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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2025年12月04日 閲覧数: 6728
<h2 style="text-indent: 2em;">第三章 いかにして禅定をよく修するか</h2><h3 style="text-indent: 2em;">第一節 欲望を減らしてこそ禅定をよく修できる</h3><h4 style="text-indent: 2em;">一、貪があれば禅定なし</h4>

欲貪が深刻な者は、初禅の定を得られないだけでなく、欲界の未到地定も得られず、さらには欲界の最も粗浅な定さえも得られず、すなわち少しの禅定もないということになる。禅定を得ようと思うなら、必ず欲貪を調伏しなければならない。貪とは貪愛貪執であり、愛とは喜愛喜楽である。三界に対してもはや喜びと楽しみを持たなければ、愛は断たれる。愛が断たれれば、三界の業は了わる。欲貪が断たれれば、欲界の結は断たれる。欲界の結が断たれれば欲界を出離でき、このとき色界の初禅定は必ず現れ、命終すれば色界天の中に生まれることができる。

というのも、定というものはすべて、心が天人の境界と相応するのであって、人中の境界とは相応しない。心性が人より高ければ、境界も人より高くなる。欲界定のある人の心は、必ず人中の欲念が淡薄になっており、色界定のある人の心は、欲界の人・鬼・畜生および欲界天人の境界を淡薄にしており、無色界定のある人の心は、色界と欲界の境界を淡薄にしている。

禅定があるかないかは、すべて心念にかかっている。心念が一つ動けば、定はたちまち消える。心念とはそれほどまでに恐ろしいものである。自分の禅定がうまく修められないと愚痴をこぼす人は、自分の心の中の念頭が清静 (praśama) かどうか、人中の人事物にあまりにも接近しすぎていないか、心心念念がことごとく人中の事柄でないかを点検すべきである。念頭が清静でなければ、足を熬って無理に定を修しても無駄である。

詩詞歌賦、琴棋書画、各種の芸術などは、いずれも人中の物である。これらの物を喜び楽しみ、貪り愛し、執着するならば、禅定は得られず、欲界を出離できない。我々はただ人中に属する物を見つけ出し、心の中でこれらの物から遠ざかり、貪り愛さず気に懸けず、心の中でこれらの物を排除すれば、禅定は必ず現れる。これが禅定を修する実質であり根本である。

辟支佛が国王であるとき、なぜ少し因縁法を思索するだけで辟支佛果を証得でき、禅定と神通がたちまち現れ、宮殿から飛び出して出家修道できたのか。それは彼の心の中に人中の事がなく、人中の事を好まなかったからである。国王の位にありながら、采女や宮妃が群れをなしていても、彼の心は離欲しており、喧騒や娯楽を好まなかった。それゆえ非常に速く辟支佛果を証得できたのであり、これも前世に修道した根基である。

<h4 style="text-indent: 2em;">二、安逸な生活を貧らなければ禅定がある</h4>

毎日食べ物に出会えば食べ、飲み物に出会えば飲み、腸胃も頭脳も内心も、ほんの少しでも休みたいと思ったことがなければ、どうして禅定があろうか。毎日衣食住行にあれこれこだわり、あのような享受をしていては、心思が修道に用いられず、どうして禅定があろうか。是非をでっち上げるか、名声を追い、勢力を図り、金銭を貪り、あれこれ算段するばかりで、どうして禅定があろうか。心の中がぐちゃぐちゃに乱れていて、どうして禅定があろうか。受戒させようとすれば十万八千里も逃げ隠れするようでは、どうして禅定があろうか。

今の生活条件はあまりにも良すぎて、皆享受に慣れ、決して行き過ぎとは思わない。それゆえ身体の多くの変化にも気づかず、心の散乱についてはなおさら気づかず、たとえ心念が清浄 (viśuddha) でなくても覚知もない。このようでは、どうして禅定があろうか。前世で修めたわずかな福は、すべて享受に使ってしまい、道業に用いる福が足りなければ、道業がどうして進歩できようか。いくらかの代償も払わず、いくらかの苦労も払わず、一方では生活を享受しようとし、他方では得道しようとし、何もかも手に入れようとする、これほど大きな貪心で、どうして得道できようか。

