五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)
第二節 四念処観の修習
一、衆生の四念処と法身の別
四念処観とは四念住である:身を観じて不浄とし、受を観じて苦とし、心を観じて無常とし、法を観じて無我とする。衆生は顛倒し、身を浄きものとし、無量劫より自らの身を貪り求め、他者の身を貪り求め、色身が汚穢不浄であり、血腥く充満し、細菌が氾濫し、大小便が其中に満ち、九つの穴が常に流れ出て汚物不浄であることを知らず、実に一つの動く便所である。この身相を観ずれば、実に不浄である。これをもって対治し、浄の顛倒想を正す。これに対し、法身は清浄であり、身もなく相もなく、念もなく為もなく、造作することなく、純一清白にして、梵行清浄である。
衆生は顛倒し、受を楽とし、無量劫より受を貪り求め、反って苦の因を造り、果は皆苦である。わずかな暫しの楽を究竟と思い、飽くことなく追求する。楽の時こそが苦受であり、楽そのものが苦であり、楽の後は一層苦であることを知らない。苦には苦苦、行苦、壊苦がある。衆生が苦を受ける時、そのもの自体が苦苦であり、内心の感受が念念に遷流し、変化して止まないことが行苦である。楽受の後、楽は即ち滅失し、久しく長く保つことができず、これが壊苦である。一切の感受は、苦受であれ楽受であれ不苦不楽受であれ、受あるものは皆苦である。これに対し、法身は受がなく、一切を受けず、苦受もなく、楽受もなく、不苦不楽受もなく、究竟して苦がなく、即ち純粋な楽であり、至楽大楽である。心は一切の境界を貪り求めず、苦受は即ち除かれ、捨受自在となる。
衆生は顛倒し、心を常とし、霊知を認め取って究竟の我とし、執取して捨てない。この心が念念に生滅し、刹那も留まらず、無常変異し、究竟して無我であることを知らない。これに対し、法身は常であり、永遠に壊滅せず、生ぜず住せず、異ならず滅せず、本来より諸仏の常住の体である。
衆生は顛倒し、法を我と認め、この法が因縁によって生じ、因縁が散じれば法は即ち壊滅し、壊滅する法がどうして我たり得るかを知らない。無明の心が法を執って我とし、一縁を欠けば、法は何処にあるのか。父母なくして五陰何より来たるか。身口意の行いが五陰を造り、もし真如がなければ、何の諸行があろうか。縁によって生じ縁によって滅するものは、即ち我ではない。これに対し、法身が我であり、種子は究竟し、清浄無為で、再び変異せず、二十一個の心所有法は真如の具えるところであり、この心法あることが即ち我である。衆生に我がなく、仏には即ち我があり、真常不変である。我でなくて何者であろうか。この観慧をもって、無明を尽く除き、苦を断ち染を離れ、究竟涅槃に至る。常にこの観を行い、速やかに仏となることを期す。
二、四念処観の具体的な観行方法
心の無常を観ずるには、眼識心の無常、耳識心の無常、鼻識心の無常、舌識心の無常、身識心の無常、意識心の無常を観じなければならない。法の無我を観ずるには、五陰の法が無我であることを観じ、十八界の法が無我であることを観じ、蘊処界が生み出す一切の法の中に一つの我、恒常不変の我が存在しないことを観じなければならない。
まず色陰を観ずる。色陰には生滅があり、無から有となり、有から無となる。『首楞厳経』において波斯匿王は、自らの色身が三十年ごとに変わり、十年ごとに変わり、一年ごとに変わり、日々に変わり、念念に変わることを観じたと言う。衆生は刻一刻と細胞が新陳代謝し、髪が生え、爪が伸び、皮膚、筋肉、内臓、血液などが全て変化し、今日の身体は昨日の身体と同じではなく、十年前の身体とは更に異なり、幼い頃の身体と比べれば同じところを見つけるのは難しい。色陰がこのように無常生滅変化し、内から外までが汚穢不浄であるならば、このように生滅不浄の色身がどうして我であり得ようか?どうして我性があり得ようか?我は生滅せず変化せず、恒常一如であり、苦性がなく、真実であり、私は清浄である。色陰はこれと反対である。ゆえに色陰は我ではない。
