衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2025年12月04日 閲覧数: 5511
<h3 style="text-indent: 2em;">第二節 禅定と煩悩および睡眠の関係</h3><h4 style="text-indent: 2em;">一、煩悩の圧伏と断除の違い</h4>

煩悩の圧伏と煩悩の断除は、二つの概念であり、修行の二つの階層であって、両者の差は非常に大きい、あるいは極めて大きい。煩悩の圧伏には相応する禅定があれば足りるが、禅定が一旦退失すれば、煩悩は再び現れる。一方、煩悩の断除は初禅以上の禅定に依拠するだけでなく、断我見の智慧も必要であり、定と慧が結合して初めて煩悩を断除できる。すべての禅定は意根の執着と煩悩を降伏できるが、煩悩を断除し執着を滅除することはできない。煩悩の断除、執着の滅尽には、禅定が必要なだけでなく、さらに智慧を具足した認知、真理への如理思惟、真理の証得が必要である。つまり禅定と智慧の両方を兼ね備えて初めて、煩悩と執着を断除して解脱し、仏道を成就することができるのである。

四禅八定を修得した人は、禅定がいずれも高く、貪欲などの根本煩悩を断除したように見え、心が非常に清浄であるが、禅定が消失した後には、煩悩は再び現前し、命終した後もやはり生死輪回の中にある。別の身体に生まれ変わった後、禅定が現れない間は貪欲などの煩悩が現行し続け、そして淫欲心のために投胎受生するが、禅定のない人より煩悩がいくらか軽い可能性はある。断我見して果を証していなければ、いわゆる貪欲煩悩の断除は断除や根絶ではなく、圧伏・降伏であって、一時的に現起しないことは今後も現起しないことを意味しない。

<h4 style="text-indent: 2em;">二、初禅定を具足して初めて煩悩を断除できる</h4>

初禅定の中では身心の感受が非常に美妙的であるため、欲界愛に興味を持たなくなり、これによって欲界愛を降伏あるいは断除できる。初禅定の中では内心に喜悦があるため、瞋心を降伏あるいは断除できる。だから初禅の功徳受用がなければ、貪愛と瞋恚という二つの根本煩悩を断除することはできない。ただし前提として、断我見という智慧がなければならず、この前提がなければ、たとえ初禅定を修得しても、貪愛と瞋恚という二つの根本煩悩を断除することはできず、煩悩を圧伏できるだけで断除はできず、ひとたび定力が消失すれば、煩悩はまた現れる。だから煩悩の断除とは、初禅定を得た後のことであり、その前には必ず三縛結を断たなければならない。いかなる法の証得も、禅定と智慧の結合であり、どちら一つ欠けてもならず、前提として福德も必要である。

<h4 style="text-indent: 2em;">三、心が正しく煩悩の軽い人にのみ正定と正思惟がある</h4>

八正道:正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定。八正道の修行が満足すれば、八邪道から脱離し、聖性と相応して、初めて果を証し、聖賢の列に入ることができる。もし人が奸诈(奸智に富み)、険悪、卑鄙(卑劣)で、心術が正しくなく、手段を選ばず、嘘で欺くなら、明らかに八正道の要求に合わず、正語ではなく、正思惟でなく、正念がなく、正業を謀らず、心が正定にないので、この人は八正道を持たない。そうすると、道理を語るとき口若懸河で、いちいち筋が通っていても、この人が真知灼見を持つことを示すことはできず、この人が断我見して初果・二果を証得したことを示すこともできない。

邪念が盛んな人には、禅定はあり得ない。禅定のある人の心念は清浄で正直であり、妄想が少なく、攀縁が少なく、浮躁な思惟がなく、心意が端直で、邪な心思はあり得ない。したがって、人の心術が正しくなく、計謀が多いということは、心が定の中にないこと、禅定がないことを示している。衆生は愚痴な者が多く、いつも人に籠絡されるのを好み、大言壮語の理を好み、弁舌爽やかに語る人を崇拝するが、真理は口頭禅ではなく、道は口の上にはない。弁舌爽やかに語る者は必ずしも道があるわけではなく、もし道があるなら、過去の文人墨客である胡適らは、誰もが口才朗々で、文章も鋭く、仏法著作や禅宗著作が身の丈ほどあり、長編大論で羨望を禁じ得ないが、しかし彼らには道がなかったのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">四、睡眠の質を良くする方法</h4>

