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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2026年02月27日 閲覧数: 4559
<h3 style="text-indent: 2em;">第三節 五蘊の総合観行 (vipaśyanā-caryā) 方法</h3><h4 style="text-indent: 2em;">一、断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) の重要性</h4>

断我見には、色身の我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断つことと識心の我見を断つことが含まれる。色身の我見を断つには、色身の小さいものから大きいものに至る生滅変化を観行し、それによって色身が生滅変異するもの、無常なもの、苦なるもの、空なるものであることを確認しなければならない。心の中に「苦しみのものは我に非ず、我は苦しからざるものなり」という観念を確立しなければならない。これは永遠の真理であり、この観念を心の中に確立してこそ、色身の無常苦を観行できる。色身は因縁によって生じたものであり、因と縁があって色身は生じ、因と縁があって色身は滅する。生滅変異して無常苦であり、すなわち我に非ざるがゆえに、これによって色身の我見を断除できる。

識心の我見を断つには、識心の生滅無常の性質を思惟しなければならない。識の種子が刹那刹那に生滅して識が形成される。それは水滴が形成する水流のようなものであり、水滴が循環して流注し、連続して絶えない水流を形成する。もし心の中に真実の水流が存在すると考えるなら、それは一種の錯覚であり、水流の仮相に欺かれているのである。識の種子が一つ一つ速やかに流注して識を形成するが、実際には連続して絶えない識心の分別が存在すると考えるのもまた一種の錯覚である。この理を深く思惟すれば、識心を我とする邪見 (mithyā-dṛṣṭi) を断つことができる。識の種子の流出には因縁があり、因縁が和合すれば識は出生し、因縁が散滅すれば識の種子は生じなくなり、識心は滅する。三昧 (samādhi) の中でこの理を深く認めれば、識心を我とする邪見を断除できる。

もし小乗の四阿含をよく修めて、先に我見を断ってから明心すれば、我見は徹底的に断除しやすく、煩悩の性障 (kleśāvaraṇa) も速やかに降伏できる。直接に参禅して明心すれば、無我の修行基礎がなく定力が不足している場合には、解悟の成分が多く、我見は徹底的に断ち切れず、そもそも我見を断てないかもしれない。そうすると、このいわゆる「我」は常に出てきて風を起こし波を立て、悪行を造作して自分の道業を妨げることになる。我性の重い人はこのようにあちこちで是非を引き起こす。それゆえ、我性を降伏することは、修行において自他の利益のためにきわめて重要である。ひとたび自我を降伏すれば、生生世世にわたって受益すること限りなく、心に苦悩が生じない。

<h4 style="text-indent: 2em;">二、能と所とを有する五蘊の不実性の観行</h4>

五蘊の無我を観行するには、五蘊を二つの部分に分けて観行できる。一つは色身、一つは識心であり、識心が色身に加わって五蘊を形成する。身心を静めてから禅定に入り、深く観行して感知し、色身の無常性、生滅性を領受しなければならない。色身の生、色身の住、色身の異、色身の滅を思惟しなければならない。色身の無常と空幻を確実に了知してから、改めて色身の苦を感受する。定慧等持の三昧が現れた後、色身の無我性を証得できる。さらに前世の色身、後世の色身を観行する。いずれの種類の色身であっても、すべて生滅、変異、苦、空、無常、無我である。それから識心の生滅変異性を観行する。どの識であっても、一切の法を覚知する功能作用を有する識心は、すべて生滅するもの、空なるもの、苦なるもの、真実でないものである。

さらに五蘊を能と所の二つの部分に分けて観行することもできる。こうすればやや簡単である。能とは六識の能見性であり、所とは六識の見るところの六塵である。眼が色を見るとき、色を見る能見の眼識と、見られる所の色塵とを分離し、両者の生滅変異性を深細に観行しなければならない。耳が声を聞くときも二つの部分に分ける。一つは聞いた声であり、一つは聞く耳識であり、このようにして両者の生滅変異性を分別観察する。鼻が香を嗅ぐとき、嗅がれた香塵と香塵を嗅ぐ識心とを分別観察思惟し、この両者の生滅変異無常性を観じる。舌が味を嘗めるとき、身が触を覚えるとき、意識が法を思惟するとき、いずれも能所の二つの部分に分けて観察思惟する。

思惟観行の後、もし心の奥底で本当に透徹していれば、内心には震動があるはずであり、自我に対する知見・見方には転覆が生じるはずである。一切の時において、六根が何に触れようと、六識が何を分別しようと、五蘊全体が心から色身に至るまで空の殻のように感じられ、自分が空であり、無常であり、実在せず無我であることを切実に感じられる。観行が成就するとき、内心の覚受には天地が覆るような変化があるはずであり、内心には空空たる覚受があり、行住坐臥の一切の時において自我の身心の虚幻不実を切実に感知できる。

このような断我見こそ真に正しい断我見であり、徹底的な断我見であり、口先だけの断我見ではなく、単に理論上の断我見でもない。その後の修行は、大乗であれ小乗であれ、着実に速やかに進歩でき、煩悩は日が雪を消すがごとく消え、身心は軽安となり、今生後世ともに大いにその利益を受ける。それゆえ皆さんにお勧めしたい。この法はどんなに難行であっても必ず行わなければならず、必ず我の生死見を断除しなければならない。

