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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年12月04日 閲覧数: 1230
<h3 style="text-indent: 2em;">第四節 五陰と第八識の関係</h3><h4 style="text-indent: 2em;">一、花と花の香りで両者の関係を譬える</h4>

大乗の角度から言えば、五陰と第八識は不一不異の関係にある。色陰・受陰・想陰・行陰・識陰は生滅変異して真実性がなく、真我である第八識ではない。しかし五陰は第八識から生まれ、第八識から来たものであり、第八識に異ならない。五陰を離れても第八識を見出すことはできず、第八識と五陰は互いに混合することもなく、第八識は五陰の中になく、五陰も第八識の中にない。

なぜ五陰は第八識に異ならないのか。世尊が一つの譬えを説かれた。たとえば花の香りと花の関係である。花の香りは花に依存して存在するものであり、花を離れれば花の香りはなく、花の香りがあれば必ず花がある。しかし花は花の香りがなくてもよく、花の香りを離れても花は存在しうる。花を見つけたいなら、花の香りをたどって探せば必ず見つかり、花の香りを嗅げば花を見つけることができる。

花はたとえば第八識であり、花の香りはたとえば五陰である。第八識を離れれば五陰はなく、五陰を離れれば第八識を見出すことはできない。世俗法の角度から見れば、色陰は第八識ではなく、色陰を離れても第八識を見出すことはできない。受陰は第八識ではなく、受陰を離れても第八識を見出すことはできない。想陰は第八識ではなく、想陰を離れても第八識を見出すことはできない。行陰は第八識ではなく、行陰を離れても第八識を見出すことはできない。識陰は第八識ではなく、識陰を離れても第八識を見出すことはできない。五陰は第八識に異ならず、第八識の一部であり、第八識の属性であり、第八識は五陰の上に顕現することができ、五陰を離れれば第八識は顕現しない。第八識と五陰は性質が異なり、互いに混合することはできない。それは色と声が混合できないのと同じである。しかし唯識種智の上から見れば、五陰の実質は第八識であり、五陰の全体がすなわち真如である。

<h4 style="text-indent: 2em;">二、両者は互いに存在しない(不相在)</h4>

世尊が最初に小乗法を説かれた時、すでに衆生の五陰の中に不生不滅の第八識があることを明らかにされた。小乗の人は仏の語を信じるがゆえに、この心の存在を知り、それによって我見を断じ、五陰の仮我を認めず、五陰の滅は断滅ではなく、なお滅しない第八識があることを知る。五陰と第八識は不一不異であり、また互いに存在し合わない(不相在)。なぜ互いに存在しないのか。第八識は無形無相だからである。もし第八識が色身の中にあるなら、身体を切り開けば第八識を見つけることができるはずだが、それは不可能である。古代の国王は死刑囚を使って実験を行い、囚人の身体を一片一片に切り分けたが、切り終わっても第八識は見つからなかった。第八識は無形無相であり、身体と合体できるものでもなく、肉眼で発見できるものでもない。菩薩の智慧の眼をもって、この相のない第八識の心を識別し、明らかにしなければならない。

<h4 style="text-indent: 2em;">三、不相在の意味</h4>

不相在には二つの意味がある。小乗の方面から見れば、五陰の我と我所は互いに混合せず、色蘊を我とすれば、受想行識蘊を我所とすることになり、色蘊と受想行識蘊とは互いに存在し合わない。大乗の方面から見れば、第八識の真心と五陰は混合せず、入り交じらず、貼り合わさらず、接触せず、参合しない。種類が異なるからである。第八識は無形無相で、体積も形相もなく、色身と混ざり合うことができない。それは虚空が身体と混合しないのと同じであり、虚空もいかなる物質とも互いに混合入り交じることがない。

