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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 分類: 二乗解脱 更新時間: 2025-02-26 閲覧回数: 170

第四節 五蘊と第八識の関係

一、花と花香による両者の関係の比喩

大乗の立場から見れば、五蘊と第八識は一ならず異ならざる関係にある。色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の生滅変異はいずれも真実性なく、真我たる第八識ではない。しかし五蘊は第八識より出生し、第八識に由来するが故に、第八識と異ならない。五蘊を離れて第八識を見出すことはできず、第八識と五蘊は互いに混合せず、第八識は五蘊中になく、五蘊も第八識中にない。

何故五蘊が第八識と異ならないのか。世尊は比喩を説かれた。例えば花と花香の関係の如く、花香は花に依存して存在し、花を離れて花香はなく、花香あれば必ず花がある。しかし花は花香なくても存在し得る。花を求めんとするなら、花香を辿って探せば必ず見出せる。花香を嗅げば花を見出すことができる。

花を第八識に譬え、花香を五蘊に譬える。第八識を離れて五蘊はなく、五蘊を離れて第八識を見出すことはできない。世俗法の角度から見れば、色蘊は第八識ではないが、色蘊を離れて第八識を見出せない。受蘊・想蘊・行蘊・識蘊も同様である。五蘊は第八識と異ならず、第八識の一部分であり、第八識の属性である。第八識は五蘊上に顕現し、五蘊を離れては第八識を顕現できない。第八識と五蘊は性質を異にし、互いに混合しない。色と声が混ざり合わぬが如し。しかし唯識種智の立場から見れば、五蘊の実質は即ち第八識であり、五蘊全体が即ち真如である。

二、二者の不相在

世尊は最初に小乗法を説かれた時、既に衆生の五蘊中に不生不滅の第八識があることを示された。小乗修行者は仏語を信じ、この心の存在を知る故に我見を断じ、五蘊の仮我を認めず、五蘊の滅が断滅でなく、不滅の第八識が存在することを了知する。五蘊と第八識は一ならず異ならず、また互いに在ることもない。何故不相在か。第八識は形相なき故である。もし第八識が色身の中にあれば、身体を切断すれば第八識を見出せるはずだが、これは不可能である。古代の国王が死刑囚を用いて実験したが、身体を細片に切り分けても第八識を見出せなかった。第八識は形相なく、身体と融合せず、肉眼では認識できず、菩薩の智慧眼によってのみこの無相の第八識心を識別し明らかにするのである。

三、不相在の意味

不相在には二つの意味がある。小乗の立場から見れば、五蘊の我と我所は互いに混合せず、色蘊を我と見做せば、受想行識蘊を我所と見做すが、色蘊と受想行識蘊は互いに存在しない。大乗の立場から見れば、第八識の真心と五蘊は混合せず、交じり合わず、貼り付かず、触れ合わず、混在しない。種類が異なる故に、第八識は形相なく体積も形もないため、色身と混ざり合えず、虚空が身体と混合せぬが如く、虚空は如何なる物質とも互いに混合混在しない。

第八識は形相なく、特定の場所に存在せず、身体の内にも外にもないが、内外を遍く行き渡り、色身の四方八方の事柄に同時に対応し、何処にも妨げられない。もし第八識に形相あれば妨げが生じ、一処に行けば他処には同時に行けぬ。これが一切法に遍満する理である。例えば娑婆世界に在る時、第八識は汝に随って娑婆世界に在り、同時に前世の他世界の屍体や墓を保持し、あるいは極楽世界七宝池中に往生時に必要な蓮華座を生じさせ、或いは他人の夢中に入り、前世に戻り、後世へ赴く。第八識はまた意根に随って他の事柄を行い、例えば某人への報復、加持、利楽、教化、毒害などを行う。六根にも六塵にも六識にも在り、一法もその存在を離れない。

四、五蘊と第八識の区別と連関

五蘊は生住異滅し、念念に遷流変化し、無常にして変異する故に苦である。我々は五蘊を把握できず、主宰できず、徐々に老衰し疾病が現れる時、無力で自らの意のままに変えることができない。これが五蘊に対する我々の無力さであり、五蘊の不自在性、主宰不能性を示す。故に五蘊は我ではなく、我の所有物でもなく、真実ではない。他方、五蘊は我々や外力によって変更可能である。四肢を切断し、身体を損傷し、各種美容術や手術で器官を増減させるなど。このような五蘊は変幻自在で固定せず、故に真実でなく、永遠不変の我ではない。