<h4 style="text-indent: 2em;">三、五陰 (pañca-skandha) の和合相は真実の相に非ず</h4>

五陰十八界の我は、七つの識と色身が和合して形成されたものであり、五受陰が組み合わさって構成され、六根・六塵・六識が組み合わさったものである。和合したものは虚妄の仮法であって、真実ではない。単に一つの受陰だけでは我ではなく、和合したものはなおさら我ではない。単に一つの界だけでは我ではなく、和合したものはなおさら我ではない。真実の我は和合によって来たものではなく、本来存在するものであり、独立自主性を有し、外縁によって決定されるものではない。

現に見るに、衆生の五陰は独立して存在できず、種々の因縁が聚合して形成されたものである。五つの受陰は組み合わさったものであり、十八の界も組み合わさったものであり、いずれも独立自主性がなく、実在性がない。それゆえ、すなわち我性は有らず、すなわち空であり、すなわち一つの仮の名詞である。因縁が滅するときを待てば、組み合わさった各部分は散去し、仮の体は消失する。一つの集団が多くの人によって構成されるようなもので、単独の一人は集団と名づけられず、組み合わさったものも真実の集団ではなく、自主性がない。因縁が消失するとき、一群の人は各々東西に分かれ、集団は存在しなくなる。たとえ存在しても仮の名詞にすぎない。それゆえ、集団は集団に非ず。

一つの家庭のように、父母と児女によって構成され、単独の一人は家庭ではなく、組み合わさったものも真実の家庭ではない。現象上はあるように見えるが、実質的には無である。実質的なものは真実で永遠に変異せず、外縁によって決定されないものである。家庭という仮相は多くの因縁要素によって形成され、この因縁が消失し、要素が消亡すれば、家庭という仮相も滅去する。それゆえ、家庭は家庭に非ず。一軒の家屋のように、煉瓦・瓦・木材・セメントが和合して成り、一つの材料を抜き去れば家屋は倒壊し、家屋という仮相は存在しなくなる。それゆえ、家屋は家屋に非ず。机・椅子・腰掛けのように、木材と釘などの材料が和合して構成され、一つの材料を抜き去れば机・椅子の相は具足しないか散壊し、木材と釘と呼ぶべきであり、机・椅子の仮相は消失する。それゆえ、机・椅子は机・椅子に非ず。五陰の我は我に非ず、意根の我は我に非ず、意識の我は我に非ず。

世間の一切の相はすべて多くの元素が和合して有るものであり、各々の元素には自性がなく、和合したものにはなおさら自性がない。因縁が散去すれば一切は皆滅する。それゆえ、世間は世間に非ず。因縁によって形成された法は久しく住する法ではなく、永遠に存する法ではない。それゆえ、我々は貪って執着し捨てないべきではない。貪っても無駄であり、執着しても無駄であり、人がどれほど捨てなくとも、最終的には依然として離れ散る。執着しないに如かず、早く貪心を捨て、煩悩を断捨し、繋縛を解脱し、本性に回帰して自由自在であれ。

<h4 style="text-indent: 2em;">四、六識の分別はなぜ錯覚なのか</h4>

法には色法と心法が含まれ、五蘊はすべて法であり、六根・六塵・六識もすべて法である。法に無我を観ずるとは、五蘊・十二処・十八界が和合して生じた一切の法の中に、いずれも我がなく、いずれも我ではないことを観ずることである。六つの識は刹那生滅し、いずれも第八識が出生したものであり、いずれも虚妄、変異、無常、苦、空であり、いずれも我ではない。七つの識は刹那刹那に生滅変化して止まらず、一弾指の間に八万一千の種子が生じて滅し、滅してはまた生じ、きわめて速い。我々は識の種子の生滅の現象を感じ取れず、識心が連続して絶えないように感じるだけであり、識心の分別は絶えず行われているように感じるが、実は識心は連続的ではなく断続的であり、ただ生滅がきわめて速いだけである。

あまりに速いため、我々の覚知心は刹那の断続現象を分別できず、それゆえ一種の錯覚が生じ、自分の心が連続して絶えず運行していると感じる。一本の松明のように、非常に速く回転させると火の輪が見えたように思われ、火の輪はかなり真実に感じられるが、実は火の輪はなく、火の輪は火の輪に非ず、ただ一本の松明にすぎない。我々の眼識は無始劫以来ずっと仮相に欺かれており、真実の現象を見分けられず、幻覚が現れ、仮相を真実の相と見なす。映画やテレビの中の人物の動きのように、中のすべての動的な景色は一コマ一コマのフィルムをつなげたものであり、再生速度が速すぎるため連続的だと感じ、また連続的だと感じるために真実だと信じ込むのである。

もしすべてのいわゆる連続的な事物を一点一点に分割すれば、これらの事物を真実のものとは思わなくなり、内心は虚幻を感じるようになる。定を修することはこのような作用を起こすものであり、心を安定させ、澄ませることができ、徐々に真理を認識し、一切の法の真相を見極めることができる。

