五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)
色陰は五陰 (pañca-skandha) の一つであり、生滅する虚妄の、変異する、無常の、苦のものであり、空であって、真実ではなく、第八識が幻化して現出したものである。第八識は衆生の業種・業縁に依拠して衆生の色身を変現し、はじめて色陰の存在がある。色陰は何らかの縁によって自ら生まれるものではなく、また父母が一手に取り仕切って生んだものでもなく、父母は色陰が生まれるための一つの助縁にすぎない。第八識が父母の縁に籍して受精卵の中に入住し、衆生の業種に基づき、母の血を藉りて胚胎を変造することによって、はじめて色陰となるのである。色陰は自然に有るのではなく、理由もなく有るのではなく、第八識が縁に依って変現したものであり、第八識が具えている属性の一つである。
色が第八識の変幻によって現れたものであるなら、それは第八識の一部であり、第八識とは不一不異の関係にある。それゆえ、色即是空であり、それは空性 (śūnyatā) 心である第八識の性質である。ここの空とは空性心である第八識を指し、色とは色陰であり、色陰こそ第八識であり、全体がことごとく第八識の功能作用として顕現したものである。ここの空は虚空ではなく、虚空とは仮の名詞であり、物質のない場所を仮に虚空と称するのであり、物質を置けば虚空はなくなる。それゆえ虚空には来る所もなく去る所もなく、実体性がなく、真実に存在する法ではない。
<h4 style="text-indent: 2em;">二、五陰が第八識から生まれる原理</h4>七識心の体性を明らかにすることは非常に重要である。五陰の一切の活動は、すべて七つの識心と第八識が共同して和合運作したものである。七つの識心が色身の上に加われば五陰の活動があり、もし色身の上に七識心の運行がなければ、色身は死屍である。識心が色身の上にあれば、色身は色陰であり、色身の内で五根が内五塵に触れ、意根が同時に五塵の上の内法塵に触れると、六識心が現れ、六識がさらに六根・六塵と相触れると、識心は感受することができ、受陰が生じる。受陰は意識心の感受を主とし、前五識の感受を輔とする。識心がなければ受陰はない。
六識が六塵を了別し、六塵の相を執取 (upādāna) するのが想であり、続く思惟、細かな分別、判断、打算などもすべて想である。想陰は意識心を主とし、五識にも了別して相を取る想陰の活動がある。行陰とは、識心の運行であり、念念遷流変化し、身口意の一切の活動は、すべて行陰である。時間の流逝、場所・方位の変化、色身上の心拍・呼吸・脈拍・血液の流動を含め、運行し変化しているもので、静止していないものはすべて行陰である。識陰とは、識心の分別の功能体性である。
もし七識心が色身の上に加わらなければ、五陰の活動はなく、色身は衆生ではなく、これを殺しても殺生には当たらない。しかし、第八識が七識心の種子を輸送しなければ、七識心の生起はなく、まして五陰の活動は論じられない。第八識が七つの識心に配合しなければ、五陰の活動はなく、色身は死屍であり、木切れである。このことから見れば、五陰の活動は第七識の操作の下に、第八識によって生まれたものである。
<h4 style="text-indent: 2em;">三、五陰の空の内包</h4>五陰は苦・空・無常・無我である。五陰の空とは、五陰がないとか、五陰が消失して現象さえもないという意味ではなく、五陰は現象上は存在するが、自体性がなく、魔術師が幻化して現した城郭のように、実質がなく、自在性がなく、その本質は如来蔵 (tathāgatagarbha) 性であるという意味である。五陰のすべての現象は全部如来蔵が顕現したものであるから、五陰は空なのである。
五陰の空とは、また、五陰を非常に微細な各部分に分けて、最後に無くなり空無になるということでもなく、そういう道理ではない。五陰は微塵に分析することはできない。なぜなら、五陰は色法と心法から構成されており、心法は微塵に分けた後さらに空無になることはできず、たとえ色身が極微細な微塵に分けられたとしても、微塵から空無になることはできず、微塵と虚空は互いに転換できない。種子が異なるがゆえである。
