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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月14日 閲覧数: 3439

第五章 如何なるものが真に我見を断つことか

第一節 意根と意識が同時に我見を断つこと(1)

一、我見を断つには意根が断たねばならない

我見を断つとは知見上の煩悩惑を断つことであり、すなわち誤った知見を断除することで、見惑に当たります。主に第六識・第七識の誤った知見と観点を含みます。思惑は修道の際に断つ思想観念上の煩悩であり、貪・瞋・痴・慢などの煩悩惑を指します。見惑は初果を証得する際に断たれ、思惑は三果と四果において断たれます。つまり初禅を証得して初めて断ち始められるのです。貪愛と瞋恚を断除するのが三果の聖者であり、一念の無明・愚痴・我執を断除するのが四果の聖者です。では意根の我見も見惑であり、知見上の煩悩惑に属しますから、初めて見道する際に断たれるべきです。意根の思惑煩悩は二果において降伏され、三果において断除が始まり、断じ尽くされるのが四果の聖者であり、八地の菩薩に相当します。

初果において我見を断つには、必ず意根の我見を含み、しかも主に意根が我見を断つことです。もし意根が我見を断つ必要がなければ、初果を証得することは非常に容易なことであり、意識が考え抜くだけで我見を断てるはずですが、実際は容易ではありません。多くの人は一生涯阿含経を学んでも初果を証得できません。実際、多くの人の意識は一切の法が虚妄であること、夢幻泡影の如きものであることを理解していても、それでも我見を断てず、初果の聖者にはなれないのです。

意識心の我見は断除しやすいものです。慧が強いため、法を聞けば即座に思惟観行でき、我見と無明を破りやすいからです。しかし意根の我見の影響を受け、我見はいつでもどこでも現れます。意根が我を断つことは比較的困難です。意根の我見と無明が深く根付いており、意根の智慧は弱く、接触した法義を速やかに理解できません。深甚な禅定と意識の薫染力に依存し、意識がいくつかの資料とデータを提供して参考にさせねばならず、そうして初めて意根が無我の理を思量参究し、無我を確認して我見を断除できるのです。

二、三結は意根のものであれば意根の我見を断たねばならない

我見を断つことと同時に三結を断ちます:我見・見取見・疑見です。三結を断除すれば、未来世において永遠に三悪道に堕ちないことが保証されます。もし単に意識が我見を断てばよいのであれば、意識は三結を断除できるでしょうか?三結は意識を縛るのか、それとも意根を縛るのか、あるいは両方を縛るのでしょうか?生死の結縛を断除することは意識によって決定されるのでしょうか?意識は生死の大事について主導権を持てるのでしょうか?無始劫以来の結縛は意根のものか、それとも意識のものか、意識はそれを断ち切れるでしょうか?意識は三結を断除する主導権を持てるのでしょうか?

無始劫以来の生死の結縛は主に意根の結びを指します。三結は主に意根を縛るものです。なぜなら意根は生生世世滅することなく、業力と相応し、業力に随って六道を流転するからです。意識はただ一世のみ存在し、来世の五陰身を生じさせる主導権はありません。意識が五陰身を少しでも変えることは不可能であり、六塵においても少しの主導権も持てません。足を上げさせることさえできず、ガラスの栈道が安全だと自分に言い聞かせ、前に進むよう促しても、足は上がりません。では意識がどうして無始劫以来の生死の結縛を断除する主導権を持てるでしょうか?

意根はあらゆる法において主導権を握ろうとします。無始劫以来の重大問題である我見を断つことにおいて主導権を握らないはずがありません。もし意根が主導権を握らないならば、それは仮の我見断ちであり、真の我見断ちではありません。意識の表面的な主張のみで、意根が主張せずに無理に随順するものはすべて偽りであり、演劇のようなものです。深層の意根が主張し、心の底から発する主張こそが真実なのです。

したがって世人の言行は真偽の二種に分かれます。泣くことには真実の涙と偽りの涙の区別があり、笑うことには真実の笑いと偽りの笑いの区別があり、恐れることには真実の恐怖と偽りの恐怖の区別があり、人を気遣うことには真実の気遣いと偽りの気遣いの区別があり、怒ることには真実の怒りと偽りの怒りの区別があり、憎しみには真実の憎しみと偽りの憎しみの区別などがあります。世人の言行に真偽があるため、互いの交際では互いに猜疑心を持ち警戒し合い、相手の真意と心遣いを探る必要があり、容易に相手を信じることができません。このため、世人は人付き合いが非常に心労だと感じ、少しでも気を抜くと騙され、計算されてしまいます。世人の騙し合いとはこのようなものなのです。

