五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)
断我見とは知見上の煩悩惑を断つことであり、すなわち正しくない知見を断除することであり、すなわち見惑であり、主に六識・七識の誤った知見と観点を含む。思惑は修道時に断つべき思想観念上の煩悩であり、すなわち貪・瞋・痴・慢などの煩悩惑である。見惑は初果を証する時に断ち、思惑は三果と四果の時に断つ、つまり初禅を証得してからでなければ断り始めることができない。貪愛と瞋恚を断除するのが三果の人であり、一念無明の愚痴と我執を断除するのが四果の人である。那么、意根の我見も見惑であり、知見上の煩悩惑に属し、初めて見道する時に断つべきものである。意根の思惑の煩悩は二果の時に降伏し、三果の時に断除し始め、断み尽くすのが四果の人であり、八地の菩薩に相当する。
初果の断我見には、必ず意根の我見が含まれ、しかも主に意根が断我見することである。もし意根が断我見する必要がないなら、初果を証することは非常に容易なことであり、意識があれこれ考えて断我見できることになるが、実際は容易ではなく、多くの人が一生阿含経を学んでも初果を証することができない。実は多くの人の意識は、すべての法が虚妄であり、夢・幻・泡・影のようであると皆わかっているのに、断我見できず、初果の人になることができない。
意識心の我見は断除しやすい。なぜなら慧が強く、法を聞けばただちに思惟観行でき、我見と無明を破除しやすいからである。しかし意根の我見の影響を受け、我見はいつどこででも現れることがある。意根が我を断つのは比較的困難である。なぜなら意根の我見と無明は根深く固く、意根の智慧はまた弱く、接触した法義をすぐには理解できず、甚深な禅定と意識の薫染力に依拠しなければならず、意識がいくつかの資料とデータを提供して神様に参考させ、意根がはじめて無我の理を思量参究し、それによって無我を確認し、我見を断除できるからである。
<h4 style="text-indent: 2em;">二、三縛結が意根のものであるなら意根の我見を断たねばならない</h4>断我見すると同時に三縛結を断つ:我見、見取見、疑見である。三縛結を断除すれば、未来世に永遠に三悪道に堕ちないことが保証される。もし意識だけが断我見すればよいのであれば、では意識は三縛結を断除できるだろうか?三縛結は意識を縛るものか、意根を縛るものか、それとも両方を縛るものか?生死の結縛を断除するのは意識が決めることか?意識は生死の大事に対して作主できるか?無始劫以来の結縛は、意根のものか意識のものか、意識はそれを断ち切れるだろうか?意識は作主して三縛結を断除できるだろうか?
無始劫以来の生死の結縛は主に意根の結を指し、三縛結は主に意根を縛るものである。なぜなら意根は生生世世滅することなく、業力と相応し、業力に随って六道を流転するからである。意識は一世しか存在できず、次の世の五陰身を出生させることは作主できない。意識に五陰身を少し変えさせることさえ不可能であり、六塵においても少しも作主できず、足を持ち上げさせることさえできない。ガラスの桟道は安全だと自分に言い聞かせ、前へ進めと言っても、足がどうしても持ち上がらない。那么、意識はどうして無始劫以来の生死の結縛を断除する作主ができるだろうか?
意根はいかなる法においても作主しなければならず、断我見のような無始劫以来の重大な問題においてだけ作主しないということはあり得ない。もし意根が作主しないなら、それは偽の断我見であり、真の断我見ではない。意識の表面的な主張だけで、意根が主張せずにやむなく随順するものはすべて偽であり、演劇のようなものである。深層の意根が主張するもの、心の底から発する主張こそが真である。
だから世人の言動は真と偽の二種に分けられる。泣くことにも本気で泣くのと偽の泣きの区別があり、笑うことにも本気の笑いと偽の笑いの区別があり、恐れることにも本気の恐怖と偽の恐怖の区別があり、人を気遣うことにも本気の気遣いと偽の気遣いの区別があり、怒ることにも本気の怒りと偽の怒りの区別があり、憎むことにも本気の憎しみと偽の憎しみの区別などがある。世人の言動には真偽があるため、互いに交際する際にも互いに疑い警戒し合い、相手の真の考えと意図を見極める必要があり、軽々に相手を信じることができない。それゆえ、世人は人と付き合うのがとても心疲れると感じ、少し不注意だと人に欺かれ計算されてしまう。世人の互いに欺き合う様はまさにこのようなものである。
<h4 style="text-indent: 2em;">三、真の断我見と偽の断我見の区別</h4>仏法の修証においても、同様に真の修証と偽の修証に分けられ、断我見も真の断我見と偽の断我見の区別があり、明心も真の明心と偽の明心の区別がある。真偽入り混じったものが世俗生活と仏教の修行の中に満ちており、人は容易に判別できない。偽であるものはすべて意識の表面的なものであり、言い換えれば作り物であり、わざとらしいものである。真であるものはすべて意根の深層と相応するものであり、意根が認めたものであり、心の奥底から流れ出たものであり、肺腑から発したものであり、わざとらしくなく、人に信頼されるものであり、誠実で欺きのないものである。
もし断我見が単に意識が断我見するだけで、意根が断我見しないのであれば、意根は三縛結を断除しておらず、三悪道に入らないことを保証できない。なぜなら三悪道に入るか否かは業種と業力が決め、意根は業種と業力と相応するからである。もし意根が三縛結を断除していなければ、業種は変わっておらず、命終時に業力に牽引されて三悪道に入らなければならない。これはどうしようもなく、意識心には少しも手立てがない。なぜなら作主できず、しかも断滅的なものであり、断除した後のことはなおさら作主できないからである。だから意識だけを修してもまったく役に立たず、意識だけが断我見しても、生死の問題と三悪道に堕ちないという問題を解決できない。