毎日高栄養の大補の栄養品を貪り食べて身体のエネルギー過剰を招けば、内心が躁動して落ち着かなくなり、心が清浄でなければ、たとえ禅定があっても消えてしまう。腸胃が働いているとき、内臓が働いているとき、意根は必ずそれを守護しなければならず、こうして意根は清浄になれず、清閑を得られず、心を分け神を分けなければならない。どんなに足を組んで静坐しても、心は定まらず、足を組まないときはなおさら定まらない。

修定で最も忌避すべきは、腸胃が常に飲食を消化する仕事をしていることである。三食だけでなく夜食まで食べて四食の人もいるが、これを修行人と呼べようか、何が修めようか。禅定などあるはずもない。腸胃は終日働いており、意根は時々刻々腸胃と身根に注意を向けており、清閑になれないのだから、禅定は必ず現れない。ほんの少しの口福さえ捨てようとしないなら、得道は不可能であり、捨てなければ得るものはない。禅定による解悟を求めないのであれば、口に気を使う必要はなく、食べたければ食べ、飲みたければ飲み、享楽したいだけ享楽すればよい。この世間の人で、修道人の姿をしている者はほとんどいない。過去の禅師・祖師あるいは修禅者の姿は、今はまったく見られない。世人はもはや装うことさえしない。皮も祖師のようでなく、肉もそうでなく、骨はなおさらそうでない。それで仏法においてどれほどの成就を望もうとも、それは不可能である。

<h4 style="text-indent: 2em;">三、攀縁が少なければ禅定は現れやすい</h4>

もし心が常にさまざまな境界に動かされ、境界に転じられるなら、止むことができず、止みがなければ観もできない。戒律は非を防ぎ悪を止め、心の散乱を防ぐものであり、煩悩を調伏するために用いるものである。煩悩が圧伏された後は、心が乱れ動かず、境界が現れても心の攀縁が少なければ、修定は容易になる。内心が衣食住にこだわり、愛好と願望が多く、気にかかる人事物が多く、心が麻のごとく乱れていれば、どうやって止めようか。愛好と興味を減らし、心中の所縁を減らせば、心は少し止むことができる。周囲の一切の人事物にできるだけ興味を持たず、気にかけず、心の攀縁を少なくし、心を内に収め、外に散らさなければ、定は必ず現れる。

人中において愛好と興味が多く、人中の事なら何でも攀縁し、時ところ構わず自分を表現しようとし、内心に常に「我」が現れれば、心は寂止を得られない。命終のときに気づくだろうが、この一生は実は何一つ収穫がなく、徒労無益であったと。だから今、早く立ち返り、内心の宝蔵を多く開発し、外に貪り求めて心を乱さないことである。人生には必ず一得一失がある。自分でよく算段し、何を得ることが最大の利益なのかを考え、後世に確かな保障がなければならない。

<h4 style="text-indent: 2em;">四、なぜ意根が絶えず作意すれば禅定がないのか</h4>

阿羅漢は命終のとき、意根はいかなる一法に対しても作意を生起せず、思心所の運行もなく、五遍行心所法はまったく現行せず、こうして如来蔵は意根の心行を了別できず、意根の識種子を輸送することもできないので、意根は滅する。意根の作意が絶えず、思量と抉択が絶えなければ、如来蔵は絶えず六識を出生し、身口意行は絶えず現行し、心は寂止できない。意根は興味のある法に対してのみ作意する。興味のあるものが多ければ多いほど作意も多くなり、意識は非常に忙しくなり、寂静できなくなり、定は修めない。

我々が禅定をよく修したいなら、世俗法への欲望を減らし、一切の世俗法に興味を持たず、人間の享楽をできるだけ少なくし、出離心があるとき、禅定は速く修められる。もし何らかの人事に対して常に覚観 (vitarka-vicāra) があり、瞋恚心があり、貪愛があれば、それは意根の攀縁が絶えず、作意が絶えず、思量が絶えず、六識の思いが絶えないことを意味し、そのようでは禅定は修められない。人間の欲望を減らせば欲界定は現れやすく、人間の法を貪らず貪らなければ、天上の境界が現前する。常に人間界は何もかも良いと思い、人間界の人事物を好めば、心に定はない。貪心と欲望を減らし、あまり自分を顧みず、心念を常に自分の周りに巡らせず、できるだけ自分を捨て、心に道業を抱けば、禅定は現れやすい。