第八識は無形無相であり、具体的にどの場所にあるということもできず、身体の内にも外にもあるとは言えないが、内にも外にも至ることができ、色身の四方八方の事柄に同時に対応することができ、四方八方に同時に至っても障礙がない。もし第八識が形相を持つなら障礙が生じ、一箇所に至れば、同時に別の場所に至ることはできない。これが祂が一切法に遍在する道理である。たとえばあなたが娑婆世界にいれば、祂はあなたに従って娑婆世界にあり、同時に祂は前世の他の世界のあなたの死体あるいは墓を執持しており、あるいは極楽世界の七宝池の中へ行って、あなたが往生する時に必要な蓮華座を生じさせ、あるいは他人の夢の中へ行き、あるいは前世に戻り、後世へ行く。第八識はさらに意根に随って他の事柄を行うこともできる。たとえば某人に報復したり、某人を加持し、某人を利楽し、某人を教化し、某人を毒害するなどである。祂は六根の上にもあり、六塵の上にもあり、六識の上にもあり、一法として祂の存在しないものはない。

<h4 style="text-indent: 2em;">四、五陰と第八識の区別と聯繋</h4>

五陰は生住異滅し、念念遷流変化し、無常であって変異する。それゆえ苦であり、無常変異こそが苦である。我々は五陰を把握することができず、五陰を主宰することができない。それが徐々に老いていく時、病気が現れた時、我々は為す術がなく、それを我々の心意に随って変えさせることもできない。これが我々の五陰に対する無力さであり、五陰の不自在性、作主できない性質を示している。それゆえ五陰は我ではなく、我の所有するものでもなく、真実ではない。他の方面から言えば、五陰は我々や外力によって変えられるものである。たとえば四肢を切り取ったり、身体を損傷させたり、各種の美容術や手術を行い、身体に器官や物質を増やしたり減らしたりすることができる。このような五陰は変幻不定であり、固定不変ではない。それゆえ真実ではなく、永遠に一如ではなく、我ではない。

真実の我は永遠に常恒不変異であり、苦がなく自在性を有し、独立自主できるものである。我は永遠に不変であり、いかなる外力によっても変えられず、恒久一如であり、苦受がなく生滅もしない。生滅変化する仮我と真実の我とは不一不異の関係にある。仮我は真我を離れて存在することができず、真我は仮我の上に顕現する必要がある。祂は仮我に依存して有るのではないが。両者がもし一であるなら、仮我が滅すれば真我もそれに従って滅する。もし二であるなら、真我がなくても仮我があり、仮我が単独で存在できることになるが、実際にはそうではない。それゆえ、両者の間には区別もあり聯繋もあり、不一不異の関係にある。

<h4 style="text-indent: 2em;">五、苦なるものはなぜ我ではないのか</h4>

真実の我は永遠であり、永遠なるものは清浄自在であり、清浄自在なるものは寂滅楽である。苦は生滅変異のものであり、永遠に長存するものではない。永遠に長存するものは必ず清浄な楽、真実の楽、寂静の楽である。生生世世断滅しない法は必ず清浄な楽法であり、断滅する法は必ず苦である。断滅せず、変異せず、永遠に存在するものこそが楽であり、我である。断滅変異するものは苦であり、それゆえ苦なるものは我ではない。我は苦でなく、我は永遠であり、永遠に憂患がなく、それゆえ我に苦はない。

五陰身の中には第八識があって断滅せず、変異せず、苦受がない。五陰には苦がある。それゆえ五陰は我ではないが、五陰は我に異ならない。異とは二法であり、差別があって聯関のない法である。しかし五陰は第八識の生んだものであり、第八識の一部の種子の功能作用であり、第八識と完全な二体ではなく、第八識と不二の法である。

<h4 style="text-indent: 2em;">六、真妄の対比</h4>

小乗の苦・空・無常・無我は、大乗の常・楽・我・浄に対応する。七識の無常――第八識の常、七識の苦――第八識の寂滅楽、七識の無我――第八識の我、七識の不浄――第八識の浄。

