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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 256

第八章 我見を断つ検証基準と特徴

第一節 未到地定を具足して初果を証得する

一、『瑜伽師地論』巻第五十三 原文:若(も)し未至定(みとうじょう)に依(よ)りて初果を証得せば、爾(そ)の時一切の能く悪趣に往く悪戒の種子は、皆悉く永く害せらる。此れ即ち名けて聖の愛する所の戒と為す。

ここに明確に説かれているように、初果を証得する時には必ず未到地定があり、証果の後で三悪道の業種が断除され、再び生じることがなくなる。三悪道へ往く業を造作しなくなった時、これを聖人たちが喜び楽しむ戒行というのである。

もし未到地定が具足していないか、あるいは未到地定がなければ、実際に五蘊を観行することができず、五蘊の我を真に否定することができず、五蘊の我という知見を断除することができなければ、証果して法眼浄を得ることはできない。意識心による五蘊無我の知は、知は単に知に過ぎず、証には属さず、理解に過ぎない。意根が実証して初めて我見を断つのであり、確信疑いなくして初めて知見の結縛を断除できるのである。禅定は意根と緊密に結びついており、禅定があれば、意根は煩悩妄想に覆い隠されず、六識の絶え間ない了別に妨げられず、精進して修行し、それによって証果し、真理を明らかにすることができる。

二、証果後は五陰に対する観念が転換する

五蘊の虚妄非我を観行する中で、多くの人は時に心の中でわずかに五蘊十八界は虚妄であると考えるだけで、自分は我見を断ち初果を証得したと思い込んでいる。実はそうではなく、真の我見断ちにはまだ大きな隔たりがあるかもしれない。それらの知見は第六識の非常に浅はかな認識に過ぎず、意識は五蘊虚妄の理を深く認めておらず、どのように虚妄であるかを知らず、ましてや意根が認めてもいない。このように軽率に自分は我見を断ったと思うのは誤解であり、真の我見断ちではない。

意根がまだ五蘊虚妄を認めていない時は、真に五蘊非我を証得したのではなく、我見を断除しておらず、三縛結も断除されておらず、三悪道の業も消滅していない。このような観行は口先だけのものであり、深く細かくなく、具体的でもない。心の奥底に五蘊非我の観念がなく、心の行いも変えることができない。もし意識が浅はかにいくつかの理論を理解するだけで、思惟が体系的でなく、深く細かくなければ、真実の受用を得ることはできない。

多くの人の修行は第六識の段階に留まっており、口では空を唱えながら、行いは有の中にある。このような仏教の学びと修行では自分を変えることができず、何の受用も得られていない。その原因は、第七識が第六識の浅はかな理論分析を認めていないからである。多くの場合、第六識はまだ体系的に思考観行しておらず、第七識は意識が絶えず深く細かい思惟観行を行うことを基礎として、深い禅定の中で自らの観行を行い、初めて理を明らかにし証得し、五蘊非我の理を証得できるのである。第七識は攀縁する範囲が広すぎるため、一切法を了別する智慧が不足しており、第六識が助手として意根の観行を補助する必要がある。そうして初めて意根は智慧的な認識を生じ、理を明らかにし法を証得するのである。

口では修行を語りながら、内心では全く実行できない人は大勢いる。それは全て意根が理を明らかにしておらず、降伏を得ていないからである。例えば、仏教徒は布施が福徳を積むのに速いと考え、布施の機会に遭遇すると一定の財物を布施して福を修めると承諾するが、実際に布施する時になると心が躊躇し、ある人は言い訳をして布施しない。なぜか? 意識が布施したいと思うのは表面的な現象であり、意根は布施がどれほどの益があるかをまだはっきり知らず、財物への執着性が依然として堅固であるため、財物を手放そうとしないのである。

全ての事を行うには意根が主宰する。五蘊の虚妄を観行するにも、意根が証得しなければならない。これは我々が長期間にわたり意根を薫修し、意根に理を明らかにさせ、定中で自ら参究させ、その執着性を徐々に緩め軽減させる必要がある。そうして初めて修行は力が得られ効果が現れる。意根は我執識であり、無始劫以来の煩悩と習気を帯びており、変えるのは非常に難しい。四果阿羅漢になって初めてその執着性を断除し、命終に際して自らの五蘊を捨て、無余涅槃に入ることを望むのである。意根の我執を断除する前提条件は、まず我見を断つことであり、その後で徐々に執着を断つことができる。

三、三十七道品の修行から我見を断ったかどうかを検証する

世俗界で仏法に触れていない人々の中には、身体は生滅無常であり真実ではなく、自らが用いる仮の殻に過ぎないと考える人もいる。これらの人々は身見を断ったのか? 彼らの中には何を食べ何を着どこに住み何を用いるかも気にせず、身体に病気があっても気にしない人もいる。彼らは身見を断ったのか? いずれも違う。彼らが身体を気にしないのは、貧困や吝嗇など何らかの因縁条件による制限があったり、あるいは他の面での追求があり、一時的に色身に構う余裕がなかったりするためである。一旦条件が具足すれば、彼らはやはり非常に色身を大切に愛し、色身の享受を重んじるのである。

身見を断ったかどうかは、全面的に考察する必要がある。戒定慧から考察し、三十七道品の面から考察し、心念から考察し、心行から考察しなければならず、一部分をもって全体を推し量ることはできない。ある人は身体に関するいくつかの事を気にしないが、それは生活条件が具足していないか、あるいは内心が愚痴であるか、あるいは注意を身体に関連する他の面の事柄に移し、他の面での追求があり、特殊な目的性があり、身体のために三悪道の業を造作し、自らが所有する物質的生活を放棄しないためであり、身見を断ったわけではない。

