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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 分類: 二乗解脱 更新時間: 2025-02-27 閲覧回数: 3179

第三節 五蘊の総合的観行方法

一、我見を断つことの重要性

我見を断つことには、色身に対する我見と識心に対する我見の断絶が含まれる。色身の我見を断つには、色身が幼少期から成長期にかけての生滅変化を観行し、色身が生滅変異する無常・苦・空なるものであることを確認しなければならない。心に「苦しむのは私ではなく、私は苦しまない」という観念を確立する。これが永遠の真理であり、この観念を心に確立すれば、色身の無常と苦を観行できる。色身は因縁によって生じ、因縁あれば色身は生じ、因縁尽きれば色身は滅する。生滅変異する無常苦なるものは即ち私ではない。こうして色身に対する我見を断つことができる。

識心の我見を断つには、識心の生滅無常性を思惟しなければならない。識種が刹那生滅して識を形成する様は、水滴が連なって水流を形成するようなものである。水滴が循環流注して連続不断の水流を形成するが、もし心に真実の水流が存在すると考えるなら、これは錯覚であり水流の仮相に騙されているのである。識種が次々と速やかに流注して識を形成するが、実際に連続不断の識心分別が存在すると考えるのも錯覚である。この理を深く思惟すれば、識心を我とする邪見を断つことができる。識種の流出には因縁があり、因縁和合すれば識は生じ、因縁散滅すれば識種は生じず識心は滅する。三昧の中でこの理を深く認めれば、識心を我とする邪見を断つことができる。

小乗の四阿含をよく修め、まず我見を断ってから明心に至れば、我見は容易に徹底的に断たれ、煩悩性障は速やかに降伏される。直接禅を参じて明心する場合、無我の修行基盤がなく定力不足であれば、解悟の要素が多く我見は徹底的に断ち難く、あるいは全く断たれないかもしれない。そうなるとこの所謂る「私」が常に波乱を起こし、悪行を造り自らの道業を阻害する。我性の強い者はこのように常に問題を引き起こすものである。故に我性を降伏させることは修行において自他共の利益にとって極めて重要であり、一旦自我を降伏させれば生生世世にわたって無尽の利益を受け、心に苦悩が生じない。

二、能所ある五蘊の不実性を観行する

五蘊の無我を観行するには、五蘊を二つの部分に分けて観行する。一つは色身、もう一つは識心である。識心が色身に作用して五蘊を形成する。身心を静めた後、禅定に入って深く観行し、色身の無常性・生滅性を感得する。色身の生・住・異・滅を思惟し、色身の無常と空幻を確かに知り、次に色身の苦を感受する。定慧等持の三昧が現れると、色身の無我性を証得できる。前世の色身、後世の色身を観行し、どの種類の色身も生滅・変異・苦・空・無常・無我であることを知る。次に識心の生滅変異性を観行する。どの識も、一切法を覚知する機能作用のある識心は全て生滅・空・苦・不実である。

五蘊を能所二つに分けて観行する方法もある。能は六識の能見性、所は六識の所見たる六塵である。眼が色を見る時、能見の眼識と所見の色塵を分離し、両者の生滅変異性を深細に観行する。耳が声を聞く時も、所聞の音声と能聞の耳識に分け、両者の生滅変異性を観察する。鼻が香を嗅ぐ時、所嗅の香塵と能嗅の識心を分け、両者の生滅変異無常性を思惟する。舌が味を嘗め、身が触を覚え、意識が法を思う時も、全て能所二つに分けて観察思惟する。

観行を深めた後、内心が真に透徹すれば、心に震動が生じ自我に対する知見が覆される。一切時にわたり六根が何に触れようとも、六識が何を分別しようとも、五蘊全体が心から色身まで空殻のように感じられ、自らが空・無常・不実・無我であることを切実に感得する。観行が成就する時、内心の覚受は天地が覆るほどの変化を生じ、心に空々たる覚受が現れ、行住坐臥一切時にわたり自我身心の虚妄不実を深く感知する。

このような我見を断つことが真実正真正銘の我見断絶であり、口先や理論上の我見断絶ではない。その後の修行は大小乗を問わず着実に速やかに進歩し、煩悩は日に雪が解ける如く消え、身心軽安を得て今生後世に大いなる利益を受ける。故に皆様に申し上げる、この法は如何に難行であれ必ず実践し、我の生死見を断じなければならない。

