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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 214

第四節 五蘊と第八識の関係

一、花と花の香りによる両者の関係の比喩

大乗の立場から申しますと、五蘊と第八識には不即不離の関係がございます。色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊という五蘊は生滅変化し実体性がなく、真実の我である第八識ではございません。しかしながら、五蘊は第八識から生じ、第八識に由来するものであり、第八識と異なるものでもございません。五蘊を離れて第八識を見いだすことはできず、第八識と五蘊は互いに混ざり合うこともなく、第八識は五蘊の中にはなく、五蘊も第八識の中にはございません。

なぜ五蘊が第八識と異ならないのでしょうか。世尊は一つの比喩をお説きになりました。例えば花の香りと花の関係のようなものでございます。花の香りは花に依存して存在し、花を離れれば花の香りはなく、花の香りがあれば必ず花があるものでございます。しかし花は花の香りがなくても存在し、花の香りを離れても花は存在しうるのでございます。花を見つけようとするならば、花の香りを辿って探せば必ず見つけることができ、花の香りを嗅げば花を見つけることができるのでございます。

花は第八識に譬えられ、花の香りは五蘊に譬えられます。第八識を離れれば五蘊はなく、五蘊を離れれば第八識を見いだすことはできません。世俗の法の観点から見ますと、色蘊は第八識ではなく、色蘊を離れても第八識を見いだすことはできません。受蘊は第八識ではなく、受蘊を離れても第八識を見いだすことはできません。想蘊は第八識ではなく、想蘊を離れても第八識を見いだすことはできません。行蘊は第八識ではなく、行蘊を離れても第八識を見いだすことはできません。識蘊は第八識ではなく、識蘊を離れても第八識を見いだすことはできません。五蘊は第八識と異ならず、第八識の一部分であり、第八識の属性でございます。第八識は五蘊の上に顕現することができ、五蘊を離れれば第八識を顕現することはできません。第八識と五蘊は性質が異なり、互いに混ざり合うことはなく、ちょうど色(物質)と声(音)が混ざり合わないのと同じでございます。しかしながら、唯識の種智(深い智慧)の観点から見ますと、五蘊の実質は即ち第八識であり、五蘊の全体が即ち真如でございます。

二、二者相互に内在せず

世尊は最初に小乗の教えを説かれた際、すでに衆生の五蘊の中に不生不滅の第八識が存在することを明らかにされました。小乗の修行者は仏の言葉を信じるがゆえに、この心の存在を知り、それによって我見を断ち、五蘊の仮の我を認めず、五蘊の滅は断滅ではなく、なお滅びない第八識が存在することを知ることができたのでございます。五蘊と第八識は不即不離であり、また相互に内在しません。なぜ相互に内在しないのでしょうか。第八識は形も相もないからでございます。もし第八識が色身(肉体)の中にあるならば、身体を切断すれば第八識を見いだすことができるはずですが、それは不可能でございます。古代の国王が死刑囚を使って実験を行い、囚人の身体を一片一片切り刻みましたが、切り刻み終えても第八識を見いだすことはできませんでした。第八識は形も相もなく、身体と一つに合わさるものでもなく、肉眼で発見できるものでもございません。菩薩の智慧の眼をもって識別し、あるいは明らかにする必要がある、この相なき第八識の心をでございます。

三、相互に内在しないことの意味

相互に内在しないことには二つの意味がございます。小乗の方面から見ますと、五蘊の我と我所(我の所有物)は互いに混ざり合わず、例えば色蘊を我と見なせば、受蘊・想蘊・行蘊・識蘊を我所と見なすことになりますが、色蘊と受想行識蘊は互いに存在し合わないのでございます。大乗の方面から見ますと、第八識の真心と五蘊は互いに混ざり合わず、入り混じらず、くっつかず、触れ合わず、交じり合いません。なぜならば、類別が異なり、第八識は形も相もなく、体積や形相がなく、色身と混ざり合うことができないからでございます。ちょうど虚空が身体と混ざり合わないのと同じであり、虚空はまたいかなる物質とも互いに混ざり合い交じり合うことはないのでございます。