一歩譲って、意識が三悪道に堕ちないことを決定できるとしても、臨終の時、意識は先に滅し、意根と如来蔵 (tathāgatagarbha) だけがあり、意識は存在しなくなる。しかし意根と業力はまだあり、意識は業種・業力と相応できず、三悪道に行くか行かないかを意識はまったく決定できず、意識自身の存在の有無さえも決定できないのに、どうして三悪道に行かないことを決定できるだろうか。意根が中陰身の中で示す様子を観察すればわかる。意根は中陰身の中で完全に自分の煩悩習気と相応しており、みな自分の煩悩習気の現行に随って胎に投じるのである。
もし意根が断我見していなければ、意識が滅した後、意根は業種と相応し、業力と相応し、業力に駆使されて三悪道の中に入れられる。この時もし意根が断我見しておらず、三縛結を断除していなければ、意根の心行はまだ三悪道と相応しており、縄を解いておらず、必ず牽引されて三悪道に堕ちる。もし地獄に堕ちるなら、中陰身を経ずに、意根と如来蔵 (tathāgatagarbha) が直接地獄の身の中に入る。
<h4 style="text-indent: 2em;">四、なぜ意根が断我見しなければならないのか?</h4>生死輪回と三悪道の輪回は、意根の無明によって引き起こされたものである。意根の無明が破除されていなければ、十二因縁の生死の鎖があり、衆生は意根の無明によって六道に縛られ、出離できず、三悪道に縛られ、出離もできない。無始劫以前、意根は無明のゆえに、本我・真我を知らず、法界実相を知らず、本真心を守ることを知らず、そこで心を起こして外に貪り求め、五陰身が虚しく生死輪回の苦を受けることとなった。意根は無明のゆえに内心が妄動し、そこで如来蔵 (tathāgatagarbha) が意根に随順して宇宙の器世間を出生し、衆生の五陰身を出生し、三界の世間法が現れた。衆生が三界の中で無量劫も生死輪回し、今もなお終わっていないのは、意根の無明のゆえであり、意根の結縛のゆえである。修行とは意根のさまざまな結縛、さまざまな無明を断除することであり、それによってはじめて無明に縛られず、さまざまな生死の繋縛を脱して解脱を得るのである。
那么、断我見は必ず意根の我見を断除しなければならず、その後で初めて自分の貪瞋痴の煩悩を淡薄にでき、さらにその後、はじめて貪瞋痴の煩悩を断除でき、最後にはじめて意根の我執を断除できる。もし初果で意根の我見を断除していなければ、二果の薄貪瞋痴はなく、三果の貪欲と瞋恚の断除はなく、まして四果の貪瞋痴慢の煩悩断み尽くしはなく、我執断み尽くしということはない。これから見れば、意根の我見は初果の時にすでに断除されており、四果の時に初めて我執を断除できる。この修行の思路を我々は皆はっきりと確定しておくべきである。
意根がもし我執を断っていなければ、自ら消失し滅亡することができない。身体の活動を指揮するのは意根の機能であり、意識が身体を指揮したいなら、意根の同意が必要であり、さらに意根が命令を下して、はじめて六識が動くことができ、六識が動いてはじめて身体が動く。六識が出生せず、活動しなければ、身体は動くことができない。意根は身体を自分としているため、無始劫以来ずっと抓取して放さず、もし身体が自分で制御し掌握するものでなくなれば、意根は自我を失ったと感じ、それゆえ名状しがたい恐怖を覚える。だから断我見は、必ず意根に断我見させなければならず、意根が断我見してこそ真の断我見である。もちろん徹底して究竟に断我見した人は仏世尊であり、四果の倶解脱の大阿羅漢でさえ徹底究竟に断我見してはいない。
<h4 style="text-indent: 2em;">五、意識の思惟の過程こそが意根を薫染する過程である</h4>五蘊を観行して断我見するには、意識心の上で五蘊は我に非ずと考えるだけではまだ足りず、意根の承認が必要である。意根に承認させたいなら、甚深な禅定がなければならず、意根を三昧 (samādhi) の中に入れて観行参究させなければならない。意識が無我と認めれば無我になるというものではない。意根がもし五蘊無我を証得していなければ、断我見には属さず、生死輪回の根源は断たれていない。この根源から断我見してはじめて真の断我見である。
意根の攀縁の範囲は非常に広範であり、定力がないため、慧力が劣弱で、問題を理解し認識する能力が乏しく、真理を証得しにくい。甚深な禅定を修めて、意根が専一に深く考量し参究できるようにしなければ、意根は仏法を理解し親証することができない。さらに意根の固有的な習気が非常に重く、知見が容易に転換できないため、意識は十分な資料・データを提供して意根を導いて法義を参究させなければ、断我見する可能性がある。
意識は深く細やかな思惟を通じて意根に影響し薫染しなければならない。たとえば思惟する:五蘊は一体どうして虚妄なのか、一体どうして生滅するのか、一体どうして無常なのか、一体どうして変異するのか。「究竟(一体どうして)」という二文字の中には事実を並べて道理を説くことが含まれており、事実をもって語らなければならず、意根は事実しか認めない。事実を出したいなら、意識は意根を導いて深く細やかに思惟しなければならず、意識の思惟の全過程こそが、意根に影響し薫染する過程である。意根が一定の程度まで薫染されてはじめて、能動的に深く追究し、思量観行し、日夜絶えず、最終的に現量で五蘊無我を観行し、三昧 (samādhi) の境界が現れることができる。だから意識のすべての心念は意根を薫染でき、意識の思惟の過程こそが意根を薫習する過程である。
