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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 235

第三節 五蘊は第八識によって生み出される

一、色蘊は第八識によって生み出される

色蘊は五蘊の一つであり、生滅し虚妄であり、変異し、無常であり、苦であり、空であり、不実在である。それは第八識が幻化したものであり、第八識が衆生の業種と業縁に基づいて衆生の色身を変現することで、初めて色蘊の存在が生じる。色蘊は何らかの縁によって自ら生じるものではなく、父母が一手に引き受けて生み出すものでもない。父母は色蘊が生じる一つの助縁に過ぎない。第八識が父母の縁によって受精卵に入住し、衆生の業種に基づいて母体の血液を借りて胚胎を変造して初めて色蘊となるのである。色蘊は自然に存在するものではなく、理由なく存在するものでもない。それは第八識が縁に依って変現したものであり、第八識が有する属性の一つである。

色が第八識によって幻化されたものである以上、それは第八識の一部分であり、第八識とは一でも異でもない関係である。したがって色は即ち空であり、それは空性の心である第八識の性質である。ここでいう空とは空性の心である第八識を指し、色とは色蘊である。色蘊は即ち第八識であり、その全体は第八識の機能作用によって顕現したものである。ここでいう空は空虚(くうきょ)ではない。空虚は仮の名称であり、物質のない場所を仮に空虚と呼ぶのであって、物質が置かれれば空虚はなくなる。したがって空虚には来処も去処もなく、実体性がなく、それは実在する法(ダルマ)ではない。

二、五蘊が第八識によって生み出される原理

七つの識の心の体性を明らかにすることは非常に重要である。五蘊の一切の活動は、七つの識の心と第八識が共同で和合して運作した結果である。七つの識の心が色身に加わることで五蘊の活動が生じる。もし色身に七つの識の心の運行がなければ、色身は死体である。識心が色身にある時、色身は色蘊である。色身の内なる五根が内なる五塵に触れ、意根が同時に五塵上の内法塵に触れることで、六識の心が現れる。六識が再び六根・六塵と触れ合うことで、識心は感受することができ、受蘊が生じる。受蘊は意識心の感受を主とし、前五識の感受を補とする。識心がなければ受蘊はない。

六識が六塵を了別し、六塵の相を執取することが想(そう)である。続く思惟、細かい分別、判断、打算などは全て想である。想蘊は意識心を主とし、五識にも了別して相を取る想蘊の活動がある。行蘊(ぎょううん)とは、識心の運行、念念として遷流変化すること、身口意の一切の活動が行蘊である。時間の流れ、場所や方位の変化、色身の心拍、呼吸、脈拍、血液の流れなど、運行し変化しているもの、静止していないものは全て行蘊である。識蘊(しきうん)とは、識心の分別する機能体性である。

もし七つの識の心が色身に加わらなければ、五蘊の活動はなく、色身は衆生ではなく、殺しても殺生には当たらない。しかし、もし第八識が七つの識の心の種子を送り出さなければ、七つの識の心の発生はなく、ましてや五蘊の活動はない。第八識が七つの識心と配合しなければ、五蘊の活動はなく、色身は死体となり、木の切れ端となる。これにより、五蘊の活動は第七識の操作の下で、第八識によって生み出されるのである。

三、五蘊が空であることの内実

五蘊は苦であり、空であり、無常であり、無我である。五蘊の空とは、五蘊がないこと、あるいは五蘊が消滅して現象すらなくなることを指すのではなく、五蘊は現象としては存在するが、自体性(自らの実体)がないことを言う。それはあたかも魔術師が幻化した城郭のように、実質がなく、自在性がなく、その本質は如来蔵性である。五蘊の一切の現象は全て如来蔵によって顕現したものであるため、五蘊は空なのである。

五蘊の空とは、五蘊を非常に微細な部分に分割していき、最終的に無となり空無となるという道理でもない。五蘊は微塵に分析することはできない。なぜなら五蘊は色法(物質的法)と心法(心的法)で構成されており、心法は微塵に分けた後に空無になることはなく、たとえ色身を極めて微細な微塵に分けても、微塵が空無になることはないからである。微塵と空虚は互いに変換できない。それは種子が異なるためである。

