五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)
八、五蘊十八界を如何に細かく観行するか
五蘊の虚妄を観行するには、五蘊十八界を一つ一つ観行して空であると見極め、まず五蘊が空であることを見極め、最後に禅定中の観行を通じて、論拠が充分であり、真に五蘊十八界が空であることを確かめなければならない。単に空と見るだけでなく、必ず五蘊十八界が確かに空であることを証知しなければならない。如何にして五蘊十八界が空であると観行するか。五蘊の概念及び内包範囲・機能作用を観行して明らかにし、その後で如何に虚妄であり、如何に無我であるかを知らなければならない。第六識の全ての体性もまた空であり無我である。離念霊知の心、各種の禅定における意識心、感受のある意識、想いで了知できる意識心、行相のある意識心、分別了別思惟推理する意識心など、全てを全面的に観行し、その虚妄性を確認しなければならない。
以前は常に意識心が私であると思っていたが、思惟観行した後、結果として意識心は根本的に私ではなく、単なる道具に過ぎないと気づいた。我々の心に知がある限り、この知は意識心の知である。続いて意識心の生滅性、無常性、変異性、把捉不可能性、空幻性を思惟する。この意識心の知は私の道具であり、真の私ではないが、私によって用いられる。まず意識を否定し、次に生滅無常性を観行し、最後に意識の虚妄性を確認する。
五蘊は多くの場合同時に現れることができ、その中で色蘊は必ず参与し、識蘊は必ず参与する。識があれば行があり、想があり、受がある。六識がなければ、行もなく、想もなく、受もない。それでは、一法の運行において五蘊が全て存在する可能性がある。例えば眼が色を見る時、身根が参与し、眼根が参与し、眼識が参与し、意識が参与し、意根が参与する。ここには色蘊、識蘊、受蘊、想蘊、行蘊がある。
受蘊と想蘊、行蘊が活動する前提は、六識が運行中であることである。睡眠時には受蘊と想蘊は滅するが、一部の行蘊は依然として存在する。夢を見ないで眠っている時、第七識である意根が依然として存在し、身根を調節するため、身行があり、呼吸、血液循環、胃腸の蠕動、寝返り、新陳代謝などの身体の活動がある。動きさえあれば、行蘊がある。夢を見る時、意識心が夢の中で活動するならば、依然として受想行識の四蘊が存在する。
眼耳鼻舌身意の六識には全て受、想、行がある。例えば眼識の受、想、行、耳識の受、想、行など、その虚妄性を一つ一つ観行しなければならない。また六識の了別性もその虚妄性、生滅性、変異性、無自主性、不自在性、空性を観行し、最後に完全に五蘊(色受想行識)が私ではなく、しかし私に異ならないことを証得しなければならない。受は領受と感受に分かれ、感受には三種ある:苦受、楽受、不苦不楽受。想は、執取、取相、了知である。行は、運動、運転、運行、運作であり、寂止しないという意味である。了別は分別である。これらの点について、一つ一つその生滅変異無常性を観行しなければならない。
九、如何に具体的に十八界を観行するか
まず眼根、耳根、鼻根、舌根、身根を観行する。この五根が何故無常であり、虚妄であり、空であり、苦であり、私ではないのか。五根は如何に出生し、如何に滅し、如何に変異するのか。これらを全て禅定の中で仔細に如実に観行しなければならない。観行に従って意根は徐々に五根無我の道理を確認できるようになる。禅定の中で深く観行しなければ、意識は理の上で五根は生滅虚妄であると認め、これ以上考える必要はない、これが理であると思うが、このように大雑把に思うのは無益である。意根がこの理を認めなければ、心の奥底から五根を否定できず、無我を確認しない。意根の邪見を転換するには、深く細かく観行し、意根の現量智慧を現前させ、確かにその通りであると認めさせ、確認ボタンを押させなければならない。そうすればこの件は決着がつく。
五根の観行が終わった後、続けて意根自身の生滅虚妄、無常非我性を観行する。観行の中で思惟しなければならない。意根が究極的に何故私ではないのか、その中の道理は何か。思惟して明らかにし、徹底的に理解し、意根に理解させる:本来私も実在ではない、その後確認ボタンを押して終了する。
次に六塵の無我性を観行する。色塵、声塵、香塵、味塵、触塵、法塵の六塵が何故生滅であり、無常であり、変異であり、苦であり、空であるのか。六塵は如何に出生し、如何に滅するのか。究極的に何故私ではないのか。深く細かければ細かいほど良い。最後に意根が認め、確かにその通りであり、六塵は私ではなく、私の所有でもない。意根はこれ以降六塵を重んじず、真実の法として貪り執着し続けることはない。