衆生の六識はいずれも錯覚を有し、六識が分別できる一切の法が断続的であって、連続して絶えないものではないことを知らない。六識には覚知の一時留保の作用があるため、消えたばかりの現象を、識心はまだ元の場所で動いていないと思い込むが、実はすでになく、見えなくなっている。たとえば眼識が色を見るとき、色塵を見た瞬間、色塵はすぐに過ぎ去るが、視覚に一時停止の作用があるため、ずっと色を見続けていると感じ、しかも見ているのはさっきのあの色相だと思っている。実はさっきのあの色相はすでに滅去しており、前一刹那の色相を再び見ることはできない。一つ一つの色相が刹那に過ぎ去り、互いに連結していないのに、意識はさっきの色相がずっと動き続け、ずっと存在していると考える。これが幻覚と錯覚である。

眼識の錯覚作用によって、我々は見たものが完全で連続的な色相だと感じるが、実はすべて一点一点が連結されたものであり、前後は完全に同一のものではなく、色相は断続的に変化しており、同一の色相ではない。眼識は刹那生滅し、意識は刹那生滅し、色塵は刹那生滅し、法塵は刹那生滅し、次の刹那まで継続できる法は一つもない。それなのに衆生はあえて一切の法が連続的で真実であり、すべて元のあの法だと考える。元の法などどこにあるのか、すべて変異した法である。

世尊は『金剛経』の中で三心不可得と言われた。過去の六識心は滅して、不可得であり、現在の六識心は刹那生滅しており、同様に不可得であり、未来の六識心はまだ出生しておらず、これも了不可得である。六塵の境界もまた過去・現在・未来の三際ともに不可得である。我々は無量劫以来、自分の識心に欺かれ、見たものはすべて真実だと思い込み、すべてがきわめて虚幻不実であることを知らなかった。それゆえ、一切の法は生滅変異するものであり、いずれも真実の我ではなく、色法も心法も無常の法であり、いずれも第八識が刹那に出生する空幻の法である。

<h4 style="text-indent: 2em;">五、五蘊十八界の虚妄をいかに観行し証明するか</h4>

色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊を観行するとき、かくの如く観行すべきである。色受想行識は本来有る法ではなく、先天的に存在する法ではない。それゆえ五蘊は真の我ではなく、原本の我ではない。我々の見聞、思量、識別、有所得心、希求心、反観する心、およびこれらの法を証知できる心は、いずれも本来有るものではなく、自然に有るものではなく、本来の我ではなく、真の我ではない。これらの法は生滅無常の法であり、永久に変異しない法ではない。それゆえ、いずれも我ではない。五蘊の生滅無常変異性、非我性を観行した後、さらに識心の種々の境界が生滅、無常、虚幻であり、我に非ず、また我の所有にも非ずであることを観行しなければならない。我々の当下のすべての自我存在感は、五蘊の仮の我である識蘊であり、生滅するもの、無常なもの、苦なるもの、空なるものである。

世尊は『阿含経』の中ですでにはっきりと説かれた。凡夫が感知できる一切は虚妄であり、真実の法はない。真実の如来蔵 (tathāgatagarbha) は我々がまだ感知できない。もし感知できるときが来れば、それが如来蔵を証得するときであり、そのとき禅宗の公案の一部が理解できるようになり、大乗経典の一部も理解でき、他人の説法の正誤も弁別でき、智慧は次第に増長する。

五蘊を観行するには、一つは現象を観行し、もう一つは実質を観行する。この二点を突破し、現象と実質の関係を明らかにし、現象と実質を融合させて観行すれば、断我見し初果を証することが容易であり、明心して証悟することも容易である。五蘊は眼が金星を飛ばすときの金星のようなものである。金星が有るのか無いのか、空なのか空でないのか、それとも両者を兼ねるのかを観行してみる。空と有の二者は反復して観行し、両者の関係を明らかにしなければならない。これは簡単容易なことではない。それゆえ、学仏する多くの人の中で、初果を証する者はきわめて少なく、ほとんどいない。

各人が無始劫以来の誤った知見を転覆することはきわめて容易ではなく、反復して薫習し、反復して観行思惟し、絶えず自分の習慣的な認知と張り合い、深く禅定に入って観行してこそ、いくらかの悟入があるかもしれない。絶えざる観行思惟を通じて、定慧等持の三昧が現れた後、はじめて仏の説かれた一つ一つの真理を真に証得できる。五蘊皆空は仏が我々に与えた最後の結論であり、途中の修証の過程は各人自らが完成しなければならず、他人は代わることができない。五蘊の虚妄無我は言うまでもなく、眼が金星を飛ばすときの金星が有るのか無いのかでさえ、自分で仔細に思惟してはじめて正しい結論を導き出せる。表面は簡単に見えるが、実修を通じて証明するとなれば、簡単なことではない。