五蘊の空とは、実質がなく、虚妄であるという意味であり、また如来蔵の空性に帰属するという意味でもある。同様に、色蘊の空とは、色がないという意味ではなく、色蘊には本体としての実質がなく、如来蔵によって生み出され、如来蔵の空性であることを言う。色蘊には色法としての自体性がなく、虚妄の法であり、生滅する法であるため、空である。空の定義:第一に不実性、自体性がなく虚妄の法であること。第二に空虚、何もないという意味。第三に如来蔵の空性の意味。

色蘊は如来蔵によって生み出されたものであり、自在ではなく、自主的ではなく、自ら存在を決定できず、業種と如来蔵によってその生・住・異・滅が決定される。色蘊は如来蔵の幻化によって生み出され、本質は全て如来蔵性であり、真実の色蘊の性はない。あたかも泥人形は全て泥の性質であり、本質は全て泥であって、元々人などおらず、したがって泥人形自身の性もないのと同じである。それゆえ色蘊には自体性がなく、全て如来蔵性であり、全体が即ち如来蔵である。同様に、三界世間の一切の法は全て如来蔵性であり、如来蔵によって造り出されたものであり、本質は全て如来蔵であって、泥人形と全く異ならない。

四、廬山の真の姿を知らないのは、ただ身がこの山中にあるがため

もし廬山を世俗の法に譬えるならば、衆生が世俗の虚偽・虚妄・不実性を見ることができず、世俗の法の苦・空・無常・無我の性質を見ることができないのは、自らの心が世俗の法に貼り付きすぎており、完全に世俗の法に溶け込み、間に隙間がなく、心が完全に世俗の法に覆われてしまうからである。結果として年々月々、生々世々、世俗の法の中で喜怒哀楽し、世俗の法に転じられ、世俗に束縛され、自らの身心は自在も解脱も得られない。解脱を得ようとするならば、どうすればよいであろうか。

もし廬山を自らの妄心である七識に譬えるならば、いかにして妄心の生滅変異し実体のない性質を認めるべきか。自らの心を客観的に見つめ、自らの心行(心の働き)を認めようとするならば、心を取り出し、再び振り返って自らの心を観察し、一定の距離を置き、一定の高さに立って、自らの心行を客観的に観察するか、あるいは他人の心行として観察すべきである。そうすれば客観的で公平になるであろう。

もし廬山を五蘊身に譬えるならば、累生累世(幾度もの生まれ変わり)五蘊身の中にいるのに、五蘊が無我であることを知らず、五蘊が無常で生滅変異することを知らず、五蘊の苦・空を知らない。五蘊の真の姿を新たに徹底的に認識するには、仏の説く四聖諦の法に従って五蘊を観察しなければならない。もし五蘊身の真の姿を知ろうとするならば、大乗般若を修学し、五蘊身の中にある如来蔵を参究すれば、五蘊身の本来の面目が実は如来蔵であることを知ることができるであろう。五蘊身は如来蔵が現じた一つの虚妄の仮の姿であり、真実の相は五蘊身の中に隠れて手品のように戯れ、世の人はその跡を測り知ることができない。

五、生者と死者の区別についての概説

人が生きている時には、必ず五蘊の活動がある。色蘊において:呼吸、心拍、脈拍、血液の流れ、大小便、体温、柔らかさ、涙、鼻水、汗、胃腸の蠕動(ぜんどう)や色身の運転・施為など。受蘊において:苦・楽・憂・喜・捨の感受、一時は楽しみ、一時は苦悩し、一時はまた苦でも楽でもなく、心境の感受は常に変化して止まない。想蘊において:草花や樹木、人や家畜、金銀宝石、人の教養や気質、学識や風格、四方八方の音響、香りや臭い、酸味・甘味・苦味・辛味・塩味、冷熱や痛み、飢えや渇き・満腹、柔らかさ・硬さ・厚さ・薄さ、重さ・軽さ・安らぎ、思惟、推理、判断、回想、打算などを分別でき、かつ常に一切の相を執取する。行蘊において:走ったり歩いたり、行く・住む・坐る・臥す、手を挙げ足を運ぶ、笑い戯れ怒り罵る、食事や着替え、生産や事業を行うことができる。識蘊において:眼は見ることができ、耳は聞くことができ、鼻は嗅ぐことができ、舌は味わうことができ、身は触覚を感じることができ、意は法(ダルマ)を思うことができる。