続けて六識を観行する。六識の出生する処所と根源を観行思惟し、六識がいつ生じいつ滅するのか、如何に無常であるか、如何に変異であるか、如何に苦であるか、如何に空であるか、如何に無我であるかを思惟する。最後に、意根が智慧を出生し、六識がこのように速く生滅変化し、確かに把捉できず、根本的に私であるはずがないと確認する。そこで六識を私と見做さず、私の所有とも見做さなくなる。
次に五蘊の無我性を観行しなければならない。五蘊はやや複雑であり、各機能体性を心の中で明らかにし、深く細かい観察を行わなければならない。五蘊の概念がはっきりした後、各蘊を一つ一つ観行思惟しなければならない。色蘊とは身根五根であり、以上ですでに思惟したが、ここでいくつかの内容を追加し、身根五根の機能作用が如何に生滅無常変異であるか、如何に苦であり空であるか、如何に無我であるかを思惟しなければならない。
十、如何に五蘊十八界を分けて観察するか
五蘊を観行する時、五蘊を出来る限り分けて一つ一つ観行し、十八界も出来る限り分けて一つ一つ観行しなければならない。我々の一切の活動の当下一念において、一つの蘊だけが作用しているわけではなく、一つの界だけが作用しているわけでもない。また、ある蘊が跳躍的に一つの蘊から別の蘊に移って作用するわけでもなく、ある界が別の界に移って順番に作用するわけでもない。多くの場合、五蘊は全て同時に現起し、同時に作用する。十八界も同時に現起し、同時に作用する。
例えば我々がここに座って話している時、眼は窓の外の景色を見ることができ、前方の壁を見ることができ、耳は同時に音声を聞くことができ、鼻は花の香りを嗅ぐことができる。六根は同時に作用し、六識は同時に分別し、六塵は同時に現れ、十八界は全て同時に作用する。そして五蘊はどうか。色蘊上の身体は造作し、受蘊上の六識は絶えず感受し、想蘊上の六識は絶えず執取と了知を行い、行蘊上の六識身口意行は絶えず現起する。
部屋の中を歩き回りながら問題を思考する時、この時の五蘊の活動を見つけ出し、観察して明らかにする。色蘊は何をしているか、受蘊はどこにあり、どのような状態か。想蘊はどれか、何を想っているか。行蘊は如何に運作しているか、どこに行蘊があるか。識蘊六識はそれぞれ了別する相分境界は何か。その後、禅定の中でゆっくりと深く観察思考し、その生滅変異無常性を了知し、その苦性を知り、その無我性を確認する。
こうして、各根各塵各識が如何に現起するか、何に縁って現起するか、現起した後何をするか、十八界が如何に配合統一されるか、最後に如何に散去するかを観行できる。その後、次の法が如何に生起し、如何に滅するかを観行する。その後、各蘊が如何に現起するか、何に縁って出生するか、如何に変化を生じ、如何に徐々に消失するかを観行する。その後、注意を次の法に移し、再び各蘊が如何に出生し滅するかを観察する。
必ずゆっくりと深く細かく思惟観行しなければならない。観行をしばらく続けると、心念は深く細かくなり、雑念は極めて少なくなり、意念は集中し、呼吸は深く沈み、心拍は遅くなり、気血は暢通し、身心は安詳となり、周囲の一切の雑乱は感知できなくなる。深く思惟する法だけが心の中で長く旋回し、思惟は遅く深く細かく動く。この時に初めて意根に深く入り、意根は深く細かく思量する。たとえ短時間で意根が通透しなくても、すでに抉択心があり、意識が思惟する内容をはっきりさせようとする。他の世俗の無関係な法には攀縁しなくなるか、攀縁が少なくなり、観行内容を完成させようと心にかけるようになる。こうして意識の定慧は増強し、観行は少しずつ深まり、いつか意識と意根は五蘊無我を証得できる。
十一、五蘊活動中の細分観行
五蘊活動の当下一念において、各蘊の機能体性を出来る限り分けて観察する。そうすれば観察が容易に徹底する。例えば我々が今ここに座って話している時、色蘊が活動し運行している。受蘊も運行しており、六根上の感受は全て存在するかもしれない。また想蘊も運行しており、六識が六塵上で執取と了知性を行っているかもしれない。六根六識の造作は存在するかもしれず、身体の中の行と心識の行も常に存在し、五蘊は全て活動運転しており、六識の識蘊も絶えず分別作用を起こしている。このように各蘊を分けた後、具体的に各蘊が如何に生起し、変化し、滅するかを観行し、その生滅変異性を細心に体得しなければならない。
