五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)
第四章 五蘊観行の第二部
第一節 五蘊が我ならざる理
一、成唯識論述記における五蘊非我の理
原文:内識所変。至実我法性。述曰。此顕依他。我法名仮。先顕其体。実非我法。内識所変。似我似法。虽体依他。縁起是有。而非是彼。妄情所執。実我法性。此縁起法。無主宰故。無作用故。
釈:内識とは、内六塵を了別する七識を指す。内六塵は七識の参与によって顕現され、三つの能変識(第八識・第七識・前六識)が共同で内六塵と五蘊を顕現する。六識と五蘊は依他起性であり、種々の縁によって第八識から生じる。仮の我である五蘊七識に似せて顕現し、宇宙器世間に似せて顕現するが、実際にはこれらの法は真実有ではなく、実在する我ではない。五蘊は我ならず実ならず、七識は我ならず実ならず、六塵は我ならず実ならず、一切の法はことごとく我ならず実ならず、内識によって顕現された仮の我・仮の法は、現象的には存在するように見えるが、実質は無であり、幻化したものは即ち空である。
五蘊・六塵・六識は単なる仮の名詞であり、様々な縁によって生成されたものに過ぎない。縁起法は表相上は存在するように見えるが、実は衆生の情識が虚妄に我や実体と計度しているに過ぎず、あたかも我が存在し、種々の法があるかのようである。実際には存在せず、幻化して真実ではなく、夢の中の物のようである。これらの縁起法は因縁によって生じたもので、自主性がなく、主宰性もなく、真実の作用もない。
我とは主宰の義である。五蘊に自主性がなく、主宰性がない以上、五蘊は我ではなく、単なる名詞概念であり、仮有であって真実ではない。五蘊には真実の作用がなく、表面上の機能作用には主宰性がなく、いずれも五蘊の所為ではなく、その背後に別の主宰者が存在して真の主人であり、真の我である。その我こそが真実の作用、真実の働き、自主性を持ち、一切の法の生住異滅を主宰することができる。
真実の五蘊は存在せず、真実の五蘊の作用もなく、五蘊の真の作用もない。衆生が五蘊に作用があると感じるのは妄知妄覚であり、心が錯乱しているため、心が迷っているためである。実際には迷いや顛倒の心も存在せず、ことごとく空中の花、夢の中の境のようである。初地に入れば、もはや五蘊に真実の作用があるとは感じず、一切の法に真実の作用があるとは考えなくなり、すべてが仮相であり真実の作用がなく、ただ第八識のみが真実の作用を持つと悟る。あたかも操り人形に真実の作用がないように、操り人形に真実の作用があると考えるのは、ことごとく仮相に惑わされた顛倒の衆生であり、真偽を識別できず、主人公を取り違えているのである。
二、なぜ五蘊は五蘊ではないのか
いわゆる五蘊とは、即ち五蘊にあらず、これを五蘊と名づく。これは公式であり、例えば「いわゆる某某、即ち某某にあらず、これを某某と名づく」と当てはめることができる。某某という名前は単なる符牒であり、本人ではない。しかしこの名前は本人を引き出すことができ、名前もまた本人から離れない。本人がなければ名前はないが、本人は名前がなくても存在しうる。本人は名前によって顕現し、某某という名を呼べば本人が現れる。
同様に、いわゆる万法とは、即ち万法にあらず、これを万法と名づく。万法は例えば某某という名前に相当し、名前の背後には人がおり、万法の背後には如来蔵がある。人に依って名前があり、如来蔵に依って万法がある。人は名前がなくてもよく、如来蔵も万法がなくてもよい。一切の法はみな名前であり、相は存在するが実質はなく、如来蔵には相がないが実有であり、実体があり、真実の機能作用を持つ。
三、六根が虚妄無我であることをいかに理解するか