生きている者には十八界の活動があり、眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根にはそれぞれ対応する運行がある。色・声・香・味・触・法に接触する時、眼識は色を分別し、耳識は声を分別し、鼻識は香りを分別し、舌識は味を分別し、身識は触覚を感じ、意識は法を思う。これらの有為法の造作(形成作用)は、全て阿頼耶識である第八識が執持し維持しているのである。

第八識には身を保持する機能があり、受精卵の時から、それは執持を開始する。精子と卵子は元々単細胞であり、生命体ではなく、それぞれ約七日間しか生存できない。出会い合った後、第七識が第八識を伴って入り住むことで、初めて受精卵は生命体となり、生命活動が生じる。第八識の中の地・水・火・風の四大種子が母体中の栄養と相応し、第八識は母体中の栄養を吸収して受精卵を変生し、七日ごとに変化する。もし第八識が離れれば、受精卵は直ちに死亡する。出胎後、第八識は再び乳汁や食事の中の地水火風の四大元素を吸収して身体を変生し、嬰児は次第に成長し、また次第に老いて死に至る。これらの現象は全て第八識が執持し変造した結果であり、第八識によって生み出されたものである。

『成唯識論』にはこう説かれている:(阿頼耶識は)能く身中に潜み転じて事業を作す故に。これは、第八識が前七識の運作に配合して、五蘊身の一切の活動を生み出すことができるという意味である。死の時、第八識が離れて再び色身を執持しなくなると、大小便は流れ出し、身体は硬直して冷たくなり、呼吸、脈拍、心拍はなくなり、血液の流れも止まり、胃腸の蠕動も止まり、身体の諸活動は全て停止する。

六根が再び六塵に触れることがなければ、内六塵は現れず、六識も再び生じず、七識は離れる。そこで身体は死体となり、死体には眼があっても見えず、耳があっても聞こえず、鼻があっても嗅げず、舌があっても味わえず、身があっても触覚を感じず、一塊の木切れ、一つの屍体となり、誰が打ち罵り泣き叫んでも無反応である。これにより、死者と生者の区別は第八識の有無にあり、衆生が第八識によって造られる道理の一端を窺うことができる。これにより、我々は参禅の着手すべき処を知るべきである。

六、色身と物質色法の区別

色身は物質色法の一種に属し、物質色法と同じく四大種子によって生成される。違いは以下の通り:一、色身には八つの識があるため五蘊の活動があり、物質色法には識心がなく五蘊の活動がない。二、色身は個体衆生の如来蔵が単独で生み出し執持するものであり、物質色法は共業衆生の如来蔵が共同で生み出し執持するものである。色身には八つの識の活動があり、感受が生じる。全ての感受は識心の機能作用であり、来る所なく去る所もない。識心は第八識から生じ、感受が滅する時にも去る所はなく、識の種子は滅して第八識に戻る。もし第八識を大海に譬えるならば、身体と一切の物質色法は海の上の波しぶきである。

七、五蘊身は如来蔵に由来する

我々が天を仰いで白雲を見る時、白雲が絶えず様々な模様に変化できることに気づく。時には白雲は花の形に変わり、時には猫や犬などの形に変わる。このように変化した花や猫・犬に自体性や真実性はあるだろうか? それらの美しい模様は花や猫・犬なのか、それとも白雲なのか? 我々は天に漂うこれらのものを何と見なせば事実に合致するだろうか? 花や猫・犬の真実の相とは何であろうか? ただ思惟し比べてみれば、容易に知ることができる。それらのものの実質は全て白雲であって、花も猫・犬も存在せず、全ての材料は白雲である。したがって猫・犬は即ち白雲の性質なのである。