結論を単に理解しただけではまだ足りず、実際に観行を行い、すべての証拠を探し出し、証拠が確かでなければならない。修行は一つの幾何の問題を証明するのに似ている。幾何の問題は結論であり、途中の一歩一歩の証明は自分で完成する。仏法もまた同様であり、仏は一つの結論、真理と呼ばれるものを与えられる。修行者は自ら方法を講じてこの結論を証明し、真理を承認し、意根が自らこの結論を証明しなければならない。これを仏法を自ら証得すると言う。

<h4 style="text-indent: 2em;">六、五蘊十八界の虚妄をいかに効果的に観行するか</h4>

五蘊十八界の虚妄非我を観行するには、五蘊を分けて観察するのが最良である。五蘊が当下活動しているとき、どれが色蘊で、どれが受蘊で、どれが想蘊で、どれが行蘊で、どれが識蘊なのかをはっきり分け、五蘊を一つ一つ分けなければならない。分けてこそ、各蘊の虚妄性をきわめて容易に識別でき、各蘊がどのように虚妄であるかを知ることができる。十八界も同様である。身口意の一切の行為造作を行っている当下、十八界をすべて分けて観察し、一界一界と分け、分けてから観行すれば、各界の虚妄性をはっきり見分けやすくなる。

衆生が無始劫以来、自分の生活する世間を真実のものと見なすのは、一つには衆生が無始劫以来ずっと無明の中で薫染されており、無明があまりに厚重であるため、仮を真と認め、世間の真実の相貌を明らかに知らないからである。もう一つは、世間があまりに立体的で、あまりに豊か多彩であるため、世間がきわめて真実で頼りになると感じるからである。立体的とは、眼は色を見、耳は声を聞き、鼻は香を嗅ぎ、五蘊全体が和合しており、十八界の功能作用もすべて和合しており、プロセスは複雑で系統性を有し、表示される一切の法はそのように生き生きと真実らしく現実的であるため、大きな善根と福德がなければ、五蘊の実質が果たして何であるかを反観し認め清める能力がないのである。

五蘊の活動は錯綜複雑ではあるが、きわめて条理と規則を有している。それゆえ衆生は五蘊がきわめて真実だと感じ、五蘊の活動の存在はすべて当然のこと、天然に存在するものと考え、その当然であるか否か、理があるか無いかの問題をいっこうに考慮せず、自然のままにこれらすべてを受け入れる。そして自然のままに受け入れることこそ、無始劫以来の無明である。五蘊の活動の中で、真法と妄法が和合し、互いに区別できないため、衆生は五蘊がそれほど真実だと感じる。五蘊を真実だと考えるとき、背後の真実の如来蔵が覆い隠されるのである。

我々はこの和合した立体的な五蘊世間を分けることができる。分けてから徐々に平面に引き延ばし、部品に分解する。たとえば一台の自動車や一軒の家屋を分解し、部品に分解すれば、見てすぐ分かる。なんと、これほど虚妄で真実ではないのかと。これらの部品が組み合わさって一つの全体になると、我々は往々にして自然に五蘊を真実のものと見なしてしまう。五蘊を分解すれば、その虚妄性を観行しやすい。たとえば一台の自動車を一つ一つの部品に分解すれば、真実の自動車など存在しないと考えるかもしれず、一般の人はこれらの部品を自動車とは見なさない。

五蘊十八界も分けなければならない。すべて分け、七つの識も八つの識もすべて分ける。分けてから観察すれば、各蘊がどれほど虚妄であるか、各界がどれほど虚妄であるか、六根が六塵に触れることがどれほど虚妄であるか、七識の功能作用がどれほど虚妄であるかが観察できる。五蘊の全体を一つ一つの単独の部品に分解し、できるだけ細かく分解する。最後にきわめて細かくなったとき、はじめて分かる。なんと、五蘊はこれほど虚妄で、これほど実在しないのかと。これが断我見であり、徐々に解脱を得ることができる。これらの法がすべて虚妄であると知った後、一つの法が残る。我々は疑いを起こす。すべて虚妄であるなら、なぜこれらの五蘊の功能作用があるのかと。心の中に大きな疑情が現れる。こうしてから如来蔵を証得すれば、きわめて容易になる。

<h4 style="text-indent: 2em;">七、観行は五陰の内包を明らかにしなければならない</h4>

永嘉禅師の『奢摩他頌』は、いかに正しく禅定を修行して智慧の解脱を得るかを説いたものである。その中で、定中に観想するとき、歴歴と分明なものは識陰であり、心に領納するものは受陰であり、心がこの理に縁ずるものは想陰であり、この理を行用するものは行陰であり、真性を埋蔵するものは色陰である。

観想思惟するとき、明々了了の状態が識陰の境界であり、観想した内容および覚受を領納することが受陰の境界であり、観想した内容に縁ずることが想陰の境界であり、心が念念として流動することが行陰の境界である。この四陰は絶えず生じ、絶えず流転し、絶えず変異し、絶えず流逝し、無常であり、空幻不実である。その変異が止まないことには苦受があり、変異を望まず、とりわけ速やかな転変と流逝を望まないことが苦受である。苦しみのものは我に非ず、空なるものは我に非ず、無常なるものは我に非ず、変異するものは我に非ず。なぜ我に非ずか。心で悟るのみで言葉では伝えられず、自分で定中に体悟するしかなく、思想は互いに代わることができない。

