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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 5279

第四節 観行はまた煩悩を降伏する過程である

一、衆生が六境に対する貪求はどのように生じるのでしょうか。

世尊は『雑阿含経』において述べられています:眼界を縁として眼触が生じ、眼触を縁として眼想が生じ、眼想を縁として眼欲が生じ、眼欲を縁として眼覚が生じ、眼覚を縁として眼熱が生じ、眼熱を縁として眼求が生ず。これは、衆生が眼根によって色境に触れると眼識が生じ、眼識が生じた後には色境を了別し、了別した後さらに再び了別したいと思い、好きで貪愛するが故に貪心が生じ、そこで心が焦り騒ぎ、色境を所有し掴み取りたくなり、貪欲が完全に現れ出るという意味です。修行のない者は、自らの心念・貪欲をずっと発展させ続け、決して制止せず自らの心を呵責せず、最後に業行を作り終えるまで続けます。

修行のある者は、途中のどこかの連鎖において自らに警戒し、止め、それ以上進行しません。阿羅漢は三界への貪愛を断じたため、心は散乱せず攀縁せず、眼根が色境に触れた後、それ以上分別や感受を進めたくなく、視線をそらし、接触せず、こうして自らの内心の清浄を保ち、内心に焦燥や熱悩が生じず、まして貪求の心念が生じることはなく、後世相続の生死の種子を断除でき、生死輪廻はなくなります。衆生は正反対で、常に自らの心念に従い貪求を止めず、決して自らを呵責することを知らないため、業行が絶えず、生死に終わりがなく、苦悩が続きます。衆生は他の諸根においても同様に自らの貪心に従うため、生死輪廻に従順し、苦海から出離できません。

二、漸修によって初めて心性の品德を高められる

『瑜伽師地論』は凡夫の地から四種の聖人地への漸修の過程を説き、その最初の声聞地は非常に詳細に述べており、瑜伽師の修証過程は急速ではなく漸進的であり、こうして初めて次第に禅定を獲得し、貪瞋痴を降伏し、様々な煩悩心行を変えられます。その後で初めて我見を断ち、無我を証得し、聖賢の品格を備え、聖賢の事業を行い、初果を証得してもなお貪瞋痴が極めて重く悪事を働かない悪人というわけではありません。

漸修によって初めて煩悩を漸く降伏し、心性の品質を高め、次第に人格と菩薩格を具足できます。一方、急速な解悟、急速に最後の答えを知ることは、このような功徳は一切なく、煩悩を降伏する暇がなく、心性や品格を高められず、その結果名声を得るだけで実質がなく、それは得るものより失うものが多いのです。飯を炊き薬を煎じるのと同じで、速く煮えるのと弱火でじっくり煮るのでは、味と栄養価が全く異なります。速さを求めるのは深刻な功利心であり、求める心・得たい心であり、世俗心・生死心であり、無我の心・無為の心・解脱の心・無求の清浄心を生じさせず、往々にして逆効果で、期待に反します。

煩悩を降伏し、心性を高め、聖賢の品格を養うには、四念処観から始め、様々な止観から始めなければなりません。止観の道は長く、急速ではなく、全方位的・全角度的に観行し、修止し、自心を降伏してこそ、人は初めて次第に変容し、凡胎を脱して聖骨を具え、内から外まで全て改め更新され、真の聖賢となり、衆生の導き手となります。自らが泥濘から足を抜いた後で初めて、有縁の衆生を導き泥沼から救い出すことができ、もし自らが泥沼から足を抜く力すらないなら、どうして他人を泥沼から救い出せましょうか。

三、煩悩を降伏することは聖性と相応する過程である

仏は、仏法全体は一仏乗の法であると説かれ、二も三もありません。声聞地の修証は一乗法の一部であり、最も基礎的な部分であり、非常に重要な部分でもあります。この中での修行は、煩悩を降伏・断除し、次第に聖性・仏性と相応する過程であり、欠くことができません。この基礎を固めずに、ひたすら高層ビルを建てようとすれば、建てられても空中楼閣であり、遅かれ早かれ必ず崩壊します。ですから全ての菩薩の修行は、着実に行い、基礎を固め、戒定慧の修行を重視し、貪瞋痴を消すことに勤め、ひたすらスローガンを叫びながら実質的な修行内容がなく、自らを正修・実修だと言ってはなりません。

