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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月14日 閲覧数: 189

第二節 大乗と小乗における異なる修行目標

一、仏が悟った法は縁起性空ではない

世尊が阿含経において説かれた十二因縁の法は、声聞・縁覚が修する解脱の法であり、大乗の如来蔵の法には関わらず、直接に仏となる法でもない。したがって十二因縁の法は究極の成仏の法ではなく、究極の仏法は虚妄の法である一切法空を説くのではなく、不生不滅で空ならざる如来蔵のすべての功徳体性を説くものである。声聞・縁覚が十二因縁の法を修し終えても、縁起性空を証得するのみであり、五陰世間の一切の法が因縁によって生じ、如来蔵という因と無明の業種によって一切の法が生起することを知るが、大乗の如来蔵実相心はまだ証得する能力がなく、したがって大乗の実相智慧はまだ具わっていない。

十二因縁が依拠するさまざまな縁はすべて如来蔵より出生したものであるから、これらの縁はすべて生滅するものであり、真実ではなく、幻化の空相である。声聞・縁覚がこの理を証得すれば解脱を得て、生死輪廻の苦から出離することができる。しかし彼らはまだ大乗の法を修証しておらず、如来蔵の成仏の法を理解せず、三乗の仏法のうち二乗のみを修証し、最上乗の法はまだ理解も修証もしていない。このようにして三界を出離しても、無始無明と塵沙無明(じんさわく)は破られもせず断たれもせず、無明の習気及び煩悩の随眠も断除されていない。したがって声聞・縁覚の修証の境地は仏とはなお甚だ遠く隔たっている。

したがって、仏陀が成道の時に悟ったのは縁起性空の二乗の法ではありえず、最上乗の如来蔵の法であったのである。仏陀が夜明けの星を見て眼で仏性を見たとは、最も真実なる仏性を見たことであり、これが仏地における見性である。仏の大円鏡智が現前し、四智が円明となって、仏道を成就したのであり、世人が誤解するような縁起性空という浅はかな二乗の法ではない。両者の本質は甚だ遠く隔たっている。もし仏陀がただ縁起性空という二乗の法を悟っただけだとするならば、仏陀は衆生に大乗の真実なる如来蔵の成仏の法を教えることができず、そうなれば仏法は不完全で、極めて大きな欠陥があることになり、衆生は真実の最大の究極の利益を得ることができない。しかし仏陀は法輪を転じる後期において、一貫して衆生に大乗の成仏の法を教え続けられた。これを見れば、仏陀が成道の時に悟ったのは決して縁起性空ではなかったことは明らかである。現在、衆生の仏法に対する誤解は甚だ深刻で、見解は非常に浅薄であり、皆縁起性空を仏法の中心と重点と見なして、万法の根源と結びつけることができず、万法の由来を知らず、世界の本源を知らない。これこそが仏法の弊害である。

二、小乗より大乗へ回向する阿羅漢

小とは心量が小さいことであり、他人を顧みることが少なく、他人の利益を考えることが少ないことを意味する。乗とは乗り物、運ぶ道具、車の意味であり、小乗とはその法が浅くて究極的でないという意味で、度す衆生の根機と数に限りがある。大乗とは心量が広大であり、修行が完全に個人のためだけでなく、広大な衆生の利益のためにも考え、法が大きく深く、人を度すことに限りがなく、かつ究極的であるという意味である。

声聞・縁覚の心構えとは、自らが苦を離れて解脱を得たいということであり、他のことは一切顧みない。彼らは衆生の苦を考えず、仏教の発展を考えず、仏の恩徳に報いることを考えず、ひたすら無余涅槃に向かい、自らが再び三界に出現して身心の苦を受けないことを願う。彼らのこの心量は非常に狭小であるため、小乗人と呼ばれる。一方、大乗の菩薩たちの心量は広大であり、自利のみならず無上の大涅槃を求めるとともに、さらにすべての衆生を率いて生死の大火坑を共に出離し、無上の仏道に向かい、究極の涅槃を証得しようとする。仏道を成就し、究極の解脱を得ようとするならば、小乗人は小乗の心を大乗の心へ回向し、大乗の菩提の大道へと進路を改め、小乗の細い山道を行くべきではない。

