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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年12月04日 閲覧数: 6479
<h3 style="text-indent: 2em;">第四節 観行もまた煩悩を降伏する過程である</h3><h4 style="text-indent: 2em;">一、衆生の六塵に対する貪求はどのように生じるのか?</h4>

世尊は『雑阿含経』の中で説かれた:缘眼界生眼触。缘眼触生眼想。缘眼想生眼欲。缘眼欲生眼觉。缘眼觉生眼热。缘眼热生眼求。これは、衆生が眼根に依って色塵に触れると眼識が生じ、眼識が生じた後には色塵を了別することができ、了別した後にはさらに了別したいと望み、喜びと貪愛によって貪心が生じ、そこで心が熱く騒動し、色塵を所有し抓取したいと思うようになり、貪欲が完全に現れるという意味である。修行していない人は、自分の心念、貪欲をずっと発展させ続け、決して制止したり自分の心を呵責したりせず、最後には業行を造作するまで至るのである。

修行している人は、途中のどこかの鎖の環で自分に警覚し、そこで止め、それ以上進まない。阿羅漢は三界に対する貪愛を断っているので、心は散乱することも攀縁することもなく、眼根が色塵に触れた後、それ以上分別や感受を進めようとせず、視線を移し、接触しないことで、自分の内心の清浄を保ち、内心に燥熱や熱悩が生じることもなく、まして貪求の心念が生じることもない。後世に相続する生死の種子は断除され、生死輪回はもはやない。衆生は正反対で、いつも自分の心念に順って貪求し止まず、自分を呵責することを知らないため、業行が絶えず、生死に期なく、苦悩が絶えない。衆生はその他の諸根においてもみなこのように自分の貪心に随順するので、生死輪回に随順し、苦海から出離することができないのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">二、漸修によってこそ心性の品徳を高められる</h4>

『瑜伽師地論』は凡夫地から四種の聖人地に至る漸修の過程を説いたものであり、その中で最初の声聞地は非常に詳細に説かれている。その瑜伽師の修証の過程は速やかではなく漸進的であり、このようにしてこそ次第に禅定を獲得し、貪瞋痴を降伏し、様々な煩悩の心行を変えることができる。その後でこそ我見を断じ、無我を証得し、聖賢人の品格を備え、聖賢人の事業を行うことができるのであり、初果を証得した後もなお貪瞋痴が極めて重く、悪事の限りを尽くす悪人であるというのではない。

漸修によってこそ次第に煩悩を降伏し、心性の品質を高め、次第に人格と菩薩格を具足することができる。一方、速やかな解悟、速やかに最後の答えを知ることは、この種の功徳が少しもなく、煩悩を降伏する暇もなく、心性や品格を高めることができず、その結果は名声だけを得てその実がないものであり、それは損して利を得ずというものである。それは炊飯や薬を煎じるのと同じで、急いで炊き上げるのと弱火でじっくり煎じるのとでは、その味と栄養価が全く異なる。速さを求めることは深刻な功利的な心であり、何かを求め何かを得ようとする心であり、世俗心・生死心であり、無我の心、無為の心、解脱の心、無求の清浄心を生じさせることができず、往々にして道に背馳し、事と反する結果となる。

煩悩を降伏し、心性を高め、聖賢人の品格を養うには、四念処観から始め、様々な止観から始めなければならない。止観の道は長いものであり、速やかなものではない。全方位・全角度で観行し、止を修め、自心を降伏することによって、初めて人は次第に変貌し、凡胎を脱して聖骨を具え、内から外まで全て改め更新して、初めて真の聖賢人となり、衆生の導首となることができるのである。自分が泥濘から足を抜き出した後でこそ、縁ある衆生を導き引き上げて泥沼から出ることができるのであり、自分自身が泥沼から足を抜き出す力もないならば、どのようにして他人を引き上げて泥沼から出すことができようか?

