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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2026年04月12日 閲覧数: 3982
<h3 style="text-indent: 2em;">第二節 四念処観の修習</h3><h4 style="text-indent: 2em;">一、衆生の四念処と法身の違い</h4>

四念処観とは四念住のことである。身を観じて不浄とし、受を観じて苦とし、心を観じて無常とし、法を観じて無我とする。衆生は顛倒して、身を浄とし、無量劫の来、自身を貪り求め、他身を貪り求め、色身が汚穢不浄で、血腥に充ち、細菌が氾濫し、大小便がその中に盈ち満ち、九孔常に流れて汚物不浄であり、実は一つの活動する便所であることを知らない。この身相を観ずれば、実に不浄であり、これをもって対治し、浄の顛倒想を除く。これに対して、法身は清浄 (viśuddha/pariśuddha) であり、身なく相なく、念なく為すところなく、造作がなく、純一清白、梵行清浄である。

衆生は顛倒して、受を楽とし、無量劫の来、受を貪り求め、かえって苦因を造り、その果はみな苦である。少しの暫しの楽をもって究竟とし、追求して厭わない。楽の時こそ苦受であることを知らず、楽はもとより苦であり、楽の後はいっそう苦である。苦は苦苦、行苦、壊苦に分けられる。衆生が苦を受ける時、それ自体が苦苦であり、内心の感受が念念遷流して変化止まざるのが行苦であり、楽受の後、楽はたちまち滅失して久しく長く保てないのが壊苦である。一切の感受は、苦受・楽受・不苦不楽受のいずれであっても、受あるところはみな苦である。これに対して、法身は受がなく、一切を受けず、苦受なく、楽受なく、不苦不楽受もなく、究竟に苦なきがすなわち純楽、至楽大楽である。心が一切の境界を貪り求めなければ、苦受はたちどころに除かれ、捨受 (upekṣā-vedanā) に自在となる。

衆生は顛倒して、心を常とし、霊知を究竟の我と認め取り、執取 (upādāna) して捨てない。この心が念念生滅し、刹那にも住せず、無常変異で、究竟に無我であることを知らない。これに対して、法身は常であり、永く壊滅せず、生ぜず住せず、異ならず滅せず、もとより諸仏の常住の体である。

衆生は顛倒して、法を我と認め、この法が因縁により生じ、因縁が散すれば法はたちまち壊滅することを知らない。壊滅する法がどうして我であろうか。無明の心が法を我と執し、一縁でも欠ければ、法はどこにあるのか。父母なければ、五陰 (pañca-skandha) はどこから来ようか。身口意行が五陰を造り、真如なければ、諸行はどこにあろうか。縁生縁滅なるものは、すなわち我に非ず。これに対して、法身は我であり、種子究竟、清浄無為、もはや変異せず、二十一心所有法は真如の具するところであり、この心法あるを以てすなわち是れ我と為す。衆生は無我であり、仏はすなわち我あり、真常不変、我に非ずして何であろうか。この観慧をもって、無明を尽く除き、苦を断じ染を離れ、究竟涅槃に至る。常にこの観をなし、早く成仏せよ。

<h4 style="text-indent: 2em;">二、四念処観の具体的な観行 (vipaśyanā-caryā) 方法</h4>

心を観じて無常とするには、眼識心の無常、耳識心の無常、鼻識心の無常、舌識心の無常、身識心の無常、意識の無常を観じなければならない。法を観じて無我とするには、五陰 (pañca-skandha) の法を観じて無我とし、十八界の法を観じて無我とし、蘊処界から生じる一切の法の中に一つの我もなく、恒常不変の我の存在しないことを観じる。

まず色陰を観ずる。色陰には生があり滅があり、無から有へ、有から無へと移る。楞伽経ではなく楞厳経の中で波斯匿王は、自分の色身は三十年で一変し、十年で一変し、一年で一変し、日日に変じ、念念に変ずると観じていると説いている。衆生は毎時毎刻、細胞が新陳代謝しており、髪が生え、爪が伸び、皮膚・筋肉・内臓・血液などがみな変化しており、今日の身体は昨日の身体と異なり、十年前の身体とはなお異なり、幼時の身体と比べれば同じところを見出すのは難しい。色陰はこのように無常で生滅変化し、裏から表まで汚穢不浄である。このように生滅不浄の色身がどうして我であろうか。どうして我性があろうか。我は生滅せず変化せず、恒常如一であり、苦性がなく、真実であり、我は清浄 (viśuddha/pariśuddha) である。色陰はこれと相反する。それゆえ色陰は我に非ず、である。

