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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年12月04日 閲覧数: 8688
<h3 style="text-indent: 2em;">第三節 断我見の前提条件</h3><h4 style="text-indent: 2em;">一、証果の前提条件</h4>

聖弟子は五陰を如実に観察し、五陰の無常性、苦性、変異性、非我性を観察すれば、五陰は無我であり、我ではなく、我と異ならず、相在しないという真理を証得することができる。五陰の空性 (śūnyatā) を証得し、初果を証得するための前提条件として、三十七の助道の法を修め終えなければならず、修道の条件を円満にしてこそ、観行 (vipaśyanā-caryā) が成功するのである。それら助道の法を修めていない、あるいは修め終えていないならば、五陰無我を観行することはできず、証果もできない。だから先に四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚分、八正道などの三十七道品を修めなければならない。

三十七道品の修行の次第は大体以下の通りである。最初の五根の信根から起修し、五根が増長して五力を具足し、その後八正道に入り、思惟修を発起し、七覚支を修習し、念覚支の中で四念処観を修習して善法味を得、四正勤を起こし、最後に結果として、勤苦な修習を経て四神足の果楽を得て、心は自在解脱を得る。

三十七道品の每一品において、意識が修習して獲得するだけでなく、同時に意根も薫習し、意根も三十七道品を修習しなければならず、しかも円満具足して、每一道品を獲得し、四神足を成就しなければならない。

意識の念力が意根を薫修し、意根の念力を具足させ、信を成就させる。每一の法は最初に意識が薫修して導き、意根が具足すれば、それが実証であり、修行は成就する。身心が実有ではないことを証得してはじめて解脱を得ることができ、身心は実有ではないと考えるだけでは、解脱を得ることはできない。考えることと証得することとの間の距離は、遠くも近くもなり、完全にその人の修持の程度による。修持がなければ、その差は多くの劫に及ぶかもしれない。

<h4 style="text-indent: 2em;">二、観行に必要な条件は三十七道品の具足である</h4>

断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) によって小乗の初果を証する時、同時に三縛結を断じ、三悪道の業を消滅させ、未来永く三悪道に堕ちない。これが断我見によって最初に得る自らの利益である。どのように断我見するのか。世尊は『雑阿含経』の中ですでに衆生のために明瞭に宣説しておられ、五陰の虚妄性、無常性、空性 (śūnyatā)、変異性、苦性、無我性を観察させ、五陰を一つ一つその体性を観察思惟させる。これを観行 (vipaśyanā-caryā) という。観行には相当良い定力 (じょう) が必要であり、三十七道品をしっかり修めてこそ、観行が成就するのであり、十八界もまた一つ一つの界についてその虚妄性、生滅、無常、変異性を観行し、最後に五陰十八界はいずれも真実の我ではなく、また我の所有するものでもないと確認する。内心で本当にこの点を確認すれば、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じたことになる。これ以後、内心の深処で五陰を真実の自分と認めることはなくなり、こうして自分を縛って生死流転させる三縛結の我見 (satkāya-dṛṣṭi)、戒禁取見、疑見も断じられ、これ以後三悪道に堕ちることはなくなる。

この目標まで修めるには、世尊が阿含経の中で説かれた四聖諦の法義を修学して通透しなければならず、定力 (じょう) が良くなってから一つ一つ観行する。これが断我見の大体の道筋である。その中で八正道は必ず実行しなければならず、すべての身口意行が八正道に適合してこそ、修行が成就し、衆生が仰ぎ慕う聖賢の人となることができる。識心があれば、五陰の受想行識があり、五陰の虚妄非我性を観行し、色身の虚妄性と識心の虚妄性をともに観行して、非常に確信し認めたならば、断我見して証果することができる。福徳などの因縁が具足すれば、いかなる法の上でも観行思惟することができ、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断除することもでき、観行によって第八識を証得することもできる。それは福徳、定力 (じょう)、智慧と因縁の時節次第である。

<h4 style="text-indent: 2em;">三、修行の過程があってこそ修行の果がある</h4>

四聖諦、四正勤、四神足、五根、五力、七覚分、八正道というこれらの内容は、いずれも見道の前に修行すべき法であり、大小乗の修める三十七道品は大同小異で、修行の過程も相似でよく似ている。これらの過程の薫習がなくて、突然一つの果が現れ、聖人となるなら、この果は極めて信頼できない。果と結論は剽窃することができ、すべての知見は暗記することができ、本を何冊か多く読めば暗記することもでき、想像で作り出すこともできる。

