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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 分類: 二乗解脱 更新時間: 2025-02-27 閲覧回数: 3790

第一節 色身を観行して身見を断ずる

一、観行に暖相が現れることは我見を断つ前提

色身への我見を断つには、色身が出生以来現在に至るまでの生滅変化を観行し、色身が苦・空・無常・生滅変異なることを確認しなければならない。心中に「苦なるものは我にあらず、我は苦ならず」という真理を確立せよ。この観念を確立すれば、色身の無常苦を観行して身見を断つことができる。色身は因縁所生であり、因縁あれば色身生じ、因縁あれば色身滅ぶ。生滅変異無常苦、即ち我にあらず。色身の生滅変異より観行を始め、色身が如何に出生し、如何に変化し、如何に滅するかを細かに観察せよ。色蘊の不自在さを観じ、その生住異滅の全過程を観察し、色蘊の念念生滅変化を思惟すべし。

色身の組織構造を観察し、色身が地水火風四大より成る組合せ体であり、筋肉・骨格・内臓・血液等の集合体であることを了知せよ。組合せられたものは真実ならず。現在の色身と一年前の色身、昨日の色身、過去某時の色身との差異を観察し、色身の不浄さと苦を観じ、正しい観念を樹立せよ――苦なるものは我ならず、不浄なるものは我ならず、変化するものは我ならず、色身に真実永遠不変の我性を見出せない。真実の我は生滅変化せず、永遠常住するものであり、苦ならざるものなり。

思惟観行には一定の定力を必要とする。未到地定が具足する時、観行は容易となる。三十七道品を精進修行して初めて正しい認知を確立できる。かかる正知見が生じ、身体が不実と認められる時、四加行中の暖相が現前する。暖相は証果前の四加行の一つであり、意識と意根の智慧境界、智慧的な認知である。思惟観行を通じ、意根が五陰十八界無我の見解を初歩的に受け入れ、未だ確定不疑せざるも、内心に暖流を生じ、五陰無我の理に抗拒せざるなり。暖相暖流は物質色法にあらず、比喩にて心の境界と感受を表す。暖とは火が燃え始める前の状態、暖相現れたる後、火は燃え上がる。意根の智慧境界を喩え、仏法への一定の認知を得、五陰無我の理を初歩的に受け入れ、後に確実なる信と証を生ずるなり。

聞思を通じ正しきを認め、聞いた正法義に従い思惟し、実際に観行して初めて証を得る。これらの法を観行し理論と同じ結論を得、内心深く「実に如是なり」と認め、意根が色身の不実と非我を確信し、過去の色身も現在未来の色身も我にあらざることを認めれば、真に色身への我見を断ずるなり。

二、身行を緩めて色身の機械化を体得する

衆生は色身運行の内在的機制と秘密を知らず、身体の活動は連続的・真実的・依頼可きものと考える。実は刹那刹那生滅し、無数の刹那生滅の仮相が連接せるものなり。恰も無数の写真を極速に放映して連続動作を成すが如く、又は火把を速く回転させて火輪を成すが如し。実は火輪無く、眼識の錯覚のみ。

色身活動の真相を明らかにするには、禅定を修せねばならず、これを動禅と謂う。色身の運動を極力緩め、更に極慢とし、遂には殆ど動かず緩やかに運転せしむ。例えば緩やかに経行し、緩やかに拝仏し、緩やかに身体を運転す。或る時因縁具足し智慧生起すれば、この色身の活動が恰も機械人の運転の如く真実ならざるを覚知し、身我見を断ずることを得ん。これにより色身を我と認めず、更に識心我見を断ずれば、全体の我見断尽し、小乗の声聞禅は斯く修するなり。

三、如何にして色身無我を観行するか

五陰無我の観行は、先ず色身無我より始む。禅定中に色身の生滅・不自在を観じ、色身生住異滅の過程を観行し、色身の念念無常変化を観察す。色身の組成と構造を観察し、これが複合体なることを確認せよ。複合せるものは真実ならず。現在の我と一年前の我、昨日の我、過去の我との差異を観察し、色身が如何に無常・苦・不浄なるかを観ぜよ。

遂に結論を得ん:かかる無常生滅変異の五陰身は、真実の我にあらず。真実の我ならば変化せず、真実の我は常住不変にして苦ならず。苦なるものは我ならず、不浄なるものは我ならず、変化するものは我ならず、色身に真実不変の永遠我を見出せず。