声聞・縁覚などの修行者は二種類に分かれる:一つは大乗へ回心できる不定性の声聞・縁覚、もう一つは大乗へ回心しない定性の声聞・縁覚である。大乗へ回心する声聞・縁覚人は、一定の段階まで修行し、自らの心が安穏を得た後、衆生の苦悩が絶えないのを見て、衆生のために無余涅槃に入らないことを発心する。あるいは仏が大乗の法義を開示するのを聞き、大乗を欣楽するがゆえに無上菩提を求め、明心見性を求め、如来蔵の法を修学し、無余涅槃に入ることを選ばず、世に留まって修行を続け、自利利他を行う。

二乗人が大乗へ回心するのは、修行の異なる段階においても可能であり、果を証得する前もあれば、果位を証得した後もある。これは各自の因縁の影響力による。もしある人の心が小乗に留まらず、たとえ小乗の四聖諦の法を修行し、阿羅漢果を証得しても、ただ個人の解脱を得たいだけであり、無余涅槃に入って苦を避けたいだけの小乗人でないならば、小乗より大乗へ回向する問題は論じる必要がない。ただ声聞人の利己的な心構えのみが、小心を大心へ回向する必要があり、大心の広く無量の衆生を利益する大乗菩薩となるのである。

現世の末法においては、凡夫の衆生は我見が深重で、我執はさらに重い。もし小乗の四聖諦の法を修さずに、まず我見を断除することを求めなければ、大乗の法も容易に修められない。小乗の法を修して我見を断たずに、直接大乗の法を修し、まず禅を参じても、たとえ密意を参究して如来蔵を悟っても、我見はまだ死に切れておらず、断じ切れていない。この我見が死に切れていないため、我の心、私心、慢心は絶えず祟り、貪瞋痴の煩悩は依然として重く、自ら大乗の道業においては大した進歩がなく、往々にしてその場足踏みする者が多い。

大乗と小乗の果位は截然と分かれているのではなく、緊密につながっている。小乗の果位が向上しなければ、大乗の果位は停滞する。このように一生修行しても、実際に受用できるものはやはり多くなく、たとえ道理を滔々と語り、巧みに説いても、実際の修証との隔たりは依然として非常に大きく、表面に現れているほど修行があるわけではない。我々の現在の末世の衆生は業障が深重で、我見・見取見が極めて重い。小乗の基礎を固く築き、あの五陰を死に切らせ、永遠に断じて余すところなくし、貪瞋痴の煩悩の降伏と断尽が速やかにできるようにしなければならない。そうすれば、自らは生生世世において大きな利益を得、菩薩としても楽に愉快に過ごせ、再び多くの悪業悪行を造って自らの道業を遮障せず、自らが重く大きな苦報を受けることもなくなる。我々は智慧を持って、その中の道理を仔細に思考し、自らにとって最も有利な選択をすべきである。小乗の法の修行を軽んじてはならず、高望みをせず、着実に着実に前進すべきである。そうしてこそ自らの道業の増進に最も有利である。

三、菩薩と阿羅漢の修行における異なる目標

世尊は阿含経において、貪愛が集まることが苦の集まりであり、貪愛が滅すれば苦も滅し、苦が滅すれば解脱を得ると説かれた。貪愛を滅する前提条件は、四聖諦の理を修習し、苦諦を知り、集諦を断除し、八正道諦を修すれば苦を滅することができ、それによって苦滅諦を証得することである。苦滅諦を証得することが智慧の解脱者である。解脱は我見を断ずることから来る。我見が断たれた後、我執が断尽され、我執を断った後、心は解脱を得る。これ以後、五陰世間の妄法を再び執取せず、自由人となる。

阿羅漢は解脱を得て心が自由になった後、命終には自らの五陰をすべて滅し、意根も滅する。未来において三界世間に再び五陰身が出現して苦を受けることはなく、阿羅漢という衆生はこれにより三界から消失する。彼らは再び仏法を修学して大乗の甚深なる般若智慧を得ることができず、自らが修したもので衆生を利楽することもできず、仏道を成就することもできず、ただ一時的で究極的でない解脱を得たに過ぎない。これは彼らに智慧が欠け、慈悲心が薄く、私心が重く、衆生の苦を悲憫しないためである。したがって仏は彼らを小乗人、焦げた芽、腐った種(焦芽敗種)であると言われる。