五陰の空とは、実質がないことであり、虚幻であるという意味であり、また如来蔵の空性 (śūnyatā) に帰属するという意味でもある。同じ理で、色陰の空とは、色がないという意味ではなく、色陰には本体の実質がなく、如来蔵が生んだものであり、如来蔵の空性であり、色陰には色法の自体性がなく、虚幻の法であり、生滅する法であるから、空なのである。空の定義:第一に、不実の性であり、自体性がなく、虚幻の法であること。第二に、虚空であり、何一つ所有しないという義。第三に、如来蔵の空性の義である。
色陰は如来蔵が生んだものであり、自在であることができず、自主することができず、自ら自分の存在を決定することはできず、業種と如来蔵によってその生・住・異・滅が決定される。色陰は如来蔵の幻化によって生まれたものであり、本質はすべて如来蔵性であり、真実の色陰の性はない。泥人形がすべて泥の性であり、本質がすべて泥であり、もともと人がいるのではなく、したがって泥人形自身の性もないのと同様に、色陰には自体性がなく、すべて如来蔵性であり、全体がことごとく如来蔵である。同じ理で、三界世間の一切法はすべて如来蔵性であり、すべて如来蔵が造作して成ったものであり、本質はすべて如来蔵であり、泥人形と少しも変わらない。
<h4 style="text-indent: 2em;">四、廬山の真の面目を識らざるは、只だ身がこの山の中にあるに縁るが故</h4>もし廬山を世俗法に譬えるなら、衆生が世俗の虚偽・虚幻・不実の性を見られず、世俗法の苦・空・無常・無我の性を見られないのは、自分の心が世俗法にあまりにも接近しすぎており、さらには完全に世俗法の中に融け込んで、中間に隙間がないため、心が完全に世俗法に覆い隠されているからである。その結果、年年月月、生生世世、世俗法の中で喜怒哀楽し、世俗法に転じられ、世俗に束縛され、自分の身心は自在と解脱を得られない。解脱を得ようとするなら、どうすればよいのか。
もし廬山を自分の妄心である七識に譬えるなら、どのようにして妄心の生滅変異・無実の性を認識すればよいのか。自分の心を客観的に見て、自分の心行を認識しようとするなら、心を取り出して、改めて振り返って自分の心を反観し、一定の距離を置き、一定の高さに立って、客観的に自分の心行を観察するか、あるいは他人の心行として観察すれば、そうすればいくらか客観的で公平になる。
もし廬山を五蘊身に譬えるなら、累生累世にわたって五蘊身の中にいながら、五蘊に我がないことを知らず、五蘊の無常・生滅・変異を知らず、五蘊の苦・空を知らない。五蘊の真の面目を改めて徹底的に認識しようとするなら、仏の説かれた四聖諦の法に従って五蘊を観察しなければならない。五蘊身の真の面目を識ろうとするなら、大乗般若 (prajñā) を修学し、五蘊身の中にある如来蔵を参究すれば、五蘊身の本来の面目は実は如来蔵であり、五蘊身は如来蔵が現起させた一つの虚幻な仮の姿であり、真相は五蘊身の中に隠れて手品のような変幻を演じ、世人はその踪跡を測りがたい、ということを識るであろう。
<h4 style="text-indent: 2em;">五、生きている人と死んだ人の区別を略説する</h4>人が生きているとき、必ず五蘊の活動がなければならない。色蘊の上では:呼吸・心拍・脈拍、血液の流動、大小便、温度・柔軟さ、涙・鼻汁・汗液、胃腸の蠕動と色身の運転施為など。受蘊の上では:苦・楽・憂・喜・捨の感受であり、しばらくは楽しく、しばらくは苦悩し、しばらくはまた苦でも楽でもなく、心境の感受は絶えず変化し続ける。想蘊の上では:草木、人や畜生、金銀珠玉、人の教養や気質、学識や風度、四方八方の音響、香気や悪臭、酸っぱさ・甘さ・苦さ・辛さ・塩辛さ、冷たさ・熱さ・触れ・痛み、飢え・渇き・温かさ・満腹、硬さ・柔らかさ・厚さ・薄さ、重さ・軽安、思惟、推理、判断、回想、打算などを分別することができ、かつ時時すべての相を執取 (upādāna) する。行蘊の上では:駆けたり歩いたり、行住坐臥、挙手投足、嬉笑怒罵、食事や着衣、生産や事業ができる。識蘊の上では:眼は見ることができ、耳は聞くことができ、鼻は嗅ぐことができ、舌は味わうことができ、身は触れを覚ることができ、意は法を思うことができる。