三、五陰の和合相は真実の相ではない

五陰十八界の我は七つの識と色身が和合して形成され、五受陰が組み合わさり、六根六塵六識が結合した虚妄の仮法であり真実ではない。単独の受陰は我ではなく、和合したものは更に我ではない。単独の界は我ではなく、和合したものは更に我ではない。真実の我は和合によって生じたものではなく、本来存在し独立した自主性を有し、外縁によって決定されない。

現に見る衆生の五陰は独立して存在せず、様々な因縁の集まりによって形成される。五受陰は組み合わされ、十八界は結合され、いずれも独立した自主性・実在性がなく、即ち我性が無く空であり、単なる仮名である。因縁が滅する時、組み合わされた各部分は散じ仮体は消失する。集団が多数の人々で構成される如く、単独一人は集団ではなく、結合したものも真実の集団ではない。自主性がなく、因縁が消滅すれば人々は散り散りになり集団は存在せず、存在しても仮名に過ぎない。故に集団は集団ではない。

家庭が父母子女で構成される如く、単独一人は家庭ではなく、結合したものも真実の家庭ではない。現象上は存在するように見えても、実質は無である。実質的なものは真実永遠不変で外縁に左右されない。家庭という仮相は多くの因縁要素によって形成され、因縁が消滅すれば要素も消亡し家庭の仮相も滅する。故に家庭は家庭ではない。家屋が煉瓦・木材・セメントで構成される如く、一部の材料を除けば家屋は倒壊し仮相は消滅する。故に家屋は家屋ではない。机椅子が木材と釘等で構成される如く、一部の材料を除けば机椅子の相は具足せず散壊する。木材と釘と呼ぶべきで机椅子の仮相は消滅する。故に机椅子は机椅子ではない。五陰の我は我ならず、意根の我は我ならず、意識の我は我ならず。

世間の一切相は多くの元素の和合によって存在するが、各元素に自性なく、和合したものは更に自性がない。因縁が散じれば一切は滅する。故に世間は世間ではない。因縁によって形成された法は永住せず、永遠に存続しない。故に我々は執着すべきでなく、貪るも無駄、執するも無駄、如何に執着しても最終的には離散する。執せず早く貪心を捨て、煩悩を断ち、束縛を解脱し、本性に回帰して自由自在となるべきである。

四、六識の分別が何故錯覚なのか

法は色法と心法を含み、五蘊は全て法である。六根・六塵・六識も全て法である。法無我を観るとは、五蘊十二処十八界が和合して生じた一切の法の中に我が無く、全てが我でないことを観るのである。六識は刹那生滅し、全て第八識から生じた虚妄・変異・無常・苦・空なるもので我ではない。七つの識は刹那刹那に生滅変化し続け、一弾指の間に八万一千の種子が生滅する。極めて速やかなため、識種子の生滅現象を感じられず、識心が連続不断であるように感じ、識心の分別が常に行われているように思う。実際には識心は連続ではなく断続的で、生滅が極めて速やかなだけである。

あまりに速やかなため、覚知心は刹那の断続現象を弁別できず、錯覚を生じ、自らの心が連続不断に運行していると感じる。松明を速く回転させると火の輪が見えるように、火輪は真実の如く感じられるが実際には存在せず、松明一本に過ぎない。眼識は無始劫以来ずっと仮相に騙され、真実の現象を見極められず、錯覚を起こし仮相を真実相とする。映画・テレビの人物活動のように、全ての動きは一コマ一コマのフィルムが連なり、再生速度が速いため連続的と感じ、連続性を真実と錯覚する。

全ての所謂連続性ある事物を一点一点に分割すれば、これらを真実と見做さなくなり、内心は虚妄を感じるようになる。修定はこのような作用を起こし、心を安定させ澄ませば、次第に真理を認識し一切法の真相を見極められる。

衆生の六識は全て錯覚を有し、六識が分別する一切の法が断続的で連続不断でないことを知らない。六識には覚知の残存作用があり、直前に消えた現象を識心がまだ原処に動かず存在すると錯覚する。例えば眼識が色を見る時、色塵は直ちに過ぎ去るが、視覚に残存作用があるため引き続き色を見ていると感じ、しかも直前の色相を見ていると錯覚する。実際には直前の色相は既に滅去しており、前刹那の色相を見ることはできない。一つの色相一つの色相が刹那に過ぎ去り、互いに連接しないが、意識は直前の色相が動き続け存在し続けると錯覚する。これが幻覚と錯覚である。