煩悩の性障は禅定を障げ、智慧も障げ、智慧光明の生起を覆い隠し、まるで壁が光明を遮るようです。煩悩が除去され、遮障がなくなって初めて、六七識が識を転じて智とし、その智慧は広大無礙となります。煩悩習気が重く、心量が狭い者は、深細な仏法を観察できず、仏法の表面上をぐるぐる回り、深く入り込めません。七識は煩悩と習気の束縛を強く受け、一つの我を中心に回り、突破できず、見る一切は我性を帯び、智慧は狭隘であり、無我の智慧が確かに広大であることがわかります。ですから私たちは常に自らの心に我性があるか、不公平性があるかを観察し、我性・自私性を発見したらできるだけ調伏する方法を考えなければなりません。なぜならこれは仏心と一致せず、必ず道を障げるからです。我性は道に比べれば牛の毛と牛の関係のようであり、除去して初めて牛の毛ではなく牛を得られます。

四、常に観察し自我を降伏して初めて聖人に近づける

もし自らが早く我見を断ちたいと望むなら、普段から私という意識を薄め、自らの思想を観察し、全てが私なのかどうか、自我意識が比較的強いと発見したら、覚悟するか自らを呵責し、自我に従いすぎないようにします。挫折を受けた時も、自我を観察し降伏する良い機会です。なぜなら私があるからこそ、私が挫折を受けたと感じるのであり、私を克服すれば挫折感は薄れるか消え、我見を断つ上で大いに助けとなります。

人混みや独りでいる中で、自らの存在感を弱め、自らをあまり気にせず、自らを大したことだと思いすぎないようにします。強がって勝とうとせず、何事も一番になろうとしません。自らは真実に存在せず、相手も真実に存在せず、群体も真実に存在せず、第一第二はなく、最良も最悪もなく、全て仮の名相です。心の中でいつも私は全ての人に勝たなければ、必ず目立ちたい、必ず全ての目が自分に注がれるべきだと思うような考えは、我性が比較的重いことを示し、我見を断つことはおろか、聖人になることもできません。聖人の心は空で無為であり、このような心性ではありません。自らを強調すればするほど、心性は人後に落ち、無為と相応せず、聖人になれず、聖人の誕生はこれと正反対で、自我の存在感がなく、有為の事を行いながら心は無為であり、一心に大衆のためにこそ、聖人となる資格があります。

五、修行が意根に深く入って初めて煩悩を掘り出せる

仏法を学び修行するにあたり、意根がまだ熏習を受けていない時は、身心世界は転変せず、仏法の真実の受用も得られません。なぜなら身心世界は意根が主宰し、意根が調節するからです。意根が無我を証得すれば、身心への制御を緩め、身心は転変し、軽やかで無礙になります。これは仏法を学び修行する大きな秘密であり、皆さんはよく体会してください。仏法を学ぶには決して口頭禅に留まらず、必ず意根の内心世界に深く入り、真に自らを変え、根から貪瞋痴の煩悩を掘り出してこそ、自らは徹底的に転変し、速やかに成就できます。

多くの人は学ぶ法は多いかもしれませんが、仏法を学ぶ時間も長くても、真実の受用を得ているでしょうか。内心世界は何か変化があったか、自我の覚受と執着は緩んだでしょうか。自らは常に回光返照しなければ、絶えず進歩できません。もし自らに回光返照する能力がないなら、監督者を見つけ、時々自らを戒め、自らを覚醒させ、そうすれば修行も速くなります。

多くの人は決して自らの内心を検査せず、まして他人に戒められることを望みません。これは意根が自我にあまりに執着し、自我を守りすぎ、我執が根深いため、仏法を学んでも力が入らないのです。修行とは絶えず自らと競い合い、初めて自らを変えられ、道業が絶えず増進し、外に向かって他人と競い合うのは大間違いです。

六、煩悩は次第に断除される

修行して我見を断ち、初禅定を証得した後、まず貪欲を断ち、その後瞋恚を断ちます。瞋恚心は断じにくく、貪欲心を断った後、瞋恚を断つまでどれほどの時間がかかるかは人によって異なり、当人の瞋恚心が堅固かどうかによります。ある人は貪欲心は淡泊だが瞋恚心は重く、心の中に常に人事のもつれが絶えず、そうすると瞋心を断つのは難しいです。瞋心を完全に断たなければ、声聞三果を証得できません。瞋心が重い人は初禅を得るのも難しく、内心のもつれが禅定の生起を障げ、一生の中で声聞三果を証得し初地に入る望みは非常に遠いです。