<h4 style="text-indent: 2em;">五、心を一処に縁じてこそ定がある</h4>

禅定を修することも心を修することである。貪瞋痴の煩悩を調伏することこそ心を修することであり、心を修することがすなわち定を修することであり、心が清静 (praśama) に落ち着けば禅定が現れる。禅定をうまく修められない人は、必ず心の中の俗事が多くて捌けず、六識が絶えず思いを起こし、一処に定まることができない。だから禅定をよく修したいなら、常に自分の内心を点検し、その中に何があるかを見て、捨てられない人事物をできるだけ排除すれば、六識は寂静し、定がある。

毎日何をするにしても、心中では一法に縁じ、他に念がなく、あるいは他の念は薄めにして、処理し終えたら捨てる。世俗の事はただ応酬するだけでよく、あまり真剣になりすぎないこと。修定のとき、心念を収摂でき、世俗法への攀縁を少なくできさえすれば、動中の定は必ずうまく修められる。心は世間法からできるだけ隔離し、事は為すことができるが、為し終えたら捨て、心で攀縁せず、物事をあまり思い懸けなければ、定は現れやすい。毎日睡眠以外は、いつどんな事をするにしても、心中で一法に縁じるよう努力すべきである。念仏 (buddhānusmṛti) するか、咒を誦するか、経を背誦するか、観行 (vipaśyanā-caryā) するか、参禅するか、話頭を参じるか、公案を参じるか。時間が長くなれば、身心に自然と快適な覚受が現れ、禅定が現れる。

<h4 style="text-indent: 2em;">六、貪愛は禅定を障礙する</h4>

欲界の衆生が最も貪るものは何か。欲界には五欲楽がある。色・声・香・味・触である。一切の法には法塵があり、色法塵があり、さらに心法塵がある。心法塵とは七識心であり、さらに七つの識の心所法がある。衆生が最も捨てがたいのは識心と心所法であり、主に受心所法と想心所法である。常に知りたいと思い、常に感受を気にかければ、意根は寂静したがらない。これらの覚受と了知性を滅したがらなければ、心は麻のごとく散乱し、それゆえ修定は非常に困難なのである。

衆生の自我と一切法への貪愛は、実は阿頼耶識 (Ālayavijñāna) への貪愛である。これらの法はすべて阿頼耶識の功能作用だからである。しかし貪愛しているにもかかわらず、自分が貪愛している実質が何であるかを知らない。欲界の衆生は権力を得れば捨てず、地位を得れば捨てず、金銭を得ても捨てず、自身のさまざまな享受はどうしても捨てない。あまりにも貪いのである。作仏がどれほど殊勝で、どれほど貪るに値するかを知らず、しかも作仏したい心を持たない。これこそ深重な無明である。

<h4 style="text-indent: 2em;">七、意根に一事への専注を訓練すれば禅定がある</h4>

もし心に雑思妄想がなければ、散乱心は除かれ、散乱心がなければ、禅定は自然に現前する。雑思妄想は意根の攀縁の習気であり、克服するのは難しく、意根の攀縁の習気を調伏する方法を講じなければならない。どのようにすれば効果的に意根の習気を調伏できるか。意根の特徴を捉える。神様は最も暇になってやることがないのを恐れる。ならば神様に意味のあることを一つ与えてやればよい。神様にその事に専心させ、この事は非常に重要だと告げる。神様がそれを重要だと認めたら、必ず精力をこの事に注ぐことができる。

どのような事が最も意味があるか。神様に咒を誦ませ、経を読ませ、念仏させる。初めは数量と時間を規定し、神様がいったん習慣を形成すれば、もはや数量と時間を規定する必要はなく、神様は自動的・自覚的に咒を誦み経を読み念仏するようになり、睡眠中にもこの状態を保てるので、定力が修成する。意根の精力はあまりにも充沛している。工夫して神様の注意力を引き、精力を集中させれば、意識は専心致志でき、意根も専心に仏法を思量できる。これは意識がいかに意根を導き、いかに意根を牽引するかにかかっている。平素何をするにしても、心中で楞厳咒を誦み、数量を求めず専注できさえすればよい。このようにすれば加持力が非常に大きい。

