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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 8550

第二節 三十七道品

小乗における我見を断つ観行は、五蘊の苦性・空性・無常性・無我性を思惟し、一切の法の生住異滅性を思惟し、色身の無常性および様々な覚受の無常性、思想観念の無常性、身口意の行為造作の無常性、あらゆる心識活動の無常性を思惟することである。宇宙の器世間の無常性、生活環境の無常性、そして我々を取り巻く一切の人・事・物・理の無常性を思惟する。これら一切の法の無常性を観察した後、さらにこれらの法の空性・苦性・変異性を思惟する。無常・苦・空・変異の法こそが非我・無我なのである。

観行が成就する前提条件は次の通りである:心性がある程度降伏され、凡夫の心性が減少・減淡し、多かれ少なかれ賢聖の心性と相応し、修すべき福徳も具足し、持戒も満足し、忍辱と精進の度合いも十分であること。禅定が未到地定に達し、智慧の面では五蘊十八界の理を理解し明らかにしていること。これらの基礎条件が全て備われば、賢人に接近し、因縁が熟せば我見を断つ初果の人となることができる。

五蘊十八界の虚妄無我性を観行することはそれほど難しくない。難しいのは、我々の三十七の助道品が修されず、証道の基礎が固まっていないため、あらゆる観行が非常に困難に感じられる点である。もし三十七道品の基礎が固まっていれば、少し観行を加えるだけで、五蘊の虚妄・不実・無我性を確認できる。現代の学仏者は比較的浮ついており、多くはただ仏法を聞くという段階のみに力を入れ、その他の基礎的な仏法修行を重視しない。そのため、仏法を実証することは難しく、修行の時間は長引き、道業の進歩は非常に遅々としている。

一、三十七道品の内容:四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道。

四念処観:身を観じて不淨とし、受を観じて苦とし、心を観じて無常とし、法を観じて無我とする。

四正勤:一心に精進して四念処を修行すれば、あらゆる懈怠を断ち、すでに生じた悪を断除し、未だ生じていない悪を生じさせず、すでに生じた善を生長させ、未だ生じていない善を生じさせることができる。積極的に悪を断ち善を修するのである。

五根:根は生長するという意味である。信根・精進根・念根・定根・慧根の五根があり、この五根が五つの力を生長させてこそ、無明の闇を破ることができる。

五力:信力は迷信を破り、精進力は懈怠を破り、念力は邪悪を破り、定力は散乱を破り、慧力は無明を破る。五根が増長するがゆえに、力を得て、心が憤怒によって壊され執持されることがなくなり、五つの障害を治めることができる。

七覚支は:念覚支・択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支である。

八正道:正見・正念・正語・正業・正命・正精進・正定・正思惟。

四如意足:欲如意足(神足)・精進如意足(勤神足)・定如意足(心神足)・慧如意足(観神足)。修行の定力が不足しているため、心を如意のままに願い通りにすることができず、禅定を修習して摂心の目的を達し、定慧を等しく保ち、精力を充実させ、願うことが全て満たされるようにする必要がある。四神足は、自心の願いを満たす四種類の神通妙用である。足は依頼・依止・依靠の意味であり、如意とは何事も思いのままに、願いが満たされることを意味する。

欲如意足:欲は希求または希望の意味である。心が仏法修行に希求願望を持つがゆえに、法に対して決定心が生じ、定力が引き起こされ、定慧が増長し、神通妙用が発動する。勤如意足:勤は精進努力の意味である。仏法に精進努力して修行するがゆえに、法に対して決定心が生じ、定慧が増長し、神通妙用が引き起こされる。念如意足:心心念念、常に修している法にあるがゆえに、心念力が生じる。心念力のゆえに、法に対して決定心が生じ、定慧が増長し、神通妙用が引き起こされる。

観如意足:観は観行思惟の意味である。思惟するがゆえに、法に対する決定心が生じ、定慧が増長し、神通妙用が引き起こされる。衆生はこの四種類の修行方法によって定力が生じ、願うことが全て満たされ、思い通りになるのである。ここから見ると、学仏修行において定力を修めなければ、心は自在を得られず、智慧は生じず、仏法修証上の願いは満たされず、定がなければ仏法は成就しない。

三十七道品を修め終えた後、五蘊の法を観行思惟すれば我見を断つことができる。観行によって我見を断った後は小乗の初果となり、同時に三縛結も直ちに断除される。こうして三悪道の生死の結縛が解け、三悪道の業が消滅し、未来永劫に三悪道に堕ちることはない。

二、如何にして我見を断つか?

世尊は『雑阿含経』において、五蘊の虚妄性・無常性・変異性・苦性・空性・無我性を観察するよう我々に説かれている。五蘊の一つ一つの蘊を観察思惟することを観行という。観行には相当の定力が必要であり、三十七道品を修め終えた時に初めて観行は力強く効果を現す。十八界もまた一界一界、その虚妄・生滅・無常・変異性を観行し、最終的に五蘊十八界が真実の我ではなく、私の所有にも属さないことを確認する。心の底から本当にこの点を確認し、身心ともに三昧の中にあれば、我見を断つのである。

これ以降、心の奥底ではもはや五蘊を真実の自己とは認めなくなる。こうして生死流転の中に自らを縛りつけている三縛結(我見・戒禁取見・疑見)も断たれ、未来に三悪道に堕ちることはない。これを成し遂げるには、世尊が『阿含経』で説かれた四聖諦の理を学び通じ、定力が具足した時に一つ一つ観行する必要がある。これが我見を断つおおよその用功の方向である。三十七道品は必ず良く修め、八正道も必ず修めなければならない。あらゆる身口意の行為は八正道に合致していなければならず、そうして初めて観行が成就し、初果の人となるのである。

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