また、例えば目を閉じて一つの事を回想する時、観行しなければならない。この時、どの蘊が参与しているか、どの界が参与しているか。はっきり分けなければならない。各界は何か、如何に顕現するか。各蘊は如何に運行するか。回想する時、色身の運行を観察し、意識心の運行を観察する。眼識以外の他の識心も感知しているかもしれない。これらを全て観察しなければならない。回想する時には色蘊などの五蘊が存在し、身識と意識には覚知と感受がある。これらを全て観行思惟して明らかにしなければならない。
全ての覚受は意識心を主とする。意識の生起と滅去を観行し、受蘊想蘊行蘊の変異を観行し、その無常性、空性、苦性、無我性を思惟する。各活動の当下一念において、細心に五蘊を分けて観行し、十八界も分けて観行しなければならない。その後、総合して、身心内外の生滅無常性を観行する。さらに前世、後世、前半生、後半生、及び善悪美醜の性質を持つ全ての五蘊十八界の生滅無常性をも観行しなければならない。
欲界の衆生は皆五蘊が同時に存在運行している。深い禅定に入り、六識を滅しない限り、受蘊、想蘊、識蘊を滅することができる。無色界の衆生には色身がないため色蘊はないが、受想行識の四蘊がある。欲界の衆生は一般的に五蘊が同時に現起し、六つの識も同時に出現し、同時に運作作用する。一つの識の作用から別の識の作用に移るのではなく、飛び跳ねるわけではない。六識は同時に存在し、同時に運作し、各々の識の種子が流注し、各々の出生する処があり、互いに移らず互いに障害しない。
例えば眼が色を見る時、眼識は色塵を分別し、同時に耳識も音声を聞いている。この時、意識心は何をしているか。意識心は眼識、耳識、鼻識、身識と共に、色声香味触法を共同で分別している。話す時、舌識は口腔内の味を感知でき、鼻識は周囲の匂いを嗅ぐことができ、六識は全て運行しており、七識、八識も運行している。八つの識は各々の事業を行い、互いに配合して乱れることはない。
十二、着衣食事の活動中に観行する
毎日、食事という法が如何に生滅変異無常であるか、如何に苦であるか、如何に空であるか、如何に無我性無主宰性であるかを観行しなければならない。毎日、着衣という法が如何に生滅変異無常であるか、如何に空であるか、如何に苦であるか、如何に無我性無主宰性であるかを観行しなければならない。
着衣食事の中での受覚が如何に生滅変異無常であるか、如何に空であるか、如何に苦であるか、如何に無我・無主宰性であるかを観行する。着衣食事の中での想蘊の了知性が如何に生滅変異無常であるか、如何に空であり苦であるか、如何に無我・無主宰性であるかを観行する。着衣食事の中での身体と心識の行為造作が如何に生滅変異無常であるか、如何に空であり苦であるか、如何に無我無主宰性であるかを観行する。着衣食事の中での識性が如何に生滅変異無常であるか、如何に空であり苦であるか、如何に無我・無主宰性であるかを観行する。
十三、逆縁が現れた時に無我を観行する
身体が逆縁に遭った時、こう思うべきである:色身とは何か。色身は四大が組み合わさった一つの肉体である。肉体は細胞が累積して形成された筋肉、骨髄、血液などが組み合わさって形成された木のような身体である。この身体は生滅変異し、組み合わさって造られたものであり、無常であり空である。それは私ではない。もしこの身体が私であるならば、この身体が滅した時、私は滅するのか。実際には私は滅せず、私は来世があり、無量世がある。故にこの身体は私ではない。色身が私ではないと観行するには、深い禅定が必要である。この色身が機械のように、ロボットのように、色身の生住異滅は私が制御できないと観行する。故にそれは私ではない。これは一つの総原則である。細部は自ら一つ一つ観行し、各種の認知は自ら証実確認しなければならない。
次に受蘊を観想する。境界が私の心に合わない時、私は怒りを生じる。この怒りは私の感受である。この感受は真実か。この感受はどうやって来たのか。感受は意識心の受である。痛いと感じるのは身識の受である。全ての受はとにかく六識の受である。六識の受は私か。真実か。この受は識の種子が生じて生じたものであり、刹那刹那に生滅変異する。受もまた虚妄であり、空であり、幻化であり、すぐに消えてしまう。故に受は私ではない。今、打たれ罵られて感受が良くないと感じるが、しばらくして宝くじに当たれば、感受は良くなり、楽しくなる。このように生滅変異が常に転化し、固定できず、永遠に常住できないこのものは、根本的に真実ではなく、私ではない。それならば、私は何を執着する必要があるのか。
