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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年12月26日 閲覧数: 6973
<h3 style="text-indent: 2em;">第二節 意識の我見と意根の我見</h3><h4 style="text-indent: 2em;">一、意根の我見</h4>

意根があってこそ我見があるのであり、意根は我見があるために、五陰の衆生を無始劫以来ずっと賊を父と認めさせ、妄りに生死流転の苦を受けさせてきた。賊を父と認めるのは意根の認めであるが、どれが賊なのか。六識の功能作用が賊である。どれが父なのか。我と我所が父である。六識の生滅無常の変異性を、意根ははっきり分かっておらず、六識の功能を自分の功能作用と思い込み、それによって執著して捨てず、貪執してやまない。どうすればよいのか。まず身の中に不生不滅の真心があることを承認し、次に六識五蘊の苦・空・無常・無我の性、生滅変異の性、不可得の性を観察し、さらに六根六塵の生滅無常無我の性を観察してはじめて、賊人を滅除することができる。心中に賊がなくなったら、さらに賊人に対する執著貪愛を断除すれば、解脱を得るのである。

意根の我見は非常に広範であって深細であり、きわめて強い執著性を帯びており、一切時において恒に一切法をすべて我とし、我の所有と執している。意根は眼識が色を見る功能を我の所有と執し、我が色を見た、我は色を見ることができると考える。耳識が声を聞く功能を我の所有と執し、我が声を聞いた、我は声を聞くことができると考える。鼻識が香を嗅ぐ功能を我の所有と執し、我が香を嗅いだ、我は香を嗅ぐことができると考える。舌識が味を嘗める功能を我の所有と執し、我が味を嘗めた、我は味を嘗めることができると考える。身識が触を覚する功能を我の所有と執し、我が快適さと痛みの触を感じた、我は快適さと痛みの触を感じることができると考える。意識が知を覚する功能を我の所有と執し、我が多くの法を了知した、我は思考することができ、多くの法を感知することができると考える。

一方では第八識の功能作用を我と執し、他方では六識の功能作用を我と執し、我が一切法を了知した、我は一切法を了別することができ、一切法はすべて我のものだと考える。たとえば我には神通がある、我は分身することができる、我は一切を創造することができる、などのこうした数多くの我は、すべて意根の我見であり、神様は普遍に計度執著して一切法を我とし我の所有とするのである。意根は無始劫以来ずっと五陰十八界を我と誤認してきたし、また主宰することができる意根自身を真実のものとし、我として執著を生起してきた。意根の我見はきわめて断し難く、反復して深く細かに五陰十八界の真実の相貌を観行 (vipaśyanā-caryā) し、識心の真実の相状を観行し、意根が実相を観出し、真理を認識し、心の奥底で真に五陰十八界は真実の我ではないと証得して、はじめて我見を断する。我見は断除されたとはいえ、意根の自我に対する執著性はなお存在しており、これは三果を証得してからでなければ徐々に断除できず、断じ尽くして四果となるのである。

五蘊を我とするのは、主として意根の邪見 (mithyā-dṛṣṭi) であり、意根は色身を我とし、我の意根の所有と考え、六識の功能作用を我とし、我の意根の所有と考え、六塵を我とし、我の意根の所有と考え、五根を我とし、我の意根の所有と考え、意根の功能作用を我と考える。意根だけが一切法はすべて我のものだと言う資格を最も有しているのであり、一切法は確かにすべて意根のために奉仕しているからであり、六識と如来蔵 (tathāgatagarbha) を含めてそうである。それゆえ意根という我は、かように自信に満ち、かように執拗で、かように頑固で、かように盲目で、かように逆転不可能なのであり、それゆえ初めて我見を断することがかように困難なのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">二、意識の我見</h4>

自らを感覚し得る心は意識心であり、意識には見分 (darśana-bhāga) と自証分 (svasaṃvitti) があり、一切法を証知することができ、意識にはまた証自証分 (svasaṃvedana) があり、自己を証知し反観することができるので、意識にこそ自我の感覚があり、五陰と七識の心行を感覚することも含まれる。意識は一切法を感覚し得るものが我であり、一切法はすべて我の所有するものであり、我は恒常であって断滅しない、と考える。これが意識心の我見である。