<h4 style="text-indent: 2em;">六、断我見の正しい意味</h4>我とは意根の第七識を指す。意根が五陰の中の色陰を我とし、受陰を我とし、想陰を我とし、行陰を我とし、六識の識陰を我とし、また自分自身を我とするため、はじめて我見がある。六識は依他起性であり、輻輳して生じたものであり、意根の第七識に利用される一つの道具である。まるで五陰全体と色身の中の頭と四肢の関係のように、意根は無始劫以来ずっと五陰の中のそれぞれの部分を我としてきた。もちろん第八識の機能作用も我としてきた。
意識の我性は微弱であり、意根の我性の強大さにはるかに及ばず、比較的断除しやすい。一般に、意識は五陰無我の理を少し薫習し、少し思惟すれば、理を明らかにできる。しかし意根の思惟観察力は弱く、さらに無始劫以来の深厚な無明がその智慧をひどく遮障しているため、理を明らかにしにくく、意根の我見は非常に断ちにくい。古来より今に至るまで、真に断我見した者は極めて少なく、鳳毛麟角のようである。たとえ佛陀在世の時でさえ、証果した人の数の割合はそれほど大きくなかった。それゆえ、我見は主に意根の我見を指し、断我見は必ず意根が自ら意識とともに無我の理を参究し、現量で五陰が確かに無我であることを観察でき、意根が確認して、はじめて真に断我見したことになる。
もし単に意識が复读機(繰り返し機)のように、読誦・暗誦という形式で文字を読誦するだけで、定の中で深く細やかに思惟観行しなければ、意根は永遠に薫受できず理を明らかにできず、これは単に意識が文字の表面上で行う浅薄な行為であり、多くても解悟で五蘊無我を解することはできても、実証は非常に難しい。
断我見は意根の自らの証得である。那么、明心の証悟もまた意根が自ら真心の第八識を証得することなのだろうか?答えは、これも同様である。なぜなら意根は無始劫以来ずっと五陰六識の機能作用を我とし、また第八識の機能作用も我としており、神様自身が何ものでもないことを知らず、一方では第八識に依頼し、他方では五陰六識に依頼してはじめて、神様のいわゆる虚妄の我の機能作用を成就できる。神様自身の機能作用があってこそ、三界の中で生存できるのである。
那么、意根に無明を断除させ、仏道を成就させるには、一方では五陰の大樹を切り倒して、神様に依頼するものをなくさせ、五陰を我と認めさせないようにしなければならない。他方では第八識を樹立し、神様に真実の第八識を証得させ、一切の法はすべて第八識のなすところであり、自分の機能作用ではないことを知らせなければならない。こうして意根は法界実相をはっきり認識し、無明が少しずつ破除され、我執と法執が次第に断み尽くされ、最後に徹底して無我になった時に仏世尊となるのである。
<h4 style="text-indent: 2em;">七、意識はどのように意根と緊密に協力して断我見するか</h4>断我見する時、意識はまず意根にすべての証拠とデータを十分に与え、その後、意識は思惟を少なくし、功用を少なくし、意根の心理活動の必要に協力し、手を放して意根自身に思量と考量させ、神様自身にいくつかの事実を印証させる。もし意根が事実がまだ十分でない、証拠がまだ足りない、データがまだ足りないと感じれば、意識は再び思惟観行し、再びデータを収集して意根に渡し、意根は再び深く思量し考量する。このように意識が傍らで絶えずいくつかのデータ資料を補充すれば、意根は絶えず加工し、絶えず思惟を完善でき、最後に確固たる、証拠が確かな結論を導き出し、証果するのである。
もし処理すべき事柄が比較的多く、意識が定を出て六塵を了別しなければならないなら、意根もまた密かに用功することができ、行住坐臥参究を離れず、さらには夜に夢がある時もない時も用功できる。意根が事柄が重大だと実感した時は、寝食を忘れて精進用功することを決めるだろう。なぜなら意根が精進しようとすれば、これらの飲食活動は六識が実行するとはいえ、同様に意根の専一な思慮に影響し、神様は日常の瑣事に気を取られることになるので、五陰の他の活動を減らすことを決め、自分が気を散らさないことを保証するからである。眠る時には意識の傍らからの補助がないため、意根には十分なデータと材料がなく、参究に着手できず、そこで意根は眠らないことを決め、意識を滅らせない、あるいは夢の中で意識に参与させる。
<h4 style="text-indent: 2em;">八、観行と参禅の根本は意根に自ら観させることである</h4>一切の法の参究において、最初は意根が意識の思惟分析に協力し、意識の各種のデータと資料の収集に協力する。意識が資料を比較的十分に収集し、意根が利用するに足るようになったら、意識は意根の熟慮に協力し、意根の加工と統合の仕事に協力し、意根の審察・濾過の仕事に協力し、意根に多く心思を用いさせ、意識の活発さを少なくすれば、参究の仕事はすぐに完成できる。
意識の活発な思惟を少なくし、意根に多く思量させたいなら、定を修めなければならない。定の中でこそ意根の専一な参究を保証できる。神様は完全に一処に定することはできないが、極少数の法に定することができればそれでよい。専一に参究する必要のある法義以外のものは、ほんの少し了別するだけでよく、自分の参究に影響しない。那么、観行とは定の中で行わなければならず、意識は情思意解してはならず、意根の思量性を多く用い、意根の思量を十分かつ有効に発揮させ、自ら五蘊無我を証得すること、これが観行と参禅の根本である。だから意根が法を証しなければ、明心証悟はあり得ず、同様に断我見もあり得ない。定の中で参禅観行するには、意識の思惟の使用は少なく、意根の思量性の使用は多く、これが参禅観行の根本である。