しかし、これらの過程は誰にも剽窃できない。見道して証果する人は必ず経歴しなければならない過程であり、各人の過程は前世の根器 (indriya) が異なるため、いくらかの差異があるかもしれない。前世ですでに証果した人は、今世これらの過程をすぐに通り過ぎて経験するかもしれないが、その他の人はそうはいかず、いずれも一つ一つ実践実証し、各関所をすべて通過しなければならない。大乗の果位も同様である。これらの過程をすべて経験してこそ、身心が転変し、証果の時に極大の解脱の功徳受用がある。これらの過程を経験していない人の得る果は、空中の花のようで、観賞できるだけで、実用価値がなく、解脱の功徳受用がない。プラスチックの果がまさにそうで、飾って観賞することしかできず、腹を満たすことはできない。

いわゆる実修とは、大小乗の三十七道品の修行内容である。これら具体的でまた具体的な修行内容を離れれば、実修ではなく、結論だけあって過程のない修行はいずれも実修ではなく、理論だけ学ぶのも実修ではない。理論は幾地の菩薩の理論まで学ぶことができるが、たとえそれらの理を理解しても、実際に証得することとは無量劫、二つの無量劫の時間の差がある。一、二の無量劫以後の理論を今学んで、自分がすでに掌握したと思い込み、自分は聖人だと断定する。前の道はすべて歩く必要がなく、実際の修行の過程はすべて経験と実践を必要としないとすれば、このような修行は夢幻泡影であり、空花を得るだけで、空果を結ぶだけである。

<h4 style="text-indent: 2em;">四、念覚分の生起は証法の前提条件</h4>

七覚分の中で最初は念覚分である。意味は、ある法を学んだ後、この法を了解し、この法を認識し、そしてこの法を覚えていることである。法が心に入った後、心中にこの法があり、普段この法を憶持することができ、この法を思い、この法を思考し、境に遇えばこの法を如実に観察できる。これが法を証得する前提である。途中で一つでも環節・段階が欠ければ、念覚分も七覚分も円満でなく、法を証することができない。そして法が心に入り憶持できるようになった後は、毎日本から手を離さずにこの法を学ぶ必要はなく、そうでなければ念覚分が生起していないことになる。では、学仏修行のどの段階で念覚分が生じるのか。

どのような人が法を学び終えた後、どのように学んでも心に入らず、覚えられず、思い出せず、本に頼らなければ法を了解できず、本の中で説かれる法を思惟することしかできないのか。まだ念覚分が生起していない人は法に対してあまり印象も興味もなく、まさにこのようで、念力が非常に弱い。興味を高めてから、法の重要性を知ってから、はじめて心が時折法を念じることができる。

例えば、小乗法の五陰無我を学び終えた後、本を見ながら色声香味触法の六塵はすべて空で、仮で、真実ではないと知っているが、本を離れて振り返って六塵の境界に遇うと、色塵を見てなお非常にえり好みし、非常にこだわり、最良のものを求め、自分に少しの我慢もさせたくない。声を聞いても非常にえり好みし、非常にこだわり、香りを嗅いでも非常にえり好みし、香臭に非常に執着し、触法に遇っても同様に、非常にえり好みして執着し、自分がさっき六塵は虚妄で得るところがないという文を読んでいたことを完全に忘れている。これらの現象は、この人の六塵空仮という法に対する理解が心に入っておらず、憶持性がなく、思考観察ができず、念覚分がまだ生起していないことを示している。では、いつになったら六塵の無常無我を証得できるのか。期日はなく、うしろ年かもしれず、うま月かもしれない。

<h4 style="text-indent: 2em;">五、理の明らかであることが解脱の前提</h4>

解脱したいなら、仏理に従って修証し、断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) し、五蘊十八界の空を証し、人我なく四相なきこととしなければならない。さらに五蓋を捨離し、初禅を発起し、煩悩を断じ我執を去って、命終してはじめて三界を出て、解脱を得ることができる。何が我であるか、我とは何であるかを知らず、七識と五蘊を固く執したまま、破執と放下を空しく叫ぶだけでは、徒労にすぎない。