意識の我見であれ意根の我見であれ、我見を断していないときは、すべての知見は誤りであり、すべて邪見 (mithyā-dṛṣṭi) である。五陰十八界の法は、色身および色身の覚受、識心および識心の覚受を含め、これらの法はすべて因縁所生であり、それゆえすべて虚妄の法である。これらの因縁に沿って推論すると、一つの方向では一切法は空無であって我に非ずという結論が得られ、もう一つの方向では一切法はすべて如来蔵 (tathāgatagarbha) の出生したものだという結論が得られる。両者とも我見を断するものであり、後者はまた大乗の明心でもある。

意根は自己の时时処処の作主性と抉択性を我と執しているが、これもまた生滅幻化であって実のものではないことを知らない。意識は意根の时时処処の作主性・抉択性と恒審思量性を我とし真実と執しているのであろうか。もし意識がこれらの功能作用はすべて意根のものであることを知らず、意識自身の功能作用と思い込んでいるなら、これは錯執であり、意識にもまた智がないことを示している。意識は自己が六塵を了別し、六塵を分別する功能作用を真実のもの、我のものと考える。これは意識の証自証分 (svasaṃvedana) であり、これもまた錯認である。この錯認が意根をして随って錯認させることになるので、意根のこの錯認を正すために、まず意識に意識の功能作用は真実のものではなく我ではないと反思させ、意根を薫習する。意根はひとたび薫習されれば、意識の功能作用を真実のもの、我のものと認めなくなり、我見を断するのである。 

<h4 style="text-indent: 2em;">三、分別我見は意識の我見である</h4>

分別我見は断続我見ともいい、これは意識心の我見であり、後天的に出生したものであり、先天的な意根の影響も受けている。倶生我見は意根の我見であり、意根は無始劫以来ずっと存在していて、一度も滅したことがなく、無始劫以来ずっと五陰を自己と認めてきたので、神様は比較的頑固であり、知見が断除し難い。意識心の我見は、意識が五陰十八界は我であり、真実のものであると考え、意識自身は真実のものであり、永遠に滅せず、未来世へ行くことができると考えることである。このような観点を持つことが、意識心の我見である。これは五陰十八界の虚妄を観行し、とりわけ意識心の虚妄を観行してはじめて、意識心の我見を断除することができる。

<h4 style="text-indent: 2em;">四、倶生我見は第七識の我見である</h4>

第七識自体には分別性があり、神様の見も分別見である。倶生というのは、第七識が無始劫以来ずっと存在して滅しないことを言い、それなら第七識の我見・分別見は、生まれながらにして具わる先天的な見であり、それゆえ倶生我見と呼ばれる。第七識の意根は六根の一つ、十八界の一つに属するが、我見を断するにあたって、五蘊十八界の我を断除する以上、当然ながら意根第七識の我見も断除し、第七識の意根もまた我ではないと証得してこそ、真に完全な我見の断除であり、さもなければ完全には断除されておらず、部分的な我見の断除であり、それは初果の人ではない。そして第七識意根の我執、五蘊十八界に対する執著は、四果においてはじめて断除し尽くすことができ、すなわち意根が五蘊十八界の我に対する執著を断じ尽くすなら、それが四果の慧解脱の阿羅漢であり、三界を出る能力があり、生死の束縛から解脱するのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">五、我見の中には必ず我執がある</h4>

すべての我見の中には我執があり、内心で葛藤して解き開けないもの、割り切れないもの、見透かせないものは、すべて我執である。我見とは、六七識が色を見、声を聞き、香を嗅ぎ、味を嘗める我があると考えること、あるいは色を見、声を聞き、香を嗅ぎ、味を嘗める功能作用は我の所有であると考えることである。思惟し分析し判断する我があり、感受する我があり、行き来し座臥する我があると考えること、あるいはこれらの功能作用はすべて我の所有であると考えることである。同時に色身を我とすること、あるいは色身の功能作用を我の所有とすることもある。これらの邪見 (mithyā-dṛṣṭi) はすべて生死の根であり、すべて断除すべきものである。その中で最も根本的な我見は第七識意根の我見であり、意識はこれに依って我見を生じることもある。色を見、声を聞き、香を嗅ぎ、味を嘗め、思惟し分析し判断する我は六識であり、意根は六識の功能作用を我と我所とすることから、この我見を断除しなければならない。

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