意識の協力と援助がなくても、意根は法義を参究し思量できるが、必要な時間がやや長くなるだけで、いつになるかはわからない。事例がこれを証している。たとえば夜にある問題を考えて、解決しないまま眠りにつき、一夜眠った後、翌朝目が開いたばかりの時、意識の霊感が現前し、解決していなかったこの問題が突然わかった。これはこの一夜、意根がずっと働き思量していたことを示している。夜寝る前に疑問を意根に残しておくと、朝目覚めると同時に答えが得られる。このような類似の経験を持つ人は少なくない。
またたとえば、ある時思惟した問題で、その時は答えが得られず、そこで他のことを忙しくしに行き、表面上はこのことを忘れたようで、意識はもう考えなくなったが、それからいつの時か、頭の中に突然答えが現れた。これは意根がずっと背後で黙々と思量し、最後に思量して結果を出したのである。修行とは意根を多く用いることであり、意根の修行こそが真の修行であり、一切の法を証得し、一切の智慧を獲得できる。
意識が五蘊を観行する時、観行の情報は同時に意根のところに伝わり、意根は一度でわからず、二度でわからず、時間が長くなれば、理解し薫受でき、意識の観行の結果に同意する。これは意根が自分特有の思量判断性を起動した結果である。もし禅定があれば、意根も意識の観行思惟の思路に基づいて自分で思量することができ、意識とともに思量するか、あるいは単独で思量する。意識の薫染が深ければ深いほど、意根は単独で思量でき、それによって意識とともに共に我見を断除し、共に証果する。
<h4 style="text-indent: 2em;">九、意識と意根が緊密に協力してはじめて断我見できる</h4>観行が沈思に陥っている時、その中には意根の深思の行為がある。たとえば行き来しながら歩いて考える時、意識の思惟があり、さらに意根の思慮考量がある。その中で意識の力が大きければ、意根の力は小さく、意識が心思を少なく用いれば、意根の力は大きく、問題を解決するにも力度がある。意識と意根の交流方式は一般に自問自答の方式である。誰が問い誰が答えるにせよ、最後にはすべて意根が認可し賛同し、意根が最後の定奪と抉択を行って、はじめて問題が解決したことになる。五蘊の観行、話頭の参、参禅、参究は、いずれも自問自答と同じ原理であり、すべて二つの識の間の緊密な協力関係である。
意識が存在している時、二つの識は刹那も分離したことがなく、意識の思うところ考えるところはすべて意根の指揮を受け、意根の操作と協力から脱したことが一度もなく、意識が単独で思惟し意根が参与しないということは一度も現れたことがない。もし意根が参与しなければ、意識は滅して存在せず、意識は意根から脱して単独で運行できない。そして意識が存在せず思惟していない時でも、意根は依然として単独で働くことができ、休息したことが一度もなく、遍計所執 (parikalpita-svabhāva) し、時々刻々思量し処処で作主し、たとえ眠っている時、昏倒している時、および死亡の前後であっても、意根は暇を持ったことがない。
だから二つの識が緊密な協力関係になければ、破参開悟はあり得ず、断我見もあり得ない。意識の参与がなければ、データ資料がなく、詳細な情況を知らず、証拠が不足する。意根が思量に参与しなければ、その結果は問いがあっても答えがなく、それでは答えがなく、結果がなく、解けない問題として意根の心中に留まり、意根がゆっくり解決するのを待つことになり、いつになるかはわからない。
<h4 style="text-indent: 2em;">十、自己暗示法で意根を薫する</h4>自己暗示法で仏法を観行する時、意識はしばしば意根に暗示しなければならない。五蘊は虚妄、一切の法は虚妄と。ある時期に達すると、意根は疑情を起こし、能動的に求証に行き、断我見する機会があり、それによって自分の潜在能力を発揮し、自分を変える。このような暗示は自己催眠に類似しており、自分を比較的静かで沈静な状態、内心の声が聞こえる状態に調整し、この時にはじめて自己暗示できる。
以上の断我見の内容を、ゆっくりと抑揚をつけて陳述し、意根を導いて受け入れさせ、さらに意根に一定の緩衝時間を与え、意根に情報を受け入れさせ、思路を整理させ、情報の中の法義を考量させる。これには一定の時間と特定の環境・場面が必要であり、つまり意根に他の問題を注目させず、導かれる内容だけに注目させ、内心は沈静で安穏、祥和でなければならず、意識の導きを十分に受け入れられるようにする。もし意識がどこまで導けば、意根もどこまで思惟できるなら、この時意根は比較的従順であり、すでに初步的に薫染されているだけで、まだ最後の成功には至っていない。鍵は、意識が意根の反応を観察できるかどうか、導く経験があるかどうか、無我の理を本当に理解しているかどうかにある。このような導きの催眠は、適切な時間と場面の中で繰り返し何度も行うことができる。意識が理論に熟練し、意根を観察でき、意根を導け、沈穏で沈静な状態を保てさえすれば、一定の時日に達すれば、意根は必ず断我見できる。
<h4 style="text-indent: 2em;">十一、断我見のボトルネック</h4>毎晩時間がある時に、テレビの画面上の人物と景色を観察し、さまざまな人物の五陰の活動がどのように現れるのか、さまざまな因縁が聚合して生成されたものなのか、どのように生滅虚妄で実在しないのか、どのように自性がないのか、どのように我性がないのかを観行する。絶えず深く細やかに思考する:画面上の人物や景色はどのように現れるのか?