第八識は形も相もなく、特定の一箇所に存在することもできず、身体の内側にも外側にも存在することはできません。しかしながら、内側にも外側にも遍く行き渡ることができ、同時に色身の四方八方の事柄に対応し、同時に四方八方に至ることに何の妨げもございません。もし第八識に形相があれば妨げが生じます。一箇所に至れば、同時に他の箇所に至ることはできなくなり、これが第八識が一切の法に遍満する道理でございます。例えばあなたが娑婆世界にいるならば、第八識はあなたに従って娑婆世界におり、同時にあなたの前世の他の世界の死体や墓を保持し、あるいは極楽世界の七宝池の中であなたの往生時に必要な蓮華座を生じさせ、あるいは他人の夢の中に至り、あるいは前世に戻り、後世へと赴くのでございます。第八識はまた意のままに他のことを行うこともでき、例えばある者に復讐し、ある者を加護し、ある者に利益と安楽を与え、ある者を教化し、ある者を毒害するなどでございます。第八識は六根(感覚器官)の上にも、六塵(感覚対象)の上にも、六識(認識作用)の上にも存在し、一つの法も第八識の存在しないものはないのでございます。

四、五蘊と第八識の区別と連関

五蘊は生・住・異・滅し、刹那刹那に移り流れ変化し、無常でありながらも変異します。それゆえ苦であり、無常で変異することが即ち苦でございます。私たちは五蘊を把握できず、五蘊を主宰できません。五蘊が徐々に老衰し、病気が現れる時、私たちは為す術がなく、また五蘊を私たちの心のままに変えることもできません。これが私たちの五蘊に対する無力さであり、また五蘊の自在でない性質、主体性を持たない性質を説明しており、それゆえ五蘊は私ではなく、私が所有するものでもなく、真実ではないのでございます。一方で、五蘊は私たちや外力によって変えられるものでございます。例えば四肢を切断し、身体を損傷し、様々な美容術や手術を行い、身体に器官や物質を増やすことも、器官や物質を減らすこともできます。このような五蘊は変幻自在で固定しておらず、それゆえ真実ではなく、永遠に一様でもなく、私ではないのでございます。

真実の私は永遠に恒常不変であり、苦がなく自在性を有し、独立して自主的でございます。私は永遠に変わらず、いかなる外力も変えることができず、恒久不変で、苦受もなく生滅もしません。生滅変化する仮の我と真実の我は不即不離の関係でございます。仮の我は真の我を離れて存在することはできず、真の我は仮の我の上に顕現される必要がございます。真の我は仮の我に依存して存在するものではありませんが。もし二者が一であるならば、仮の我が滅すれば真の我もそれに従って滅します。もし二者が別々であるならば、真の我がなくとも仮の我は存在し、仮の我は単独で存在できることになりますが、実際はそうではございません。それゆえ、二者の間には区別もあれば連関もあり、不即不離の関係でございます。

五、苦がなぜ私ではないのか

真実の私は永遠であり、永遠であるものは即ち清浄自在でございます。清浄自在であるものは即ち寂滅の楽でございます。一方、苦は生滅変化するものであり、永遠に存続するものではございません。永遠に存続するものは必ず清浄な楽、真実の楽、寂静の楽でございます。生生世世と断滅することのない法は必ず清浄な楽の法であり、断滅する法は必ず苦でございます。断滅せず、不変異で、永遠に存在するものが楽であり、私でございます。断滅し変化するものが苦であり、それゆえ苦であるものは私ではございません。私は苦ではなく、永遠であり、永遠に憂患がないため、私は苦を持たないのでございます。

五蘊の身の中には第八識が断滅せず不変異で、苦受がございません。五蘊には苦がございます。それゆえ五蘊は私ではございませんが、五蘊もまた私と異なるものではございません。「異」とは二つの法、つまり関連性のない差異のある法を意味しますが、五蘊は第八識から生じたものであり、第八識の一部分の種子の機能作用でございます。第八識と完全に別個の二体ではなく、第八識と不二の法でございます。

六、真妄の対比

小乗の苦・空・無常・無我は、大乗の常・楽・我・浄に対応いたします。七識の無常――第八識の常、七識の苦――第八識の寂滅楽、七識の無我――第八識の我、七識の不浄――第八識の浄でございます。