 一切の身口意の行いは、全て種子を形成する。それはあたかも記録のようであり、神通力のある人はいつでも閲覧できる。この記録は永遠に消えず、業種は消えることができる。執着には執着の業種があり、不執着には不執着の業種があり、如来蔵の記録が異なれば、果報も異なる。つまり、一つの事を行うに際し、心行が異なれば、如来蔵の記録が異なり、業種が異なり、業報も異なるのである。

四、実際の修行は想像よりはるかに困難である

多くの人は仏法を二年学び、五陰は私ではないと考え、自分はすでに我見を断ち初果を証得したと言う。このような考えは非常に浅はかであり、何の問題も解決しない。必ず深く細かく周到に観行し、心の中の認識を少しずつ変え、それによって意根に触れ、意識と意根の二つの識が以前の誤った認識を転換させ、五陰自身に対して新しい認識を持ち、相当な程度に変化して初めて我見を断つことができる。

我見を断つことはそれほど容易ではない。無始劫以来、衆生の邪見は深すぎる。一朝一夕、数朝数夕で、言ったり考えたりするだけで取り除けるものではない。長劫にわたり五陰を我としてきたので根深く固く、短期間でそれらの不正知見を正すことはできない。仏法はそう容易に修証できるものではない。歩んできた人は皆知っている。ただ修持のない人だけが、独りよがりに当然のように証果や成仏は非常に容易だと言うのである。経験がなければ全て想像であり、想像するものは当然容易い。着手して実行する時に初めて難しさを感じるのである。

常に新奇を狙い、急功近利で、大げさに功績を誇り、常に自分が特別で普通ではないことを望む。これらは全て我である。この我は除くのが難しく、真にその我を除去することは実に非常に難しい。このような話を聞きたがらない人もいるが、聞きたくなくともこれが事実である。忠言耳に逆らうも良薬口に苦しとは、自身にとって全て益あって害のないことである。

前世の久遠劫から修行を始めた人は、一劫ごと、一生一世ごとに無量の仏法を薫陶し、相当の経験を積み、多くの事理を見抜き、自ら多くを感じ取り、善根福徳智慧が深く厚いため、初めて深く知るのである。仏法の修証はそれほど単純で容易なものではないと。ただ経験のない人だけが、修行を非常に容易なものと見なし、法華経か何かの経典を少し読めば成仏し、意識が少し何かを知れば、実は真相も分からずに自分は大成就したと思い込むのである。実はこれらの観点は全て我慢であり、大我慢である。我見が根深く固く、このような人は我性がより深刻であり、我見を断つことはより困難である。

我性が重い人には多くの表現がある。あらゆる手段を尽くし、あらゆるルートを通じて、その我をひけらかし、全ての人に自分を認識させ理解させ、全ての人にへつらわれ崇拝され、そうして初めて心地よく感じる。この心地よい感覚は自大である。自我が高々と大きく、我見はより重く、断除はより困難である。

五、どのような人が自らを印証できるか

仏教徒は皆、着実に一歩一歩修行し、しっかりと固めながら、真に我見を断ち明心し、理解や解悟に留まってはならない。これには禅定の基本的な修練が必要である。私が繰り返し禅定を要求するのは、これが身心転換し解脱を得る根本だからである。禅定がなければ結果は解であり、決して証ではない。私は証果と明心の基準を提示した。皆この基準に従って自らを検証し、真に我見を断ったのか、それとも単に理上の認識に過ぎないのかを見極めるべきである。仏教徒が狂躁や浮躁でなければ、必ずや最大の利益を得ることができ、仏教も確実に着実に発展するであろう。

しかし、私は依然として皆さんが自らを印証することを望まない。なぜなら、皆さんには経験がなく、その中の微妙な誤りを知らず、自分を甘やかし包容しやすい。そうなると解悟者となり、実際に観行できず、生煮えの飯を食べて消化不良を起こし、道業が再び進歩することは難しくなるからである。皆さんに直接印証する時、大いに観行の智慧を高めることができ、その後いかなる法に出会っても観行でき、智慧と道業が飛躍的に進歩し、大量の修行時間を節約できる。

解悟者もいくつかの公案を理解し、簡単な公案を解説できるが、その細部は分からず、只々然りを知るだけで其の所以然を知らない。観行の智慧がないからである。初果や二果については、皆さんが自ら印証することを望まない。その尺度は非常に把握しにくい。ある人は自らの貪瞋痴の煩悩が非常に薄れたと思い、自分は二果だと決めつける。しかし、貪瞋痴が薄れる基準や概念を知らず、往々にして間違える。瞋心の薄れは把握しやすいが、貪の薄れは把握しにくい。貪心は非常に細かく、自らははっきり認めにくい。例えば情執も貪であり、情執が重ければ貪心が重い。習気が深いため、自らは情執が重いと知らず、往々にして自分は貪心が薄いと思い込む。これが誤解である。

また痴心は、さらに把握し判定しにくい。自らが愚痴の時は、自らの愚痴の程度を判断できない。経験者だけが各人の愚痴の程度をはっきり見抜ける。また慢心について、全ての人に慢心がある。四果になって初めて慢心の根を徹底的に抜くことができる。ただ各人の慢の程度が異なるだけである。もし慢心の習気が重く、自らがすでに慣れ適応していれば、自らの慢心が薄れたかどうかを検査するのは難しい。慢心が重すぎれば、二果を証得することも不可能である。これらの面で衆生自らは把握するのが非常に難しく、したがって自ら自らに果位を定めることはできず、間違えると結果が深刻である。長く便所にいれば臭さを感じない。習い性となり適応してしまい、自らは往々にして自らの煩悩習気に気づかない。なぜならすでに煩悩習気に適応してしまい、反観しにくいからである。

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