<h4 style="text-indent: 2em;">三、煩悩の降伏は聖性に相応する過程である</h4>

仏は、仏法全体が一仏乗の法であり、二もなく三もないと説かれた。声聞地の修証は一乗法のうちの一部であり、最も基礎的な部分であり、同時に非常に重要な部分でもある。この中での修行は、煩悩を降伏し断除し、次第に聖性・仏性と相応していく過程であり、欠くことのできないものである。この土台をしっかり築かずに、一途に高層ビルを建てようとすれば、たとえ建てられたとしても空中楼閣であり、遅かれ早かれ必ず崩壊する。それゆえ、一切の菩薩の修行は、着実に土台を固め、戒定慧の修行を重んじ、貪瞋痴を熄滅することに励まなければならず、ただ口号を高らかに叫ぶだけで実質の修行内容がなく、しかも自分は正修であり実修であると言うようなことがあってはならない。

煩悩と性障は禅定を障するのみならず、智慧をも障し、智慧の光明の生起を遮蔽する。それは一つの壁が光明を遮るのと同じである。煩悩が除かれ、遮障がなくなれば、六識・七識は初めて転識成智することができ、その智慧は広大無碍となることができる。煩悩の習気が非常に重く、心量の狭い人は、深細な仏法を観察することができず、みな仏法の表面上をぐるぐる回っているだけで、深く入り込むことができない。七識は煩悩と習気の拘束を大きく受け、「我」をめぐって突破することができず、見るところの一切が我性を帯び、智慧が狭隘となる。それゆえ、無我の智慧が確かに広大であることが分かる。だから我々は、常に自分の心に我性があるかどうか、不公平性があるかどうかを観察し、我性・利己性を発見したら、できる限り調伏する方法を講じなければならない。なぜなら、これは仏心と一致せず、必ず道を障するからである。我性と道とを比べれば、それは牛の毛と牛の関係のようであり、除かなければ、牛毛ではなく牛を得ることはできない。

<h4 style="text-indent: 2em;">四、常に自己を観察し降伏してこそ聖人に近づける</h4>

自分が一日も早く我見を断ちたいと望むなら、普段から「我」の意識を薄め、自分の思想を観察し、それがすべて「我」ではないかと見極め、自我意識が比較的強いと発見したら、覚悟するか、あるいは自分を呵責し、あまり自我に従順であってはならない。挫折を受けたときも、自我を観察し自我を降伏する好機であり、「我」があるからこそ自分が挫折を受けたと感じるのであり、「我」を克服すれば、挫折感は薄れ、あるいは消える。これは断我見に大きな助けとなる。

人の中にあっても独りでいるときも、自分の存在感を弱め、あまり自分を気にかけず、あまり自分を大げさに扱わないこと。強がって勝ちを争わず、何事も一番であろうとしないこと。自分は真実には存在せず、相手も真実には存在せず、集団も真実には存在せず、第一も第二もなく、最善も最悪もなく、すべて仮想の名相である。心の中でいつも「自分はすべての人に勝たねばならない、必ず目立たねばならない、必ずすべての視線が自分に注がれねばならない」と思い、このような考えは我性が比較的重いことを示しており、我見を断つことはできず、まして聖人になることはできない。聖人の心は空で無為であり、このような心性ではない。自分を際立たせようとすればするほど、心性は人後に在り、無為と相応せず、聖人になることはできない。聖人の誕生はまさにこれと正反対であり、自我の存在感がなく、有為の事を為しながら心は無為で、一心に大衆のために尽くしてこそ、聖人となる資格を得ることができるのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">五、修行が意根まで深まってこそ煩悩を掘り出せる</h4>

仏法を学び修行するにあたり、意根がまだ受熏していないなら、身心世界は転変せず、仏法の真実の受用を得ることもできない。なぜなら、身心世界は意根が主宰し、意根が調控しているからであり、意根が無我を証得すれば、身心に対する制御を緩め、身心は転変し、軽やかで無碍となる。これは仏法を学び修行する上での一つの大きな秘密であり、皆さん多く体会されたい。仏法を学ぶなら決して口頭禅に留まってはならず、必ず意根の内心世界まで深く入り込み、真に自分を変え、貪瞋痴の煩悩を根から掘り出してこそ、自分は徹底的に転変し、それによって速やかに成就することができる。