三、真の我見断ちと偽の我見断ちの区別

仏法の修証においても、真に修証があるものと偽りに修証があるものとに分かれます。我見を断つことにも真に我見を断つことと偽りに我見を断つことの区別があり、明心にも真に明心することと偽りに明心することの区別があります。真偽が世俗生活と仏教の修行に満ちており、人々が容易に見分けられないようにしています。凡そ偽りのものはすべて意識の表面的なものであり、装ったもの、作為的なものとも言えます。凡そ真実のものはすべて意根の深層と相応し、意根が認めたものであり、心の奥底から湧き出るものであり、心の底から発するものであり、作為的でなく、人に信頼され、誠実で偽りのないものです。

もし我見を断つことが単に意識が我見を断つだけで、意根が我見を断たなければ、意根は三結を断除しておらず、三悪道に入らないことを保証できません。なぜなら三悪道に入るかどうかは業種と業力によって決定され、意根が業種と業力と相応するからです。もし意根が三結を断除していなければ、業種は変化しておらず、命終には業力の牽引によって三悪道に入らざるを得ません。これは避けようがなく、意識心には全く手の施しようがありません。主導権を持てず、また断滅するものであり、断除後のことについてはなおさら主導権を持てないからです。したがって意識だけを修めるのは全く無意味であり、意識が我見を断つだけでは生死の問題と三悪道に堕ちない問題を解決できません。

一歩譲って、意識が三悪道に入らないことを決定できるとしましょう。では臨終の時、意識は先に滅び、意根と如来蔵のみが存在し、意識は存在しません。しかし意根と業力は依然として存在します。意識は業種・業力と相応できず、三悪道に行くか行かないかは、意識が全く決定できません。意識自身の存在の有無さえ決定できないのに、どうして三悪道に行かないことを決定できるでしょうか。意根が中有の身において示す様子を観察すればわかります。意根は中有の身において完全に自身の煩悩習気と相応し、すべて自身の煩悩習気の現行に随って胎児に生まれ変わろうとするのです。

もし意根が我見を断っていなければ、意識が滅んだ後、意根は業種と相応し、業力と相応し、業力に駆られて三悪道の中に入ってしまいます。もしこの時、意根が我見を断っておらず、三結を断除していなければ、意根の心の働きは依然として三悪道と相応しており、縄を解いておらず、必ず牽引されて三悪道に堕ちます。もし地獄に堕ちる場合、中有の身を経ず、意根と如来蔵は直接地獄の身の中に入ります。

四、なぜ必ず意根が我見を断たねばならないのか?

生死輪廻と三悪道の輪廻は、意根の無明によって生じます。意根の無明が破られなければ、十二因縁の生死の連鎖があり、衆生は意根の無明によって六道に縛られ、出離できず、三悪道に縛られ、出離できません。無始劫以前、意根は無明のため、本真の我(真我)を知らず、法界の実相を知らず、本心を守ることを知らなかったため、心を外に向けて貪求し、遂には五陰身が虚しく生死輪廻の苦しみを受けることとなりました。意根は無明のため、心の内が妄動し、それに随って如来蔵が宇宙器世間を生じさせ、衆生の五陰身を生じさせ、三界の世間法が出現しました。衆生は三界において無量劫にわたり生死輪廻し、今日に至るまで終わっていません。それは意根の無明のためであり、意根の結縛のためです。修行とはまさに意根の種々の結縛、種々の無明を断除し、無明に縛られず、種々の生死の係縛から離脱し、解脱を得ることなのです。

では我見を断つには必ず意根の我見を断除し、その後で初めて自身の貪・瞋・痴の煩悩を薄くし、更にその後で貪・瞋・痴の煩悩を断除し、最後に意根の我執を断除できるのです。もし初果において意根の我見を断除していなければ、二果における貪・瞋・痴の薄らいだ状態はなく、三果における貪欲と瞋恚の断除はなく、ましてや四果における貪・瞋・痴・慢の煩悩断尽はなく、我執断尽の説もありません。これにより、意根の我見は初果の時に断除され、四果の時に我執を断除できることがわかります。この修行の考え方は我々が明確にすべきことです。