生きている人は十八界の活動があり、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根はいずれも相応の運転がある。色・声・香・味・触・法に接触するとき、眼識は色を分別し、耳識は声を分別し、鼻識は香を分別し、舌識は味を分別し、身識は触れを覚り、意識は法を思う。これらの有為法の造作は、すべて阿頼耶識 (Ālayavijñāna) である第八識が執持し、維持しているのである。
第八識には持身の功能があり、受精卵のときから、神様は執持している。精子と卵子はもともと単細胞であって生命体ではなく、それぞれ七日ほどしか生存できないが、出会って一つになると、第七識が第八識を連れて入住し、受精卵ははじめて生命体となり、生命の活動がある。第八識の中の地水火風の四大種子は母体の中の栄養と相応し、第八識は母体の中の栄養を吸収して受精卵を変生することができ、七日ごとに変化する。もし第八識が離れれば、受精卵は直ちに死亡する。出胎の後、第八識はさらに乳液や飲食の中の地水火風の四大元素を吸収して身体を変生し、嬰児は次第に成長し、また次第に老いてついに死亡する。これらの現象はすべて第八識が執持し変造した結果であり、第八識が生んだものである。
『成唯識論』中に説かれた:(阿頼耶識)能潜転身中作事業故。その意味は、神様は前七識の運作に配合することができ、五陰身の一切の活動を生じさせる、ということである。死亡のとき、第八識が離れてもはや色身を執持しなければ、大小便が流出し、身体は硬直して冷たくなり、呼吸・脈拍・心拍がなくなり、血液の流動も止まり、胃腸の蠕動も止まり、身体の各項の活動がすべて停止する。
六根がもはや六塵に触れなければ、内六塵は現れることができず、六識ももはや生まれず、七識は離れていく。すると身体は屍体となり、屍体には眼があっても見ることができず、耳があっても聞くことができず、鼻があっても嗅ぐことができず、舌があっても味わうことができず、身があっても触れを覚ることができず、一本の木切れとなり、一つの死体となり、誰が打とうが罵ろうが泣き叫ぼうとも無動無衷である。このことから見れば、死んだ人と生きている人の区別は、第八識があるかないかにあるのであり、衆生が第八識によって造られるという道理の一端を窺うことができる。これによって我々は、参禅の入手の処を知るべきである。
<h4 style="text-indent: 2em;">六、色身と物質色法の区別</h4>色身は物質色法の中の一種に属し、物質色法と同じく四大種子によって生成されたものである。差異は次の通りである。第一に、色身の上には八つの識があり、それゆえ五陰の活動があるが、物質色法には識心がなく、五陰の活動がない。第二に、色身は個体の衆生の如来蔵が単独で生み、執持するものであり、物質色法は共業の衆生の如来蔵が共同して生み、執持するものである。色身の上には八識の活動があり、覚受が生じる。すべての覚受は識心の功能作用であり、来る所なくして来たり、去る所なくして去る。識心は第八識の中から生まれ、覚受が滅するとき、去る所もなく、識の種子は滅して第八識の中に戻る。もし第八識を大海に譬えるなら、身体と一切の物質色法は海の上の浪花である。
<h4 style="text-indent: 2em;">七、五陰身は如来蔵から来たものである</h4>私たちが空の上の白雲を仰ぎ見るとき、白雲が絶えずさまざまな図柄に変換していくのに気づく。時には白雲は花の形に変幻し、時には猫や犬などの形に変幻する。このように変幻して現れた花や猫や犬には、自体性と真実性があるだろうか。あの美しい図柄は、花や猫や犬なのか、それとも白雲なのか。私たちはこの空に漂うものを何と見なしてはじめて事実に合うのか。花や猫や犬の真実の相とは何か。少し思惟し比べてみれば、知るのは難しくない。あのものの実質はすべて白雲であり、花も猫も犬もなく、すべての材料は白雲である。それゆえ、猫や犬とは白雲の性質なのである。