できるだけ時間を捻出して定を修し、定力が少し良くなれば、五蘊十八界を思惟し、色身の無常無我から観行を始める。五陰が活動しているその当下で、色身とは何か、受陰とは何か、いくつの識の受があるか、想陰とは何か、いくつの識の想があるか、行陰とは何か、いくつの識の行があるかを分けて観察する。六根とは何か、六塵にはどのようなものがあるか、六識は何をしているか、そしてこれらの法の生滅変異の状況を観察する。

<h4 style="text-indent: 2em;">八、専注力を多く培養すれば禅定がある</h4>

禅定は要するに一種の専注力である。精力を集中して目下為すべき事をうまく為し、心に他の想念がなければ、事をうまく為すことができる。まず自分の為す事に対して高度な責任心と濃厚な興味を持ってこそ、一意専心でその中に入り込み、問題を解決できる。専注すればするほど解決は良くなり、深刻で重大な事理を発見でき、智慧はより高深になる。

たとえば科学研究者・研究員・科学者は、自分の研究に対して非常に責任感があり、非常に好きで、濃厚な探索の興味がある。それゆえ飽くことなく昼夜を分かたず钻研し、寝食を忘れ、他を顧みず、最後には一定の成果を研究し出し、驚くべき発見をする。

まだ心が散乱している人は、昼間の行住坐臥の中で心に咒を誦し続けるか、心経を背誦する。暇な時間に坐禅すれば、心が静まり、以後にこそ仏法を観行し思惟できる。坐禅中に仏法を思惟できるようになった後は、昼間の行住坐臥の中で、再び自分に簡単な仏法を思惟する訓練をする。初歩的に自分を訓練するには、目下行っている事を、心で明明白白に知っていなければならず、無記 (avyākṛta)・散乱・攀縁であってはならず、心を目下行っている事の上に住まわせる。これは粗浅な専注である。

<h4 style="text-indent: 2em;">九、いかに智慧をもって禅定を引き生じさせるか</h4>

修定にもいくつかの善巧な方法が必要である。無理に足を熬って座り続けるだけで禅定をうまく修められるわけではない。一切の法への攀縁が絶えず、内心の覚観思惟が絶えず、心が寂静でなければ、座っていられず、禅定は現れない。どのようにすれば心を寂静させて禅定を現させられるか。意根の攀縁を減らし、覚観思惟を減らせば、心は次第に清浄に向かい、禅定が現れる。

『坐禅三昧経』には多くの修定の方法が説かれている。修定の前にまず智慧によって一切の法の虚妄を認知し、攀縁心を破除する。攀縁が減れば禅定が現れる。たとえば、もし人に眷属欲があれば、一つの方法で眷属想を破除する。心に何の思いもなければ、寂静に落ち着き、心は定まることができる。もし人が国土と家園に眷恋していれば、国土想を破除しなければならない。心の中で家園と国土を思わなくなれば、禅定が現れる。もし人に心の中に貪愛があれば、貪愛を調伏する方法を講じなければならない。心に貪愛がなければ寂静に落ち着き、禅定が現れる。もし人に心の中に瞋恚があれば、瞋恚を調伏する方法を講じなければならない。心が瞋恚せず寂静に落ち着けば、禅定が現れる。

足を組む前に、まず自分の心の中にどのような煩悩があり、どのような念頭が心中に盤踞しているかを見出し、それから相応する方法を見つけて対治する。自分を説き伏せた後、煩悩と念頭が現れなくなれば、修定は容易になる。このように智慧によって攀縁心を滅すれば、心は静まり、定に入る。

心が調伏されて禅定が現れた後は、禅定の中で思惟観行し、煩悩を対治すべきである。三昧 (samādhi) を得た後には煩悩を滅することができる。瞋恚の重い人は慈心観を修する。慈心観の修め方は、坐禅三昧経の中に具体的な方法がある。貪心の重い人は白骨観を修し、人を白骨と観じれば貪心はなくなる。眷属欲があれば、眷属の生滅・虚妄・信頼できないことなどを思惟観行する。内心が常に国土に眷恋し、国土想があれば、国土の中の災難・危脆・信頼できないことを思惟観行する。このように定によってこそ真の大智慧を引き生じさせることができる。