眼識の錯覚作用により、見ているものが完全で連続的な色相であると感じるが、実際には一点一点が連接したものであり、前後は完全に同一ではない。色相は断続的に変化し、同一の色相ではない。眼識は刹那生滅し、意識は刹那生滅し、色塵は刹那生滅し、法塵は刹那生滅する。一つの法も次の刹那まで継続できず、衆生は偏偏一切の法が連続的で真実であり、元の法であると錯覚する。元の法など存在せず、全ては変異した法である。

世尊は『金剛経』で三心不可得と言われた。過去の六識心は滅し不可得、現在の六識心は刹那生滅し同様に不可得、未来の六識心は未だ生じず了不可得。六塵境界も過去現在未来の三際にわたり不可得である。我々は無量劫以来自らの識心に騙され、見るもの全てを真実と錯覚し、その虚妄不実を知らない。故に一切の法は生滅変異し真実の我ではなく、色法と心法は無常の法で、第八識によって刹那に生じた空幻の法である。

五、如何にして五蘊十八界の虚妄を観行し証明するか

色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊を観行する時、次の如く観行すべきである:色受想行識は本来有る法ではなく先天存在する法ではない。故に五蘊は真実の我ではなく本来の我ではない。我々の見聞・思量・識別・有所得心・希求心・反観の心、及びこれら法を証知する心は、全て本来有るものではなく自然有るものでもなく、本来の我でも真実の我でもない。これら法は生滅無常の法で永久不変の法ではない。故に全て我ではない。五蘊の生滅無常変異性・非我性を観行した後、更に識心の各種境界が生滅・無常・虚妄・非我・非我所有であることを観行する。我々の現在の一切の自我存在感は五蘊の仮我識蘊であり、生滅・無常・苦・空である。

世尊は『阿含経』で明らかに説かれた:凡夫が感知し得る一切は虚妄で真実の法は無い。真実の如来蔵は我々が現在感知できないが、感知できる時が如来蔵を証得した時である。その時禅宗の公案が一部理解でき、大乗経典も一部理解でき、他人の説法の正誤も弁別でき、智慧は次第に増長する。

五蘊の観行には現象の観行と実質の観行があり、この二点を突破し現象と実質の関係を明らかにし、両者を融合させて観行すれば、我見を断ち初果を証得し易く、明心証悟も容易である。五蘊は目に金星が飛ぶ時の金星の如く、金星の有無・空不空、或いは両者を兼ねるかを観行する。空と有の関係を反復観行し明らかにするのは容易な事ではない。故に多くの学仏者の中で初果を証得する者は極めて稀で、ほとんど存在しない。

各人が無始劫以来の誤った知見を覆すことは非常に困難で、反復熏習し反復観行思惟し、習慣的な認知と不断に戦い、深く禅定観行して初めて悟入が可能となる。不断の観行思惟により定慧等持の三昧が現れた時、初めて仏の説かれた各真理を真に証得できる。五蘊皆空は仏が与えた最終結論であり、中間の修証過程は各人が自ら完成せねばならず、他人は代われない。五蘊の虚妄無我は言うまでもなく、目に金星が飛ぶ時の金星の有無でさえ、自ら仔細に思惟して正しい結論を導かねばならない。表面は簡易に見えても実修による証明は容易な事ではない。

結論を理解しただけでは不十分で、実際に観行を実践し、全ての証拠を挙げ確証を得ねばならない。修行は幾何学の問題を証明する如く、結論は与えられ中間の段階的証明は自ら完成する。仏法も同様で、仏は結論(真理)を与え、修行者は自ら方法を考えてこの結論を証明し真理を認め、意根自らがこの結論を証明する。これを自ら仏法を証得すると言う。

六、如何により効果的に五蘊十八界の虚妄を観行するか

五蘊十八界の虚妄非我を観行するには、五蘊を分けて観察するのが最良である。五蘊が現に活動する時、何が色蘊か、何が受蘊か、何が想蘊か、何が行蘊か、何が識蘊かを明確に分ける。分けた後初めて各蘊の虚妄性を容易に識別でき、各蘊が如何に虚妄かを知る。十八界も同様で、身口意の一切の行為造作の現に、十八界を分けて観察し、一界ずつ分けた後観行すれば、各界の虚妄性を見極め易い。