自身の具体的情況に基づき色身の変化を観察せよ。十歳以前の色身、二十歳以前、三十歳以前、一年前、昨日の色身と対照し、身体が刻々新陳代謝し、皮膚より内臓に至るまで更新され、脳髄髄液も変化し、全身が以前と全く異なることを観察せよ。変化するものは真実ならず、我にあらず。これらの観行には一定の定力を必要とし、布施・持戒・忍辱・精進・禅定等の菩薩行を修行せねばならず、菩薩の最低条件を具足して初めて、内心に「身体は余り真実ならず」との認知が生じ、暖相現前後まもなく火花=光明智慧が現出する。心中に「無常変化するもの、苦・不浄なるものは真実ならず、我にあらず」との観念を確立せよ。

思惟観行せよ:過去に幾多の身体を有したか。一劫内、一大劫内、無始劫のそれらは皆我にあらず。既に滅して塵も残らず、所謂「我」は現に存在し、過去と大いに異なる。未来の色身は未だ現れざるもの、更に我にあらず。現に存在する色身も念念生滅変化止まず、故に皆我にあらず。各世の色身は我の一着の衣に過ぎず、不断に更新されるも衣装は我にあらず。色身は我の仮住まいなる家屋、暫く住むのみにて永遠に保有できず、色身家屋は我にあらず。これらの観行、理論は粗雑にして輪廓的指導に過ぎず、細相は自ら周到に思考し、一点一点観察整理して完全に透徹せしめねばならず。

身中の四大及びエネルギーの相互転変を観行せよ。刹那刹那止まることなく、定相を得ず。過去の身は現在の身にあらず、現在の身は将来の身にあらず。而して現在当体の身もまた当体を得ず。地水火風刹那生滅住せず。心臓の絶え間ない鼓動、血液の不断の更新流動、五臓六腑及び眼耳鼻舌の機能作用、一時も休息停止なし。これら皆無常変異し、真実の我にあらず。正しい聞思修の後に観行証得すべく、聞いた法に従い正しく思惟し、正しきを認めて修行せよ。観行思惟これらの理、遂に理論と同じ結論を得ん。意識は「実に如是なり」と了知し、意根も証得す:所謂我は実に不実なり、真実の我にあらず。

この中の修行過程は長時を要すべく、或いは短時足る。各人の善根福德因緣による。三十七道品を修せねばならず、三十七道品修せずんば観行成就せず、色身我見を断ぜず。修行の要は大心を発し大願を立て、心心念念解脱・仏教・衆生のためとし、自然に仏力加持あり。斯く修行すれば順水推舟の如く容易なり。この自我を抛り出して初めて無我に達し、仮我を捨てて初めて我の真相を証得す。不断に世俗の欲望と邪見を捨て、一定の出離心と大願心を培養すれば、修行は速やかに進み、自ら設定した目標に達するなり。

四、如何にして五根の無常無我を観るか

身の無常無我を観るとは、色身五根の無常を観ずるなり。眼根の生滅・変異・無常を観察せよ。眼根は病苦を生じ、毀壞可く、変化可し。眼根は無より有に生じ、後天出生し、滅去す。故に眼根は不自在・可変異・無常なり。無常即ち苦、苦なるものは我にあらず、故に眼根は我にあらず。

眼根は常住不変・自在ならず、外力により変更可きもの、即ち真実の我にあらず、我性も無し。眼を近視にしたくないならば、業障重からざれば可能なり。老眼にしたくないも、ある程度可能。眼病を避けんとすれば亦可能。即ち我々は眼根を如何にせんと欲せざれば、眼根は其の如くならず。眼を保護し、手術等により眼根を変化せしむることを得。一重瞼を望まざれば二重に変え得。故に変更可能・変化可きものは我にあらず、我の所有にもあらず。

耳根の生滅・変異・無常を観察せよ。耳根は後天出生し、因縁散じて滅す。耳根は病を生じ、変化可きもの。故に耳根は不自在・生滅・無常なり。無常即ち苦、苦なるものは我にあらず、故に耳根は我にあらず。

鼻根の生滅・変異・無常を観察せよ。鼻根は出生可く滅去可し。鼻根は変化を生じ、病を発す。我々は鼻根を如何にせんと欲すれば其の如く成し得、欲せざれば成らざるなり。故に鼻根は不自在・生滅・変異・無常なり。無常即ち苦、苦なるものは我にあらず、故に鼻根は我にあらず。