七、行蘊と八識の関係

五蘊の中の行蘊は、身行(身体の行為)、口行(言葉の行為)、意行(意の行為)を含みます。身行の中には時に六識の存在がある時も、ない時もございます。ある部分の身行には六識が運行し六識によって保持されるものがあり、ある部分の身行には六識の運行がなく、六識の作用を必要としません。六識の活動のない身行には、眠って夢がない時、昏迷状態の時、無想定(想いのない禅定)の時、滅尽定(一切の心作用が滅した禅定)の時が含まれます。この四つの状況下での色身の運行は、六識はすでに滅して存在しませんが、身体は依然として存在し、身体の様々な機能は運行を続けており、死の状態ではございません。

この時、身体の様々な運行はすべて意根と第八識によって維持されており、つまり身行は時に六識を離れて運行できるのでございます。たとえ六識が存在する時でも、ある部分の身行は六識とは無関係で、直接意根と第八識によって維持され作用します。例えば呼吸、血液の流れ、心臓の脈拍、細胞の新陳代謝、飲食の吸収・消化・排泄、神経伝達など、多くの機能作用でございます。

なぜならば、身根は第八識によって了別され保持されており、意根は第八識の見分(認識作用)を縁として間接的な了別を行うことができるためでございます。それゆえ意根は直接身根に作用し、主宰して身体に様々な自然な反応を起こさせることができます。例えば眠っている時のまぶたの痙攣、様々な神経活動、鼻水、内臓器官の活動、子供のおねしょなどでございます。

また、意根が直接決定を下し、六識が自覚せずに身根の活動に参与することもございます。例えば:車を運転中に緊急事態に遭遇し突然避ける場合、意識は分析・判断する間もなく、ただ即座に了別し、了別した情報を即時に意根に伝えます。意根は危険を知り、自己防衛の慣性に基づいて避けることを決定します。手が突然熱いものに触れてすぐに振り払うのは、意識の思惟・分析・判断を必要とせず、ただ了別した状況を素早く意根に伝えるだけです。虫が体に落ちればすぐに払い落とし、意識の分析を必要とせず、意根が了知して習慣的に自己防衛措置を取ります。蚊が自分を刺したらすぐに叩き、意識の考慮・選択を必要としません。口に異物が入ればすぐに吐き出し、意識の思惟・選択を必要としません。足が異物を踏めばすぐに持ち上げ、意識の判断・分析を必要としません。このように多くの状況で六識の作用はあまり顕著ではございません。

小乗における蘊は単に六識を指しますが、大乗における蘊は非常に広く、時に第七識も含まれます。なぜなら第七識も識であり、識の機能作用を持つからでございます。第七識も運行します。それゆえ第七識には行蘊があり、第七識にも受・想の心所(心の作用)があり、受蘊と想蘊がございます。色蘊の中にも第七識の作用があり、そうでなければ色蘊は存在しません。第七識は五蘊の上で相応の作用を起こすことができるため、五蘊は第七識である意根を含むこともできるのでございます。

大乗における蘊は、第八識も蘊の中に含めることができます。五蘊・七識の業行を蘊集し、未来に五蘊の果報を生じさせるためでございます。なぜなら第八識も識であり、識の機能作用を持つからでございます。ただし第八識の蘊は生滅性ではなく、苦でもなく、前七識とは異なり、前七識とは大きな差があるに過ぎません。五蘊の上にはすべて第八識の運行があり、また五蘊は第八識を離れることができません。そうでなければ五蘊は存在しなくなるからでございます。第八識自体には五遍行心所法(触・作意・受・想・思)がございます。それゆえ第八識にも受・想・行がございます。もちろん第八識の受・想・行は滅することができず、永遠に第八識の運行に伴い、前七識の蘊の機能作用とは異なり、前七識との差は極めて大きいのでございます。

悟り前の凡夫の衆生や地前の菩薩はこれらの法を観行(観察修行)することができず、粗浅な経論ではこれらの甚深な法義を説きません。そうしなければ衆生は受け入れることができないからでございます。それゆえ私たちは大乗の法の内包は非常に広大であるからこそ「大」と呼ばれ、包含する範囲が非常に広大であるからこそ「大」と呼ばれ、仏地の一切の法に直通するからこそ「大」と呼ばれ、究竟の円満に達するからこそ「大」と呼ばれ、十方世界を包含するからこそ「大」と呼ばれ、最後に一真法界に帰結するからこそ「大」と呼ばれるのでございます。もはや一真法界を超えるものは何もないのでございます。

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