六根はすべて生滅性であり、そのうち五根は第八識が業種と父母縁、および意根の執取によって生じたもので、縁が散れば滅び、自在ではなく自主性がない。意根は第八識が識種子を輸送して生じたものであり、刹那生滅が連続して形成された識の仮相であり、無余涅槃に入る時には滅することもでき、したがってこれも虚妄で自在ではなく、幻化であり我ではない。観行に際しては、ゆっくりと思惟し、非常に深く細かく思惟しなければ、内面に何らかの触発が生じ、ようやく六根および五蘊が真実ではなく真の我ではないことを真に認めることができる。禅定を修め、定力の配合のもとで思惟観行し、一つの法を思惟し終えてから次の法を思惟する。思惟した内容を脳裏に深く懸けて、深く、ゆっくりと、細かく、心を浮つかせず、思惟する法を深く懸けて、内心はほとんど動かず、実際には非常にゆっくりと深く微細に動いている。このような観行こそが正しく真の観行の方法である。
四、四相無し
我相無く、人相無く、衆生相無く、寿者相無し。五蘊十八界というこの仮の我は、第八識が様々な縁によって変生したものであり、虚妄・変異・無常・空・苦性である。したがって無我である。これには深く細かな観行を行って初めてこの結論に至り、内心で五蘊が真に我ではないことを確認できる。我が虚妄である以上、同様に他人も虚妄であり、すべての衆生は虚妄で我ではない。それゆえ衆生の五蘊に依存して存在する寿者相は当然真実ではなく、虚妄である。定力を修め、これらの理をよく観行することは非常に重要であり、この中で多くの法を修め、八正道および三十七道品をよく修めて初めて、これらの法がすべて空であることを証得できる。口で空と言うだけでは役に立たず、単なる口頭禅に過ぎない。
五、我が所有する法も了不可得
我見を断除した後、五蘊が我ではないことを証得する。我すらない以上、私が所有する法もありえず、表面的には六塵境界が私の所有に属するように見え、非常に真実のように思えるが、これらの法は生滅変異し、自主性も自在性もなく、すべて幻化である。したがって所有することはできず、まして主体たる私が所有することもない。
所有と使用は、単なる虚妄の仮相に過ぎず、実質がない。所有とは七つの識心の占有であるが、識心は形も相もなく、いかにして占有するのか。例えば衣服、七つの識はいかにして衣服を所有するのか。金銭、七つの識はいかにして金銭を所有するのか。人を所有する、七つの識はいかにして人を所有するのか。自分の五陰身すら所有できず、まして他人の五陰身や名聞利養を所有することなど、七つの識がいかにして名聞利養を所有できるのか。全く不可能である。それゆえ仏は、一切の法は虚妄であり了不可得であると言うのである。幻化したものを、いかにして得るのか。指を折って数えてみよ、無始劫以来、いったい何を得たというのか。ついさっきのことさえ、我々はいったい何を得たのか。ただ自心の虚妄な覚受のみである。実法などない。人は皆、無始劫以来、絶えず自らの虚妄な覚受を執着し、虚妄な覚受を追求し満足しているに過ぎず、いったい何を得たり失ったりしたことがあるというのか。
今、天上の雷鳴の音と耳元の蚊の鳴き声を同時に聞いている。しかし雷鳴はどれほどの時間を経て、どれほどの距離を経て聞こえるようになったのか。聞こえた時には、雷鳴はとっくに消えており、天上ではもう雷は鳴っていない。雷鳴と蚊の鳴き声が同時に聞こえる以上、音は耳根において前後を分たない。一つの音が数秒かかって耳根に届く場合、あるいは数分かかって耳根に伝わる場合、その音の本質境はまだ存在するか。とっくに存在しない。音を聞いた時、外界の真実の音は消えて見えなくなっている。では他人が私を罵る音を聞いたが、その罵声はまだ存在するか。存在しない。聞こえた本質境の音の幻化相は、あたかも谷間のこだまのようである。では聞こえた私を罵る音がいかに虚妄であるか。非常に虚偽で真実ではない。六識が接触する法はすべてこのようである。
六、五蘊の集・味・患・離・滅
色とは、地水火風の四大種子によって形成された有相の物質であり、衆生の十八界の中に摂持され、世間法に属する。衆生の色身と宇宙器世間を含む。これらの色はすべて生滅・変化・無常・虚妄・空・久住しないものであり、これが世間の生住異滅の運行法則である。それ自体には善悪や過患はない。もしこれらの色を我あるいは我の所有と執取し、色には滋味があり長久不変であると考えるならば、色に対して執着と貪愛が生じ、こうして一切の過患が現れる。色を貪愛し執取するゆえに、心は三界に縛られ、生死輪廻を出ず、未来永遠に苦悩が絶えない。