さまざまな因縁をすべて見出した後、定心して思惟する。これらの人物や景色は、一つの縁でも欠ければ現れることができず、五陰の活動もあり得ない。五陰はさまざまな縁に依拠してはじめて存在でき、一つの縁が滅すれば五陰も滅する。那么、五陰はなんと真実でなく頼りにならないことか。思惟する時は深く細やかでなければならず、分析は少なく、深入し、体会を多くし、さまざまな因縁データを揃えてから、意根に渡して認定・審査させる。残りの仕事はほとんどすべて意根のものであり、意根が行う。ただ静かに、深くこれらの内容を懸けておけば、いつの日か、豁然と開朗し、同時に自分と他人の五陰の活動が、すべて同様に虚妄不実であり、自主性がなく、真我ではないと認定できる。
ある人々はただ意根の認定のところで差がある。法義はすでに意識心の中で了然としており、これはあまり難しくない。難しいのは意根の認定のところである。禅定が欠けているため、意根は深思しておらず、すべての思想観念が意識の表面に浮かんでいるだけで、意根に深入しておらず、意根は認定できず、心中に無我の義に対する確信がない。これが断我見のボトルネックであり、突破する方法を考えるべきである。定力が不足する原因は、第一に定を修める時間がないこと、第二に福徳が不足していること、第三に戒律が完備していないこと、第四に輪回の苦を認識しておらず、出離心がなく、菩提心を発していないことである。その他の小さな原因もあり、自分で見出し、一つ一つ克服すれば、断我見は大功告成となり、さらに大きな功徳を完成すべきものが残っている。
<h4 style="text-indent: 2em;">十二、受想行識蘊無我をどのように観行するか?</h4>受蘊が一体どうして生滅無常変異するのか、一体どうして苦と空なのか、なぜ我ではないのか、一体どうして虚妄で、偽で、空なのか、なぜ生滅変異するものは苦なのか、なぜ苦なものは我ではないのか。このような一連の思惟過程がなければならず、正知見を具足してはじめて有効に意根を薫染でき、意根が定の中で思量して通达してはじめて、意根の根深く固い我見を転換できる。
もし思惟観行の過程がなければ、意識の理解だけに依拠すれば、意根は薫受せず、断疑生信できず、理を明らかにできない。意根自身が禅定の中で自ら観行参究実証し、自ら見証してはじめて断疑生信し、受想行識無我を確認できる。自らの目で見ることを通さず、無理に神様にある理を承認させ、神様自身を変えさせようとしても、それは通用しない。だから神様に自ら証し自ら見させなければならない。
受蘊の観行が終わったら、次に想蘊を観行する。想蘊とは何か、どのような面でその機能作用が現れるのか、想蘊の行相は何か、特徴は何かを思惟する。明らかにした後、さらに深く細やかに想蘊がどのように生滅変異するのか、一体どうして無常なのか、どうして空なのか、どうして苦なのか、苦空無常の想蘊が一体なぜ我ではないのかを思惟する。このような一連の深入した思惟整理を経て、意識心自身が明らかにし、自ら想蘊は我に非ず不異我であると証得するだけでなく、意根にも現前で思量抉択させる:想蘊は、本当に生滅変異無常無我である。このような抉択は非常に力度があり、心の奥底でこの理を認同でき、想蘊への執取 (upādāna) 心が緩む。
次にさらに行蘊を観行する。心を静め、雑念を排除し、行蘊とは何か、行蘊はどのような内容を含むのか、その行相の特徴は何かを思惟する。明らかにした後、深く細やかに思惟しなければならない:行蘊はどのように出生し、どのように集起し、どのように滅し、どのように生滅変異し、どのように自在でないのか。行蘊はどのように空なのか、どのように苦なのか、なぜ我ではなく、また我所有でもないのか。繰り返し繰り返し観察し、多方から求証し、一連の事実を心中に現させ、意識自身が認めざるを得なくさせる。行蘊は確かに無常無我である、これが口服である。さらに、意根も行蘊が苦空無常非我であると認めざるを得なくさせる、これが心服である。口服心服した後、七識の心行ははじめて根本的な転変を起こし、これより天下太平となる。識蘊および色蘊の観行も同様である。
五蘊はこのように一蘊一蘊と観行思惟しなければならず、十八界もこのように、一界また一界とすべて思惟観行して徹底しなければならない。思惟を徹底させたいなら、一定の定力がなければならず、定力が欠ければできない。定の中で思惟すれば深く細やかであり、ゆっくりと細やかに意根に深入でき、深く細やかで遅ければ遅いほど、意根は相応しやすく、さらに神様も深く細やかな思量を起こしてはじめて触動と証があり、真切な認知があってはじめて旧来の知見を変えられ、それによって心行に比較的大きな転変がある。意根は自分が慣れない法に対しては慧力がやや弱く、最初は意識の思惟の補助が必要であり、意根が法に疑情を起こし興味を用いれば、深く参究し、それによって無我を実証できる。
<h4 style="text-indent: 2em;">十三、深く細やかな思惟観行があってはじめて真に我見を断除できる</h4>五蘊虚妄を観行する時、意識は一般に粗略に五蘊は我に非ずと考えることができるが、深く細やかな思惟観行を経ていないため、その中の縁由を究竟徹底に了知できず、意根はその中に参与してともに観行できず、それゆえ意根はその中の真実義を理解する手立てがなく、当然五蘊非我の理を認可できず、それゆえ内心は依然として従来通りであり、触動がなく、心行も変化していないので、真の断我見ではない。
深定を修出し、定の中でさらに深く細やかな観行と思惟を続け、その中の原理をすべて思惟して徹底しなければならず、無我の証拠は十分でなければならず、三昧 (samādhi) の智慧が現れてはじめて、意根の元来の知見を覆すことができ、心の奥底で深く五蘊無我を肯定でき、最終的に我見を断除できる。深く細やかな思惟観行を経なければ、あるいは観行が深入して細やかでなければ、意根は真に理を明らかにし実証できず、身心は触動されず、心行も覆すことができず、意根は依然として習慣的に五蘊色身を我と認める。