舌根の生滅・変異・無常を観察せよ。舌根は後天出生し滅去可し。舌根は病を生じ変化可きもの。故に舌根は不自在・生滅・変異・無常なり。無常即ち苦、苦なるものは我にあらず、故に舌根は我にあらず。身根の生滅・変異・無常を観察せよ。身根は後天出生し滅去可し。身根は病を生じ変化可きもの。故に身根は不自在・生滅変異・無常なり。無常即ち苦、苦なるものは我にあらず、故に身根は我にあらず。

色身五根は色法にして生滅変異す。而して心法七識も生滅変化す。生滅変化の現象あるものは我にもあらず、我の所有にもあらず。五陰は皆無常・生滅・変異し、皆苦なり。故に五陰は我にあらず。而して第八識は如何に努力するも微塵も変更できず、触れることも叶わず。彼こそ金剛不壊体なり。何故第八識は触れず変更不可なるか。彼は形相無く生滅せず、本来自足して一切法を具え、毫も差錯無きが故なり。

五、色身の組成より生滅変異を観察する

色身我見を断ずる一つの秘された観行法:四大種子より成る色身の生滅変異無常性を観行す。着手点は色身の組織構造を了解し、色身の最基本組織成分及び最微小粒子を知り、更に最微小粒子の生成源を究明すること。層層に観行を進め、生命の最初の源を究明すれば身見を断ず。この方法で明心証悟も可能だが、極めて優れた根機を要し、然らざれば証得容易ならず。

色身物質の最小粒子はクォークなり。最小粒子より漸次拡大し、陽子・中性子・原子核・電子・原子を形成し、分子に至る。各種分子構造が細胞を形成す。最小粒子の形成は四大種子より成る。四大種子が不断に変化する故、最小粒子も不断に生滅変異し、物質粒子も不断に生滅変化し、細胞は刹那刹那生滅変異し、色身は刹那刹那生滅変化す。これ即ち無常なり。無常即ち苦、苦即ち非我なり。

色身は胚胎より出生し、漸次成長し、衰老し、遂に死亡す。これ皆細胞刹那生滅変化の故なり。細胞刹那生滅の根源は四大種子の不断変化にあり。四大種子の変化には更に背後に秘密あり、今暫く述べず。色身中の細胞の刹那生滅変異が、筋肉・骨格・内臓・血液・皮膚等の色身各組織成分の刹那生滅変異を生じ、色身は刹那生滅変化す。

かかる刹那生滅変化は、意識も意根も到底発見できず、多くは数ヶ月間の色身変化を発見するに過ぎず。色身は日々変化すれど、感知する者稀なり。況んや刹那刹那の変化を感知すること容易ならず。常に此の類の観行を為せば、日久しく功深く、自然に身我見を断ず。同時に世間の諸物質の生滅変異無常性を観察し、我所執を断じ、以後一切色法に貪執せざるなり。更に明心証悟するは別論なり。

六、如何にして色身の虚妄を観行し色身我見を断ずるか

『瑜伽師地論』巻一に、弥勒菩薩は我々の色身の表色の内包を説く。正しく其の内包を理解し深細に観行すれば、色身我見を断ずることを得。

原文:表色者。謂取舍屈伸。行住坐臥。如是等色。謂即此積聚色。生滅相続。由変異因。於先生処。不復重生。転於異処。或無間或有間。或近或遠。差別生。或即於此処。変異生。是名表色。

釈:衆生の行住坐臥・往来止息・迎送往来及び身体の屈伸俯仰は表色なり。外表色身に顕現し、他者に識別され得る色相なり。これらの色相は前後刹那生滅する一切の色相が積聚せるもの。前の色相生じて滅し、後の色相生じて滅す。無数の色相刹那生滅し連接して衆生身体の各動作を構成す。これらの色相刹那刹那生滅相続、極めて迅速なるが故に、衆生の表面に見える真実不滅の行為造作を形成す。

衆生は業力と種々の因縁変異により、前の色相は一処に生じて滅し、原処に再生せず。次の色相は相続して他処に生滅し、更に次の色相は又他処に生滅す。かくて展転相続し、生滅変異の一切色相が恰も不滅の行為造作を成す。実は生滅の時間稍長きのみ。