同様の理によって、衆生の五蘊身は全て如来蔵性であり、全ての材料は如来蔵に由来し、全体が即ち真如であり、一真法界であることが証明できる。猫・犬は五蘊身に譬えられ、白雲は如来蔵に譬えられる。類比し、仔細に思惟すれば、この道理を明らかに知ることができる。多くの人は猫・犬や花だけを認め、白雲を認めない。さらに多くの人は五蘊身だけを認め、如来蔵を認めない。もし如来蔵を認めることができれば、明心(心を明らかにする)もでき、我見を断つこともでき、一挙両得である。

仏法は現成(げんじょう)であり、簡簡単単、明明白白であり、実は一枚の障子紙のようなものである。指が正しい場所を指せば、それで突けば万事うまくいく。福徳が足りない者は、指すべき所を指さず、指すべきでない所を懸命に指す。結局、退路がなくなった時、最後のその点を指すことになる。結局のところ、成仏できない者などおらず、ただ早いか遅いかの問題であり、早く成仏を望む者もいれば、無頓着な者もいる。

八、一切の法を動かしているのは如来蔵である

定力が足りず、福徳が足りなければ、我見を断ち明心することは非常に困難であり、仏性を見ることはさらに難中の難である。我見を断つ観行(かんぎょう)は、まず自らの色身の虚妄を観行し、色身の生滅変化を観行し、その後で識心の生滅変化を観行しなければならない。識心が起こす作用は受・想・行・識別であり、これらの作用を全て観行し、これらの作用の生滅・無常・苦・空・無我を観行しなければならず、観行の範囲はできるだけ全面的でなければならない。

十八界の範囲を全て見つけ出し、一つ一つ細心にその生滅無常性を観察し、根と塵が触れ合う処を観行し、観行が透徹すれば、将来悟りを証することができる。この処の観行が透徹しなければ、せいぜい解悟(理解による悟り)に留まり、核心を悟れず、根本を悟れない。六識にも触(そく)があり、六識が触れるのは六塵である。これらの法を全て観行できれば、我見を断つことは徹底でき、明心も早い。

世間において、実は全て如来蔵自身が一切を動かしているのである。根もそれであり、塵もそれであり、識もそれである。これ以外には何もなく、一切の法は全てそれ自身である。初地(菩薩の境地)に入れば気づく:一切の境界はそれであり、一切の色法と心法はそれであり、それ以外には何物もないのだと。

九、五根の体性を如何に理解すべきか

五根とは眼根、耳根、鼻根、舌根、身根を指す。五根は外五根と内五根に分けられる。外五根は浮塵根(肉体的器官)であり、内五根は勝義根(微細な感覚器官)である。それぞれに組織構造があり、それぞれに機能作用があるが、全て如来蔵によって生成され執持される。この五根の性質は全て本如来蔵性であり、如来蔵から生まれ変化したものである。したがって生滅変異し、無常であり、空であり、苦であり、無我である。我々はこの五根の出生を、無から有へ、有が生じてはまた滅することを観察し、五根の構成を観察し、さらに五根の変化を観察し、最後に五根の滅失を観察すれば、五根が生滅変異無常であることを知ることができる。

これは悟り以前に小乗の立場から観察するものである。悟った後はさらに大乗の立場から五根を観察し、如来蔵が刹那刹那に四大種子を出力して五根を組み立て、五根が刹那刹那に変異するのは、如来蔵が様々な縁に基づいて五根を維持し変化させており、縁が変われば五根も変わることを観察する。五根の機能作用は外界の五塵を摂取できることであり、五根はあたかもカメラのようなもので、受信と伝送を担当する道具である。具体的に如何に受信し伝送するか、如何に働くかは、識心が掌握する必要がある。識心はカメラを操作する人のようなものであり、人がいなければカメラは材料の塊で、全く役に立たない。五根に如来蔵と意根がなければ、それは死んだ肉の塊であり、少しの価値もない。