観行の中で、意識がもし身体は自分が利用する道具であり、真の我ではないと感じたら、次のステップではさらに反観し、意識心自体もまた意根が用いる道具であり、意根は時々刻々自分の道具である五陰身を執著している。さらに観行して七識心もまた道具であり、いずれも真の自分ではなく、もはや意識あるいは七識心を自分としなければ、このように色身と識心は我であるという知見を破除でき、意根が深くこれを肯定すれば、知見は徹底的に転倒し、我見は断み尽くされる。
五蘊の中で意識を我とする知見は断除しにくく、意識のさまざまな作用は真実であるという知見は根深く固く、最も断ちにくいものである。深入して観行し、細やかに意識のさまざまな機能、作用と体性などがいずれも自分ではないと思惟しなければならない。さまざまな覚知性がすべて虚妄法であり、我ではないことを観行し、すべての感受、思想念頭、すべての行相、すべての分別了知作用をすべて細やかに深く観行してはじめて、断我見の希望がある。
観行して断我見するには、ある人にとっては、すべての面をすべて観行する必要は必ずしもなく、一つの点を突破し、一つの水門を開けば、五陰十八界を全部通徹でき、無我を証得できる。一点を突破すれば、残りを引き動かせる。この一点がどの点かは、人によって異なり、各自の弱点が異なるため、重点が異なり、突破口も異なり、自分の因縁がどうかを見て定めるべきである。
<h4 style="text-indent: 2em;">十四、断我見証果は「眼見為実、耳聴為虚」の道理と同じである</h4>仏は処処で我々に一つの真理を開示している:一切諸法皆悉空寂。つまり一切の法はすべて空で、寂静であるという意味である。なぜこのように言うのか?一切の法はすべてさまざまな因縁が聚合して有るものであり、本来自体性がなく、真実に存在する法ではないため、空寂であると言うのである。他方から言えば、すべての法は如来蔵 (tathāgatagarbha) が幻化したものであり、如来蔵 (tathāgatagarbha) が主導し、如来蔵 (tathāgatagarbha) の影であり、実質は如来蔵 (tathāgatagarbha) であり、一切の法はなく、それゆえ一切の法は皆悉空寂であると言う。小乗の空、大乗の空性 (śūnyatā) は、いずれもこの真理真相を指示している。
諸根は幻のよう、境界は夢のよう。これらの法を観行するには、比較的深い禅定が必要であり、さまざまな境界の中で、六根が六塵に対する中で、根と塵の虚幻性、不実性、不作主性、自体性のなさを体会し、定慧を結合させ、完全に融合させなければならない。細やかに観行し、眼で色を見る中で、眼根がどのように自在でないか、色塵がどのように虚幻で、影のようにであるか。耳で声を聞く時、声という境界がどのように夢のようであるか、耳根がどのように幻化したようであるか、どのように生じどのように滅するのか、どのように聴覚作用を起こすのか。観行がよければ、五陰空幻、寂静不生を証得できる。
これらの法の観行において、初步的な理解は、証得と同じではない。理解は比較的容易であり、意識はしばらく思惟すれば理解したと感じるが、これは証得ではない。証得には禅定が必要であり、甚深な思惟が必要であり、証拠が確かでなければならず、心の奥底の意根に深入しなければならず、意根が認可してはじめて証果と呼べる。意識の理解はすべて知識に属し、証拠がないか証拠が不足していれば、いずれも証ではなく、深く細やかな観行を経て、意根が心の奥底で真にその理を認可してはじめて、証果と言える。
その時は真に証得し五陰無我、六根虚幻を認可したため、心行が変わり、万事万物に対する見方が転変する。本当に自分は虚妄だと認めた時、心中は必ず変化が起こり、従来と同じであることはあり得ず、以前のままではあり得ない。意識が理解しただけで証得していない場合は、内心は五陰が確かに無我であることを知らず、自我に対する認知が変わらず、五陰に対する見方は理論の上に留まるだけで、心行は依然として従来通りであり、煩悩は依然として以前と同じく重く、三縛結を断除できず、三悪道も免れない。これは世俗法で言う「眼見為実、耳聴為虚(目で見たことが真実で、耳で聞いたことは虚しい)」の道理と同じである。他人の言うことを聞くことは意識の理解に相当し、実証されておらず、自分の心中はまだ虚しく、本気で問いただす勇気がない。その後、目で見て、自分が初めて本当に知り、「ああ!そうだったのか!」と言う。この時、人や事に対して、どう処理すべきかがわかる。
眼見は意根の証得に相当し、耳聴は意識の理解に相当し、これは全く異なる二つの層次である。意識の理解は他人から聞いたものであり、意根の証得は自らの目で見たものであり、現量知であり、真実の所見である。理解は道聴塗説に相当し、実際の目で見たこととは差が大きい。たとえば、ある人がどうだこうだと聞いて、心中に一つの見方を生じ、ある印象を持つが、会って観察してみると、原来こうだったのか、心中の印象とは完全に一致せず、会った時の感覚と印象のほうがより真実で信頼でき、それから初めてこの人に対して如理の態度を取ることができる。如実に了解し観察した後、自分の観点、意見、考え、行為造作は、聞いた時とは異なるものになる。
だから我々は心を用いて薫習しなければならず、心の奥底まで薫習し、真に諸根は幻のよう、五陰無我を観行しなければならない。観行する時には意識の観察思考があり、禅定が現れた時には意根の観察考量もあり、意根に禅定の中で観行させ、現量でこの理の属实性を証得させれば、断我見する。意根が観行しなければ、意識の思惟した理を認可せず、それでは役に立たない。意根にできるだけ早く証得させたいなら、証拠が確かでなければならず、できるだけ現量観察の程度に達するようにする。観行の途中にはまだ多くの程序があり、多くの道を歩むべきであり、多くの法を修めるべきであり、絶えずさまざまな資糧と道糧を修集し、絶えず福徳資糧を修集する必要があり、さらに戒律、忍辱、禅定、智慧があり、これら六度の条件を絶えず円満させなければならない。