多くの人が学んだ法は多いかもしれず、仏法を学んだ時間も長いが、しかし真実の受用を得たであろうか?内心世界に転変があったか、自我に対する覚受と執著に緩みがあったか?自分自身が常に回光返照してこそ、絶えず進歩することができる。もし自分に回光返照する能力がなければ、人に監督してもらい、時々自分を敲打してもらい、自分を覚らせなければならない。このようにすれば修行も速くなる。

多くの人は決して自分の内心を点検せず、まして他人に自分を敲打してほしいとも思わない。これは意根があまりに自我を執著し、あまりに自我を庇うためであり、我執が根深く固いため、仏法を学んでも力を得られないのである。修行とは絶えず自分自身と張り合ってこそ自分を変えることができ、道業も絶えず増進できるのであり、外に向かって他人と張り合うなら大いに誤りである。

<h4 style="text-indent: 2em;">六、煩悩の次第断除</h4>

修行によって我見を断じ、初禅定に証到した後は、まず貪欲を断じ、後に瞋恚を断じる。瞋恚心は比較的断除しにくく、貪欲心を断じ終えた後、瞋恚を断じるのにどれだけの時間が必要かは、人によって異なり、その人の瞋恚心が堅固であるかどうかによる。ある人は貪欲心が比較的淡泊であるが瞋恚心は非常に重く、心の中に人事の葛藤が絶えないため、このような場合は瞋心を断じるのが難しい。瞋心を断じ尽くさなければ、声聞三果を証得することはできない。瞋心の重い人は初禅を得るのも非常に難しく、内心の葛藤が禅定の生起を障害するからである。一生のうちに声聞三果を証得し、初地に入りたいと望んでも、その望みは非常に渺茫である。

しかし、まだ我見を断じていない人は、たとえ初禅以上の禅定があったとしても、まだ我見を断じていないので、依然として一人の凡夫である。色界天人はみな欲界の貪欲の現行がないが、内心にはなお瞋と愚痴の現行がある。欲界は主に貪欲であり、貪欲が主である。色界は貪欲を降伏したが、なお瞋と愚痴があり、無色界は愚痴が主である。無色界天人は、禅定に依れば解脱を得ることができ、自分の住する定境こそ涅槃境界であると考えたが、彼らは解脱の知見を備えていないため、修得した定は邪定である。智慧と相応しない定、解脱を得られない定が邪定であり、それゆえ無色界天人は愚痴を断じることができず、三界の生死輪回から出離できず、解脱を得ることができない。

<h4 style="text-indent: 2em;">七、我見を断じた後の修定は魔道に入りにくい</h4>

衆生は我見があるからこそ我執があり、心の中に我があるからこそ我を執する。それゆえ、仏法を学び修行する上での第一は、まず我見を断じ、後に我執を断じることである。我見を断じなければ、我執を断除することは不可能であり、これが修行の次第であり、逆にしてはならない。衆生は五陰を真実の自分、あるいは自分の所有物と誤認するため、五陰の仮の我を執著して捨てないのである。五陰が確かに我に非ざることを知ってこそ、初めて徐々に我執を断除することができる。意根の我執が断たれれば、五陰を滅する能力が生じ、五陰を保有し続けようとは思わなくなり、三界の世間で苦を受け続けたくないと思うので、命終時に五陰を滅して無余涅槃に入り、これより生死輪回の苦から解脱するのである。

世尊は『阿含経』の中で衆生に、五陰・十八界と三界世間の万法はすべて苦・空・無常・無我であると教えられた。衆生がこの理を証得すれば、もはや五陰や様々な境界に束縛されることがなく、修定の際に禅定が速やかに深く入り、初禅定が生起しやすく、しかも着魔して偏差が出ることが容易にない。世尊は大乗経典の中でさらに、万法は唯心の所造であり、心外に法はないと説かれた。衆生がこの理を明らかにした後に修定すれば、もはや様々な境界を真実と執著することがなく、修定の際に魔道に入ることはさらにない。