次に想蘊を観行する。逆縁を了知する心は想蘊である。この想蘊はどうやって来たのか。識の種子が生じて識蘊を形成し、識蘊が一たび運作すれば、了知性が生じる。この了知性は生滅変異し、常住せず、幻化であり、空である。故に想蘊というものも私ではない。永遠に常住せず、本来存在せず、後天で生じた法は、全て私ではない。この想蘊は、眠れば何も分からなくなり、他人にどう罵られても分からない。故に生滅虚妄であり、常住せず、固定不変ではない。従って私ではない。
次に行蘊である。これは六識の行為造作であり、身行、口行、意行を含む。心の中の全ての念頭思想、了別性、感受性で、念念生滅変異するものは全て行蘊に属する。行蘊という識心の運転も生滅変異し、固定不変永遠常住ではない。故に私でもない。
六つの識の識蘊、識自体の運作は、心所法を含め、生滅変異する。故に五蘊を総括して言えば、一つの法も固定不変ではなく、全て生滅変異無常であり、一瞬有り一瞬無く、一瞬こうであり一瞬ああであり、固定せず、全て生じられた法であり、真実ではない。
怒りは一種の覚受である。この法は真実か。真実ではない。すぐに怒らなくなる。常に変化している。故に全ての心識の作用は全て虚妄であり、真実の法はない。もし死んだ後、色身に識心の運行がなければ、他人があなたの色身を打っても、まだ痛いと感じるか。感じない。まだ怒るか。全く怒らない。故に識心が色身を離れれば、色身は木のようであり、根本的に私ではない。色身上の識心でさえ私ではない。ましてや色身は、なおさら私ではない。私が存在しないならば、誰が誰に対して怒るというのか。
十四、我見を断つ着力点は私であるべき
問:見分は何を見るか。見そのものは一種の作用である。鍵は所見が何かにある。性境、帯質境、独影境のいずれであれ、所見は全て相分である。相分はまた全て第八識が変現したものであり、一つとして実有はない。故に相分を我見を断つ着力点とすべきではないか。
答:我見を断つ着力点は私であるべきである。私という見を断除して初めて我見を断つことができる。この私とは何か。誰に我見があり断除を必要とするのか。六・七識に我見があり断除を必要とする。六・七識の我見を断つのである。六・七識は何を私と見做すのか。見聞覚知できる機能作用を私と見做す。つまり見分を私と見做し、また見聞覚知される法を我所と見做す。つまり相分を我所と見做す。私と我所の真実不滅性を破砕して初めて我見を断つことができ、六・七識はこれらの法を私と我所と認めなくなり、我見はなくなる。
能見は、前七識であり、見分であり、第八識が出生したものである。故に能見は生滅虚妄である。所見は一切法であり、相分であり、七識自身と第八識を含む。第八識を除き、その他一切の相分は第八識が出生したものであり、全て生滅虚妄である。故に、能見と所見のいずれも、その虚妄無我性を証得し、全て断除し、執着すべきではない。
我見を断つには、自らの五蘊十八界に着力し、五蘊の各機能作用に着手し、十八界の機能作用に着手すべきである。色蘊の虚妄を観行し、如何に生滅するか。受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の生滅、虚妄、変異性を観行する。六根の生滅変異不実性を観行し、その後六塵六識も全てその生滅変異不実性を観行しなければならない。
我見を断つには相分に用功する。この相分は、第八識が現起した全ての相分を含み、七識心も含む。もしそうであるならば、第八識を除き、全ては虚妄であり、私はなく、五蘊と七識もない。七識という見分が最も重要である。必ず七識の無我性を深く透徹して思惟しなければならない。七識もまた第八識が変現した相分であり、その後見分として、第八識が現起した他の相分を分別する。見分と相分の二者は共に虚妄不実である。
十五、修行の難しさは思想観念を転換することにある
常に色受想行識の機能作用を思惟し、来る所なく去る所なく、幻化不定である(実は全て如来蔵の中から来ており、如来蔵が出生し賦与したものである)。徐々に深く認識できるようになる。自ら制御できない法は、即ち不自在であり、真実性を持つことは不可能である。真実性がないならば、実質的な所謂我性もなく、不自在な法は我性を持つことができず、私であることは不可能である。
これらの観念は徐々に形成され、ある程度に至れば我見を断つことができ、また我執煩悩も断除でき、それによって身心共に自在と解脱を得ることができる。我々が我見を断ち難いのは、過去無量劫以来の不如理な観念が深く心の中に置かれ、容易に転換できないからである。観念が転換しなければ、我見は断除できない。観念を転換することは、我々の修行の最も重要な内容である。古い思想観念が一旦転換すれば、容易に以前の邪見妄想を覆すことができ、正しい知見を樹立し、大智慧を得て、五陰身心は解脱を得ることができる。