<h4 style="text-indent: 2em;">十五、能取所取空を観行して断我見する方法</h4>能取するのは五陰七識であり、所取するのは六塵万法である。能所空を観察するには、定力が比較的よい情況の下でなければ観行思惟できない。前提条件は、第一に禅定が具足していなければならず、第二に五蘊虚妄の道理を粗略に了解していなければならず、さらに了解した内容に従って次第に観行思惟し、能取する七識心の虚妄を観行し、はっきりと徹底的に観察しなければならない。内心は六識の虚妄非我性を認可し、所取する六塵万法をはっきりと徹底的に観察し、五陰世間法を含め、すべてその虚妄、生滅、変異、不実性を観行しなければならない。
六塵の虚妄は観行しやすい。雑阿含経の中で、世尊は六塵の虚妄をどのように観行するかを教えられた。読みながら六塵がどのように虚妄であるかを思惟し、一項一項一つ一つ思惟観行する。文に随って観し、文に随って思惟し、思惟が徹底すれば、それらの道理を認可できる。思惟せず観行しなければ、意識が粗浅にそれらの道理を知っているだけでは役に立たない。もちろんこれは甚深な禅定の中で意識と意根が同時に観行すること、あるいは最後に意根が単独で観行することを指す。観行できた時、内心はこう言うだろう:おお、原来そうだったのか!これは意根が確認したのである。
観行には総じて過程があり、最後に内心はこう言うだろう:原来こうだったのか!この時こそ真に知ったのであり、これは意根の認可である。さもなければ、それは意識心の浅薄な知であり、意識の知は往々にしてあまり役に立たない。道理は多くの人が語れるが、実際には自分の内心は認可しておらず、これらの道理を意根が理解していないからである。意根に理解と親証させるには、第一に意識心の伝導薫染によるものであり、意識がこれらの法を観行する過程は、潜移默化に意根に影響しているのであり、思惟した一つ一つの法がすべて意根に伝わり、意根はこれらの内容を了知し自分の観行を行い、さらに理を明らかにする。第二に意根が禅定の中で自ら無我の理を観行思量し、三昧 (samādhi) が現前し、それによって親証する。
<h4 style="text-indent: 2em;">十六、意識が弱い時に意根を薫するのが最も有効である</h4>西洋の心理学者は、潜在意識に物事を記憶させる最良の途は、昏睡的な朦朧状態に入ること、あるいは睡眠に類似した状態に入ることだと述べた。このような状態では、意識レベルのすべての努力が最低限度まで減少する。そして、すべての考えが映像を通じて、静かで、受動的で、受け入れやすい方式で潜在意識に伝送できる。これは意根を薫染し意根を催眠する良い方法であり、断我見、煩悩の降伏には、自己催眠という方法が使え、おそらく最も迅速で有効な方法でもある。自己催眠は、意根に直接五蘊無我性を了別し受け入れさせることができる。
リラックス、静寂、眠気、目覚めたばかり、これらの時にはいずれも定があり、六識はなすすべがなく造作できず、心は散乱せず、意根は情報を受け入れやすく、薫受しやすい。この時意識はあるが、意識の思惟力、推理分析などの機能が制限されているため、意根は自分自身に依拠せざるを得ず、意根の思量の作用が際立ち、那么この時に意根に影響し説得し薫染し、意根を変えるのが最良の時機である。断我見の観行は、このような状態においても最良であり、定があり、意識があり、意根の作用力が大きく、影響される力も大きい。那么、五蘊非我の思想観念を意根に伝達し注入し、意根に認可させ受け入れさせることができる。
<h4 style="text-indent: 2em;">十七、意識の意根実証に対する影響力</h4>一切の法の証得は、すべて現観の結果であるべきであり、想像と分析から導き出された結論ではない。現観とは何か?現観とは現量観行、現前観行であり、六根が六塵に対するその時その場で、現前でさまざまな法の出生、運行と生滅変化を観察し体験することである。意識が現量観察であるか、思考から導き出された結論が事実であるかを、意根は絶えず判断するが、時には判断が正しく、時には判断が誤る。なぜなら意根の経験は限られており、さらに智慧が不足しているため、判断を誤りやすいからである。意識の現量観察と十分な思考分析は意根に薫染と推動の作用があり、意識の観念に理と拠り所がある時にこそ、意根の智慧を啓発でき、意根はこれに基づいて自分の観察と考量を行い、親証に至るまで続ける。意識の非量の想像と推論は意根にあまり影響力がなく、意根を実証へと推動することができない。
意根は身心と緊密に連なり、分離しない。意根の現量証は身心に程度の差はあれ変化を起こさせる。なぜ意根と身心の連なりが非常に緊密なのか?第八識は一切の法を変現でき、一切の法を見ることもでき、意根は第八識の見分 (darśana-bhāga) に依拠して、随って一切の法を見ることもでき、自分の身心境界を見ることを含め、これらの法を自分の所見とし、絶えず攀縁し、執著してやまない。こうして意根は一切の法の上で作用を起こすことができ、身心世界を協調し制御することもでき、身心を通じて自分のさまざまな情緒を宣洩し、身心世界にさまざまな変化を起こさせる。これが意根の遍計所執性 (parikalpita-svabhāva) と時々処処作主性の表れであり、我執と法執の表れでもある。