これらの色相は無間断に連続生滅相続す。或いは間断ありて断続す。かくて異なる色相間は或は近或は遠の差別を生じ、肢体の運転を成す。例えば手臂を此処より彼処に移動するは近遠の変化なり。身体・頭部・腿脚の此処より彼処への運転変化も同様。或いは同一処所同一位置に於て変化を生ず。例えば坐臥して身体動かざるも、色相の前後生滅相続変化あり。色相の前刹那生滅し、後刹那生滅して色身四肢の坐相・臥相を成す。皆生滅変化の仮相なり。

衆生は色身運行の内在的機制を知らぬ故、身体の活動を連続的・真実的・依頼可きものと見做す。実は刹那刹那生滅し、無数の刹那生滅仮相の連接なり。恰も無数の写真を極速に放映して連続動作を成すが如く、或いは河流・人畜の如く、恰も動画の如し。又は火把を速く回転させ火輪を成すが如し。実は火輪無く、眼識の錯覚のみ。

何故色身に種々の色相生滅変異の現象あるか。これ即ち秘密なり。色身の色相は四大種子より生ず。而して四大種子は如来蔵中本有の種子にして生滅せず、如来蔵と一ならず異ならず。種子生成の各色相も如来蔵と一ならず異ならず。色相形成の色身行為造作も如来蔵と一ならず異ならず。かくて色蘊と如来蔵は一ならず異ならず。五蘊と如来蔵も同理なり。諸人は精進して禅定を修し、定中深細に観行せば、自然に色蘊即空を照見し、進んで五蘊皆空を照見し、身見我見を断じ、明心証悟も得べし。各人の因緣如何、及び福德定慧等の菩提資糧修行の程度によるなり。

七、如何にして身見を断ずる観行をするか

身見を断ずる為、次の観行を為すべし。定中に自らを催眠し、目が散滅し、鼻散滅し、耳散滅し、舌散滅し、四肢散滅し、頭顱散滅し、唯身段のみ残り、遂に身段も消失すと想う。

色身皆無き後、思惟観行す:かかる色身は我か、真実か。真実の己は切断可きか、摘出可きか、消失可きか、毀滅可きか。自問す:かかる生滅変異・無常の物質色法は我か、不変異か。我はかかる不堅牢の物質か、主宰不能の物質か、不実在のものか。三昧生起し、内心真にこの物質色法が実に我にあらざるを感知すれば、身見を断ず。

次に観想を進め、残存せる身段に四肢が何処よりか戻り、頭戻り、目鼻耳舌戻り、完璧な色身を形成す。この眼耳鼻舌身・四肢・頭顱の合成色身は我か、真実不壊か、自己主宰か、不変異の我か。

更に観想す:一つの色身は幾多衆生の色身の合成なり。頭は一衆生、首は一衆生、両腕は一衆生、両脚は一衆生、眼耳鼻舌は各他衆生のもの。多数衆生の身体の一部を合成して一衆生の色身を成す。仮に自己の色身を合成し、冥想状態に入り、この色身は我か、真実か、自己主宰か、常在か、不変異か。かかる無常の法は我か、真実か。以上の観行冥想を繰り返せば、因縁具足時に身見を断ずることを得。

八、如何にして究竟的に色身を空観するか

最も究竟的な観行は、大乗法の角度より色身の不実性を観ずるなり。身体を最小細胞単位まで観じ、細胞中の各種粒子は四大微粒子より成り、四大微粒子は如来蔵中の四大種子より成る。四大種子は無形無相、如来蔵が四大種子を出力し微粒子を形成し、更に微細物質を合成し、肉眼可視の物質となる。漸次合成し最初の色身を成し、遂に母胎を出づ。

これにより色身は空・生滅・無我、如来蔵より出生し、如来蔵に執持され、如来蔵の種子功能作用が転化したるもの、如来蔵の属性なり。色身自らの属性・自性無し。これらの観行は容易の如く見ゆれど、相応の定力・福德力なく、菩薩六度具足せざれば、意根着力できず、自ら深細に観行思量せず、此の理を証得できず、身見我見を断除できず、況んや如来蔵を証得せんや。

九、大乗の観行方法

五陰身を四大種子の集合体と観想す。無数の四大種子、即ち無数の地大種子・水大種子・火大種子・風大種子、これらの集合が色身を形成す。更に観行す:如来蔵より無数の識種子が出生し、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識を形成し、意根を加えて五陰身を具足す。かく組成された五陰身は虚妄非我、以て身見・我見を断ず。