無常生滅変異は比較的観察体会しやすいが、このような法が我に非ずと認知することは困難である。観念の問題に関わるため、自分で観念を転換するしかない。他人は飯を作り、運んでくることしかできず、口に運んでやることさえできるが、咀嚼し嚥下し消化することは自分の事であり、実は代わることができない。

<h4 style="text-indent: 2em;">八、五陰十八界をいかに細観するか</h4>

五蘊の虚妄を観行するには、五陰十八界を一つ一つ観行して空と見なければならない。まず五陰を空と見、最後に定中の観行を通じて、論拠が十分で、五陰十八界がまさに空であることを真に確認しなければならない。単に空と見るだけではなく、五陰十八界が確かに空であることを証知しなければならない。いかに観行して五陰十八界が空であると出すのか。五陰の概念および内包・範囲・功能作用を観行して明らかにしてこそ、どのように虚妄であるか、どのように我に非ずであるかを知ることができる。第六識 (manovijñāna) のすべての体性もまた空であり無我である。離念霊知心、種々の禅定の中の意識心、受のある意識、想があって了知できる意識心、行相のある意識心、分別了別思惟推理の意識心など、すべて全面的に観行し、その虚妄性を確認しなければならない。

これまでずっと意識心が我であると思っていたが、思惟観行の後、意識心は根本的に我ではなく、単なる道具にすぎないことが分かった。我々は心の中に「知」があれば、この知は意識心の知であり、続いて意識心の生滅性、無常性、変異性、把捉不可能性、空幻性を思惟する。この意識心の知は我の道具であり、真の我ではないが、我によって用いられることはできる。まず意識を否定し、さらに生滅無常性を観行し、最後に意識の虚妄性を確認する。

五陰は多くの場合同時に現れることができる。そのうち色陰は必ず参与し、識陰は必ず参与する。識があれば行があり、想があり、受がある。六識がなければ、行がなく、想がなく、受がない。それゆえ、各法の運行の中で五陰がすべてある可能性がある。たとえば眼が色を見るとき、身根が参与し、眼根が参与し、眼識が参与し、意識が参与し、意根が参与する。ここには色陰、識陰、受陰、想陰、行陰がある。

受陰と想陰、行陰が活動する前提は六識が運行中であることである。睡眠時には受陰と想陰は滅するが、一部の行陰はなお存在している。夢のない眠りの時、第七識の意根がなお存在し、身根を調控しているため、身行があり、呼吸、血液循環、胃腸の蠕動、寝返り、新陳代謝などの身体の活動がある。動転がある限り、行陰がある。夢を見るとき、意識心が夢の中で活動するなら、受想行識の四陰の存在がある。

眼耳鼻舌身意の六識はいずれも受、想、行を有する。眼識の受・想・行、耳識の受・想・行などを一つ一つその虚妄性を観行しなければならない。さらに六識の了別性もその虚妄性、生滅性、変異性、無自主性、不自在性、空性 (śūnyatā) を観行しなければならない。最後にこそ、五陰の色受想行識が我に非ず、しかしまた我に異ならずであることを完全に証得できる。受は領受と感受に分けられ、感受にはさらに三種ある。苦受、楽受、不苦不楽受である。想とは執取 (upādāna)、取相、了知である。行とは運動、運転、運行、運作であり、寂止しないという意味である。了別は分別である。これらの場所は、いずれも一つ一つその生滅変異無常性を観行しなければならない。

<h4 style="text-indent: 2em;">九、十八界をいかに具体的に観行するか</h4>

まず眼根・耳根・鼻根・舌根・身根を観行する。この五根がなぜ無常、虚妄、空、苦であり、我に非ずなのか、五根がどのように出生し、どのように滅し、どのように変異するのか、いずれも禅定の中で仔細に如実に観行しなければならない。観行に従って、意根は徐々に五根無我という道理を確認できる。禅定の中で深く観行しなければ、意識は理の上で五根が生滅虚妄であると考え、これ以上考える必要はなくこの道理だと思っても、このように粗略に考えるだけでは無用であり、意根がこの道理を認めなければ、心の奥底から五根を否定できず、無我を確認することはない。意根の邪見を転換しようとすれば、深細に観行し、意根の現量の智慧を現前させてこそ、確かにその通りであると考え、神様が確認キーを押し、この事は決定となる。

五根の観行が終わった後、続いて意根自体の生滅虚妄、無常非我性を観行する。観行の中で思惟しなければならない。意根は果たしてなぜ我ではないのか、その中の道理は何か、はっきりと透徹して明白に思惟し、意根に分からせなければならない。なんと、我もまた真実ではなかったのかと。そして確認キーを押して終了する。