五蘊にはすべて集・味・患・離・滅がある。色蘊の集とは、色蘊を出生させる業縁および造業の種子の累積である。色蘊の出生には縁と因がある。どのような縁因が色蘊を生じさせるのか。貪愛集が即ち色集である。貪愛の業行があるゆえに、未来世の色蘊が出生する。色滅とは、衆生は修行によって色への貪愛を滅することができ、貪愛を滅した後には生死の過患がなくなる。
色味とは、我々が色蘊には滋味があり楽しみがあり、非常に愛すべきものであると考えることである。こうして色蘊に貪着し、貪愛があると生死の煩悩を断つことができず、未来世の五蘊の出生がある。色患とは、色蘊には過患があることである。色蘊は無常であり苦であり空であり変異であるゆえに、無限の生死の過患があり、色蘊があると苦悩が生じる。色離とは、衆生は修行によって色への貪愛から離れることができ、貪愛から離れれば生死を解脱し大自在を得る。もし貪愛を離れ、初禅定を現起すれば、煩悩を断除し心を解脱させることができる。
受蘊の集とは、触集が即ち受集である。六根は常に六塵に触れ、触れた後には六識が出生し、六識の受蘊がある。受蘊があると絶えず苦受・楽受および不苦不楽の受が生じる。したがって生死の苦受が絶えず、苦悩が絶えない。受味とは、覚受が生じた後、衆生は覚受には非常に滋味があると考え、心に喜楽を生じ、貪愛心が生じ、受を愛楽し喜楽し、心が束縛される。こうして未来世の五蘊の出生を免れない。受患とは、六識のこれらの覚受にはすべて過患があり、すべて無常・生滅であり、苦・変異・久住できない煩悩法である。したがってすべて断除する必要がある。
受離とは、衆生は修行によって覚受への貪愛から離れることができ、もはや受には滋味があるとは考えず、愛楽すべきものとは考えなくなる。受滅とは、八正道を修行した後、真に受への貪愛と喜楽心を滅し、心が寂止と清凉を得て、解脱の真実の受用を得ることである。触が離れれば受も離れ、触が滅すれば受も滅する。六根はできるだけ六塵に触れないようにし、受を減少させる。受がなければ受の過患もない。
触集は即ち想集であり、触が滅すれば想も滅する。六根が六塵に触れて想が生じ、六根が六塵に触れなければ想は出生しない。触集は即ち行集であり、触が滅すれば行も滅する。六根が六塵に触れれば身口意行があり、六根が六塵に触れなければ身口意行は滅する。名色集は即ち識集であり、名色が滅すれば識も滅する。名色五蘊が出生すれば六識も出生し、名色五蘊が滅すれば六識も滅する。
七、我と我所有はともに我見に属する
我見は断じ難い。根深いためである。我所有見も非常に断じ難い。根深いためである。意根は五蘊の一部の機能作用を我とし、別の部分の機能作用を我所有とし、根深く我および我所有と執着する。この習慣的な認知は転換し難い。意根のこの不如理な知見を断除するには、長期的な観行が必要であり、絶えず自らの五蘊に対する様々な観点や見方を反省し、定中で如理に思惟しなければならない。
我と我所有は非一である。異なるもの、別のものは即ち異である。例えば受蘊を我とすれば、色蘊は私の我所有となる。我と我所有は異であり、あたかも色蘊が私であるという我見は断ったが、色蘊を我所有とする知見も根深い邪見である。我と我所有はいずれも我見であり、どちらも断じ難いが、断除しなければならない。我見を断った後、知見が是正されると、我と我所有は非異ではないと考えるようになる。受蘊は我ではなく、色蘊も我所有ではなく、両者とも我ではない。
我見を断つ前は、受蘊を我とし、色蘊を我所有とし、受蘊は色蘊の中にあり、色蘊は受蘊の中にあると考え、両者は互いに存在し、その体を遍くする。我見を断った後、知見が是正されると、受蘊は我ではなく色蘊は我所有ではないと考え、受蘊は色蘊の中になく、色蘊も受蘊の中になく、両者は互いにその中に存在せず、色受想行識の五蘊は我ではないゆえである。