同じ理で証明できる。衆生の五陰身はすべて如来蔵性であり、すべての材料は如来蔵に由来し、全体が即ち真如であり、即ち一真法界である。猫や犬を五陰身に譬え、白雲を如来蔵に譬える。類比してみて、仔細に思惟すれば、この道理をはっきりと了知することができる。多くの人は猫や犬と花だけを認め、白雲を認めない。さらに多くの人は五陰身だけを認め、如来蔵を認めない。もし如来蔵を認めれば、明心もでき、我見 (satkāya-dṛṣṭi) も断てるのであり、一挙両得である。
仏法は現にそのまま成っており、簡単で、明明白白である。実は一枚の窓の紙にすぎない。指先が正しい場所を指し示し、ひと突きすれば、万事解決である。福徳の足りない人は、指すべき所を指さず、指すべきでない所を力んで指す。最後には、退路がなくなり、最後のあの点を指すことになる。結局のところ、仏になれない人は誰もいない。ただ早く成るか遅く成るかの問題であり、早く成ることを願う人もいれば、どうでもよいと思う人もいる。
<h4 style="text-indent: 2em;">八、如来蔵が一切の法を自在に操っているのである</h4>定力が足りず、福徳が足りなければ、断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) も明心も非常に困難であり、仏性を見ることは、なおさら難中の難である。断我見の観行 (vipaśyanā-caryā) は、まず自分の色身の虚妄を観行し、色身の生滅変化を観行し、それから識心の生滅変化を観行する。識心が起こす作用は受・想・行と識別であり、これらの作用はすべて観行しなければならず、これらの作用の生滅・無常・苦・空・無我を観行し、観行の範囲はできるだけ全面的でなければならない。
十八界の範囲をすべて見つけ、一つ一つ仔細にその生滅無常の性を観察し、根塵相触の処を観行し、観行が通透すれば、将来証悟することができる。この場所の観行が通透しなければ、せいぜい解悟であり、要所で悟れず、根本で悟れない。六識にも触れがあり、六識が触れるのは六塵である。これらの法をすべて観行できれば、断我見は徹底でき、明心も早い。
世間の中では、実はすべて如来蔵が自ら一切を自在に操っているのであり、根は神様であり、塵は神様であり、識も神様である。これ以外には何もなく、一切の法はすべて神様自身である。入地以後には気づくであろう:一切の境界はすべて神様であり、一切の色法と心法はすべて神様であり、神様以外には、他に何ものも存在しない。
<h4 style="text-indent: 2em;">九、どのように五根の体性を了解するか</h4>五根とは眼根・耳根・鼻根・舌根・身根を指す。五根は外五根と内五根に分けられ、外五根は浮塵根であり、内五根は勝義根 (indriya) であり、それぞれに組織構造があり、それぞれの功能作用があるが、いずれも如来蔵が生成し執持するものである。この五根の性質はすべて本如来蔵性であり、いずれも如来蔵の中から生まれ変化して現れたものである。それゆえ、生滅変異の、無常の、空の、苦のものであり、即ち無我である。私たちはこの五根の出生を観察し、無から有へ、有ってからまた滅するのを観察し、五根の構成を観察し、さらに五根の変化を観察し、最後に五根の滅失を観察すれば、五根が生滅変異無常であることを知ることができる。
これは悟る前の小乗の角度からの観察である。悟った後には、さらに大乗の角度から五根を観察しなければならない。如来蔵が刹那刹那に四大種子を出力して五根を組み合わせていることを観察し、五根の刹那刹那の変異性は、如来蔵がさまざまな縁に依拠して五根を維持し変化させているのであり、縁が変われば五根も変わる、と観察する。五根の功能作用は、外界の五塵を摂取することができることであり、五根は一つのカメラのようなものであり、受信と伝送を担当する道具である。具体的にどのように受信し伝送し、どのように働くかは、識心が制御しなければならない。識心はカメラを操作する人のようであり、人がいなければ、カメラは一山の材料であり、少しの用もない。五根に如来蔵と意根がなければ、一山の死肉であり、寸毫の価値もない。