次の段階で六塵の無我性を観行する。色塵、声塵、香塵、味塵、触塵、法塵の六塵が果たしてなぜ生滅、無常、変異、苦、空なのか、六塵がどのように出生し、どのように滅去するのか、果たしてなぜ我に非ずなのか、深く細かいほどよい。最後に意根が承認する。確かにその通りであり、六塵は我に非ず、また我の所有でもない。意根はこれより六塵を重んじなくなり、真実の法として貪執し捨てないこともなくなる。

さらに続いて六識を観行する。六識の出生の場所と根源を観行思惟し、六識がいつ生じ、いつ滅するのか、どのように無常なのか、どのように変異なのか、どのように苦なのか、どのように空なのか、どのように無我なのかを思惟する。最後に、意根が智慧を出生させ、六識がこのように速やかに生滅変化し、確かに把捉できず、根本的に我である可能性がないことを確認し、六識を我と見なさなくなり、我の所有とも見なさなくなる。

続いて五蘊の無我性を観行しなければならない。五蘊はやや複雑であり、各々の功能体性を心の中で明らかにし、いずれも深く細かく観察しなければならない。五蘊の概念を明らかにした後、各蘊を一つ一つ観行思惟しなければならない。色蘊とは身根の五根であり、以上ですでに思惟したが、ここでいくつかの内容を増やし、身根の五根の功能作用がどのように生滅無常変異なのか、どのように苦で空なのか、どのように無我なのかを思惟しなければならない。

<h4 style="text-indent: 2em;">十、五蘊十八界をいかに分けて観察するか</h4>

五蘊を観行するとき、五蘊をできるだけ分けて一つ一つ観行し、十八界もできるだけ分けて一つ一つ観行しなければならない。我々の一切の活動の当下、一つの蘊だけが起用しているのではなく、一つの界だけが起用しているのでもない。また、ある蘊がジャンプ式に一つの蘊から別の蘊に移って起用しているのではなく、ある界が別の界に移って交代で起用しているのでもない。多くの場合、五蘊はすべて同時に現起し、同時に起用し、十八界も同時に現起し、同時に起用する。

たとえば我々がここに座って雑談するとき、目は窓の外の景色を見ることができ、前方の壁を見ることができ、耳は同時に声を聞くことができ、鼻は花の香りを嗅ぐことができる。六根は同時に起用し、六識は同時に分別し、六塵は同時に出現し、十八界はすべて同時に起用する。そして五蘊はどうか。色蘊の上の身体が造作し、受蘊の上の六識が絶えず感受し、想蘊の上の六識が絶えず執取し了知し、行蘊の上の六識の身口意行が絶えず現起している。

部屋の中で歩きながら問題を考えるとき、このときの五蘊の活動を探し出し、はっきり観察する。色蘊は何をしているのか、受蘊はどこにあり、どのような状態か。想蘊はどれか、何を考えているのか。行蘊はどのように運作しているのか、どこに行蘊があるのか。識蘊の六識が各々了別している相分の境界は何か。それから禅定の中でゆっくりと深くその生滅変異無常性を観察思考し、その苦性を了知し、その無我性を確認する。

こうすれば、每一根每一塵每一識がどのように現起したか、どの縁に依って現起したか、現起した後何をしたか、十八界がどのように配合し統一されたか、最後にどのように散ったかを観行できる。それから次の法がどのように生起し、どのように滅去したかを観行する。その後、每一蘊がどのように現起したか、どの縁に依って出生したか、どのように変化を生じ、どのように徐々に消失したかを観行する。そして注意力を次の法に移し、每一蘊がどのように出生し滅去したかを再び観察する。

必ずゆっくりと深細に思惟観行しなければならない。観行を一定期間続けると、心念は深細になり、雑念はきわめて少なくなり、意念は集中し、呼吸は深沉になり、心拍は緩やかになり、気血は暢通し、身心は安詳となり、周囲の一切の雑乱は感知できなくなる。深く考えた法だけが内心に久しく渦巻き、思惟は非常にゆっくりと、深く、細かく動く。このときになってこそ意根に深入でき、意根はそれに従って深細に思量する。たとえ短時間内に意根が透徹しなくても、神様にはすでに択択心があり、意識の思惟の内容をはっきりさせようとし、他の無関係な世俗法への攀縁をしなくなるか少なくし、観行の内容を完成したいと気にかけ始める。こうして意識の定慧が増強され、観行は少しずつ深入していき、いつの日か、意識と意根は五蘊無我を証得できる。

<h4 style="text-indent: 2em;">十一、五蘊活動の中の細分観行</h4>

五蘊の活動の当下、各蘊の功能体性をできるだけ分けて観察してこそ、透徹して観察しやすい。たとえば我々が今ここに座って雑談しているとき、色蘊が活動し運行しており、受蘊も運行しており、六根の上の感受はすべてあるかもしれない。さらに想蘊も運行しており、六識の六塵の上の執取と了知性はすべて存在しているかもしれない。六根六識の造作はすべて存在しているかもしれず、身体の中の行と心識の行もずっと存在しており、五蘊はすべて活動運転しており、六識の識蘊も絶えず分別の作用を起こしている。このように各蘊を分けた後、各蘊がどのように生起、変化、滅去するかを具体的に観行し、その生滅変異性を細心に体会しなければならない。

