衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2025年12月04日 閲覧数: 1132
<h3 style="text-indent: 2em;">第三節 禅定は証果の先決条件
</h3><h4 style="text-indent: 2em;">一、禅定具足してはじめて速やかに証果できる</h4>

阿含経に記載されている事例も、大涅槃経に記載されている事例も、いずれも真実性があり、確かに一部の外道たちは四禅八定を修めた後、仏の説法を聞いて、ほんの数分間思考するだけで我見を断じ、我執を断じて四果阿羅漢となり、そのまま無余涅槃に入った。これらの外道は並外れており、四禅八定の功徳も並外れている。私たちの多くは一生をかけて仏法を聞いても我見を断じることができないのに、外道は四禅八定があれば、わずか数分あるいはそれより短い時間で、我見を断じるだけでなく我執も断じ、直ちに無余涅槃に入ることができる。思議不可思議である。

皆さん考えてみてほしい。彼らはなぜこれほど利根なのか。彼らが四禅八定を修行する過程で、意根はすでに降伏されており、ただ知見上の一つの誤解がまだ整理されておらず、断除されていなかっただけである。この邪見を断除した途端、すべての煩悩と執著がその場で脱落した。これこそが四禅八定の功徳である。このことから、意根の煩悩を降伏することは四禅八定と非常に密接な関係があり、禅定が極めて重要であることが分かる。

<h4 style="text-indent: 2em;">二、実証の条件の一つは禅定である</h4>

ある人はこう言う。禅定は外道定に通じるものであり、学仏人は外道定を修むべきではなく、正知見さえあれば入道できる、と。この観点は正しいか。もちろん正しくない。大乗も小乗も修行には必ず禅定を修習しなければならず、佛陀も戒定慧の三無漏学の重要性を繰り返し強調されているのであり、禅定は必ず修めるべき重要な内容である。また、仏教が修める禅定には外道定と共通する部分があるからといって、外道と共通であることを理由に、学仏人は共通を避け、禅定を捨てて修めないようにすべきだろうか。この考えは愚痴な見解である。

仏法は世俗法を離れないのであり、外道もまた食事をし着物を着、語黙言笑する。まさか学仏人が外道との共通を避けるために、着衣食事や語黙言笑を捨てることこそが独特であり、外道より高いということになるのだろうか。外道と共通の禅定を離れれば禅定は存在せず、禅定がなければ見道できず、解脱できないのであれば、外道との共通を恐れて禅定を修めないのは、いったい何のためなのか。外道でさえ持っている功徳受用が、いわゆる内道にはなく、それは内道が外道ほど強大でなく、外道ほど修行していないことを意味しないのか。必要のない清高を内道人が追い求め、その結果禅定の真実の受用を得られないとすれば、それは愚痴を表していないか。愚痴人が持っているいわゆる正知見は、果たして正知見なのか。内道人には三思を望む!

また、内道人が外道と不共の禅定を発明し、大衆が共に修行して禅定の功徳受用を得られることを望む。もしこの外道と不共の禅定にも禅定の特徴があり、身心にも舒適、高大、軽霊、軽安、紓緩、愉悦、喜悦、慈悲、祥和、慈柔、煩悩の少なさ、思惟の敏捷さなどの現象が現れるならば、申し訳ないが、これらの現象は外道定にもすべて備わっており、外道たちもこれらの功徳を受用している。この禅定は外道定から脱しておらず、依然として外道の禅定と共通であり、内道人は依然として何の道理もないまま清高を保っているだけである。

正知見はもちろん重要であるが、正知見を自分の真の見地に変えるには、正知見を実証する必要があり、正知見を実証する方法の一つが禅定である。禅定を離れた修行では、知見は永遠に知見のままである。どんなに口を極めて、唾を飛ばし、滔々と語り、頭頭是道であっても、これらは知見にすぎず、せいぜい解悟と定義されるだけであり、それだけである。真に如理に実修したい者は、その名だけを掲げて実質なく、言葉と口舌にのみ力を注ぐことのないように望む。実証はそのようなものではない。

<h4 style="text-indent: 2em;">三、禅定があってこそ如来蔵を証得できる</h4>

如来蔵の体性には非常に深い内容があり、繰り返し熏修してはじめていくらか理解でき、さらに多くの法は如来蔵を証得した後に、徐々に理解し、徐々に観行できるようになる。しかし仏法の証得は必ず禅定の中で思惟観行してこそ真に証得でき、さもなければせいぜい理解できるだけであり、理解したものは結局信頼できない。禅定と観行は極めて重要である。禅定がなければ、多くの法を思惟観行できず、今後講じる深法も理解できず、徐々に落ちこぼれてしまう。

皆さん時間があればみな禅定を修めるべきである。禅定がなければ仏法を証得できず、理解したものは結局知識の層面に属し、生死に抗できない。そして深い法は、禅定がなければそもそも理解できない。学仏の道のりにおいて、禅定がなければ仏法を観行できず、如来蔵を証得できない。たとえ無理に明心しても、その後の様々な観行もできず、各果位の修行内容を円満に完成できず、その後の修行の道は行き詰まるか、あるいは非常に遅くなる。だから皆さん必ず努力して定を修めることである。