意根がもし我執を断っていなければ、自ら消失滅亡することはできません。身体の活動を指揮するのは意根の機能です。意識がもし身体を指揮しようとするなら、意根の同意が必要であり、その後で意根が命令を下し、六識が動き、六識が動いて初めて身体が動きます。六識が生じず、活動しなければ、身体は動きません。意根は身体を自己と見なしているため、無始劫以来ずっと掴んで離しません。もし身体を自らが制御・掌握できなければ、意根は自我を失ったと感じ、それ故に言いようのない恐怖を覚えます。したがって我見を断つには、必ず意根が我見を断たねばならず、意根が我見を断ってこそ真に我見を断つことになります。もちろん徹底的に究竟に我見を断つ人は仏世尊であり、四果の倶解脱の大阿羅漢でさえ徹底的に究竟に我見を断っているわけではありません。

五、意識の思惟過程は意根を薫染する過程である

五蘊を観行して我見を断つには、意識心において五蘊は我に非ずと認めるだけでは不十分であり、意根が認める必要があります。意根に認めさせるには、深甚な禅定によって意根を三昧に入らせ、観行参究させねばならず、意識が無我と認めれば無我になるというものではありません。意根がもし五蘊無我を証得していなければ、我見を断ったことにはならず、生死輪廻の根源は断たれていません。この根源から我見を断ってこそ真に我見を断つことになるのです。

意根の攀縁する範囲は非常に広く、定力がないため、慧力は劣弱で、問題を理解し認識する能力が低く、真理を証得しにくいものです。深甚な禅定を修め、意根が専一に深く考量・参究できるようにしなければ、意根は理解し仏法を親証できません。加えて意根固有の習気は重く、知見は容易には捻じ曲げられないため、意識は十分な資料データを提供して意根を導き法義を参究させねば、我見を断つ可能性が生まれます。

意識は深く細やかな思惟を通じて意根に影響を与え薫染しなければなりません。例えば:五蘊は究竟的にいかに虚妄であるか、究竟的にいかに生滅するか、究竟的にいかに無常であるか、究竟的にいかに変異するか。「究竟」という二文字の中には事実を提示し道理を説くことが含まれており、事実を持って語らねばなりません。意根は事実のみを認めるからです。事実を提示するには、意識が意根を深く細やかに思惟するよう導かねばならず、意識が思惟する全過程が、まさに意根に影響を与え薫染する過程なのです。意根が一定の程度に薫染された時、初めて能動的に深く究明し、思量観行し、日夜止むことなく、最終的に現量において五蘊無我を観行し、三昧の境界が現れます。したがって意識の全ての心念は意根を薫染でき、意識が思惟する過程こそが意根を薫習する過程なのです。

六、我見を断つ正義

我とは、意根である第七識を指します。意根は五蘊の中の色蘊を我と見なし、受蘊を我と見なし、想蘊を我と見なし、行蘊を我と見なし、六識の識蘊を我と見なし、また自身を我と見なすため、我見があるのです。六識は依他起性であり、転々として生じるもので、意根である第七識に利用される一つの道具です。まるで五蘊全体と色身における頭と四肢の関係のように、意根は無始劫以来ずっと五蘊の中の各部分を我と見なし、もちろん第八識の功能作用をも我と見なしてきました。

意識の我性は微弱で、意根の我性の強大さには遠く及びません。比較的断じやすいものです。一般的に、意識は五蘊無我の理を少し薫習し、わずかに思惟するだけで理を明らかにできます。しかし意根の思惟観察力は弱く、無始劫以来の深い無明が加わり、その智慧を著しく覆い隠すため、理を明らかにしにくく、意根の我見は非常に断ちにくいのです。古来より、真に我見を断った者は極めて少なく、鳳凰の羽や麒麟の角のように稀です。たとえ仏陀在世時でも、証果を得た者の割合は決して大きくはありませんでした。したがって我見は主に意根の我見を指し、我見を断つには必ず意根が自ら意識と共に無我の理を参究し、現量において五蘊が確かに無我であることを観察でき、意根が確認してこそ、真に我見を断ったことになるのです。

もし単に意識が復唱機のように、文章を読誦暗唱する形で文字を読誦するだけで、定中で深く細やかに思惟観行しなければ、意根は永遠に薫染されず理を明らかにできません。これは単に意識が文字の表面上で浅はかな作為をしているに過ぎず、せいぜい五蘊無我を解悟できる程度で、実証は困難です。