この問題は不可思議であり、禅定の中で問題を脳裏に懸け、意根に懸ける必要がある。ある日突然開けてその義を通達する。この結び目が解ければ、我見を断つ障害が排除され、観行の抵抗が小さくなる。
八、我見と我所有見はともに断除しなければならない
観行によって我見を断つには、色受想行識の五蘊を我と見なさず、また我所有とも見なさない。色蘊は私ではないが、私が所有し使用できるものだとは言えない。受想行識蘊は私ではないが、私が所有し使用できるものだとは言えない。色受想行識が即ち私であるというのは誤った見方と知見であり、私が色受想行識を所有できるというのも同様に誤った見方と知見である。これらの知見はすべて滅除し、心から掘り出さなければならない。
我所有があれば、私がいることになり、我見が断たれていないことになる。誰が色受想行識の功用を我所有とするのか。もちろん意根である。意根は無始劫以来ずっとこれらの功用を使用し利用し、自分にはこれらの功用があると考え、これらの功用があるゆえに我慢と我執が生じ、生死の煩悩が絶えない。
意根がこれらの功用を持ちたいと願う時、第八識は惜しみなく意根のために色身と六識を出生させ、これらの功用を現起させる。意根はこれらの功用を私および私のものとし、すべて第八識のものであることを知らない。こうして生死流転が休まない。生死流転の苦悩から脱するには、必ず意根にこれらの考えと知見を断除させ、もはや意根にこれらの功用がすべて私および私のものだと思わせてはならない。こうして意根は無我となり、次第にこれらの功用を利用して煩悩業を造作することを考えなくなり、次第にこれらの功用への執着と貪着が軽減され、生死業が消滅する。
無始劫以来、意根は五蘊十八界を執着してきた。なぜ執着するのか。意根がこれらの法は私であり私の所有であると考えるからである。もし意根がこれらの法が私および私の所有ではないと考えるならば、もはや執着しない。執着は無意味であり貪着も無意味であり、五蘊十八界は空・苦・幻化不実で捉えられないと知るからである。意根が一旦この理を証得すれば、次第に執着が軽減され、ますます自在となり解脱する。初果は五蘊無我を証得し、法眼浄を得る。心眼が清浄になり始め、見が清浄になれば行も清浄になり、煩悩が断尽した時、行は最も清浄である。
九、五蘊の機能作用
タイピングする時、手と目は色蘊であり、画面を見て字体と画面を了別するのは識蘊であり、思惟構想するのは識蘊であり、画面の状況を受け入れるのは受蘊であり、覚受が生じるのは受蘊であり、画面の状況と字体の大きさを了別するのは想蘊であり、心の念を了別するのは想蘊であり、指でタイプするのは行蘊であり、絶えず構想するのは行蘊であり、呼吸など身根の運動は行蘊である。すべての五蘊の作用は識蘊と行蘊である。
話す時、食事する時、歩く時、観想する時の五蘊の作用を区別し、六根が六塵に触れる時、色受想行識の機能作用を区別する。その後観行思惟し、各機能作用がいかに生起し、いかに運行し、いかに変化し、最後にいかに滅し、いかに転移するかを思惟する。さらにいかに無常であるか、いかに空であるか、いかに苦であるかを思惟し、さらにこのような機能作用が私でありうるかと考える。私はこのように生滅を繰り返すものなのか。このように絶えず変異し止まないものなのか。智者は決してこのような作用を私とは認めない。
十、小乗が我見を断つには四聖諦の法を修行する必要がある
四聖諦とは苦・集・滅・道である。世間の一切の法が苦であることを了知して初めて出離心が生じる。出離心があることが修行の前提と基礎であり、出離心がなければ修行は懈怠し精進できず、貪愛を断つことはさらに困難であり、道業は進みにくい。常に自らを反省し、苦を識り苦を知っているか、出離心があるか。これができなければ、後の修行は精進できない。
もし我見を断ち人無我を証得したいならば、我々は知らなければならない:人とは何か、人の概念は何か。私とは何か、私の概念は何か。無我とは何を指すのか。空とは何か、空の概念は何か、空にはどれほどの種類があるのか。無常とは何か、生滅とは何か、無常はなぜ真実ではないのか。これらの法について、心中に明確な認識を持たねばならない。常にこれらの法を思惟し、心中に固く一つの認知を樹立しなければならない:無常の法は絶えず生滅変化し、把握できず、すべて空であり真実ではなく、依るべき我ではない。