しかし我見をまだ断っていない者は、初禅以上の禅定があっても、我見をまだ断っていないため、依然として凡夫です。色界の天人には欲界の貪欲現行はありませんが、内心にはまだ瞋と愚痴の現行があります。欲界は主に貪欲で、貪欲が中心です。色界は貪欲を降伏させましたが、まだ瞋と愚痴があり、無色界は愚痴が中心です。無色界の天人は禅定に頼れば解脱を得られると考え、自らが住む定境が涅槃の境界だと思い、解脱の知見を備えていないため、修得した定は邪定です。智慧と相応しない定、解脱を得られない定は邪定であるため、無色界の天人は愚痴を断たず、三界の生死輪廻を出離できず、解脱を得られません。

七、我見を断った後は修定しても魔道に入りにくい

衆生は我見があるからこそ我執があり、心に私があるからこそ私を執着するため、仏法を学び修行する第一は、まず我見を断ち、その後我執を断つことです。我見を断たなければ、我執を断除することは不可能であり、これが修行の次第であり、逆にしてはいけません。衆生は五陰を真実の自分または自分に属すると誤認するため、五陰の仮の我に執着して離れません。五陰が確かに私でないと知って初めて、次第に我執を断除できます。意根の我執を断つと、五陰を滅する能力ができ、五陰を保有し続けたくなくなり、三界世間で苦しみ続けたくなくなり、命終時に五陰を滅し無余涅槃に入り、生死輪廻の苦から解脱します。

世尊は『阿含経』において衆生に教えられ、五陰十八界と三界世間の万法は全て苦空無常無我であると説かれ、衆生がこの理を証得すれば、五陰や様々な境界に束縛されず、修定すれば禅定は速やかに深まり、初禅定は生じやすく、魔に陥り誤ることはありません。世尊は大乗経典においてまた万法唯心所造、心外に法なしと説かれ、衆生がこの理を明らかに得た後で修定すれば、様々な境界を真実と執着せず、修定時に魔道に入ることはさらにありません。

外道の修行は、境界の虚妄を理解せず、境界に執着攀縁し、様々な有為法を追求し、覚受を好み、境界を貪求するため、心は境界に拘禁され、解脱できず、生死輪廻を出離できません。心の外に法を求めるのは外道であり、外道は永遠に生死輪廻を出離できません。仏法では、心の外に物はなく、境界は虚妄であると説かれ、仏法を学ぶ者は修行するなら心を修め、物を求めず、五陰身の不老不死のような虚妄の法も求めず、三界世間の様々な有為法を貪求せず、そうして初めて無上菩提を成就できます。 

八、煩悩を次第に断除して初めて解脱と相応できる

五蘊無我を観行する時、色身が空で無我であることを証得するのは、心の上の知見と観念が変わり、色身を私や私のものと見なさなくなることです。しかし覚受は依然として存在し、甚深の禅定において識心を滅して初めて覚受を滅除でき、禅定の支えがなければ、覚受は依然として存在します。しかし心が空であればあるほど、覚受は軽くなり、心はますます気にせず、執着しません。

我見を断除し明心見性するのは、元の知見を捻じ曲げるだけで、知見を捻じ曲げられることは非常に大したことであり、この知見の捻じ曲げにより、後続の無明と煩悩は次々と断除され、生死の問題は解決でき、小解脱と大解脱を得られます。しかし五蘊の一切の活動は依然として存在しなければならず、ただ執着せず、覚受は微細で、正しく把握し認識でき、容易に覚受のために悪業を作りません。

いわゆる輪廻とは、主に心が生死輪廻に没入して苦しむことであり、心が解脱しないことが輪廻です。心が解脱すれば、六道の中で衆生と混じっていても、衆生の生死苦受はなく、六道輪廻の苦報を受けないため、菩薩は三界を出離する能力がありながら出ず、六道で衆生を度脱し、六道の生死輪廻に属しません。

九、如何に諸根を修して自心の煩悩を調伏するか

『雑阿含経』巻十一原文:外道の弟子である郁多羅がいました。世尊に会いに行き言いました。私の師である波羅奢那は言います。諸根を修するには、眼で色を見ず、耳で声を聞かない、これが諸根を修することであると。世尊は言われました。もしそうなら、盲者は諸根を修していると言えるか。阿難が郁多羅に尋ねました。聾者は諸根を修しているか。そこで世尊はこれを縁として、弟子たちに外道とは異なる無上の修根方法を説かれました。

釈:ある外道の弟子郁多羅が世尊に会い言いました:私の師匠波羅奢那は諸根を修するには、眼で色を見ず、耳で声を聞かない、これが諸根を修することであると言います。世尊は言われました:もしこれが諸根を修することだと言うなら、盲人は諸根を修していると言えるか。阿難は郁多羅に尋ねました:聾者は諸根を修しているか。そこで世尊はこの因縁をもって、弟子たちに外道とは異なる諸根を修する方法を説かれました。