真実の我は永遠不変で、苦なく自在性を具え、独立自存する。我は永遠不変で、如何なる外力も変え得ず、恒久不変で苦受なく生滅しない。生滅変化する仮我と真実の我は一ならず異ならざる関係にある。仮我は真我を離れて存在できず、真我は仮我の上に顕現する必要がある。二者が一ならば仮我の滅に真我も滅し、二ならば真我なくとも仮我が単独存在するはずだが、実際はそうではない。故に二者は区別と連関を有し、一ならず異ならざる関係にある。

五、苦が何故我ではないか

真実の我は永恒にして清浄自在、寂滅楽である。苦は生滅変異し、永遠不変でない。永遠不変なるものは必ず清浄楽、真実楽、寂静楽である。生生世世断滅せざる法は必ず清浄楽法であり、断滅する法は苦である。断滅せず変異せず永遠存在するものが楽であり、我である。断滅変異するものは苦である故に、苦なるものは我ではない。我は苦なく、永遠に憂患なき故に、我に苦はない。

五蘊身中に第八識が断滅せず変異せず苦受なきが故に、五蘊は苦あるも我ではない。しかし五蘊も我と異ならない。異とは二法、即ち差別あり連関なき法を指すが、五蘊は第八識より生じ、第八識の一部分の種子の功能作用であり、第八識と完全な二体ではなく、不二法である。

六、真妄の対比

小乗の苦空無常無我は、大乗の常楽我浄に対応する。七識の無常は第八識の常、七識の苦は第八識の寂滅楽、七識の無我は第八識の我、七識の不浄は第八識の浄である。

七、行蘊と八識の関係

五蘊中の行蘊は身行・口行・意行を含む。身行には時に六識の存在あり、時に六識の存在なし。一部の身行は六識の運行と執持を受け、一部は六識の作用を必要としない。六識活動なき身行とは、睡眠無夢時・昏迷時・無想定・滅尽定の四状態における色身の運行を指す。六識は滅しても身体は存続し、各種機能は運行する。これは死亡状態ではない。

この時身体の各種運行は意根と第八識によって維持される。即ち身行は時に六識を離れて運行し得る。六識存在時でも、一部の身行は六識と無関係に、直接意根と第八識によって維持作用される。呼吸・血液循環・心臓拍動・新陳代謝・消化吸収排泄・神経伝導等、多くの機能作用がこれに当たる。

身根は第八識により了別・執持され、意根は第八識の見分を縁として間接的に了別する。故に意根は直接身根に作用し主宰して、身体に各種自然反応を起こさせる。睡眠時のまぶたの痙攣・神経活動・鼻水・内臓器官の活動・小児の夜尿等である。

また意根が直接決定し、六識が無自覚に身行に参与する場合がある。緊急時の急ハンドル操作は意識の分析判断を待たず、了別情報を即座に意根に伝達し、意根が危険を認知し自己防衛本能で回避を決定する。火傷時の反射的な手の引っ込め、虫が体に触れた瞬間の振り払い、蚊に刺された直後の拍打、異物を口にした瞬間の吐出、足裏の異物感知時の即座の回避等、多くの場合六識の作用は顕著でない。

小乗の蘊は六識のみを指すが、大乗の蘊は広範で、時に第七識を含む。第七識も識であり、識の功能作用を有する。第七識も運行する故に行蘊を有し、受想心所を具え受蘊・想蘊を有する。色蘊にも第七識の作用がなければ色蘊は存在せず、第七識は五蘊上に相応の作用を起す。故に五蘊は第七識意根を含むこともできる。

大乗の蘊は第八識を含むこともある。五陰七識の業行を蘊集し、未来に五陰の果報を生じる。第八識も識であり識の功能作用を有するが、その蘊は生滅性でなく苦でない点が前七識と大きく異なる。五蘊上に常に第八識が運行し、五蘊は第八識を離れ得ない。第八識自体に五遍行心所法を具え、受想行を有するが、これは滅することなく永遠に第八識の運行に随伴する。前七識の蘊の功能作用とは大きく異なる。

悟前の凡夫や地前の菩薩はこれらの法を観行できず、浅略な経論ではこれらの深甚な法義を説かない。さもなければ衆生は受け容れられない。故に大乗法の内包は甚だ広大なる故に大と称し、包含する範囲が広大なる故に大と称し、仏地の一切法に直通する故に大と称し、究竟円満に達する故に大と称し、十方世界を包含する故に大と称し、最後に一真法界に帰結する故に大と称する。一真法界を超えるものは更にない。

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