我々はもはやこれらの法を真実と見なし、私と見なし、私が所有すると見なしてはならない。再び掴み執取してはならない。これらの法を執取すれば永遠に生死に沈淪する。これらの観念を固く樹立し、以前の誤った認知を覆し、次第に我見を断除し、三縛結を断除して解脱と自在を得る。これを行うのは容易ではない。時には表面上または口では五蘊が空幻であると認めていても、内心深くの意根は認めていない。意根に承認させ認めさせるには、常にこれらの道理を思惟し、すでに知っているからといって深く細かく思考することを軽んじてはならない。そうでなければ意根の知見は是正されにくく、修行は進展しない。これは非常に重要である。
苦は真実ではなく、苦は私ではない。この観念を樹立しなければならない。無常で空であるものは真実ではなく私ではない。この観念も樹立しなければならない。このような思想観念を樹立することは非常に容易ではないが、一旦樹立すれば、その後いかなる法を修めても容易であり、知見は速やかに是正され、我見を断つにせよ明心にせよ、また今後いかなる観行も困難ではなくなる。我々の修行を阻むのは煩悩・煩悩習性および誤った不正確な観念と理念である。観念が是正されれば煩悩も降伏しやすく、智慧も生じやすくなる。知見を是正することが最も重要である。知見が正しければ我見を断ち邪見を断つことができ、以後の修行において一つの関門も突破できる。
十一、我見を断つことは五蘊の敗壊法を観行することである
小乗が我見を断つことは、五蘊十八界の苦・空・無常・無我性を証知することである。五蘊の我は無常に等しく、空に等しく、苦に等しく、破る必要がある。五蘊は壊滅しうるものであり、破られ壊滅しうるものは真実ではない。
真実真相には二つの意味がある。一つは世俗界の真理・事実を指し、もう一つは大乗法における永遠に生滅しない第八識を指す。小乗が我見を断つ修行においては、第八識が不滅であり、五蘊十八界と区別があり、五蘊十八界の所依であることを知ればそれで十分である。観行思惟の重心は、五蘊十八界が世俗界の真理において壊滅敗壊する法であり真実性がなく、その真相は久しく長くない相と苦相・空相・破壊相であることを認識することにある。
もし我見を断つことが五蘊が第八識ではないことを証得することだとすれば、方向性が大きく間違っており、我見は依然として存在する。多くの人の頭脳と思惟は常にある誤った考えから抜け出せない。なぜか。一つはある種の誤った導きを受けて先入観を持っているためであり、もう一つは論理的思惟力が不足しているためである。思惟力の不足は定力の不足に関連し、前世の善根福徳に関連する。これは自らが少しずつ定慧と善根福徳を累積する必要がある。前世に一定の修学の根基が備わっていなければ、今世の修行はそれほど速くは進まない。もし自らに非常に速く悟ることを強要し、様々な因縁条件がまだ成熟せず、自らの心性などがまだ菩薩に似るように転換していない状況で、焦って第八識を参究し、五蘊無我すら破ろうとしないならば、自らの道業に害があり益はなく、往々にして逆効果である。
十二、観行と覚受無我を証得することは非常に重要である
衆生は皆、覚受を真実と見なし、私と見なし、私の所有と見なす。そして覚受を追求し、覚受を満足させ従順し、自らの覚受のために惜しみなく様々な業行、特に悪業行を造作する。我々が生死の苦を解除するには、覚受の虚妄性・不実性・幻化性・空性・非我性を観行しなければならない。こうして覚受が確かに空幻で真実でないことを証得すれば、もはや覚受を重視せず、覚受を追求せず、貪瞋痴の煩悩という無明の悪業を造作しなくなる。こうして我見を断除し、貪瞋痴の煩悩が次第に薄れ、心が次第に清浄になる。