小乗の解脱と放下は、必ず五蘊十八界の虚妄を観行し、一つの蘊ずつ観し、一つの界ずつ観し、漸次に初果から四果まで証して出離を得るほか、他に道はない。外道はこの理を知らず、積年修行して最高の禅定を修め、最高層の天に生まれ、定中の境界を涅槃と固く執するが、定境は法塵であることを知らない。知があるということはすなわち想であり、すなわち我であり、なお五蘊の中にあり、生死を出られない。いつ解脱できるか、遥かに期すべしである。だから理が明らかでなければ、禅定がいかに強くても、解脱できない。

<h4 style="text-indent: 2em;">六、心行が八正道に適合してこそ証果できる</h4>

四聖諦の法、苦集滅道も内法と外法に分けられ、道諦の中の八正道を修めることも、内法と外法に分けられる。八正道を修め終え、小乗の三十七道品を修め終えて、はじめて断我見の条件が満たされ、その後に証果できる。心行が八正道に適合しなければ、聖賢とするに足らず、証果できない。八正道の中に正定があり、意識の外定法と意根の内定法に分けられる。だから意根は必ず定 (じょう) と相応し、意根が定を完遂してはじめて正智慧が生起し、断我見して初果を証することができる。さもなければ、すべては偽果・プラスチックの果で、見ることしかできず、使うことができない。

<h4 style="text-indent: 2em;">七、非常に実際的な修行方法があってこそ実修である</h4>

仏の説法には、理論の部分があるだけでなく、さらに実修の部分があり、必ず弟子の修学に入手の処を与えてくれる。なぜなら、ブッダ自身が経験者であり、最高峰に立って、山の麓の四方八方の衆生をゆっくり山腹と山頂へ登らせる能力を完全に有しているからである。仏の説かれる法を修習することは、華麗で高度な理論だけあって実際に実行可能な入手方法のないものを崇拝するより、はるかに良い。実際に実行可能な方法を提供できない人は、自分自身が修習して成功したことがなく、自分自身があの道を通り抜けたことがないことを示しており、それに従って学ぶ人がどうして通り抜けられようか。

実際の修行のない人が法を説くと、しばしば衆生に空の星を摘むよう導くが、衆生に雲の梯子を架けてやる方法がないので、後の衆生はただ哀れに足を伸ばして星空を仰ぎ見るしかなく、どんなに努力しても、星との距離は依然として元のままで、どうしても届かない。ある人は自分が星を摘み取ったと思い込んでいるが、実はそれはただ水の中の影にすぎず、真実の果を得たのではない。もし理論だけ説いて、着手の方法がない人がいたら、警戒すべきであり、自分の貴重な時間をいたずらに空しく費やしてはならない。

真に実際的な着手修行は、一つの法門から三昧 (samādhi) を証得すれば、その他のいかなる三昧 (samādhi) にも容易に入り込むことができる。なぜなら、三昧 (samādhi) は相通じており、方法も相通じており、一つの方法で入れば、その他の方法も掌握できるからである。恐れるのはただ、皆が決心して一つの方法を見つけ実際に用功することなく、苦を食べることを肯んじず、精力を費やすことを肯んじないことである。もし各方法をすべて試みるが、トンボが水面を点すように浅く嘗めてすぐやめるなら、いかなる法門も修成する方法はない。

<h4 style="text-indent: 2em;">八、四加行の円満も証果の前提条件</h4>

小乗の証果の鍵は七覚分の修持であり、七覚分はすでに大体説いたが、具体的な修行はさらに個人の努力に依拠し、できるだけ各種の因縁条件を完善して、はじめて証果に一定の把握が持てる。修行の過程はまた四加行の過程であり、暖、頂、忍、世第一法という四つの過程は、文字理論の基礎の上で、内心の加工の過程である。加工の過程の中で、内心には必ず次第に相応の変化が生じる。これは観行 (vipaśyanā-caryā) の法義が次第に内心の意根と相応し、意根が次第に領納領受する過程であり、もちろんまず意識が先に領納領受し、勝解 (adhimokṣa) を生起し、それから意根に伝えて、意根に領納領受させる。意根が領納領受した後、身心は次第に転変し、七覚分が一つずつ現れ、定覚分が現れた後にこそ、大智慧で五陰身心の法相を捨て去り、さらに法を証して、世間第一法を超越した初果人となることができる。もし身心に変化がなく、転変がなければ、七覚分が成就せず、断我見は不可能であり、証果も不可能である。

暖相とは、文字理論を通して、自ら思惟観行 (vipaśyanā-caryā) し、内心に暖相が現れることで、火花を擦り出すように、心が正しい理論をいくらか認め、初歩的な認知を持ち、興味を持ち、さらにその内包を深く探求したいと思うようになる。