<h4 style="text-indent: 2em;">十、四食はすべて如来蔵の功徳作用である</h4>欲界の衆生は段食によって自分を養い、飲食を咀嚼して一段一段にしてから飲み下して消化吸収し、はじめて色身は生命活動を維持することができる。それゆえ、色身は虚妄不実のものである。欲界の衆生は六根が六塵に触れることを必要とし、はじめて色身は滋養を得て増勝する。さもなければ生存できない。それゆえ、五陰は虚妄不実のものである。欲界の衆生は七識が絶えず思量 (manasikāra/manana) し運作することを必要とし、はじめて衆生は生存できる。それゆえ、五陰は虚妄不実のものである。欲界の衆生は七識が絶えず六塵を了別することを必要とし、はじめて生存できる。それゆえ、五陰は虚妄不実のものである。
色界初禅天の衆生には段食がなく、触食があり、触塵を必要として生存し、さもなければ滅亡する。眼根・耳根・身根・意根の四根は四塵に触れることを必要とし、眼識・耳識・身識と意識も四塵に触れることを必要とする。これが触食である。思食があり、意識と意根は思想活動を必要とし、触れた一切の法に対して思を起こしてはじめて運作を続けることができる。初禅天の人には鼻識と舌識がなく、眼識・耳識・身識・意識・意根の五識は法を思量することを必要とし、はじめて初禅天で生存できる。さもなければ生存できない。識食があり、五識は天界の中の四塵を分別了別しなければならない。この三種の食があって、はじめて初禅天の衆生は生存でき、色身の存在を維持できる。それゆえ、初禅天の衆生の五陰は虚妄である。
段食の獲得から色身の滋養に至るまで、すべて如来蔵の功徳であり、如来蔵が色身を滋養し維持しているのであり、触食・思食・識食も、すべて如来蔵の功徳である。帰するところ、すべての衆生は如来蔵に依拠して生存しており、如来蔵を離れれば一刹那も存在できない。六根・六塵・六識はすべて如来蔵が変現したものであり、四食も如来蔵が変現したものであり、衆生が必要とする一切は如来蔵が変現して現れたものである。それゆえ、衆生とは虚妄の、不実の、空幻の、非我のものである。四食住を深細に思惟しても、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断て、解脱を得ることができる。
<h4 style="text-indent: 2em;">十一、色身は如来蔵の属性である</h4>身体を最も細小な細胞の構成まで解き明かすと、細胞の中にはさまざまな粒子があり、粒子は四大の微粒子から構成され、四大の微粒子は如来蔵の中の四大種子から構成され、四大種子は形も相もなく、如来蔵の中から来る。如来蔵が四大種子を出力して微粒子を形成し、微粒子がさらに聚合して最も微小な物質となり、さらに聚合してやや大きめの物質となれば、肉眼で見えるようになり、それから次第に聚合して最初の色身となり、最後に色身が完整すれば、母胎から出る。
これによって知られる。色身とは空の、生滅の、無我のものであり、如来蔵が生んだものであり、如来蔵が執持するものであり、全部が如来蔵性であり、この身体もまた、如来蔵の種子の功能作用が転化して成ったものであり、如来蔵の一部の功能であり、如来蔵の属性であり、色身自身の属性と自性はない。これらの内容は、一般の人は思惟することしかできず、現量の観行 (vipaśyanā-caryā) ができない。相応の定力が欠けているためであり、慧力 (prajñā-bala) も足りず、意根が力を入れることができず、自ら深細な観行と思量 (manasikāra/manana) に参与することができず、この理を証得することができず、ここから身見と我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断除することができず、如来蔵を証得することもできない。
<h4 style="text-indent: 2em;">十二、微粒子から構成された色身は虚妄である</h4>衆生の色身の細胞の中でも生体電気エネルギーを生じることができ、生理学では生体電気と呼ぶ。生体電気は絶えずエネルギーを放出し、色身の必要を維持する。細胞の中には四大から構成されたさまざまな顆粒があり、核子・中性子・陽子・原子・電子・イオンなどであり、これらの顆粒の生滅代謝は、色身に必要な一種のエネルギーを形成することができ、熱エネルギー・運動エネルギー・電気エネルギーなどを含む。エネルギーが放出されると、身体の中の四大の物質成分が消耗されるので、絶えず四大の物質成分を補充する必要があり、それゆえ飲食が必要である。飲食の消耗を少なくしようとするなら、識心の活動を少なくしなければならない。深い禅定に入り、内心が静謐で、識心の活動が少なければ、エネルギーの消耗も少なくなる。