また、目を閉じて一つのことを回想するとき、観行してみなければならない。このときどの蘊が参与し、どの界が参与しているのかをはっきり分けなければならない。各界は何であり、どのように顕現するのか、各蘊はどのように運行するのか。回想するとき、色身の運行を観察し、意識心の運行を観察する。眼識のほか、他の識心はすべて感知しているかもしれず、これらはすべて観察しなければならない。回想するとき、色蘊などの五蘊が存在し、身識と意識はいずれも覚知と感受を有しており、いずれも観行思惟して明らかにしなければならない。

すべての覚受は意識心を主とする。意識の生起と滅去を観行し、受蘊・想蘊・行蘊の変異を観行し、その無常性、空性、苦性、無我性を思惟する。各活動の当下、いずれも細心に五蘊を分けて観行し、十八界も分けて観行しなければならない。それから総合的に組み合わせ、身心内外の生滅無常性を観行する。さらに前世、後世、上半生、下半生、および善悪美醜の性を有するすべての五蘊十八界の生滅無常性をも観行しなければならない。

欲界の衆生はすべて五蘊が同時に存在し運行している。深定に入って六識を滅する場合を除き、受蘊、想蘊、識蘊を滅することができる。無色界の衆生は色身がないので色蘊がないが、受想行識の四蘊はある。欲界の衆生は一般に五蘊が同時に現起し、六つの識も同時に出現し、同時に運作起用する。一つの識の起用から別の識の起用に移るのではなく、跳び回るのではなく、六識が同時に存在し、同時に運作し、各々の識種子が流注し、各々の出生の場所があり、互いに移転せず互いに障害しない。

たとえば目が色を見るとき、眼識が色塵を分別し、同時に耳識も声を聞いた。このとき意識心は何をしているのか。意識心は眼識、耳識、鼻識、身識と共にあり、共同で色声香味触法を分別している。話すとき、舌識は口腔の中の味を感知でき、鼻識は周囲の気味を嗅ぐことができる。六識はすべて運行しており、七識、八識も運行しており、八つの識は各々自分の事業を行い、互いに配合して互いに乱すことがない。

<h4 style="text-indent: 2em;">十二、穿衣喫飯の活動の中での観行</h4>

毎日、食事という法がどのように生滅変異無常なのか、どのように苦なのか、どのように空なのか、どのように無我性・無主宰性なのかを観行しなければならない。毎日、着衣という法がどのように生滅変異無常なのか、どのように空なのか、どのように苦なのか、どのように無我性・無主宰性なのかを観行しなければならない。

着衣喫飯の中の受覚がどのように生滅変異無常なのか、どのように空なのか、どのように苦なのか、どのように無我・無主宰性なのかを観行する。着衣喫飯の中の想蘊の了知性がどのように生滅変異無常なのか、どのように空で苦なのか、どのように無我・無主宰性なのかを観行する。着衣喫飯の中の身体と心識の行為造作がどのように生滅変異無常なのか、どのように空で苦なのか、どのように無我・無主宰性なのかを観行する。着衣喫飯の中の識性がどのように生滅変異無常なのか、どのように空で苦なのか、どのように無我・無主宰性なのかを観行する。

<h4 style="text-indent: 2em;">十三、逆縁出現時に無我を観行する</h4>

身体が逆縁に遭遇したとき、かく考えるべきである。色身とは何か。色身は四大が組み合わさって成る一つの肉体であり、肉体は細胞が累積して形成した筋肉、骨格、血液などが組み合わさって形成した木のような身体である。この身体は生滅変異するものであり、組み合わされ変造されたものであり、無常、空であり、我ではない。もしこの身体が我であるなら、この身体が滅したとき、我も滅するのか。実際には我は滅せず、我にはなお下一世があり、無量世がある。それゆえ、この身体は我ではない。色身が我ではないことを観行するには、非常に深い禅定が必要であり、この色身を機械のように、ロボットのように観行する。この色身の生住異滅は我の制御するところではなく、それゆえ我ではない。これは一つの総原則であり、細部は自分で一つ一つ観行し、種々の認知は自分で証実確認しなければならない。

さらに受蘊を観想する。境界が我の心思に合わないとき、私は怒った。怒りは我の感受である。この感受は真実なのか。この感受はどうやって来たのか。感受は意識心の受であり、痛いと感じるのは身識の受であり、すべての受はいずれも六識の受である。六識の受は我なのか。真実なのか。この受は識種子が生じて生じたものであり、刹那刹那に生滅変異するものである。受もまた虚妄、空、幻化であり、しばらくすると消失する。それゆえ、受は我ではない。今殴られ罵られて感受が良くないと感じるが、しばらくしてもし富を得て宝くじに当たれば、感受は良くなり、楽しくなる。それなら、この生滅変異し絶えず転化し、固定できず、永遠に常存できないこのものは、根本的に真実ではなく、我ではない。ならば私はなおそれに執着して何をするのか。