覚受はいかにして空であり幻化であるのか。覚受はどこから来るのか。覚受は主に六識の覚受である。実際にはその後ろの意根の覚受も非常に重要である。意根に覚受がなければ、六識に貪染業を造作させず、解脱を求め精進して仏法を修学することもできない。六識の覚受は一方で意根から来ており、意根の影響と指揮を受ける。他方、六識自身が六塵境界を了別する時、境界の影響を受け、境界に対して貪厭を起こし、受心所法が現れると苦楽受が生じる。
六識の覚受はいかにして現れるのか。如来蔵が識種子を出力して六つの識を形成する。六つの識が生成された後、運行を開始し、五遍行心所法および五別境心所法が現れ、こうして六塵を分別し執取し、境界に対して覚受が生じる。その後この覚受を真実・私と認め、己に順ずるものには貪り、逆らうものには瞋り、貪瞋痴などの無明業を造作し、その後生死輪廻の果報が絶えない。では我々が覚受を空と観じ、五蘊無我・覚受も非我を証得すれば、貪瞋痴の煩悩を降伏させることができる。これは非常に重要である。
十三、我見を断てない原因
我々の身の回りでは毎日無常のことが起こっている。特に現代は情報が非常に発達しており、無常の情報は数えきれないほどある。しかしなぜ多くの人はこれらの無常の情報に感慨がなく、深く考えず、ほとんど淡々と見過ごしてしまうのか。特に自身に関わる無常ですら、なぜ平気でいられ、皆麻痺して適応できるのか。もし人が容易に無常に適応し、一度も深く考えず、一度も反省せず、一度も触発されないならば、どうして無常の中で五蘊無常非我を証得できようか。
辟支仏は木の葉が落ちるのを見て、世間は無常で楽しむべきでないと知り、直ちに出家して山中で無常法・因縁法を思惟し、もはや世俗に貪着しない。過去の外道も世間は無常であると知り、出家して山中で修道した。ただ外道の修行の依る理論は正しくなかったが、その善根も浅くなかった。世俗を捨てられる者が、現代社会にどれほどいるだろうか。無常法に対して内心が麻痺し鋭敏でない原因は何か。世俗に貪恋する心があるため、何が起ころうと世間は愛すべきで依恋すべきものだと考えているのではないか。この心があると、無常を見破りにくく、我見を断ち証果を得にくい。
我見を断てないならば、自らの原因を多く探し、自らの心の思想観念や思惟習慣をよく観察し、いったい何が問題なのかを見極めなければならない。我見は自らの内心深くの思想観念と大いに関係がある。多くの人は無常に遭遇しても、たとえ非常に苦しくても、容易に見過ごし、反省せず深く考えず、思想観念も正しくなく、定力も不足している。これにより一生を無常と退屈の中で過ごし、完全に適応でき、少しも内心の触発を引き起こさず、淡々と、ぼんやりとしてしまう。これでどうして智慧が生じようか。
実際、我々は本当に無常を観察できず、無常を知らないのか。意識は容易に無常を了知でき、苦を了知することも容易であり、空を了知することも難しくない。意識心も常に無我と言う。ではなぜまだ我見を断てないのか。一切の法は無常無我であると考える多くの人でさえ、他人が彼の我見を断ち証果を得たと認めても、自分自身の内心では認めることを敢えてしない。なぜ認めることを敢えてしないのか。やはり心が虚ろだからである。実証がないため、内心深くでこの理を認めておらず、自らの観点や見方が不安定だと心で感じている。彼ら自身もこれを知っているので、自らを肯定することを敢えず、普段はただ言って遊んでいるに過ぎない。
意識心が自らの五蘊が恒常不変だと思う者はほとんどいない。ではなぜまだ我見を断てないのか。無常の考えや見方は意根の見方ではないからである。意根は五蘊が無常であり一切の法が無常であることを知らない。それゆえ我見を断つことができず、たとえ他人が彼の我見を断ったと言っても、自分自身も心が虚ろで認めることを敢えず、証拠も理由もないからである。
十四、五蘊を観行するには固く無我の観念を樹立しなければならない
暇な時、窓の外の大木を見るか、自ら大木の図を描き、常に樹根より上の五蘊七識の来歴や各部分の相互関係を思惟する。常にこの観行を行えば、我見を断ち明心することはそれほど難しくない。自ら本来の因縁条件が具足していれば、いかなる法も自らの証果と明心を促すことができ、法法は無我と無生に通じ、決して偏った道はない。