十、四食は全て如来蔵の功徳作用である

欲界の衆生は段食(食事)によって自らを養う。飲食を咀嚼して一口ずつにし、飲み下して消化吸収しなければ、色身は生命活動を維持できない。したがって色身は虚妄で不実である。欲界の衆生は六根が六塵に触れなければ、色身は滋養を得て増進することができず、そうでなければ生存できない。したがって五蘊は虚妄で不実である。欲界の衆生の七識は絶えず思量運作しなければ、衆生は生存できない。したがって五蘊は虚妄で不実である。欲界の衆生の七識は絶えず六塵を了別しなければ生存できない。したがって五蘊は虚妄で不実である。

色界の初禅天の衆生には段食がなく、触食(接触による滋養)があり、触塵に触れなければ生存できず、そうでなければ滅亡する。眼根、耳根、身根、意根の四根は四塵に触れる必要があり、眼識、耳識、身識、意識も四塵に触れる必要がある。これが触食である。思食(思惟による滋養)があり、意識と意根は思惟活動が必要であり、触れた一切の法について思惟を起こさなければ運作を続けられない。初禅天人は鼻識と舌識がない。眼識、耳識、身識、意識、意根の五識は法を思量しなければ初禅天で生存できず、そうでなければ生存できない。識食(識別による滋養)があり、五識は天界の四塵を分別了別しなければならない。この三つの食があって初めて、初禅天の衆生は生存し、色身の存在を維持できる。したがって初禅天衆生の五蘊は虚妄である。

段食の獲得から色身の滋養に至るまで、全て如来蔵の功徳であり、如来蔵が色身を滋養し維持しているのである。触食、思食、識食もまた全て如来蔵の功徳である。帰する所、全ての衆生は如来蔵に依存して生存しており、如来蔵から一刹那でも離れることはできない。六根・六塵・六識は全て如来蔵が変現したものであり、四食も如来蔵が変現したものであり、衆生が必要とする一切は如来蔵が変現したものである。したがって衆生は虚妄であり、不実であり、空幻であり、非我(我ではない)である。四食の住(存在様式)を深く細かく思惟することも、我見を断ち解脱を得ることに繋がる。

十二、色身は如来蔵の属性である

身体を最も細かい細胞の構成要素にまで分解すると、細胞の中には様々な粒子があり、粒子は四大の微粒子で構成され、四大の微粒子は如来蔵の中の四大種子で構成される。四大種子は形も相もなく、如来蔵から来る。如来蔵が四大種子を出力して微粒子を形成し、微粒子が再び集合して最も微小な物質となり、さらに集合してやや大きな物質となり、肉眼で見えるようになり、その後次第に集合して最初の色身となり、最後に色身が完成して母胎を出る。

これにより、色身は空であり、生滅し、無我であり、如来蔵によって生み出され、如来蔵によって執持され、全てが如来蔵性であり、この身体もまた如来蔵の種子の機能作用が転化したものであり、如来蔵の一部分の機能であり、如来蔵の属性であって、色身自身の属性や自性はないことが分かる。これらの内容は一般人にはただ思惟するだけで、現量(直接体験)で観行することはできない。なぜなら相応する定力が不足し、慧力(智慧の力)も足りず、意根が着力(深く関与)できず、自ら深く細かい観行や思量に参与できず、この道理を証得できないからである。したがって、ここから身見(身体を実体と見る見解)や我見を断つことはできず、如来蔵を証得することもできない。

十三、微粒子で構成された色身は虚妄である

衆生の色身の細胞の中にも生物電気が発生する。生理学ではこれを生体電気と呼ぶ。生体電気は絶えずエネルギーを放出し、色身の必要を維持する。細胞の中には四大で構成された様々な粒子、核子、中性子、陽子、原子、電子、イオンなどがあり、これらの粒子の生滅代謝は、熱エネルギー、運動エネルギー、電気エネルギーなど、色身が必要とする一種のエネルギーを形成する。エネルギーが放出されると、身体の中の四大物質成分が消耗され、絶えず四大物質成分を補充する必要がある。したがって飲食が必要となる。飲食の消耗を少なくしたいならば、識心の活動を少なくし、深い禅定に入り、内心を静謐にし、識心の活動が少なければ、エネルギーの消耗も少なくなる。