睡眠が良くないのは、意根の攀縁が重く、心が空浄でなく、煩悩が重く、思慮が比較的多いためであり、そのため安らかに眠れないのであって、体質の悪い場合は別である。もし禅定が比較的良く修められ、仏法を熏習する力が比較的大きければ、心中がすべて仏法であり、世俗法を多く考えたり惦念(案じたり)することがなく、心を平静に、清静にすることができる。もし精進して仏法を学べば、心中がすべて仏法であり、眠るとき夢の中までも仏法で、心の中に他のことを入れ込む余地がなく、睡眠は非常に清明になる。多く禅定を修めることも、睡眠の質の向上に役立つ。坐ることだけが修定ではなく、行住坐臥のすべてで定を修め、自分の意根が世俗の事を攀縁しないよう訓練し、四念住経に従って修行すれば、禅定は速やかに向上し、内心の攀縁もすべて軽減される。

生死が切迫しているという心があれば、世間法を意に介さなくなる。生活が幸福すぎると、出離心は強くならない。常に一切法の無常性を観照すれば、出離心が生じ、道心が堅固になる。したがって、自分が世俗法からいくらか離脱したかどうか、出離心があるかどうか、道心が増強されたかどうかを、常に観察すべきである。自分の不足している部分を多く見つけ、それを補う方法を考え、一日も早く明心と断我見を目指すこと、これは非常に重要なことである。

<h4 style="text-indent: 2em;">五、禅定は睡眠に有益</h4>

禅定があるときは睡眠が少なく、身体は多くの睡眠を必要としない。禅定そのものが、六識の活動を少なくさせ、四大の栄養の消耗を少なくさせるからである。禅定はまた、意根の攀縁を少なくさせ、色身の活動を減らし、全身の神経系統への牽動と制御を減らす。大脳神経系統、五臓六腑および全身がいずれも活動と四大の消耗を少なくすれば、身体も疲労せず、意根も睡眠を貪らなくなる。

禅定が深いほど、必要な睡眠は少なくなり、ついには完全に睡眠しなくてもよくなる。このとき意根は非常に安静で、もはや何らかの造作を考えず、大脳神経系統を過度に動員することもなく、身根の活動や識心の活動もほとんどないからである。意根が定であるほど、攀縁は少なく、調控の活動は少なく、四大の消耗は少なく、睡眠と食事がますます不要になる。

ある人は日常の仕事の中で、仕事は少なくないのに心念が非常に少なく、その消耗は少なく、それほど多くの食事を必要とせず、それほど多くの睡眠を必要としないが、依然として精力は充沛している。これは、四大のエネルギーを最も消耗するのは意根の心思活動であり、六識そのものの消耗はそれほど多くないことを示している。だから六識の仕事量が少しも少なくなくても、意根の心念が少なければ、活動量が減り、仕事も疲れると感じない。

このことから、意根は色身の状況をいつでもどこでも把握し了解でき、いつでもどこでも調控と指揮ができることが分かる。神様は了別が非常に伶俐で、意識は身体の様々な状況を知らず、意根の暗示と警覚を必要とするのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">六、なぜ静坐一須臾は恒沙の七宝塔を造ることに勝ると言うのか</h4>

人が静坐一須臾すれば恒沙の七宝塔を造ることに勝る、この言葉には一定の道理がある。なぜこう言えるのか。恒河沙ほど多くの七宝塔を造ることは、これは単に財布施であり、無量の福を得ることができ、述べ尽くせないとしても、施者個人が福を得るだけで、他の衆生には関わらず、しかも福はついには享け尽くすときが来る。ましてこれは単なる福德であって、その中に智慧の功徳はなく、無明煩悩を断除できず、それによって解脱し大解脱を得ることはできない。功徳は智慧の成就であり、無明煩悩を断除し、解脱し大解脱を得ることができる。福と慧の両方がともに円満成就して初めて、一切種智を成就でき、どちら一つ欠けても成仏できない。