菩薩たちは明心して第八識を証得すると同時に、我見も断つ。第八識が真であり、五陰が妄であることを知り、再び五陰を我と認めない。以後の修行の歩むべき道は大乗小乗を同時に修し始め、小乗の解脱道においても貪愛を滅して解脱を得るが、菩薩たちは永遠に五陰身を滅して用いないのではなく、善く五陰身を用いて仏法を修学するとともに、有情を利楽する。これにより、三界世間に生活しながらも、心は自由に解脱している。菩薩たちは大乗の修行の道を歩み、慈悲心が重く、自利と利他を発願し、心は解脱を得て永遠に滅度せず、阿羅漢のように生死の苦を恐れて自らを滅し、未来に再び三界世間に出生しないということはない。自らを利することも人を利することもできなくなる。菩薩がもし滅度を取れば、菩薩戒に背き、菩薩の慈悲心に背き、諸仏の教えに背くことになる。したがって解脱を得た菩薩は、命終に際してなお少しの思惑の煩悩を断たずに残し、そうして初めて三界に再び出生し続けることができる。これを惑を留めて生を潤す(留惑潤生)という。

四、大乗小乗の二種の解脱

解脱には二種ある。一つは二乗の無学の聖人である阿羅漢と辟支仏の解脱、もう一つは大乗菩薩の解脱である。小乗の解脱とは、三界世間法に対して再び貪愛がなくなり、貪瞋痴の無明の煩悩がすべて断尽され、再び三界の生死に繋縛されず、自らの五陰十八界を滅して無余涅槃に入る能力を得ることである。四阿含経における苦集滅道の四聖諦の理を修学し、五陰無我を証得し、我見と三縛結を断除し、その後初禅を証得し、さらに貪愛を断ち、我執を断てば、解脱を得て三界の生死輪廻を出離することができる。

中乗の辟支仏たちは十二因縁の法を修行し、無明を断尽すれば、三界の生死輪廻を出離し、自らを滅尽した後は再び三界に出生せず、こうして解脱を得る。以上の二種の解脱は、いずれも五陰が修行によって初めて得られる解脱であり、本来存在する解脱ではなく、究極的でない不徹底な解脱である。この解脱には解脱色がない。なぜなら最終的に色身を滅するからである。この解脱はまたすべての無明を断尽しておらず、無始無明は依然として破られておらず、変易生死も解決されておらず、真に生死の大事を解決しておらず、したがって究極の解脱ではない。

大乗の解脱とは、菩薩が菩薩の六度を修行し、禅を参じて本来解脱している如来蔵心を証得し、明心見性の後、自由自在なる如来蔵に依止し、五陰もまた貪瞋痴の無明煩悩を断尽し、三界世間への貪愛を断除し、最も重要なのはさらに法執を断ち、次第に究極の解脱を得て、生生世世に解脱した五蘊身を保有し、無量の衆生を利益することである。菩薩たちは煩悩を断尽するだけでなく、煩悩の習気も断尽し、無始無明と塵沙惑もすべて断尽し、分段生死と変易生死もすべて断尽し、こうして仏地の無住処涅槃を証得し、究極の解脱を得る。これが真実であり最終の究極の解脱である。この解脱には解脱色があり、仏陀はこの解脱色を用いて無数の分身を化し、縁ある者を広く度す。そして如来蔵を明心見性して証得する時、如来蔵が不生不滅であり、三界の中になく、三界の生死に繋縛されず、本来解脱していることを知る。五陰が如来蔵に依止していることも、本来解脱しているのである。

五、声聞人は真我たる第八識を実証できない

信ずることは証することに等しくない。仏語を信ずることは仏語を証することに等しくない。五蘊無我を信ずることは五蘊無我を証得することに等しくない。第八識が真我であると信ずることは、第八識が真我であると証得することに等しくない。もちろん信にも段階の問題があり、浅い段階は意識の信、深い段階は意根の信である。意根が信じたとしても、証することに等しくはない。信と証の間の隔たりは大きいかもしれず小さいかもしれず、どのような人が信じるかによる。