一方、色界・無色界の人は、禅悦を食とし、飲食を必要とせず、物質色法を必要としない。もし欲界の衆生が飲食を絶たず、飲食と滋味に貪着し、色界の禅定を起こすことができなければ、色界定はない。飲食にこだわる人は、食欲が降伏されておらず、初禅定の現起はあり得ない。
生物とは生命体であり、生命体とは五陰身であり、五陰身は四大種子と識の種子から構成され、識の種子が四大の色身に作用すれば、五陰の活動がある。その中で、四大種子は刹那に生滅変異し、色身は空幻不実であり、識の種子は刹那に生滅変異し、空幻不実であり、いずれも如来蔵性である。五陰身は刹那に生滅変異し、空花のように実がなく、ここから着手し、我見 (satkāya-dṛṣṭi) が淡薄になった後、さらに小乗を修めば、容易に断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) ができる。
<h4 style="text-indent: 2em;">十三、五蘊およびその依る縁はすべて如来蔵が幻化したものである</h4>外色は多くの如来蔵が共同して変現したものであり、色身および内色は自分の如来蔵が単独で変現したものである。眼根は如来蔵が生んだものであり、眼識は如来蔵が生んだものであり、眼識が色を見る作用は、如来蔵・第七識・第六識と眼識が共同して作用し、内色を眼識と意識の中に顕現させるのである。その中で、四つの識はそれぞれの作用があり、和合した共同作用もある。根・塵・識の三者はすべて如来蔵が変現し、執持し、督導するものであり、この三者を離れれば、衆生なく五蘊もない。ならば、五蘊の衆生とは何か。どこに我があり、どこに五蘊があるのか。どれが我なのか。色を見、声を聞き、香を嗅ぎ、味を嘗め、触れを覚り、法を思う、一切の見聞覚知、すべての覚受の功能、すべての思想や情怀は、何であろうか。
五蘊が依拠する法をすべて見つけ出し、これらの法が何であるかを観行し、これらの法はさらに何に依拠しているのか。依拠性があれば、それは非真実の、自在でない、自主でない、苦空無常の、生滅の、幻化の、虚妄の、無我のものである。このような思惟に沿って、定に入って観行 (vipaśyanā-caryā) し、思路を整理し、意根に感知させ、覚らせ、触証させれば、最後には内心里に一つの声が生じるであろう:この一切の法は本当に真実性がなく、すべて一場の茶番劇であり、どこに我があるのか、どれが我なのか、いずれもそうではない、と。そして大泣きに泣き、身心が脱落し、何の掛け碍いもなくなる。
この中には一つの過程がある。意根が次第にこの事実を認識しようとするとき、心里は非常に苦痛で悲しみに沈む。これほど久しく執著してきた我が、目の前でなくなろうとしているのであり、心里はもちろん空しく、恐れを抱く。崖っぷちに立っているようで、落ちてしまうのではないかと非常に心配し、ためらい、心配し、恐れ、何もないことを知りながら、また何もつかめなくなるのではないかと心配する。あの心境は非常に煩躁で、かき乱される。しばらくすると、受け入れられるようになり、平穏になり、正常に戻る。これは今生で初めて断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) しようとする人が経験すべき過程であり、前世ですでに多生多世にわたって断我見してきた人は、非常に楽であり、快く心喜ぶであろう。
各人が接触できるものは、すべて個人私有のものであり、私有とは第二の幻化を表し、虚幻のまた虚幻である。外部の公有であれ内部の私有であれ、すべて幻化虚妄であり、真実性がなく、すべて鏡が映した像である。もちろん、真に鏡像観を証得するのは、初地の満心においてであり、そのとき初地に修めるべき法はすでにすべて修め終えているのである。