小乗の観行には、心中に次のような概念と思想を持たねばならない:生滅変化するものは私ではない。常存できないものは私ではない。様々な因縁が集まったものは私ではない。生じられたものは私ではない。これらの観念を固く樹立した後、禅定の中で観行してこれらの理を認めなければ、我見を断つことはできない。そしてこの観念・概念・思想の樹立は、誰も手助けできず、これは各人が自ら心で認知するものであり、他の者には全く方法がない。あたかも教師が学生に「これは黄色であり、かくかくの特徴を持つ」と教育するようなものである。学生の心がこの黄色を認めるかどうか、黄色の概念内包を正確に把握しているかどうかは、他人にはどうしようもない。自らが直接思惟認知し、自らこの概念の意味を消化して初めて、この黄色を承認し記憶し、そして黄色を証得するのである。また例えば、教師が「大」という字を教え、読み方と意味、字形をすべて学生に教えたが、学生がそれを担い理解できるかどうかは、自らの問題であり、他人にはどうしようもない。
五蘊を観行するのもこの理であり、必ず自ら内心深くでこの結論を承認しなければならない。いかにして承認するのか。勤勉に努力して禅定を修習し、この定中思惟観行を行う。具足すべき条件はすべて達成されねばならず、道具は完備され、心力は十分でなければならない。その後善思と巧慧があれば観行は成就する。我見を断つには、一種の正しい思想観念を樹立することが重要である。内心に固い観念があり、観念と一致しない事理に出会うと、内心は直ちにそれを否決し認めない。それゆえ生滅無常は即ち非我という観念が一旦樹立されると、一切の法を観察し、生滅変化無常であることを観察した後、その真実性を否認し、無我を認めやすくなる。思想観念を変えることが最も難しいが、一旦変われば、その後の成果は不可思議である。
十五、理を明らかにすることが解脱の前提である
解脱を得るには、必ず仏理に従って修証し、我見を断ち、五蘊十八界が空であることを証し、人我なく四相なきことを証さねばならない。さらに五蓋を捨離し、初禅を発起し、煩悩を断ち我執を去り、命終して初めて三界を出て解脱を得る。何が私か、私とは何かを知らず、七識と五蘊に固執し、空しく執着を破り放下を叫ぶのは、ただ徒労に過ぎない。
小乗の解脱と放下は、必ず五蘊十八界の虚妄を観行しなければならない。一蘊ずつ観じ、一界ずつ観じ、漸次に初果から四果を証得して出離する。他に道はない。外道はこの理を知らず、長年修行し、最高の禅定を修め、最高層天に生まれ、定中の境界を涅槃と固く執着する。定境は法塵であることを知らない。知があることは即ち想であり、即ち我であり、依然として五蘊の中にあり、生死を出ず、いつ解脱するかは遥か遠い。それゆえ理が明らかでなければ、禅定がどれほど強くても解脱できない。
十六、修行は六識を離れられない
仏法を学び修行するには六根を離れられず、六塵を離れられず、まして六識を離れられない。むしろ五蘊六根六塵六識の上で修行する必要があり、十八界を離れては修行できない。修行は六識の身口意を用いて修するものであり、六識を滅除して用いないわけにはいかない。悟った後に四禅八定を修する時のみ、一時的に六識を滅除して深く禅定に入り、無量の神通を発起し、慈悲喜捨の四無量心を修めることができる。それ以外の時は、すべて意識心が参与して仏法を思惟し、参禅し、観行して我見を断ち、さらに意根を熏習し、意根の執着と染汚を断除しなければならない。
六識を用いる以上、六根が必要である。六根がなければ六識は生じない。しかも意根は我執を断った大阿羅漢でなければ滅せず、普通の人は滅せない。もしまだ我見を断っていない人が、いかなる方法でも我執を断つことはできない。我見が破られて初めて、自我への執着を少しずつ断つことができる。これが修行の次第であり、飛び越えることはできない。もし我見を断っていない人が執着を断つと言うなら、それは口先だけであり、全く実行できない。