は無く、全て微妙なる如来蔵が変現した虚妄の法である。虚妄の法は、それらの虚仮の相が存在しないとは言えない。何故なら衆生は分秒刹那にそれらの仮相を用い、五蘊で食事し衣を着て歩き、五蘊で生活しているからである。衆生は虚妄の十八界に生き、見るのは仮色であり、聞くのは仮声であり、嗅ぐのは仮香であり、嘗めるのは仮味であり、覚えるのは仮触であり、識るのは仮法である。
見聞嗅嘗触識は全て五蘊の機能作用である。故に五蘊の表面的な存在現象を否定できず、五蘊は真実の存在ではないが、虚妄の存在というこの方式は有る。明らかに毎日五蘊を用いているのに、五蘊は存在しないと言う。心が真に五蘊が確かに虚妄であることを認める時、それは良く、即ち我見を断ったことになる。衆生が皆そうあらんことを願う。しかし五蘊の虚相が存在しないと否定すれば、観行できず、我見を断つこともできない。