十、甚深禅定において初めて色身への堅固妄想を打破す

一切物質色法は四大微粒子より成る。衆生の堅固妄想心より見れば、一切物質色法は質礙性を有し、互いに融通超越できず。実際は全く非なり。これは錯覚なり。無量劫以前より現在まで錯覚し、何時まで錯覚するか知らず。物質色法の実際の状態は、恰も億万倍顕微鏡照射下に現れる無秩序運動の生滅変異粒子、原子核より更に小なる量子状態、毫も阻礙作用無く、無隙の壁や鉄板の如きものに非ず。

物質が皆粒子状態ならば、粒子間には阻礙性無く、互いに貫通浸透し、相手無きが如し。人体外皮の皮膚も粒子状態、内部の骨格・筋肉・内臓・筋・爪・髪・血液、各細胞皆粒子状態、肉眼では見えず、天眼のみ見る。最微粒子は科学者の億万倍顕微鏡も見えず、四大種子最初に形成されたる最微粒子なり。

実に色法の究竟状態は肉眼不可見の粒子なり。身体は粒子状態を呈し、山河大地・壁・宇宙器界も粒子状態を呈す。故に身体は山河大地・壁・宇宙器界を貫通し、阻礙無し。神通ある者は斯くの如し。人の色身と壁は皆粒子組成、人は壁を貫通し恰も壁無きが如く、海水を越え恰も海無きが如く、須弥山を貫通し恰も須弥山無きが如し。

故に真に修行し深甚禅定を得れば、意根が三昧状態において身体を空観し、真実存在の阻礙作用ある物質色法と見做さず、色身真に無礙ならしむ。即ち神足通現前す。禅定無き時、意根は色身等の色法を真実存在・堅固密閉と堅執す。故に色身に阻礙あり、壁に阻礙あり、宇宙・星空に阻礙あり。一旦かかる妄想打破し智慧開けば、思想観念転換し、一切色法に阻礙作用無し。修行は禅定中に意根に真相を認識せしめ、真智慧を生じ解脱を得る為なり。

十一、如何にして色身の滞礙を通達するか

物質の生滅変化は余りに速く、識心の了知範囲を超える故、識心は真実相状を観察できず、物質変化は緩慢で全てに遅きに足ると見做す。衆生は無明重く、自ら観察できざるものを存在せずと見做し、常に自らの非量観察を信じ、事実を信ぜず。

かくの如く極速生滅変化の法に何の真実性・阻礙性あらんや。而るに我々は色身を堅執し、物質色身を真実・堅固・密閉・不変・自由貫通不可と見做す。意根の堅執により、本来万物を通容する身体が万物に阻礙され、一点の自由も無し。実は自心が自心を阻礙す。心を融解せしめて初めて一切滞礙を通達す。

故に断我見が容易で垂手可得、二部の書を読み断我見、数時間の講義を聴き断我見、意識が推量して断我見、以て三悪道と縁絶つなどと決して思うな。斯様簡単容易ならず。天下に初果断我見の者充満するは天方夜譚、夢中にも現れず。修行は着実に用功熏修すべく、近道無く、機会に乗ずるべからず。

十二、如何にして意根に真理を確信せしむるか

色身を観察対象とし、色身が粒子の集合体と観行し、其の虚妄幻化不実を認めよ。行住坐臥常に此の観行を為せば、身見を断ずること速やかなるべし。観行の結果:一、色身無礙、健康を了知し其の虚妄不実性を断除。二、禅定成就。三、観想能力向上、各種三昧成就。

順序に従い観行せよ。先ず皮膚を観行し、漸次内部を観察、徐々に拡大し、全身が波動粒子状態を呈し、其の生滅無常非我を確認す。科学が証明する如く、肉眼の見る一切色法は真実の境界相にあらず。無知に蒙蔽された認知能力は甚だ劣れる。故に修行は無明愚痴を除き、自らを欺かず真相を認識し、本原に返るべし。

この十三枚の皮膚拡大粒子図を見れば、意識は了解すれど、意根も了解すや。否なり。意識が意根に此の理を万遍繰り返すも、意根は了解せず。如何にすべきか。定中実際に観行し、意根自ら少しずつ観察認識し、少しずつ了解せしむ。彼は実地検証し、自ら目撃し証明す。意識の結論では無く、正しい証明過程有りて初めて意根は正しい結論を得、即ち証得す。