次に、受陰を観察する。受は識心の感受覚知であり、意識心を主とする。この心は無常生滅変化し、苦であり、非我である。楽受であれ、苦受であれ、不苦不楽受であれ、全て苦であり、無常であり、我性に反する。ゆえに受陰は我ではない。第三に、想陰を観察する。想陰は識心の了別性、執取性、言語妄想の思惟分別性であり、意識心を主とし、生滅無常変異し、苦であり、我性に反する。ゆえにこれも我ではない。
第四に、行陰を観察する。行とは造作、運転、遷流変化である。六識の分別活動は行陰に属し、色身の造作は行陰であり、言語の造作は行陰であり、妄想分別は行陰であり、細胞の新陳代謝は行陰であり、血液の流動は行陰であり、呼吸、心拍、胃腸の蠕動は行陰である。これらは全て生滅変化無常であり、苦性であり、我性に反する。ゆえに我ではない。
第五に、識陰を観察する。識陰は六つの識心であり、生滅無常であり、苦であり、変異し、我性がなく、我ではない。十八界の六根、六塵、六識を観察するに、全て無常生滅変異し、苦であり、我性がなく、我でもない。このように五蘊、十二処、十八界の運作によって生じる一切の法には、一つの真実永恒不変の我性はなく、全て虚妄無常生滅変異する、久しく住することのできない法であり、どれも我ではない。
三、内外の心、内外の煩悩とは何か
仏は『大念住経』において、受を観じて苦とするとき、内受と外受の二種の受について説かれた。外受とは観察しやすい意識心の受、特に六塵の境界における意識の受を指す。内受とは深く隠れていて観察しにくい意根の受を指す。大多数の人は意識と意根を区別できないが、内心深くの思想活動は、心が非常に細やかであれば、感知し観察することができる。
仏が心を観ずるとき、心を観察するには内心と外心の貪瞋痴の煩悩を観察し、内心と外心の集中散乱、広大狭小、有上無上、有定無定、解脱不解脱を観察すると説かれた。これは内心の意根に貪瞋痴の煩悩があり、定と不定があり、解脱と不解脱があることを示している。これは小乗の経典から意根にこれらの心所法があることを証明しており、世尊が明言されていないものの、意根の法は大乗の弟子でさえ理解し証得できず、ましてや小乗の弟子が意根の法を深く正しく理解できるわけではない。ゆえに世尊は意根の心所法を隠して説かざるを得なかったのである。
疑惑の煩悩には内疑惑と外疑惑があり、疑を断ずるには究竟に断じなければならず、必ず意根の疑惑を断ずるのである。ゆえに三縛結は完全に意根の結を指し、意根の疑惑を断除してこそ三縛結を断ずるのである。貪欲を断ずるには、意根の貪欲を断ってこそ、心が色界天人と相応し、色界天に生まれることができる。瞋恚を断ずるには、必ず意根の瞋恚を断除してこそ三果の人となる。愚痴を断ずるには、必ず意根の愚痴無明を断ってこそ三界を出離できる。
小乗の法は最も理解しやすいが、それでも一体誰が本当に小乗の法の仏典を理解できるだろうか。ましてや大乗の経典を、一体誰が本当に完全に理解し尽くせようか。阿羅漢果を証しても、汝の意を完全に信ずることはできず、智慧が足りず、意が究竟していない。完全に信じれば容易に誤りを生じる。
仏法は断片的なものではなく、必ず前後が連続し連なり、互いに補佐し説明し合うものである。
四、内外の五蓋
仏は『大念住経』において五蓋を説くとき、内貪欲と外貪欲、内瞋恚と外瞋恚、内睡眠と外睡眠、内掉悔と外掉悔、内疑惑と外疑惑があると説かれた。内と外はそれぞれ何を指すのか。
心を内外に分けるならば、外心とは衆生が普遍的発見し観察できる心意識を指し、内心とは衆生が発見し観察しにくい心意根を指す。二つの識心は一が顕れ一が隠れ、一が明らかで一が暗く、一が浅く一が深く、一は容易に変化し、一は堅固で改めにくい。修行とは、まず浅いレベルの意識に落とし込み、次に深いレベルの意根に落とし込み、まず意識を初歩的に転換し、最後に意根を究竟に転換することである。ゆえに全ての無明煩悩は、最初で明らかなのは意識のレベルにあり、最後で隠微深遠なのは意根のレベルにある。