<h4 style="text-indent: 2em;">七、行蘊と八識の関係</h4>

五蘊の中の行蘊には身行・口行・意行が含まれる。身行の中には六識の存在する時と、六識の存在しない時とがある。ある部分の身行には六識が運行していて六識の執持を受けており、ある部分の身行には六識が運行しておらず、六識の作用を必要としない。六識の活動のない身行には、眠って夢のない時、昏倒している時、無想定の時、滅尽定の時が含まれる。この四つの場合、色身の運行において六識はすでに滅して存在しないが、身体はまだあり、身体の各種の功能はまだ運行しており、死亡の状態ではない。

この時、身体の各種の運行はすべて意根と第八識によって維繋されている。つまり身行は時に六識を離れて運行することができる。六識が存在する時でさえ、ある部分の身行は六識と無関係で、直接に意根と第八識によって維繫され作用している。たとえば呼吸、血液の流動、心臓の脈拍の動き、細胞の新陳代謝、飲食物の吸収・消化・排泄、神経の伝導など、多くの功能作用である。

身根は第八識によって了別され執持されているものであり、意根は第八識の見分に縁して間接的な了別を行うことができる。それゆえ意根は直接に身根に作用して主宰となり、身体に各種の自然な反応を生じさせることができる。たとえば眠っている時のまぶたの動き、各種の神経活動、鼻水、内臓器官の活動、子供のおねしょなどである。

さらに、意根が直接に決定を下し、六識が自覚せずに身根の活動に参与することもある。たとえば、車の運転中に緊急事態に遭遇して突然避ける時、意識は分析し判断する暇がなく、ただ適時に了別し、了別した情報を即時に意根に伝え、意根は危険を知り、自己保護の慣性に基づいて避けることを決定する。手が突然熱されてすぐに振り払う時、意識の思惟・分析・判断を用いず、了別した状況を速やかに意根に伝えるだけである。虫が身体に落ちてくればすぐに払い落とし、意識の分析を用いず、意根が了知してから習慣的に自己保護の措置を取る。蚊に刺された直後にすぐに叩き、意識の考慮・抉択を用いない。口の中に異物が入ればすぐに吐き出し、意識の思惟・抉択を用いない。足が異物を踏めばすぐに持ち上げ、意識の判断・分析を用いないなど、多くの場合、六識の作用はあまり明確ではない。

小乗の蘊はただ六識のみを指すが、大乗の蘊は非常に広く、時に第七識もその中に含める。第七識も識であり、識の功能作用を有するからである。第七識も運行しているので、第七識には行蘊があり、第七識には受想心所もあり、受蘊と想蘊がある。色蘊の中にも第七識の作用があり、さもなければ色蘊の存在はない。第七識は五蘊の上に相応の作用を起こすことができる。それゆえ五蘊は第七識である意根を含むこともできる。

大乗の蘊は、第八識を蘊の中に含めることもできる。第八識は五陰七識の業行を蘊集し、未来に五陰の果報を生じさせるからである。第八識も識であり、識の功能作用を有する。ただ第八識の蘊は生滅性のものでなく、苦ではなく、前七識と異なり、前七識と大きな差別があるだけである。五蘊の上にはすべて第八識の運行があり、しかも五蘊は第八識を離れることができず、さもなければ五蘊は存在しなくなる。第八識自体に五遍行心所法があるので、第八識にも受想行がある。もちろん第八識の受想行は滅することはできず、永遠に第八識の運行に伴っており、前七識の蘊の功能作用とは異なり、前七識との差別は極めて大きい。

悟りの前の凡夫衆生と地前の菩薩はこれらの法を観行することができない。粗浅な経論ではこれらの甚深な法義を説かない。さもなければ衆生が担いきれないからである。それゆえ我々は、大乗法の内包は非常に広大であってこそ大と称され、包摂する範囲が非常に広闊であってこそ大と称され、仏地の一切法に直通してこそ大と称され、究竟円満に達してこそ大と称され、十方世界を包摂してこそ大と称され、最後に一真法界に帰結してこそ大と称されるのであり、一真法界を超えるものはもはや存在しないのである。

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