禅定の修めと参禅証道(第一部)
前 言
如何にして禅定を修めるか、これは修行者にとって最も現実的な問題である。禅定がなければ、一切の仏法を実際に体得することはできないからである。戒・定・慧の三学は、仏法修行の過程において同等に重要であり、いずれも欠かすことができない。定学が第二位に位置していることは、定力が修行にとって極めて重要かつ決定的なものであり、智慧の宝蔵を開く金の鍵であり、涅槃の彼岸へ至る舟であることを示している。
現在、ほとんどの修行者の瓶頸(ボトルネック)は禅定にある。禅定が修まらないと、心が散乱して清浄ではなく、煩悩を降伏することができず、仏法を観行思惟する際に力及ばず、したがって仏法を実証することができない。
一、世尊は『坐禅三昧法門経』において弟子たちに、心が散乱して禅定が現れない原因は、貪・瞋・痴の煩悩による覆障(おくしょう)にあり、心の中に多くの人や物事への係念や懸念があり、心が静まりにくいためであると説かれた。仏は、禅定を修める前に智慧を用いてさまざまな覚観(かっかん)を取り除き、散乱した思惟を取り除き、智慧をもってこれらの煩悩を観照し、その後禅定を生起させ、続いて煩悩を降伏し、断除するよう教えられた。
二、現在、仏教徒に普遍的に見られる現象は、修定の条件も福德も不足しているため、定力を修めることが非常に難しいということである。表面的には、多くの人の物質的生活水準は確かに向上したが、出世間法である仏法に用いられるべき福德は非常に不足している。禅定が修まらず、心が空(くう)で清浔でない人は、常に自らの心を点検し、内省して、心の中が欲界の財・色・名・食・睡で満たされていないか、欲界のさまざまな法や人事物理に貪着していないか、これらの欲界法に対して深い執着を持っていないかを見極めるべきである。これらの貪着はすべて修定を阻む病根であり、禅定が修まりにくい原因となっている。この病根を見つけたら、それを取り除く方法を考え、これらの法の虚妄性と不実性を絶えず思惟分析観察して、執着性を軽減しなければならない。
もし人が美食を好み、快適さを好み、享受を好み、称賛を好み、欲界の人間の法に何もかも貪着し、すべてを気にかけ、人間界のあらゆることを思いわずらい重視するならば、禅定を修めることは不可能である。人生に対して追求するものが多ければ多いほど、人生に対する希望や興味が強ければ強いほど、禅定を得ることは困難である。なぜなら、物が心を塞ぎ、心の負担が重くなり、空寂(くうじゃく)で静かになれず、軽安(きょうあん)を得られないからである。もし我々が人間界に対するさまざまな貪愛や憎嫉怨恨などを、いくらかでも降伏することができれば、禅定は速やかに現れるであろう。
もし我々が念念(ねんねん)として五陰世間に貪着し、攀縁(はんえん)が甚だしいならば、禅定が生起することはない。五陰世間を厭離(おんり)する心が生じ、欲求がなくなって初めて、欲界定が現れる。欲界天人の五陰の生活環境を厭離して初めて、色界定が現れるのである。もし我々が世間の一切に対していつも希求心があり、心が常に境(きょう)に向かおうとするならば、より殊勝で勝妙なものを容れることは難しい。
三、心の中の貪念と執念を降伏・軽減した後で改めて修定に臨めば、容易に修めることができる。定は、一般に坐禅による静中の定と、行住坐臥における動中の定に分けられる。この二つの定はどちらも重要であり、それぞれに長所があり、互いに補い合い、互いに滋養し合い、相乗効果をもたらす。その中でも静中の定が特に重要であり、静中の定がよく修まれば、身心ともに輕鬆自在(きょうそうじざい)となり、煩悩の降伏も速やかである。そうして初めて、行住坐臥において動中の定を修める際に力が得られる。特に仏法を観行する際に一層力が発揮され、より細微にわたり、より深妙な智慧を得ることができるのである。
修定がまだ力にならず、要領を得ず、着手の場所が見つからない人々のために、ここに修定の具体的な方便法をいくつか紹介し、皆様が修定する際の参考と手本としていただきたい。