次に、受陰を観察する。受とは識心の感受覚知であり、意識を主とする。この心は無常で生滅変化するものであり、苦であり、我に非ずである。楽受、苦受、不苦不楽受のいずれであっても、みな苦であり無常であり、我性に反する。それゆえ受陰は我に非ず、である。第三に、想陰を観察する。想陰とは識心の了別性・執取 (upādāna) 性、言語妄想の思惟分別性であり、意識を主とし、生滅無常変異のものであり、苦であり、我性に反するので、やはり我に非ずである。

第四に、行陰を観察する。行とは造作・運転・遷流変化である。六識の分別活動は行陰に属し、色身の造作は行陰であり、言語の造作は行陰であり、妄想分別は行陰であり、細胞の新陳代謝は行陰であり、血液の流動は行陰であり、呼吸・心拍・胃腸の蠕動は行陰であり、これらはみな生滅変化無常のものであり、苦性であり、我性に反する。それゆえ我に非ず、である。

第五に、識陰を観察する。識陰とは六つの識心であり、生滅無常であり、苦であり、変異のものであり、我性がなく、我に非ずである。十八界の六根・六塵・六識を観察すれば、みな無常で生滅変異のものであり、苦であり、我性がなく、やはり我に非ずである。このように五蘊・十二処・十八界の運作から生じる一切の法には、真実で永遠不変の我性が一つもなく、すべて虚妄無常で生滅変異のものであり、久しく住すべき法ではなく、みな我に非ず、である。

<h4 style="text-indent: 2em;">三、内外の心、内外の煩悩とは何か</h4>

仏は大念住経の中で、受を観じて苦とするところを説かれた時、内受と外受の二種の受に言及された。外受とは観察しやすい意識の受、特に六塵の境界上の意識の受を指し、内受とは隠れている度合いが深く観察しにくい意根の受を指す。大多数の人は意識と意根を区別できないが、心の奥底の思想活動はやはり感知し観察することができ、ただ心が細やかであればよい。

仏が心を観ずることを説かれた時、心を観察するには内心と外心の貪瞋癡の煩悩を観察し、内心と外心の集中と散乱、広大と狭小、有上と無上、有定と無定、解脱と不解脱を観察する、と説かれた。これは内心の意根に貪瞋癡の煩悩があり、定と不定があり、解脱と不解脱があることを示している。これは小乗の経典から意根にこれらの心所法があることを証明したものであり、世尊が明言されなかったとはいえ、そうである。意根の法は大乗の弟子でさえ理解し証得することができないのだから、まして小乗の弟子が意根の法を深く正しく理解できるはずがない。それゆえ世尊はやむを得ず意根の心所法を隠して説かれたのである。

疑惑の煩悩には内疑惑と外疑惑があり、疑を断ずるには究竟に断じなければならず、必ず意根の疑惑を断ずるのである。それゆえ三縛結は完全に意根の結を指しており、意根の疑惑を断除してはじめて三縛結を断ずることになる。貪欲を断ずるには、意根の貪欲を断じてはじめて、心が色界天人と相応し、色界天に生まれることができる。瞋恚を断ずるには、必ず意根の瞋恚を断除してはじめて三果人となる。愚癡を断ずるには、必ず意根の愚癡無明を断じてはじめて、三界を出離することができる。

小乗の法は最も理解しやすいものであるが、しかし小乗法の仏経を真に読み解ける人が果たして何人いるだろうか。まして大乗経典など、真に完全に読み解ける人が果たして何人いようか。阿羅漢果を証しても、なお完全に汝の意を信ずべきではなく、智慧が足りず、意が究竟でなければ、完全に信じれば容易に過ちを犯す。

仏法は支離滅裂なものではなく、必ず前後が貫き連なり、互いに佐助し説明し合うものである。

<h4 style="text-indent: 2em;">四、内外の五蓋</h4>

仏は大念住経の中で五蓋を説かれた時、内貪欲と外貪欲、内瞋恚と外瞋恚、内睡眠と外睡眠、内掉悔と外掉悔、内疑惑と外疑惑があると説かれた。内と外はそれぞれ何を指すのか。

心を内外に分けるなら、外心とは衆生が普遍的に発見し観察できる心意識を指し、内心とは衆生が発見し観察しにくい心意根を指す。二つの識心は一つは顕れ一つは隠れ、一つは明一つは暗、一つは深く一つは浅く、一つは変えやすく、一つは堅固で変えがたい。修行とは、まず浅い次元の意識に落とし込み、さらに深い次元の意根に落とし込み、まず初歩的に意識を転変させ、最後に究竟に意根を転変させることである。それゆえすべての無明煩悩は、最初にして顕著なものは意識の次元にあり、最後にして隠秘深邃なものは意根の次元にある。