声聞人は仏語を信じるゆえに、不滅の真我たる第八識が存在することを知っているが、心量の問題で実証できず、一度実証すれば大乗見道の菩薩となる。声聞人は菩薩に等しくない。もし声聞人が無余涅槃に入らないことを発心すれば、通教の菩薩とはなりえても別教の菩薩ではなく、第八識を証得して初めて別教の菩薩となる。声聞人は仏語を聞く時に、すでに第八識という真我が存在することを知るが、さらに詳細な内容は知らない。第八識に対して実際の観行がなく、五蘊と第八識との間の真実の関係がどのようなものか、第八識がどのように五蘊の存在と運営を出生し維持しているかを知らない。

声聞人は仏語を信じた後、禅定において具体的に微細に五蘊十八界の無常苦空無我性を観行し、最終的に五蘊十八界は確かに苦空無常無我であるという結論に至り、こうして五蘊を我と認める我見を断除し、法眼浄を得て、初步的な解脱の功徳受用を持つ。声聞人は第八識を実際に観行したことがなく、観行する能力もないため、五蘊が第八識であるか否かという確かな結論を出すことができず、証得することもできない。ただ大乗菩薩が第八識を証得した後、初めて五蘊十八界というこの我が生滅する仮我であり、確かに第八識ではないことを如実に観行できる。これ以前はすべて仏語を信じ、仏陀の説くことが如実であると信じているに過ぎない。

菩薩が無生法忍を証得し、道種智を持つに至って、次第に如実に五蘊十八界が実際には第八識であり、第八識の一部分の功用であることを観察できるようになる。第八識が具体的にどのように識種子と四大種子を流注し、どのように業種子を流注して、連続不断の五蘊十八界の功用を形成するかを現前に観察できるようになり、こうして次第に一切法はすべて第八識であることを証得し、衆生は一真法界の中にいることを知る。これ以前はすべて、似たような理解、推論、推測、想像、そして仏語を信じることであり、実証とは言えない。

声聞は第八識を実際に観行せず、第八識を実証していないため、「五蘊と第八識は一でも異でもない」という結論を出すことは不可能である。これは実証した大乗菩薩のみが得られる確かな結論であり、声聞人がこの確かな結論に至れば、直ちに大乗の実義菩薩、別教の菩薩となる。

声聞人は観行参究によって五蘊十八界が空であることを証得するが、この空は第八識の空性体性を指すものではない。声聞人にはその智慧がなく、ただ壊れ敗れるような空、究極的でない空を証得するのみである。大乗菩薩のみが五蘊が第八識の空性であることを証得でき、五蘊の全体を第八識の空性として観照でき、そうなれば地に入って唯識種智を持ち、観行の智慧は非常に深く、禅定も非常に深くなる。

第八識を実際に証得していないときは、五蘊が果たして第八識であるかどうかを現前に観察できず、五蘊身の中における第八識の運営を観察できなければ、五蘊と第八識が異なるかどうかの関係を観察し出すことはできない。想像したものは実証に等しくなく、推理したものは実証に等しくなく、仏語を信じて復唱することは実証に等しくない。

もし論理的な推理や推論などを実証と見なせば、命終の時に非常に大きな問題が生じる。その時、一切が自らが普段想像し考えていたようではないことに気づくだろう。その時いかに慌てふためいても、何の役にも立たない。最も恐ろしいのは、自らが以前学び認めた理を再び信じなくなるため、仏法を誹謗する心を生じ、そして悪道に向かうことである。

たとえ大乗菩薩であっても、大乗を主として修学していながら大乗の法を証得していなければ、五蘊が究極的に第八識とどのような関係にあるか、五蘊が究極的にどのように第八識と異なるか異ならないかの関係を如実に観察することはできない。推理は実証の代わりにはならない。そうでなければ、少しばかり小賢しい世間人でも皆第八識を証得でき、皆大乗菩薩となれることになり、三宝に帰依する必要もなく、戒定慧を修行する必要もなく、仏のあの前行の法はすべて無用になってしまう。

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