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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 分類: 二乗解脱 更新時間: 2025-02-27 閲覧回数: 3375

第五章 真に我見を断ずるとは

第一節 意根と意識の同時に我見を断ず

一、我見を断ずるには意根を断ずべし

我見を断ずるとは知見上の煩悩惑を断ずることで、即ち不正確な知見を断除することを指し、見惑に属する。主に第六識・第七識の誤った知見と観点を含む。思惑は修道時に断ずる思想観念上の煩悩、即ち貪・瞋・痴・慢等の煩悩惑を指す。見惑は初果を証する時に断じ、思惑は三果と四果において断ず。即ち初禅を証得して後、断じ始める。貪愛と瞋恚を断ずるは三果人、一念無明の愚痴我執を断ずるは四果人なり。然るに意根の我見も見惑に属し、知見上の煩悩惑なり。初めて見道する時に断ずべし。意根の思惑煩悩は二果時に降伏し、三果時に断除を始め、断尽するは四果人、八地菩薩に相当す。

初果にて我見を断ずるには、必ず意根の我見を含む。且つ主に意根の我見を断ずるなり。若し意根が我見を断ずる必要無しとせば、初果を証することは極めて容易なる事となるべし。意識が思索すれば即ち我見を断ずるが、実際は容易ならず。多くの人々が一生阿含経を学びながらも、初果を証得せざるなり。実に多くの人々の意識は一切法が虚妄なることを理解すれども、夢幻泡影の如きことを知りながら、我見を断ずることが出来ず、初果人となること叶わざるなり。

意識心の我見は断除し易し。慧強きが故に、法を聞き即ち思惟観行し、我見と無明を破り易し。然れども意根の我見に影響され、我見は時処を選ばず現前す。意根が我を断ずるは比較的困難なり。意根の我見と無明は根深く、意根の智慧は弱く、接触する法義を速やかに理解できず。甚深の禅定と意識の熏染力に依らざるべからず。意識が資料とデータを提供し、意根が参考に供するを必要とす。意根が無我の理を思量参究し、無我を確認して初めて我見を断除し得るなり。

二、三縛結が意根に属するならば意根の我見を断ずべし

我見を断ずると同時に三縛結を断ず:我見・見取見・疑見。三縛結を断除すれば、未来世永劫に三悪道に堕ちざるを保証す。若し単に意識が我見を断ずれば足るとせば、意識は三縛結を断除し得るか。三縛結は意識を縛るか、意根を縛るか、或いは双方を縛るか。生死の結縛を断除するは意識によって決定されるか。意識は生死の大事に於いて主導権を有するか。無始劫以来の結縛は意根のものか、意識のものか。意識はこれを断截し得るか。意識は三縛結を断除する主導権を有するか。

無始劫以来の生死の結縛は主に意根の結を指す。三縛結は主に意根を縛る。意根は生生世世滅せず、業力と相応し、業力に随って六道を流転す。意識は一世のみ存在し、来世の五陰身を出生する主導権無し。意識が五陰身を少しも変更すること叶わず、六塵上にも一点の主導権無し。足を上げることさえできず、ガラスの歩道が安全であると自分に言い聞かせ、前進を促すも、足は上がらず。然るに意識が如何にして無始劫以来の生死の結縛を断除する主導権を有し得ようか。

意根は如何なる法に於いても主導権を握る。我見を断ずるという無始劫以来の重大問題に於いて主導権を握らざるは有り得ず。若し意根が主導権を握らざるは、仮の我見断ちにして真の我見断ちに非ず。凡そ意識の表面的主張のみあり、意根が主張せずに無理に随順するは偽りなり。演劇の如し。深層の意根が主張し、内心より発する主張こそ真なり。

故に世人の言行は真偽二種に分かる。泣くには真の泣きと偽の泣きの区別あり。笑うには真の笑いと偽の笑いの区別あり。恐れるには真の恐れと偽の恐れの区別あり。人を気遣うには真の気遣いと偽の気遣いの区別あり。怒るには真の怒りと偽の怒りの区別あり。憎しみには真の憎しみと偽の憎しみの区別あり、等々。世人の言行に真偽あるが故に、互いに交わるに当たり猜疑心を抱き警戒す。相手の真意と用心を探る必要あり、安易に信じ難し。此の故に、世人は人付き合いが心労と感じ、稍々不注意なれば人に騙され謀られる。世人の欺瞞は此の如し。

三、真偽の我見断ちの区別

仏法の修証に於いても、真に修証あるものと偽りに修証あるものと分かる。我見を断ずるにも真の我見断ちと偽の我見断ちの区別あり。明心にも真の明心と偽の明心の区別あり。真偽は世俗生活と仏教修行に充満し、人をして容易に弁別せしめず。凡そ偽りは意識表面のもの、即ち装いなり、作為なり。凡そ真実は意根深層と相応し、意根が認可するもの、内心深くより流露するもの、肺腑より発するもの、作為無きもの、人をして信頼せしむるもの、誠実無欺のものなり。