禅定は身を修め心を修める最も有効な途であり、静坐そのものが定福を生むだけでなく、同時に功徳受用もある。静坐する本人が功徳受用を持つだけでなく、周囲の他の人々にも影響を与え、接触した関係のある人々はいずれも功徳受用がある。衆生の間では身と心に一定の磁場効果があり、互いに浸透し影響し合えるからである。冷水と热水(熱湯)の関係のように、最終的な結果は冷熱水が互いに混合し、熱湯の熱が冷水に浸透して冷水を暖め、堅氷をも溶かすことができる。禅定があり修持のある人は熱湯に相当し、禅定がなく修持のない人、あるいは修持が非常に浅い人は冷水と堅氷に相当し、結果として禅定のある人の功徳は無形のうちに禅定のない人に伝わり、禅定がなく修持のない人々も身心の愉悦を感じ、煩悩が軽減され、心地が柔軟になり、さらには業障と苦悩を消除できるようになる。

もちろん熱湯の熱が冷水と堅氷に伝われば、熱はいくらか失われ、冷たくなり、禅定修持のある人は身心が非常に疲れを感じ、煩悩がいくらか増え、病苦も増える可能性があり、こうして修行の功力が弱まり、元の身心状態を保つためにより多くの代価を払う必要が生じ、あるいはさらに禅定と修持を深める必要がある。だから修行人は修行の場所をよく選び、身を置く人々をよく選び、業障の非常に重い所を遠ざけるべきであり、人混みを避けられればそれが最善である。誰もが善友を必要とするが、善友がなければ、やむを得ず一人で独処するしかない。

しかし人混みを離れたからといって、衆生がその功徳の影響を受けないというのではなく、やはり影響はある。ただ、以前は功徳を身近なごく少数の人々に伝えていたのが、周囲にこれらの人々の遮障がなくなると、その磁場とエネルギーはより遠くまで伝わり、受益者はより多くなる。数人に、多くの人々が必要とする陽光と暖かさを遮らせる必要はない。修持の功力が非常に大きい人は、周囲の百里、千里、万里に影響を与え、一つの都市、一つの省、一つの国に影響を与え、さらには全世界と仏教界全体に影響を与え、仏教の興隆と存亡に関わる。一つの団体は大小を問わず、この人がいれば団体は祥和で興盛するが、団体からこの人がいなくなると、業障を抑えられなくなり、是非紛争が頻発し、次第に衰えていく。

静坐一須臾、是非紛争と雑念を止息し、身心がともに静まり、自身と周囲の磁場を浄化すれば、人や畜生、飛鳥や鬼神もいずれも瞬間の祥和と安楽を感じ、瞬間に熱悩を止息する。このような福德と功徳は述べ尽くせず、恒河沙ほど多くの七宝塔を造ってもこれに比べることはできない。特に今のような末法の時期には、衆生は普遍的に貪瞋痴の煩悩が盛んで、業障は絶えず流れ、災難が四方に起こり、苦難が交錯している。もし一須臾の煩悩を止息できれば、その功徳は述べ尽くせない。もちろんこれは正定を指しており、邪定は負の影響力しか持たない。心が邪であるため、心の影響力も無形のうちに非常に大きいからである。

<h4 style="text-indent: 2em;">七、神経衰弱を治療する方法</h4>

坐禅時や静かになったとき、非常にゆっくりと心経あるいは薬師咒を誦し、誦しながら観想し、仏光が頭部、特に後頭部に照らされていると観想する。仏光は金色で、絶えず頭部あるいは後頭部の中に流れ込む。さらに黒色あるいは灰色の業障の気が、たびたび頭頂から排出されていくと観想し、睡眠が好転し、黒い気を観想できなくなったら、もう観想する必要はない。定力が良いほど効果があり、定力の比較的良い人はこの方法を用いると非常に効き目があり、同時に定力も強化でき、得定も速い。金色の仏光が頭頂から四方八方から入ってくるという観想でもよく、直射でも傾斜した角度でもよい。定力が強いほど観想の範囲が広くなり、これも定力を速やかに増強できる。自分で想像して、便利なように観想すればよく、身体の他の部位の疾病もすべてこの方法に従って観想できる。他人のために観想することもできるが、その人の業債を背負わなければならない。

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