衆生が無始劫以来自らの生活する世間を真実と見做す理由は二つある。一つは衆生が無始劫以来無明の中で熏染され、無明が余りに深重で仮を真と認め、世間の真実の相貌を知らないため。もう一つは世間が余りに立体的で豊富多彩なため、世間が非常に真実で頼りになると感じるため。立体的とは、眼が色を見、耳が声を聞き、鼻が香を嗅ぎ、五蘊全体が和合し、十八界の機能作用も全て和合し、プログラムが複雑かつ体系的で、顕れる一切の法が極めて真実的で現実的であることを指す。大いなる善根と福徳が無ければ、五蘊の実質が何であるかを反観し認識する能力は無い。

五蘊の活動は錯綜複雑だが極めて秩序と法則があり、衆生は五蘊を真実と感じ、五蘊活動の存在を当然と見做し、天然存在と考え、その当然性や理非を考慮せず、自然にこれら一切を受け入れる。自然に従うことが無始劫以来の無明である。五蘊の活動の中で真法と妄法が和合し互いに分離せず、衆生は五蘊を真実と感じる。五蘊を真実と見做す時、背後にある真実の如来蔵は覆い隠される。

この和合した立体的な五蘊世間を分離し、徐々に平面化し部品に分解できる。例えば自動車や家屋を分解し部品にすれば、「ああ、原来こんなに虚妄で真実ではないのか」と分かる。部品が組み合わさって全体となる時、我々は自然に五蘊を真実と見做すが、五蘊を分解すれば虚妄性を観行し易い。例えば自動車を部品に分解すれば、真実の自動車は存在せず、普通はこれらの部品を自動車と見做さない。

五蘊十八界も全て分解し、七識八識も全て分離する。分解後各蘊が如何に虚妄か、各界が如何に虚妄か、六根が六塵に触れることが如何に虚妄か、七識の機能作用が如何に虚妄かを観察できる。五蘊全体を一つ一つの単独部品に分解し、極めて細かくすれば、「原来五蘊はこんなに虚妄で不実なのか」と知り我見を断ち、次第に解脱を得る。これら法が全て虚妄と知った後、残る一法に対し疑問が生じる:「全て虚妄なら、何故五蘊の機能作用が存在するのか?」心中に大いなる疑情が現れ、これにより如来蔵を証得し易くなる。

七、観行には五陰の内包を明らかにすべし

永嘉禅師の奢摩他頌は、如何に正しく禅定を修行し智慧解脱を得るかを説く。定中で観想する時、歴歴たるものは識陰、領納するものは受陰、心がこの理に縁するのは想陰、行用するのは行陰、真性を埋蔵するのは色陰である。

観想思惟する時、明らかな状態は識陰境界である。観想内容と覚受を領納するのは受陰境界。観想内容に縁するのは想陰境界。心が念念に流動するのは行陰境界。この四陰は不断に生じ、流転し、変異し、流逝する。無常で空幻不実、その変異不停に苦受が生じ、特に速やかな変化と流逝を望まないことが苦受である。苦は我でなく、空は我でなく、無常は我でなく、変異は我でない。何故我でないか?只意会すべく言葉で伝えられず、自ら定中で体得する。思想は互いに代替できない。

無常生滅変異は比較的観察体会し易いが、このような法が我でないと認知するのは困難である。これは観念の問題に関わり、自ら観念を転換するしかない。他人は食事を作り運び、口に運び咀嚼し消化する事さえできるが、実際には代替できない。

八、如何に細かに五陰十八界を観るか

五陰の虚妄を観行するには五陰十八界を逐次観行し空と見る。まず五陰を空と見、最後に定中観行を通じ論拠を充分にし、真に五陰十八界が空であることを確認する。単に空と見るだけでなく、五陰十八界が実際に空であることを証知せねばならない。如何に五陰十八界が空であるかを観行するか?五陰の概念と内包範囲機能作用を観行し明らかにした後、如何に虚妄で如何に非我かを知る。第六識の全ての体性も空で無我である。離念霊知心・各種禅定中の意識心・受ある意識・想ある了知する意識心・行相ある意識心・分別了別思惟推理する意識心等、全てを観行し全面的に虚妄性を確認する。

元来意識心を我と感じていたが、観行思惟の結果、意識心は全く我でなく単なる道具であると発見する。心中に知がある時、この知は意識心の知である。次に意識心の生滅性・無常性・変異

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