意根はまた意識の不正思惟の影響と薫染を受け、誤った抉択をする。無始劫以来、意識はずっと有意無意に意根を欺き、意根に五陰は我である、一切の法はすべて我のものである、五陰世間は美好で快楽であり、すべて追求して捨てるべきでないと告げ、意識は邪師の役割を演じており、そこで意根は世俗の五欲に貪染し、五陰の自分を執著する。断我見の前後から、意識は意根の良師益友の役割を演じ始め、自分が改邪帰正した後、さらに意根を助けて改邪帰正させ、共に煩悩を降伏し無明を断除し、共に転識成智し、手を携えて前進する。
<h4 style="text-indent: 2em;">十八、断我見は意根と相応するものである</h4>五蘊無我の理は、意識の深く細やかな思惟観行を通じて、すべての証拠資料を次第に意根に現し、意根が受け入れ、自分の観行を行えば、五蘊無我を確認できる。証拠資料が十分であればあるほど、現される現量境が多ければ多いほど、意根は思量し相応しやすい。なぜなら意根は現量境を承認し、非量の想像とは相応しないからである。意根は五蘊が空であることを知らないため、定の中で観行して事実が出れば、この理を確認せざるを得ない。従来は意識が多かれ少なかれ無我の理をいくらか知っていたが、意根は知らなかった。なぜなら慧が浅く、境界を了別する能力が不足し、深く細やかに思惟できなかったからである。
意識の分析思惟理解した内容は解悟に属する。これは定力があまりよくなく、意根に深入しておらず、意根が理を明らかにしていないためである。もし定力が強ければ、意識の思惟は深入でき、表面的な浅薄な理解は少なく、意識の動きが遅くなれば、意根の力を動員でき、意根の思量性を起用させられる。那么、意根自身がわかれば、意識は当然わかっている。定が浅く意識の分析の成分が多い時、意識は理解しやすいが、意根に現される証拠が不足し、意根自身の思量性も不足しており、意根は理を明らかにできない。
意識の分析用心を少なくし、意根に多く用心させ、多く思量させれば、五蘊無我を証悟できる。意根が確認するこの力は非常に大きく、自心を変え、身口意行を変え、業行を変え、業種を変えることができる。このように修行するのは大近道を歩むことである。意根に多く用心させ、現量で証得させたいなら、禅定に深入し、意識の動きを少なくしなければならない。これが参究の原理である。古来の禅師は皆このように学人に離心意識参禅を教え、分析するな、情思意解するなと言ったが、その中の深い道理を彼らは必ずしも理解しておらず、これが意根の功用であり、意根と相応するものであることを知らなかった。なぜなら意根の運作は唯識種智の範囲に属し、多くの禅師は唯識種智を生起していなかったからである。
断我見の原理も参禅の原理と同じであり、いずれも意根に自ら参究させ、意根に密かに用功して五蘊無我性を思量させ、意識は定の中で深く細やかに思惟し、遅く深く動くことで、意根に深入でき、それからはじめて無我性と相応できる。意根のすべての機能体性作用を掘り起こせば、修行は大近道であり、しかも最大の近道であり、我々は跳躍的に修行でき、成仏も非常に速くなる。
<h4 style="text-indent: 2em;">十九、心の結び目を開いてはじめて解脱を得られる</h4>解脱を得たいなら、我見を断除し、意根の五蘊と三界世間への攀縁を断除しなければならない。意根が徹底的に攀縁しないなら、我執を断たなければならず、五蘊と三界法をいずれも執著しないこと、四果の人でなければできない。無想定の中には意識がないが、外道は色身を執著するため、色身は滅しない。身を執し、身体を我とするため、三界を出離できない。断我見していないためである。意根が三界世間のすべての法に対して少しも興味がなく、貪愛を断み尽くし、五蘊十八界に対して少しも執取 (upādāna) しなくなって、はじめて我執を断み尽くすことができ、命終時に意根が自ら進んで滅すれば、無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) に入り、解脱して三界を出離する。
真の解脱は心の解脱であり、意識と意根がもはや五蘊の自分を執著せず、財・色・名・食・睡を貪らず、色・声・香・味・触を貪らなければ、意根は縄を五蘊から解き、身心の束縛はなくなり、生死の結び目が開き、生死の法はもはや自心を束縛できず、心は解脱したのである。五分解脱の中で、最後の一つは解脱知見であり、知見が解脱すれば、邪見 (mithyā-dṛṣṭi) の束縛がなく、正知見が建立され、邪見 (mithyā-dṛṣṭi) は消え、これは智慧の境界である。この知見に依拠すれば、生死の苦海を出離できるが、正知見こそ最も建立しにくい。なぜなら邪染が深すぎるからである。学佛修行とは絶えず心の結び目を開く過程であり、心の結び目が開いてはじめて解脱を得られる。
<h4 style="text-indent: 2em;">二十、断我見できない原因</h4>断我見できない原因の一つは、前期の意識が五蘊虚妄の内包を思惟して徹底しておらず、意根に渡す資料が不完全で、意根はこの内容に対して曖昧で、参究できず、意識も資料が不完全であることを知らず、思惟と証拠の収集をしないため、意根は巧婦も米なしの炊事は難しい状態である。さらに意根の攀縁心が降伏されておらず、禅定力が不足しているため、参究が成功していない。多くの人は参究を始めてすらいない。前期の意識が仕事をきちんとしていないため、意根が仕事を引き継げないのである。
意根は裁判者であり、検験者であり、検関者である。意識のすべての思惟分析のデータは、すべて意根の検験を経なければならず、たとえ分析がどれほど細やかで、どれほど精密で正確であっても、意根も検関・検査してはじめて通過を認可できる。たとえば部下の仕事員が一つの仕事を仕上げ、指導者に審査に提出する時、指導者は一度も見ず、一度も検査せず、一度も審査せずに、合格と定めて給料を払うことはできず、最低でも一度は目を通し、厳格であれば、しばらく審査し、調査を行い、誤りがないと確信してはじめて、判を押すことができる。意識と意根の関係はまさにこのようなものである。