外道の修行は、境界の虚妄を理解しないため、境界を執著し攀縁し、様々な有為法を追求し、覚受を好み、境界を貪求するので、心は境界の中に拘禁され、解脱を得られず、生死輪回から出離できない。心外に法を求めることがすなわち外道であり、外道は永遠に生死輪回から出離できない。仏法には、心外に物はなく、境界は虚妄であると説かれている。仏法を学ぶ人は修行において心を修めなければならず、物を求めず、また五陰身が長生不老であるというような虚妄法を求めず、三界世間の様々な有為法を貪求しなければ、それによってこそ無上菩提を成就することができる。

<h4 style="text-indent: 2em;">八、煩悩を次第に断除してこそ解脱と相応する</h4>

五蘊無我を観行する際、色身が空で無我であると証得するのは、心上の知見と観念が変わったことであり、もはや色身を我と我所とみなさないことである。しかし覚受は依然として存在しており、甚深な禅定の中で識心を滅してこそ初めて覚受を滅除することができ、禅定の支えがなければ、覚受は依然として存在する。しかし、心が空であればあるほど覚受は軽くなり、心が意に介さなければ介さないほど、執著しなくなる。

我見の断除と明心見性は、ただ元の知見を転換しただけであり、知見を転換できるということは非常に大したことであり、この知見の転換によって、後続の無明と煩悩は次々と断除され、生死の問題は解決でき、小解脱と大解脱を得ることができる。しかし五蘊の一切の活動は依然としてあり、存在し続けるが、ただ執著せず、覚受は軽微であり、しかも覚受を正しく把握し認識することができ、軽々に覚受のために悪業を造ることがない。

いわゆる輪回とは、主に心が生死輪回の中に沈んで苦を受けることを指し、心が解脱しないことがすなわち輪回である。心が解脱すれば、六道の中で衆生と混ざっていても、衆生のあの生死の苦受はなく、六道輪回の苦報を受けない。それゆえ菩薩は、三界から出離する能力がありながら出離せず、六道の中で衆生を度脱するのであり、六道の生死輪回には属さないのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">九、どのように諸根を修めて自心の煩悩を調伏するか</h4>

『雑阿含経』巻十一原文:有个外道弟子郁多罗。来见世尊说。我师波罗奢那说。修诸根。眼不见色。耳不听声。是名修根。世尊言。若如此。盲者是修根不。阿难问郁多罗。聋者是修根不。于是世尊以此为缘。为弟子讲述。异于外道的无上修根方法。

解釈:ある外道の弟子で鬱多羅という者が世尊に会いに来て言った:「私の師である波羅奢那は、諸根を修めるには、眼は色を見ず、耳は声を聞かない、これを修根と名づけると説いています」。世尊は言われた:「もしそうであれば、盲人は修根しているのか」。阿難は鬱多羅に問うた:「聾者は修根しているのか」。そこで世尊はこのことを縁として、弟子たちに外道とは異なる無上の修根の方法を説かれた。

原文:世尊说。缘眼色生眼识。见可意色。修厌离。不可意色。修不厌离。可意不可意。可不可意。修厌不厌俱离舍心。住正念正智。心善调伏。善关闭。善守护。善摄持。善修习。是则于眼色。无上修根。耳鼻舌身意诸根。也如是修习。

解釈:世尊は言われた:眼根と色塵に縁って眼識が生じ、眼識が心の好きな色塵を見たなら、厭離心を修め、色塵を貪着しないことである。好きでない色塵を見たなら、不厭離心を修めることである。好きでもなく嫌いでもなく、可意でも不可意でもない色塵を見たなら、厭離と不厭離の両方を捨てる捨心を修め、心を境に着けさせず、正念正智に住することである。心を調伏することに巧みであり、心を閉じることに巧みであり、心を守護することに巧みであり、心を摂持することに巧みであり、心を修習することに巧みである。これが眼で色を見る際の最上の修諸根の方法であり、耳・鼻・舌・身・意の諸根においても同様に修習するのである。