この経から、仏が小乗の法を説かれた時、意根の法を明言されなかったとはいえ、やはり隠して意根に言及され、隠して一切の煩悩と無明はみな意根のものであると説かれ、煩悩を断ずるのは意根の煩悩を断ずることであり、解脱は意根の解脱であり、一切の法はみな意根に落とし込まれ、意根の問題を解決すれば、一切の問題を解決でき、最終的に究竟に涅槃と解脱に達することができる、ということが見て取れる。

<h4 style="text-indent: 2em;">五、内外の七覚分</h4>

大念住経の中で、世尊は五取蘊を説かれた時、色受想行識の内法と外法にも言及された。内色は色身であり、外色は六塵であり、内受想行識は意根であり、外受想行識は意識である。

世尊が七覚分を説かれた時、七覚分を内七覚分と外七覚分にも分けられた。択法覚分、精進覚分、喜覚分、倚(軽安)覚分、定覚分、捨覚分は、いずれも意識の外覚分と意根の内覚分に分けられる。内七覚分を修成しない時は、小乗の果を証得することは不可能であり、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断ずることは不可能であり、まして明心見性など言うまでもない。三十七道品を修成しなければ、大小乗の果は一つとして語るべからずであり、身心の軽安が成就せず、定が成就せず、内心の捨受 (upekṣā-vedanā) が存在しなければ、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断除できず、明心見性もできない。これは仏法修証のハードな指標であり、誰であっても越えることはできない。あえて誰それが証果し明心したと言うなら、それはみなプラスチックの果であり、鑑賞するだけでよく、実質的な価値は何もない。

世尊の七覚分に対する記述から見れば、意根には択法覚分があり、精進覚分(真の精進)があり、喜覚分があり(意根は捨受 (upekṣā-vedanā) だけではない)、軽安覚分があり、定覚分(定と相応する)があり、捨覚分がある。その後、心行が八正道に符合してはじめて、小乗証果の条件を具足し、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じ、初果を証することができる。さもなければ、みな偽の果、プラスチックの果である。条件が具足せず、因縁が具足せず、強引に導けば、偽の果しか得られず、日々眺めてはいるが、実用の価値はない。

<h4 style="text-indent: 2em;">六、四念処観の殊勝な果徳</h4>

仏は七年から七日までの異なる時間において、四念処観を精進修行すればみな証果できると説かれたが、これは善根深厚で、煩悩が軽微で、遮障が少なく、前世に学仏した時間が長い人々を指している。彼らがもし仏陀の要求されたように精進修行すれば、数日から数年で証果できる。一方、無始劫以来の学仏の時間が短く、煩悩が深重で、遮障が重い人は、七年以上の精進修行を経てはじめて証果できる。おそらく大多数の人は百年経っても証果できず、中には呼吸の観察すらうまく観じられず、心がどうしても静まらない人もおり、まして証果など論ずるまでもない。

しかしまた仏の説かれたように、いかなる人であっても、ただ四念処観を精進修行し、心心念念がみな四念処であり、心心念念がみな観行 (vipaśyanā-caryā) でき、無始劫以来の五陰世間に対する攀縁の習気を変え、煩悩と業障を降伏できれば、証果はやはり難しくない。難しいのは業障の関を越えられないことであり、自ら決心して用功弁道しようとせず、散乱の習気を降伏できないことである。真に勇猛精進をなし、仏経に説かれるような修行を実行できるなら、必ず証果できるであろう。

この四念処観の修行方法は非常に殊勝であり、皆は小乗の修行を疎んじてはならない。実はこれこそ修行の近道である。仏の説かれた近道こそ真に修行の近道であり、戒定慧が具足し、実修実証であり、口先だけの功夫ではなく、情思意解ではなく、ちょっと考えたり思案したりするだけで証果できるという類のものではない。

仏が我々に教え授けられた修行方法の中から、何が真の実修と実証なのか、どのような代償を払う必要があるのかを体得すべきであり、一部の人が想像するように、意識心理で理解するだけで、いかなる代償も払わず、いかなる戒も守らず、いかなる定も修めず、意識の理解という乾慧だけで証果したことになる、というのではない。我々は仏陀の智慧を深く信じ、仏陀の教えに従ってこそ、自身の修行に真の益があるのである。

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