例えば「一切法無我」、意識が日々此の句を念じ二十年、意根は真に何故一切法無我かを了知すや。五陰世間・三界世間万法即ち一真法界、全体即真如。意識が日々意根に此の理を告げ二十年、意根は真に此の理を了知すや。「五陰虚妄」の句を意識が十万遍誦すれど、意根は五陰虚妄を認識すや。決して然らず。理は上記に同じ。

各衆生の意根は無量劫を経るも、今に至るまで生死の恐怖を認識せず、生命の苦を認識せず、五陰無常を認識せず、解脱を欲せず。仏陀の教えに依り四聖諦法を熏習すれど、意根が何時苦を認識し苦を脱せんとするか知れず。意根は如何なる経験も理を自覚せず、深思し証拠を求め、反復証明を続け、証拠確実にして初めて此の理を認む。

日々此の観行を為せば、物質色法の刹那刹那更新変異を理解し、物質色法が自然に出生・変化・滅去せざるをも理解す。衣服自然に古びず、人自然に老いず、家屋自然に壊れざるも理解す。一切法は如来蔵出生後放置されず、全ての物質は如来蔵が管理維持す。四大微粒子は如来蔵が物質に賦与し、四大微粒子の不断生滅変異は如来蔵の作用の結果。一真法界即ち此の意なり。

科学者の示す十三枚の皮膚変化図は証拠なり。但し定中更に仔細に観行し、自ら思量認可せねばならず。他人の結論は自らの結論にあらず。意識の結論は意根の結論にあらず。各々思惟し各々結論を得、互いに代替不可なり。

十三、身見の表現

一切の修行者は身見を断ずる関門を離れず。大乗・小乗・外道を問わず。身見とは色身を真実と見做し、我及び我の所有とし、身体を以て我が用を為し、我が身体を藉りて一切法を識別し受想思す。故に色身に貪着す。身見の外在的表現:色身の為に五欲楽を貪り、身体に最上の飲食衣服臥具等を享受せしめ、日々色身に極多の時間精力財物を費やし、極めて衛生に拘り、日々衣服を換え、日々一両度入浴し、日々入念に世話し、各種保養を惜しまず。

潔癖は身見に属す。何故非常な清潔を好むか。色身を真実の我と見做し大切に維持する故なり。何故飲食に拘るか。色・香・味を備え栄養を求め、残飯を食さず。色身を我と見做し真実なり、少しの不浄も許さざる故なり。身見の另一表現は貪欲、最も深刻なる身見我見なり。貪欲を断ずるは初禅定後の三果段階なれど、精進修行すれば貪欲心行は漸次軽減淡薄す。身見我見を断ぜずとも然り。

平時心中は色身我に満ち、多くの心思時間を占む。仏法入り難し。心中世俗法に満てば仏法入るべからず。世俗法を清掃して初めて仏法入る。一には心の容量有限、大量の塵芥を容るれば如何にして宝蔵を納めん。二には仏法と世俗法相容れず、此有れば彼無く、貪有れば無貪無く、清浄有れば染汚無く、無我あれば我無く、精進あれば懈怠無し。

修道の過程に於て、先ず自身の身見の重きを検査せよ。色身を宝愛する現象甚だしきや。検査できれば克服対治の方法を講ぜよ。これ修道の最重障碍なり。仏法を思惟する中で次第に発見す:この色身は余り真実ならず、把握できず。修道心発起すれば、最早色身の保養に時間を費やす暇無し。斯くして身見習気は少しずつ降伏し、観行究竟して初めて色身の生滅無常不実を認可し、身見を断ず。

身見断除後、色身への貪愛現象は大いに軽減し、心思を道業に用うるを得。三十七道品修行の過程に於て、身見は漸次淡薄となり、身を執る行為も減少し、精力を道業に用うるを得。三十七道品を修せざる者は此等の現象変わらず。身見は最も粗重なる煩悩、降伏断除せざれば他の修証皆談ぜず。第一関通ぜずんば後一切関通ぜず。明心開悟の事を論ずる勿れ。

幾多の人此の基礎さえ修せず、自ら開悟せりと認む。皆よく自らの心行を検査すべし。何故自らの果位を気にし、真解脱を気にせざるか。此の気にする心こそ深刻なる我なり。此の心も断除して初めて我見を断ず。真に我見を断じたる者は日々証果の我・聖人の我有らず。我見を断じたる後は証果の我有らず、我が証果せりと認めず。証果の相は存在せず。

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