原文:世尊は言われました。眼と色を縁として眼識が生じ、好ましい色を見れば、厭離を修し、好ましくない色なら厭離せず、好ましいも好ましくないも、好ましいでも好ましくないでもない色なら、厭離も厭離せずも捨てる捨心を修し、正念正智に住する。心を善く調伏し、善く閉じ、善く守護し、善く摂持し、善く修習する。これが眼と色において無上の修根である。耳鼻舌身意の諸根も同様に修習する。

釈:世尊は言われました:眼根と色境を縁として眼識が生じ、眼識が心に好ましい色境を見れば、厭離心を修し、色境に貪着しません。好ましくない色境を見れば、厭離しない心を修します。好ましいとも好ましくないとも言えず、好ましいでも好ましくないでもない色境を見れば、厭離と厭離しないの両方を捨てる捨心を修し、境に着かず正念正智に住します。心を善く調伏し、心を善く閉じ、心を善く守護し、心を善く摂持し、心を善く修習します。これが眼が色を見る時に最良の諸根を修する方法であり、耳鼻舌身意の諸根においてもこのように修すべきです。

以上が世尊が弟子に心を修して煩悩を除去する方法を教えられたものです。まず私たちが好ましい色相を見る時、心に喜楽心を生じさせず厭離を生じさせます。好ましくない色を見る時、心に嫌悪感を生じさせません。これが心を調える初歩です。さらに心を調えるのは、私たちが一切の色相を見る時、好むと好まざるとにかかわらず、心は喜楽も嫌悪もせず、捨てる心境状態に住し、内心でこれらの色相を気にしないことです。これは比較的適切な心の状態であり、智慧のある方法です。

色相に対面して心を善く調伏し、守護し、把持し、閉じ、心を外に攀縁流溢させないようにします。耳が声を聞く時、鼻が香を嗅ぐ時、舌が味を嘗める時、身が触を覚える時、意根が法境に触れる時、全て心を善く調伏し、守護し、把持し、閉じ、心を外に攀縁流溢させないようにします。こうして長く続ければ、心は寂静を得られ、定力は次第に深まり、参究思惟する仏法は深く細かくなり、速やかに道果を証得できます。修行は眼で色を見ず、耳で声を聞かず、鼻で香を嗅がず、六根が六境に触れないことではなく、六根が六境に触れる時に心を調伏し、触縁が境に遇う時に心を善く摂持することです。境縁がない時は心を調伏できず、まるで荒馬は荒野で制御し訓練して初めて従わせられるように、修行者は境を避けて修行できず、必ず境の中で心を練り修め、境の試練を受け、将来どんな境に遇っても初めて関を過ごせ、心が寂止を得て境に着かなくなります。

十、享受を貪らない者は我見を断ちやすい

現代人が比較的退屈で味気ないと感じる生活は、どれも心を養いやすく、簡素な生活は身見・我見を断ちやすく、なぜならそのような生活は人に貪着させにくく、心は比較的純粋で清浄で、色身をあまり重視せず気にせず、身見を断ちやすく、我性も微細で我見を断ちやすいからです。さらにそのような生活は福報を浪費せず、福德が支えているため、道業の進歩は速くなります。

真の菩薩は、自らの福德を大切にし、容易に消耗せず、したがって享受を講究しません。菩薩たちがこの世間に生まれる時、往々にして富貴の家を選ばず、幼少期に福德が親によって消耗されるのを防ぎます。現代人は皆これらの福德のことを理解せず気にせず、知らず知らずのうちに享受を通じて消耗し、非常に惜しいことですが、自らは気づかず、栄華富貴を享受することを栄誉としています。親は必ず子供に責任を持ち、勝手に子供に代わって彼の福報を消耗してはいけません。それらの福報が幼少期に消耗されれば、成長して福報が少なくなると、苦受が多くなり、諸事が順調でなくなります。仏法を学ぶ時に道業に用いる福德が不足すれば、道業は成就しにくくなります。

過去の時代は、消費財がそれほど豊富ではなく、生活は簡素で、色声香味触に着色しにくく、色身を保養することも少なく、思想は純粋で、身見は断ちやすかったのです。富貴は修道が難しく、貪習が重いためです。貧困は布施が難しく、福が薄いためです。ですから修道は一点一滴から始め、小を積んで大とし、少を積んで多とし、良好な修行習慣を養い、道を了えない心配はありません。

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