一方、色界・無色界の天人は禅悦(禅定の悦楽)を食とし、飲食を必要とせず、物質色法を必要としない。もし欲界の衆生が絶えず飲食し、飲食や味に貪着すれば、色界の禅定を発起できず、色界定はない。飲食にこだわる者は食欲を降伏させていないため、初禅定が現れることはありえない。

生物とは生命体であり、生命体とは五蘊身である。五蘊身は四大種子と識種子で構成され、識種子が四大色身に作用することで五蘊の活動が生じる。そのうち四大種子は刹那に生滅変異し、色身は空幻で不実である。識種子は刹那に生滅変異し、空幻で不実であり、全て如来蔵性である。五蘊身は刹那に生滅変異し、実体のない空花のようである。ここから着手し、我見が薄れた後に小乗を修すれば、容易に我見を断つことができる。

十四、五蘊およびその依る縁は全て如来蔵が幻化したものである

外色(外部の物質)は多くの如来蔵が共同で変現したものであり、色身および内色(内部の物質)は自らの如来蔵が単独で変現したものである。眼根は如来蔵によって生み出され、眼識は如来蔵によって生み出され、眼識が色を見る作用は、如来蔵、第七識、第六識、眼識が共同で作用し、内色を眼識・意識の中に顕現させることである。そのうち四つの識はそれぞれの作用があり、また和合した共同作用もある。根・塵・識の三者は全て如来蔵が変現し、執持し、督導(監督指導)するものであり、この三者を離れれば衆生も五蘊もない。では五蘊衆生とは何か? どこに私がいるのか? どこに五蘊があるのか? どれが私なのか? 色を見、声を聞き、香を嗅ぎ、味を嘗め、触を覚え、法を思う、一切の見聞覚知、全ての感受機能、全ての思想や心情、それらは何なのか?

五蘊が依存する法を全て見つけ出し、これらの法が何であるかを観行し、これらの法はまた何に依存しているのか? 依存性があれば、それは非真実であり、自在でなく、自主的でなく、苦・空・無常であり、生滅し、幻化し、虚妄であり、無我である。このような思惟に沿って、禅定に入り観行し、思路を整理し、意根に感知させ、覚悟させ、触証(直接触れて証する)させれば、最後に内面に一つの声が響く:この一切の法には本当に真実性がなく、全ては一つの茶番劇であり、どこに私がいるのか、どれが私なのか、どれも私ではない、と。そして大泣きし、身心が脱落し、全く掛碍(とらわれ)がなくなる。

この中には一つの過程がある。意根が次第にこの事実を認めようとする時、心は非常に苦痛で悲しくなる。あれほど長い間執着してきた私が、目の前で無くなろうとしているのだから、心は当然虚ろで、恐怖を感じる。あたかも崖っぷちに立っているようで、落ちることを非常に心配し、躊躇し、心配し、恐れる。何もないと知りながら、何も掴めなくなることを心配し、その心境は非常に苛立ち、かき乱される。しばらくすると、受け入れることができ、平静になり、正常に戻る。これは今世で初めて我見を断とうとする者が経験する過程である。前世ですでに多生多世にわたって我見を断った者であれば、非常に楽であり、快く心喜ぶであろう。

各人が接触できるものは全て個人の私有物であり、私有は第二の幻化を表し、虚妄の上に虚妄である。外部の公有であれ内部の私有であれ、全ては幻化虚妄であり、真実性がなく、全ては鏡に映った像である。もちろん真に镜像観(鏡像のように一切を観る見方)を証得するには、初地満心(初地の完成)に至らなければならず、その時には初地で修すべき法は全て修し終えている。

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