頂とは、理論に対する認知が一定の程度に達し、一定の高さがあり、五陰身心の空を了解し理解して、五陰に対する認知の頂点に達することである。この時は完全に意識の認知と勝解 (adhimokṣa) であり、まだ意根に達していないため、内心にはなお躁動があり、五陰空の認知の上に安住することができず、進むことも退くこともできる段階にある。

この段階で、ある人の内心には激烈な反抗が生じ、思想が躁動して落ち着かず、情緒に起伏変化がある。ある人は万分に苦悩し、理由もなくイライラしたり情緒が沈んだりするかもしれない。この段階を過ぎれば、情緒は正常に戻り、次の段階に入り、意識が空に安忍するだけでなく、意根も安忍する。さらに深く追究し探求し続け、一体なぜ五陰は空で、実在しないのかを究める。

第三の段階は忍である。忍とは、すなわち安住であり、空義の上に安住し、五陰の無常性を忍可するが、まだ真の証得ではない。なぜなら、証拠がまだ十分でなく、内心の考量がまだ足りず、真にその理を確認することができず、ただ内心が躁動せず、比較的落ち着いているだけである。また証拠を探す努力をし、現量で五陰身心の実質を観察する努力をしている。この時、身心の覚受はますます軽安となり、ますます歓喜し、禅定はますます良くなり、智慧はますます深細で、ますます鋭敏になり、空の念頭はますます堅固になるが、まだ捨に住することができず、内心に捨覚分がない。

捨覚分が成就する時を待って、内心の中の我の思想観念を捨て去り、内心は空空となり、五陰空無常の観念がすでに確固として確立され、証拠がすでに十分で、内心が完全に五陰空無我を認同確認し、第四の段階の世第一法が成就し、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断除し、初果を証得する。

観行 (vipaśyanā-caryā) の過程の中で、身心は絶えず変化を起こさなければならない。なぜ変化を起こさなければならないのか。意識の勝解 (adhimokṣa) を通して、意根が四聖諦の法に対して次第に一定の体認を持ち、従前の観念と相背き、従前の認知を次第に覆し、意根が新大陸を発見すれば、身心に相応の変化と反応を促すからである。だから断我見し、五陰無我を証得するのは、必ず意根が証得するのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">九、持戒は断我見に資する</h4>

色身を我とみなす我見 (satkāya-dṛṣṭi) には、どのような表現があるのか。現実生活の中で、どのような方面の薫染が身見を増加させるのか。身見が断じ難い原因は何か。なぜ前世で身見を断じたことがある人は、今世再び仏法に遇えばすぐ身見を断じられるのか。これらの現象をすべて見つけ出し、それから少しずつ色身への宝愛を降伏すれば、身見を断じるのはいくらか速くなるだろう。色身のあらゆる方面への護持は、すべて身見の原因によるものである。色身にはどのような方面の護持と宝愛があるのか。

もし出家者の戒律について調べてみれば、ブッダがなぜあれほど多く、あれほど詳細な戒律を制定されたのかが分かる。それはすべて身見と我見 (satkāya-dṛṣṭi) を降伏するために設けられたのであり、この理を理解しない人は、戒律が自分を縛りすぎるとして戒を受けたがらないが、ブッダの制定された戒律をよく守れば解脱を得ることができる。小乗の戒律は別解脱戒ともいい、一条を守れば、一条の解脱を得ることができる。だから出家して修行する限り、将来必ず四果阿羅漢を証得でき、必ず解脱を得る日がある。出家の利益は多くあるが、最も根本的なのは清浄 (viśuddha/pariśuddha) 自在で、解脱に趣向することである。

現代人の生活様式は、身見を断じさせるのが非常に難しく、みな生活の享受を重んじすぎて、生きている間はただ快適な享受だけを気にし、その他のすべてを顧みない。自分の身見を観察するには、日常の衣食住用行の各方面、各角度から観察し、財色名食睡の各方面から観察し、色を見る、声を聞く、触を覚る、香を嗅ぐ、味を嘗めるといういくつかの方面から着手して観察し、自分がこれらの方面を特に重んじ、色身を特に気にかけ、色身を特に関心して世話をし、色身の受用を特に重んじていると気づいたなら、それは身見が比較的重いのであり、調伏する方法を考えるべきである。

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