さらに想蘊を観行する。逆縁を了知する心は想蘊である。この想蘊はどうやって来たのか。識種子が生じて識陰を形成し、識陰が一たん運作すれば、了知性が生じる。この了知性は生滅変異するものであり、常存せず、幻化であり、空である。それゆえ、想陰というものも我ではない。永遠に常存せず、本来存在せず、後天的に生じた法は、いずれも我ではない。この想蘊は、眠ってしまえば何も知らず、他人がどう罵っても知らない。それゆえ生滅虚妄であり、常存せず、固定不変ではない。それゆえ我ではない。

次に行蘊について言えば、六識の行為造作であり、身行、口行、意行を含む。心の中のすべての念頭思想、了別性、感受性、念念生滅変異するものはいずれも行蘊に属する。行蘊という識心の運転も生滅変異するものであり、固定不変で永遠に長存するものではない。それゆえ、これも我ではない。

六つの識の識蘊、識自体の運作、心所法を含め、いずれも生滅変異する。それゆえ、五陰自体を総括して言えば、固定不変の法は一つもなく、いずれも生滅変異無常であり、しばらく有りしばらく無く、しばらくこうでしばらくああで、いずれも固定しておらず、いずれも出生された法であり、いずれも真実ではない。

怒りは一種の覚受である。この法は真実なのか。真実ではない。しばらくすると怒らなくなる。それは絶えず変化している。それゆえ、すべての心識の作用は全部虚幻であり、真実の法はない。もし死んだ後、色身の上に識心の運行がなければ、他人があなたの色身を殴っても、まだ痛いと感じるのか。感じない。まだ怒るのか。根本的に怒らなくなる。それゆえ、識心が色身を離れると、色身は木のようであり、根本的に我ではない。たとえ色身の上の識心でさえ我ではないのに、まして色身はなおさら我ではない。我がないのであれば、誰が誰を怒らせ、誰が怒らないのか。

<h4 style="text-indent: 2em;">十四、断我見の着力点は我であるべき</h4>

問:見分 (darśana-bhāga) は何を見るのか。見自体は一種の用であり、鍵は見られるものが何かにある。性境であれ帯質境であれ独影境であれ、見られるものはすべて相分 (nimitta) である。相分はまたすべて第八識が変じたものであり、一つとして実有なるものはなく、それゆえ相分を断我見の着力点とすべきではないか。

答:断我見の着力点は我であるべきであり、我の見を断除してこそ断我見できる。この我とは何か。誰が我見を有し断除する必要があるのか。六・七識が我見を有し断除する必要があり、六・七識の我見を断つのである。六・七識は何を我と見なすのか。能見聞覚知の功能作用を我と見なし、すなわち見分を我と見なし、また見聞覚知される法を我所と見なし、すなわち相分を我所と見なす。我と我所の真実不滅性を破除してこそ断我見でき、六・七識はこれらの法を我と我所と認めなくなり、我見はなくなる。

能見は前の七つの識であり、見分であり、第八識が出生したものである。それゆえ、能見は生滅虚妄である。所見は一切の法であり、相分であり、七識自体と第八識を含む。第八識を除き、其余の一切の相分はすべて第八識が出生したものであり、いずれも生滅虚妄である。それゆえ、能見と所見のいずれであっても、その虚妄無我性を証得し、いずれも断除して執着しないべきである。

断我見は自分の五蘊十八界の上で着力し、五蘊の各々の功能作用の上で着手し、十八界の功能作用の上で着手すべきである。色蘊の虚妄を観行し、どのように生滅するかを観行し、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の生滅、虚妄、変異性を観行する。六根の生滅変異不実性を観行し、それから六塵六識もいずれもその生滅変異不実性を観行しなければならない。

断我見は相分の上で用功する。この相分は第八識が現起したすべての相分を含み、七識心も含む。もしこうであれば、第八識を除き、すべて虚幻であり、我がなく、五蘊と七識がない。七識という見分が最も重要であり、必ず七識の無我性を深く透徹して思惟しなければならない。七識もまた第八識が変現した相分であり、それから見分として、第八識が現起した他の相分を分別する。見分と相分の二者はいずれも虚妄不実である。

<h4 style="text-indent: 2em;">十五、修行の難しさは思想観念の転換にある</h4>

絶えず色受想行識の功能作用を思惟する。来たるところなく、去るところなく、幻化不定である(実はいずれも如来蔵の中から来たものであり、いずれも如来蔵が出生し賦与したものである)。徐々に深く認識できるようになる。自我で操作できない法は、不自在であり、真実性があり得ない。真実性がないのであれば、実質的ないわゆる我性もなく、不自在の法には我性がある可能性はなく、我である可能性はない。

これらの観念は徐々に形成しなければならず、一定の程度に達すれば断我見でき、さらに我執の煩悩も断除でき、それによって身心ともに自在と解脱を得られる。我々が断我見し難いのは、過去無量劫以来の不如理の観念が深く心中に置かれ、容易に転換できないからである。観念が転換しなければ、我見は断除できない。観念の転換こそ、我々の修行の最も重要な内容である。旧い思想観念がひとたび転換すれば、従前の邪見妄想を容易に転覆し、正しい知見を樹立し、大智慧を獲得し、五陰の身心は解脱を得ることができる。

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