この経典から、仏が小乗の法を説くとき、意根の法を明言されていなくても、やはり隠して意根に言及し、隠して一切の煩悩と無明は意根のものであり、煩悩を断つとは意根の煩悩を断つことであり、解脱とは意根の解脱であり、一切の法は意根に落とし込まれ、意根の問題を解決すれば一切の問題を解決でき、最終的に究竟して涅槃と解脱に達することができることを説かれていたことがわかる。
五、内外の七覚分
『大念住経』において、世尊は五取蘊を説くとき、色受想行識の内法と外法についても説かれた。内色は色身、外色は六塵、内受想行識は意根、外受想行識は意識である。
世尊は七覚分を説くときも、七覚分を内七覚分と外七覚分に分けられた。択法覚分、精進覚分、喜覚分、倚(軽安)覚分、定覚分、捨覚分は、全て意識の外覚分と意根の内覚分に分けられる。内七覚分を修め成じていないときは、小乗の果を証得することは不可能であり、我見を断つことはなおさら不可能である。ましてや明心見性など論外である。三十七道品を修め成じなければ、大小乗の果は一つも語るに及ばない。身心の軽安が成じず、定が成じず、内心の捨受が存在しなければ、我見を断除できず、明心見性もできない。これは仏法修証の硬指標であり、誰であっても越えることはできない。もし強いて誰かが証果や明心したと言うならば、それは皆プラスチックの果実であり、鑑賞するだけで実質的な価値は何もない。
世尊が七覚分を描写されたところによれば、意根には択法覚分があり、精進覚分(真の精進)があり、喜覚分(意根は単に捨受だけではない)があり、軽安覚分があり、定覚分(定と相応する)があり、捨覚分がある。その後、心行が八正道に符合して初めて、小乗の証果の条件を具足し、我見を断ち初果を証得できる。そうでなければ皆偽りの果実、プラスチックの果実である。条件が具足せず、因縁が具足しないのに、強いて導こうとすれば、偽りの果実を得るだけであり、毎日見ていても実用価値はない。
六、四念処観の殊勝なる果徳
仏は、七年から七日など異なる時間において、精進して四念処観を修行すれば皆証果できると説かれた。これは善根が深厚で、煩悩が軽微であり、遮障が少なく、前世において仏を学んだ時劫が久しい人々を指す。彼らがもし仏陀の要求するように精進修行すれば、数日から数年で証果できる。しかし無始劫より仏を学んだ時間が短く、煩悩が深重で、遮障が重い人々は、七年以上の精進修行が必要である。おそらく大多数の人は百年経っても証果できず、中には観呼吸さえもよく観じられず、心が如何にしても静まらず、証果など論外である人もいる。
しかし仏が説かれたように、どんな人であれ、精進して四念処観を修行し、心心念念が四念処であり、心心念念が観行であり、無始劫よりの五陰世間への攀縁習気を改め、煩悩と業障を降伏させれば、証果はやはり難しくない。難しいのは業障の関を越えられず、自ら決心して功を積み道を修めることを肯わず、散乱の習気を降伏させられないことにある。真に勇猛精進し、仏経に説かれるような修行を行えば、必ず証果できる。
この四念処観の修行方法は非常に殊勝である。皆、小乗の修行を嫌ってはならない。実はこれは修行の近道である。仏が説かれた近道こそ真の修行の近道であり、戒定慧を具足し、実修実証であり、口先の言葉ではなく、情思意解ではなく、考えたり琢磨したりするだけで証果するようなものではない。
仏が教え導かれた修行方法から、何が真の実修と実証であるかを体得し、どのような代償が必要かを理解すべきである。一部の人が想像するように、意識心で理解するだけで、何の代償も払わず、何の戒も守らず、何の定も修めず、意識で理解した乾慧で証果したことにするようなものではない。我々は仏陀の智慧を深く信じ、仏陀の教導に従い、自らの修行に初めて真の益があるのである。