定と慧は実際には互いに促進し合い、相輔相成するものである。智慧があって世間の無常性を観察すれば、心の攀縁と散乱が減り、定まりやすくなる。自分の心の中にどのような結縛があるかを観察し、それから心中の結縛がいかに不如法であるかを思惟分析する。分析し尽くせば、次第に結縛が解け、こだわりがなくなり、心は静まる。自分の内心が何を考えているかを知らなければならない。知らなければ、その考えを破除するすべがなく、心は静まらない。智慧によって禅定を導かなければならない。定を修出した後、定の中でさらに思惟すれば、さらに一歩進んだ智慧が引き出される。これを三昧と呼ぶ。だから智慧があれば定を修しやすく、智慧がなければ定を修しにくく、禅定があればまた智慧が出やすい。

<h4 style="text-indent: 2em;">十、五蓋を調伏してこそ初禅定を発起できる</h4>

初禅が現起する条件は五蓋を調伏することである。貪欲・瞋恚・睡眠・掉挙・疑、いずれも効果的に調伏され、財色名食睡をできるだけ遠離してこそ、初禅定を発起できる。

五蓋とは、貪欲・瞋恚・睡眠・掉挙・疑である。もし内心に瞋恚があれば、思緒と覚観が常に現前し、心は平静になれず、禅定は現れない。もし内心に貪欲があれば、心中の煩悩が絶えず、寂止を得られず、修定も困難である。睡眠はやはり昏沈に属し、内心が濁って清静 (praśama) でなければ、当然禅定を障礙する。掉挙とは、内心が過去の人事に攀縁し、回憶・追憶が絶えず、希望と覚想が絶えず、これも禅定を障礙する。

疑とは、心の中に問題があって解決できず、自分を疑い、他人を疑い、法を疑い、疑念が心に懸かり、心に引っかかり、覚観が絶えれば、当然禅定を障礙する。悔とは、常に自分の為した過ちを思い、心中の思慮が絶えず、煩悩が絶えず、念頭が絶えず、六識が寂静できなければ、禅定は現起しない。だから修定の前に、自分の内心を一遍点検し、心の中の塵埃を掃き清め、内心が空しく清らかになれば、足を組めば定があり、平素心中に事がなければ、行住坐臥にも禅定が現れる。

五蓋を調伏するには、出離心と強烈な修道心を生起し、欲界世俗の中の物質生活の享受を貪らず、衣食飲食にこだわらず心を用いず、住居や用品にこだわらず心を用いず、このようにしてこそ心に所住なきに達し、欲界法を遠離し、色声香味触をいずれも貪愛せず、初禅定を発起できる。

今の人は皆享受にこだわり、生活の快適自在を求め、さらに面子を重んじ、絶えず人と張り合い、心の全体が世俗に浸っている。これは禅定の生起をひどく障礙する。衣食住にすべてこだわり、非常に貪り愛する人に禅定はあり得ない。色界の初禅天人には舌識がなく、飲食を必要としない。もし我々が食べることを好み、良いものを食べることを好み、味塵に貪着すれば、初禅定は現起できない。色界天人には鼻識がなく、香を嗅がない。もし我々が常に香りを好み、臭いを嫌い、香塵を気にすれば、初禅定は同様に現起できない。

人世間の法を貪らなければ、欲界天の定が現れる。人世間の事に興味がなければ、欲界定が生じる。人間界の人事物を好めば、欲界定はない。欲界天人の境界を貪らなければ、色界の禅定が生じる。下界の享受と貪愛を捨ててこそ、上界の禅定が現れる。これが禅定現起の法則と条件である。

もし我々が毎日欲界の事に全身全霊を投入し、あれこれ算段すれば、初禅定は現起できない。何もかも追求し、何もかも手に入れようとし、何もかも人より優れようとすれば、初禅定は現起できない。もし学仏修行で得た福報をすべて物質生活の享受に使えば、道業に必要な福が足りなくなる。多くの福を残して修道に用いれば、道業は絶えず進歩できる。

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