我見を断つことは意根の親証によるものならば、明心して真心第八識を証悟することも意根の親証によるのでしょうか?答えは同じく然りです。意根は無始劫以来ずっと五蘊六識の功能作用を我と見なし、第八識の功能作用をも我と見なしてきたからです。自分自身は何ものでもないことを知らず、一方で第八識に依存し、他方で五蘊六識に依存し、初めていわゆる虚妄なる我の功能作用を成就し、自らの功能作用を持つことで、三界に生存できるのです。

では意根に無明を断除させ仏道を成就させるには、一方で五蘊の大樹を伐り倒し、依存するものを無くして五蘊を我と認めさせず、他方で第八識を樹立し、真実の第八識を証得させ、一切の法が第八識のなせる業であり、自らの功能作用ではないことを知らせねばなりません。こうして意根は法界の実相を見極め、無明を少しずつ破り、我執と法執を次第に断じ尽くし、最後に徹底的に無我となった時に仏世尊となるのです。

七、意識はいかに密接に意根に協力して我見を断つか

我見を断つ際、意識はまず意根に全ての証拠とデータを十分に与え、その後意識は思惟を減らし、功用を減らし、意根の心理活動の必要に応じて協力し、意根自身に思量・考量させ、自らいくつかの事実を印証させます。もし意根が事実がまだ不十分で、証拠が足りず、データが不足していると感じれば、意識は再び思惟観行し、データを収集して意根に渡し、意根は再び深く思量・考量します。こうして意識が傍で絶えずデータ資料を補足すれば、意根は絶えず加工し、思惟を絶えず完成させ、最後に確固たる、証拠確実な結論を導き出し、証果するのです。

もし処理すべき事柄が多く、意識が必ず定から出て六塵を了別しなければならない場合、意根は密かに用功し、行住坐臥において参究を離れず、夜に夢があろうとなかろうと用功できます。意根が事態が重大であると真に感じた時は、必ず寝食を忘れて精進用功することを決意します。なぜなら意根が精進するためであり、これらの飲食活動は六識が実行するとはいえ、同様に意根の専心思考に影響を与え、日常の瑣事に気を散らすため、五蘊の他の活動を減らすことを決意し、自身が気を散らさないことを保証するのです。睡眠時には意識の傍からの補助がなく、意根には十分なデータと材料がなく、参究に着手できません。そこで意根は睡眠を取らず、意識を滅び去らせないか、あるいは夢中で意識に参与させることを決意します。

八、観行と参禅の根本は意根に自ら観させること

一切の法の参究において、初めは意根が意識の思惟分析に協力し、意識が各種のデータと資料を収集するのに協力します。意識が資料を比較的充分に収集し、意根が利用するのに十分になった時、意識は意根の深慮熟考に協力し、意根の加工と統合の仕事に協力し、意根の審察濾過の仕事に協力し、意根に多く心を用いさせ、意識は活発さを減らします。そうすれば参究の仕事は速やかに完成します。

意識の活発な思惟を減らし、意根に多く思量させるには、定を修めねばなりません。定中において初めて意根の専心参究を保証できます。意根は一箇所に完全に定まることはできませんが、極めて少数の法に定まることができれば十分です。専心して参究すべき法義以外は、ほんの少し了別するだけでよく、自身の参究には影響しません。では観行とは定中において行うものであり、意識が情思意解(感情や思惑で理解すること)してはならず、意根の思量性を多く用い、意根の思量を充分に有効に発揮させ、自ら五蘊無我を証得させることです。これが観行と参禅の根本です。したがって意根が法を証得しなければ、明心して証悟することは不可能であり、同様に我見を断つことも不可能です。定中で参禅観行する際は、意識を用いて思惟することを少なくし、意根の思量性を用いることを多くする。これが参禅観行の根本です。

意識の協力と助力がなくとも、意根は法義を参究し思量できます。ただ時間が長くかかるだけで、いつになるか分かりません。事例として証拠があります。例えば夜に一つの問題を考え、解決しないまま眠りにつき、一晩中眠った後、翌日目が開いたばかりの時に、意識の霊感が現れ、突然解決していなかったこの問題が理解できたとします。これは一晩中、意根が働き思量していたことを示しています。夜寝る前に意根に疑問を残しておき、朝目が覚めた時に答えを得たのです。このような類似の経験を持つ人は少なくありません。