以上は世尊が弟子たちに、心を修めて煩悩を除去する方法を教えられたものである。まず、我々が好きな色相を見たとき、心の中に喜楽心を生じさせず、むしろ厳離を生じさせること。嫌いな色を見たとき、心の中に厭悪感を生じさせないこと、これが初步的な調心である。さらに調心を進めると、すべての色相を見たとき、好きであろうと嫌いであろうと、心の中に喜楽も厭悪もなく、放捨の心境状態に住し、内心でこれらの色相を意に介さないこと、これが比較的適切な心態であり、智慧あるやり方である。

色相に面したとき、心を調伏し、心を守護し、心を把持し、心を閉じることに巧みでなければならず、心を外に攀縁して流溢させてはならない。耳が声を聞くとき、鼻が香を嗅ぐとき、舌が味を嘗めるとき、身が触を受覚するとき、意根が法塵に触れるとき、いずれも心を調伏し、心を守護し、心を把持し、心を閉じることに巧みでなければならず、心を外に攀縁して流溢させてはならない。このように長く続ければ、心は寂静を得ることができ、定力は次第に深まり、仏法の参究思惟は深く細やかになり、速やかに道果を証得することができる。修行とは、眼が色を見ず、耳が声を聞かず、鼻が香を嗅がず、六根が六塵に触れないことではなく、六根が六塵に触れるときに我々の心を調伏し、縁に触れ境に遇うときに我々の心を摂持することに巧みであることである。境縁がなければ心を調伏することはできず、一頭の野馬が荒野で乗りこなし訓練されてこそ初めて制服できるのと同じで、修行人は境界を避けて修行してはならず、必ず境界の中で心を練り心を修め、境界の試練を受けなければならない。そうしてこそ、将来どんな境界に遇っても関を越えることができ、心は寂止し、境界に着しないのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">十、享受を貪らない人は我見を断じやすい</h4>

現代人には比較的枯燥で味気ないと感じられる生活の方が、むしろ心を養うものである。簡単な生活は身見・我見を断じやすい。なぜなら、そのような生活は人を貪着させにくく、心が比較的単純で清浄であり、色身をあまり重んじず意に介さないため、身見を断じやすく、我性も軽微で、我見を断じやすいからである。さらに、そのような生活は福報を浪費せず、福徳に支えられているため、道業の進歩が速くなる。

真の菩薩は、自分の福徳を非常に大切にし、軽々に消耗してしまうことはないため、みな享受を讲究しない。菩薩たちはこの世間に出生する際、往々にして富貴な家を選ばない。幼い頃に福徳が父母の主導でむだに消耗されてしまうのを避けるためである。今の人はみなこれらの福徳のことを理解せず意に介さず、知らず知らずのうちに気軽に享受を通じて消耗してしまい、実に惜しいことである。しかも自分ではそれを知らず、なお栄華富貴を享受することを誇りとしている。父母は必ず子供に対して責任を負わなければならず、気軽に子供に代わって主導権を握り、その福報を消耗させてはならない。福報を幼い頃に消耗し尽くされ、成長して福報が少なくなれば、苦受が多くなり、諸事が順調でなくなる。仏法を学ぶ際に道業に用いるべき福徳が不足すれば、道業は成就しにくくなる。

昔の時代には、消費財がそれほど豊富ではなく、生活はごく簡単であったため、色声香味触に着しにくく、色身の保养もほとんどせず、思想は単純で、身見は断じやすかった。富貴にして修道は難く、貪の習気が重すぎるためである。貧しくして布施は難く、福が薄いためである。それゆえ修道は一点一滴から始めるものであり、小を積んで大とし、少を積んで多とし、良好な修行の習慣を養えば、道を了しないことを憂えることはない。

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