若し我見断ちが単に意識の我見断ちに止まり、意根が我見を断たざるならば、意根は三縛結を断除せず、三悪道に入らざるを保証できず。何となれば三悪道に入るか否かは業種と業力によって決定され、意根が業種と業力と相応するが故なり。若し意根が三縛結を断除せざれば、業種は未だ変化せず、命終には業力の牽引により三悪道に入るべし。此れは如何とも為し難く、意識心は全く為す術無し。主導権無く、又断滅するが故に、断除後の事柄には更に主導権無し。故に意識のみを修するは全く無益なり。意識が我見を断ずるのみでは、生死の問題と三悪道を免れぬ問題を解決できず。

一歩退き、意識が三悪道に入らざるを決定し得ると仮定すれども、臨終時、意識は先ず滅し、唯意根と如来蔵のみ存在す。意識存在せずと雖も、尚意根と業力は存在す。意識は業種業力と相応せず、三悪道に行くか否かを決定すること全く叶わず。意識自身の存在すら決定できず、如何にして三悪道に行かざるを決定し得ようか。意根が中有身に於いて示す表現を観察すれば知るべし。意根は中有身に於いて完全に自己の煩悩習気と相応し、全て自己の煩悩習気の現行に随って胎に投ずるなり。

若し意根が我見を断たざるならば、意識滅した後、意根は業種と相応し、業力と相応し、業力に駆られて三悪道に入るべし。此の時意根が我見を断たず、三縛結を断除せざるならば、意根の心行は尚三悪道と相応し、縄を解かず、必ず牽引されて三悪道に堕つべし。若し地獄に堕つるならば、中有身を経ず、意根と如来蔵は直接地獄身に入るなり。

四、何故意根が我見を断ずる必要あるか

生死輪廻と三悪道の輪廻は、意根の無明によって生ず。意根の無明破られざれば、十二因縁の生死連鎖あり、衆生は意根の無明に縛られ六道に繋がり、出離できず。三悪道に縛られ、出離できず。無始劫以前、意根は無明の故に本真我を知らず、法界実相を知らず、本心を守るを知らざりしが故に、心を起こして外に貪求し、遂に五陰身を虚しく受けて生死輪廻の苦を受く。意根は無明の故に内心妄動し、如来蔵が意根に随順して宇宙器世間を出生し、衆生の五陰身を出生す。三界世間法は此の如く出現せり。衆生は三界に於いて生死輪廻すること無量劫、今に至るも終わらざるは、意根の無明の故なり。意根の結縛の故なり。修行とは即ち意根の種々の結縛、種々の無明を断除し、無明に縛られず、種々の生死の係縛を離れ、解脱を獲得するを要す。

然らば我見を断ずるには必ず意根の我見を断除し、その後自らの貪瞋痴煩悩を淡泊にし、更に貪瞋痴煩悩を断除し、最終的に意根の我執を断除すべし。若し初果に於いて意根の我見を断除せざれば、二果の薄貪瞋痴無く、三果の貪欲と瞋恚の断除無く、更に四果の貪瞋痴慢煩悩断尽無く、我執断尽の説無し。此れより見れば、意根の我見は初果時に断除され、四果時に我執を断除す。此の修行の思路は我等皆明確にすべし。

意根若し我執を断たざれば、自ら消失滅すること能わず。身体活動を指揮するは意根の機能なり。意識若し身体を指揮せんと欲すれば、意根の同意を必要とし、意根が命令を下して初めて六識動く。六識動けば身体動く。六識出生せず活動せざれば、身体動かず。意根は身体を自己と見做し、無始劫来より執取して放たず。若し身体が自ら制御掌握せざるならば、意根は自我を失えりと感じ、故に言い様無き恐怖を覚ゆ。故に我見を断ずるには、必ず意根が我見を断ずる必要あり。意根が我見を断ずるこそ真の我見断ちなり。無論徹底究竟に我見を断ずる者は仏世尊のみ。四果の俱解脱の大阿羅漢も未だ徹底究竟に我見を断ぜず。

五、意識思惟の過程は即ち意根を熏染する過程

五蘊を観行し我見を断ずるには、意識心に於いて五蘊非我と認むるのみでは足らず、意根の認可を必要とす。意根を認可せしめんと欲すれば、甚深禅定を以て意根を三昧に入らしめ観行参究せしむべし。意識が無我と認めれば即ち無我となる訳に非ず。意根若し五蘊無我を証得せざれば、我見を断ずるに属さず。生死輪廻の根源は未だ断たれず。此の根源より我見を断ずるこそ真の我見断ちなり。

意根の攀縁範囲は極めて広大なり。定力無きが故に慧力劣弱、問題を理解認識する能力乏しく、真理を証得し難し。必ず甚深禅定を修し、意根をして専一深入に考究参究せしめ、意根が理解し仏法を親証するを得しむべし。加うるに意根固有の習気甚だ重く、知見容易に転換せず。故に意識は充分なる資料データを提供し、意根を導き法義を参究せしめ、始めて我見を断ずる可能性あり。

意識は深細なる思惟を以て意根を影響熏染すべし。即ち思惟す:五蘊は究竟如何にして虚妄なるか、究竟如何にして生滅す

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