また例えば時々、考えた問題について、当時は答えが得られなかったため、他のことに忙しくしていると、表面的にはそのことを忘れたように見え、意識はもう考えません。しかし不定の時に、突然頭の中に答えが浮かぶことがあります。これは意根が背後で密かに思量し続け、最後に思量して結果を出したのです。修行とはまさに意根を多く用いることであり、意根の修行こそが真の修行であり、一切の法を証得し、一切の智慧を得られるのです。

意識が五蘊を観行する際、観行の情報は同時に意根に伝達されます。意根は一度では理解できず、二度でも理解できませんが、時間が経つと理解し薫染され、意識の観行結果に同意します。これは意根が自ら特有の思量判断性を発動させた結果です。もし禅定がある時は、意根も意識の観行思惟の思路に基づいて、自ら思量したり、意識と共にしたり、あるいは単独で思量したりできます。意識が薫染すればするほど深く、意根は単独で思量でき、こうして意識と共に共同で我見を断除し、共同で証果するのです。

九、意識と意根が密接に協力して初めて我見を断てる

観行が沈思に陥る時、その中には意根の深い思惟行為があります。例えば行ったり来たりしながら考える時、意識の思惟があり、更に意根の思慮考量があります。その中で意識の力が大きければ、意根の力は小さくなります。もし意識が心を用いることを少なくすれば、意根の力は大きくなり、問題解決にも力強さがあります。意識と意根の交流方法は一般的に自問自答の方式を用います。誰が問い誰が答えようと、最後は意根が認め賛同し、意根が最終的な決定と選択を下して、初めて問題が解決したことになります。五蘊を観行すること、話頭を参じること、参禅すること、参究することは、すべて自問自答と同じ原理であり、二つの識の間の密接な協力関係なのです。

意識が存在する時、二つの識は刹那も分離したことがありません。意識の思うこと考えることはすべて意根の指揮を受け、決して意根の操作と協力を離れたことはなく、意識が単独で思惟し、意根が参与しない状況は一度も出現したことがありません。もし意根が参与しなければ、意識は滅びて存在せず、意識は意根から離れて単独で運行することはできません。一方、意識が存在せず思惟しない時でも、意根は依然として単独で働くことができ、決して休んだことがありません。遍計所執し、常に思量し、至る所で主導権を握ります。眠っている時も、昏睡状態の時も、死の前後でさえ、意根は暇になることはありません。

したがって二つの識が密接な協力関係がなければ、参究して開悟することは不可能であり、我見を断つことは不可能です。もし意識が参与しなければ、データ資料がなく、詳細な事情がわからず、証拠が不足します。もし意根が思量に参与しなければ、結果として問いがあっても答えがなく、答えがなければ結果がなく、未解決の問題として意根の心の中に留まり、意根がゆっくり解決するのを待つことになります。これはいつになるか分かりません。

十、自己暗示法で意根を薫染する

自己暗示法で仏法を観行する際、意識は常に意根に暗示を送ります:五蘊は虚妄である、一切の法は虚妄である、と。一定の時期に至ると、意根は疑情を起こし、能動的に証明を求め、我見を断つ機会を得、自らの潜在能力を発揮し、自らを変えることができるようになります。このような暗示は自己催眠に似ており、自らを比較的静かで沈静した状態に調整し、内心の声が聞こえる状態にします。そうすれば自己暗示が可能です。

以上の我見を断つ内容を、ゆっくりと抑揚をつけて述べ、意根に受け入れさせ、かつ意根に一定の緩衝時間を与え、情報を受け入れさせ、思路を整理させ、情報の中の法義を考量させます。これには一定の時間と特定の環境・場面が必要であり、つまり意根が他の問題に注意を向けず、導かれる内容にのみ注視させ、心の内を沈静・安穏・祥和に保ち、意識の導きを充分に受け入れさせることです。もし意識がどこに導いても、意根がそこまで思惟できるならば、この時意根は比較的従順であり、既に初步的に薫染されています。ただ最後まで成功していないだけです。鍵は意識が意根の反応を観察できるか、導く経験があるか、真に無我の理を理解しているかです。このような導きの催眠は適切な時間・場面で繰り返し行うことができます。意識が理論に熟達し、意根を観察でき、意根を導くことができ、沈着・沈静状態を保てれば、一定の時日を経て、意根は必ず我見を断つことができるでしょう。

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