<h4 style="text-indent: 2em;">四、畢陵伽婆蹉尊者の証果の経歴</h4>

楞厳経の中で、畢陵伽婆蹉尊者は身体に毒の刺を受けた時、念を摂してまもなく身心は忽ち空となり、無生忍を証得した。この時尊者の意識の心念は間違いなく収摂されており、疑情以外の法を縁らず、さらには身体さえも縁らず、身体の存在を知らなくなっていた。意根の心念も収摂されていた。さもなければ意識は収摂できず、必ず意根に随って攀縁するからである。意根が収摂されて他の法を縁らなかったため、身体と識心はすべて空となった。これは禅定の中の無であるだけでなく、思想観念上の空でもあり、身心は我に非ずと証得した証果の境界である。そして身心の収摂こそが禅定であり、その後さらに深い禅定が現れ、身心無我の智慧が開発されたのである。

禅定がなければ、真の智慧が生まれることがあり得るか。あり得ない。たとえいわゆる智慧があったとしても、それは乾慧であり、知解宗徒に属する。今や至る所にこのような知解宗徒がいて、教えられるかどうかも分からない。六祖の時代に神会和尚を罵ったのは、今の人々を罵るのと同じことであり、まして神会和尚ほどの知解すらなく、今の人は覚ることを知らず、学法はすべて意識の情思意解の上にあり、実証するすべがない。

<h4 style="text-indent: 2em;">五、果証は三昧の境界である</h4>

様々な層次の果証はすべて三昧であり、それゆえ必ず禅定の境界と智慧の境界がなければならず、一つでも欠けてはならない。私はかつて人と話をしながら僧服を縫っていたところ、僧服を逆に縫ってしまったことに気づいた。衣服を縫うような簡単なことは、ほとんど思惟を要せず、注意力が十分に集中しないだけで縫い間違えた。それならば、断我見・明心のような天をも大きく超える大事を、なぜ禅定なしで成就できるのか。こんなに軽く容易なのか。

事が多い時は、内心があまり安定せず、この時に書稿を整理すると、思惟が乱れて明晰さを欠くので、私はしばらく静坐して心を落ち着かせてから、書稿の校対に取りかからなければならない。それならば、断我見と明心のような生死の大事、生生世世無量劫に関わる大事を、禅定なし、あるいは少ない定で、どうして解決できるというのか。

<h4 style="text-indent: 2em;">六、様々な観行はすべて禅定より発起する</h4>

禅定がなければ、様々な観行は一つとして関所を通過できない。自分では一切の法は夢のよう幻のようだと考えていても、意識が一切の法は夢のよう幻のようだと知っていても、意根は絶対に証得できず、そうすると言うことは言い、することはするということになる。まして意識もこれらの理を真に証得したわけではなく、証拠も十分ではない。

禅宗の第三関から、その後の如夢観、如鏡観などはすべて初禅定を具足してはじめて関所を通過できる。それ以前のすべての観行、断我見を含めて、未到地定を具足しなければならず、さもなければどの関も通過できない。もし自分は断我見したと思っていて、まだ未到地定がないのであれば、自分でこのことが信頼できるものかどうかをよく考えるべきである。臨命終は一大生死の関であり、少しの曖昧さも許されない。

<h4 style="text-indent: 2em;">七、止観双運こそ真の修行の入手処である</h4>

観行の定力が欠けていれば、解剖図を参考に色身の虚妄無我を観行しても、いつまで観行しても、解剖図は解剖図のままであり、あなたはあなたのままであり、何の作用もなく、人体解剖学の知識が増えただけである。解剖学について滔々と語っても、自分に断身見の智慧証量があることを表すわけではない。言うことは言っても、定がなければ観行には至らず、学習にすぎない。止観双運、定慧等持こそ、真の修行の入手処である。理論知識の学習と実際の観行とは、二つの修行次第である。決して理論の学習を観行と見なし、暗記した知識を自分の智慧と見なしてはならない。

未到地定が具足せず、禅定がまったくない人間が、自分は断我見した、初果・二果などだと言うのは、あり得ないことである。内心にそのような確認は生じない。たとえ意識が確認できるとしても、内心の奥底にはまだ疑があり、真に確認することができない。

<h4 style="text-indent: 2em;">八、仏法の実証には必ず修定が必要である</h4>

もし誰もが大念住経の方法に従って修行すれば、小乗は速やかに成就し、禅定も必ず成就する。しかし今の人の心はあまりに散っており、これらの観行を完成できない。佛陀の住世の時、比丘たちは皆このように修行していた。今から見れば、私たちの修行に必要な大小乗の理論部分はすでにほぼ十分であり、欠けているのは実際の操作だけであり、実際の操作は必ず戒定慧を修習し、菩薩六度の修行を完成すること、特に福德と禅定の二方面の修行である。個人の修行が困難であれば、共修するしかない。佛陀の在世時、弟子を率いて共修されたことは一度もなく、各人が盤腿して坐り、仏がすでに説かれた法を観行思惟して、その後証果したのである。

現代人は生活や仕事が忙しすぎて、坐禅する時間がない。しかし禅定は確かに修め上がらず、思惟は浅く細密さを欠き、実証できない。これも事実である。静坐した後の定と、行住坐臥のみの定との間の隔たりの大きさは、静坐したことのある人にしか体会できない。自分で方法を考え、自分が自分に対して責任を負わなければならない。大量の理論を理解しているからといって道があるわけではなく、滔々と語れるからといって道があるわけではない。実証した後は、能弁でなくても道がある。能弁であっても実証がなければ、道ではない。

実証してはじめて生死の大問題を解決できる。道業より重要な法は一つもない。寧ろ死んでも道業を成就しなければならない。さもなければ、生きている間に世俗法がどれほど成功していても、何の役にも立たない。

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