禅定の修めと参禅証道(第一部)
第二節 禅定に入れない原因
一、禅定が修まらない原因
禅定が修まらない原因は数多くあります。自身で注意深く探り、不必要な貪りの習わしは全て除き改めるべきです。禅定を修め、毎日心を清浄に保ちたいならば、食べる量を控えめにし、貪り食ってはいけません。飲食の栄養も過剰にならず、味付けも濃すぎず、あっさりとすればするほど心は清らかになります。人の世界における衣・食・住・行、飲み食いや排泄に至るまで、可能な限り貪着せず、ほどほどに留めることが最良です。そうすれば人間の生活から離れやすくなり、天界の生活と相応じ、禅定は生じやすくなります。
適度な断食は身体に多くの利益があり、寿命を延ばします。空腹を恐れてはいけません。空腹には空腹の良さがあり、食べる量を減らせば胃腸の負担が減り、消耗も少なくなるため、内臓器官の寿命は当然長くなります。享受を減らせば福報の消耗も減り、福報が留まって色身を養えば、寿命を延ばせます。水を飲むのは適量に、身体に足りれば十分です。多く飲めば新陳代謝で排泄されなければならず、時間もかかり、同時に内臓器官の負担を増やし、内臓を消耗させます。固形の飲食を断った状態で、流動食や果物だけを摂れば、身体は軽く、心も非常に清らかになります。禅定を修行すれば、定力が良くなるだけでなく、病気も除かれ、身体はより健康になります。私たち仏教徒は、福報を使い尽くさず、悪業はできる限り耐えて消し尽くし、後半生ひいては来世を楽に愉快に過ごすべきです。来世、特に自身の道業を多く思いやる、これこそが智者です。
ほとんど全ての人にとって最も捨て難いのは情と欲です。修行ではまず欲を捨てるべきで、欲は全ての煩悩の中で最も粗重で最も捨てやすいものです。天人は情はあっても欲はなく、欲界の天人も欲はありますが非常に淡いため、欲界天で生活しているのです。禅定があれば、身心ともに暢快で素晴らしいものです。私たちは最も捨てやすいものから捨て始め、生命の質を高めましょう。
初禅の天人は食事をせず、香りを嗅いだり味を楽しんだりせず、男女のこともありません。私たちが初禅定を得たいなら、飲食に貪らず、飲食の色・香・味に貪らず、飲食の栄養に貪ってはいけません。同時に、周囲の生活環境の匂いも気にせず、良い香りを求めず、嫌な匂いを嫌わず、匂いを選り好みせず気にせず、全てに随縁し、拘らないことです。男女の色相にも貪着せず、性別はただ幻化した仮の相に過ぎず、四大の組み合わせは豚肉と同様、貪り愛おしむべきものなどありません。このような心を保てば、禅定が得られない心配はなく、さらに睡眠と散乱心を降伏させれば、初禅定は生じやすくなります。
阿含経で仏陀は比丘たちに、初夜に精進して睡眠を貪らず、中夜に精進して睡眠を貪らず、後夜に精進して睡眠を貪るなと説かれました。少なく食べ少なく飲み、昏沈せず、妄想を減らせば、睡眠は少なくなります。
私たちは常に自心を観察し、自心を掃除・整理し、心を清らかに保つべきです。そうすれば、心に掛かり碍るものなく、禅定は速やかに生じます。定を修めることはそれほど難しくありません。現代生活はあまりに豊かで、人に貪心を生じさせやすいため、禅定は修めにくくなっています。加えて四方八方の情報が発達しすぎて、人々の心に侵入し、一人一人の心が詰め込まれて満杯になり、心が空でなければ、どうして禅定が得られましょうか。さらに生存環境では戒律を守りにくく、戒が持てなければ、どうして禅定が得られましょうか。
二、私たちが座禅で定を修めてもどうしても入定できず、なぜ定力がとても浅いのでしょうか。それは意根が休むことを肯んぜず、攀縁が絶えないからです。心が何でも気にかけ、放せない、これが無明です。心が本当に外の世界があり、本当に人や事物が存在すると思い込むため、内心が割り切れないのです。そうなると座禅中、意根は常に至る所に攀縁し、様々なことを引き起こし、意識心はそれらを了別せざるを得ず、心は安らかでいられず、定まることができず、ましてや妄念を滅することはできません。もし無明がなければ、意根は攀縁せず執着せず、法塵を弄び出さないため、意識が了別する必要がなく、心を定めるのは容易です。
定中に見える全ての人事物も、意根が攀縁して弄び出したものであり、これも虚妄です。それら人事物に執着しなければ、それらの境界は徐々に消え去り、定は深まります。世尊がかつて私たちに「凡ゆる相あるものは、ことごとくこれ虚妄なり」と説かれたこの言葉を覚えておき、常に自らを戒めれば、攀縁を減らせます。無明が薄くなれば、定は修めやすくなります。
三、各自が自らの思惟をよく訓練し、正しい方向から大きく逸れてはいけません。思惟が明晰でなければ、必ず禅定が不足しているので、努力して禅定を修めるべきです。もし禅定が修まらないなら、自身の福徳が欠けているか、あるいは戒律の修持が十分でないか、習気が重すぎるか、身体面に障害があるかを点検してください。多くの人は禅定が不足し、定力が足りず、思惟が追いつかず、多くの法が理解できず勝解に至れないため、修行は徐々に落ちこぼれてしまいます。
各自が修行の中で努力して自らの問題点、不足や欠けている点を見つけ、見つけた後は方法を考えて改善すべきです。自らを振り返り、欠点を補い漏れを埋めること自体が精進です。定力がほんの少しでも足りなければ、観行は適切に至らず、語ることは証拠がなく、必ずしも事実の真相とは言えません。ですから、自身の観行力が十分でなく、論理的思惟力が強くなければ、自らの見解を断定的に表明すべきではありません。それは不究竟なのです。
四、定を修める禁忌について。定とはすなわち動かず、静かで、騒がしくないことです。もし身心を静かに、身心を動かずにしたいなら、飲食を減らし、食べ過ぎず、飲食の栄養と量を減らし、良すぎるものや多すぎるものを食べてはいけません。そうすれば身心は静まり、騒がしくなくなります。もし飲食のエネルギーがあまりに十分すぎたり多すぎたりすると、外に漏れ出そうとし、漏れる時に身心は騒がしくなり、静まらなくなります。身体が正常なら、飲食は普通で十分です。栄養やエネルギーを貪り求めてはいけません。これは修行に不利です。もちろん栄養が不足し、陽気が足りず、身体が虚弱でも修行はできません。身体を適切に、中庸に保ってこそ、心は静まり、禅定は修まります。
五、戒律を守り罪業を懺悔してこそ禅定が修まる
一切の法の証得は、本当に甚深な禅定の中にあります。禅定が不足すれば、学ぶのは知識であって真実の智慧ではありません。ですから禅定と観行を必ず重視すべきです。禅定が不足する原因は心が散乱していることで、心が散乱する原因は攀縁が多く貪求が多いことです。心を収摂すれば、必ず禅定があります。身心を収摂するには戒律を守る必要があり、戒律を守る前に受戒が必要で、受戒の前に全ての罪業を懺悔し、罪業が消え、遮障が消え去って、心が清浄になります。
懺悔とは、第一に種子を変えることです。新たに造った業を懺悔し、古い罪業を相殺します。懺悔を通じて心行が転じ、業が転じ、二度と造りません。意識と意根が清浄になる、これが真の懺悔の結果です。この結果があれば、一つは業を消し、二つには新たな業を造りません。もしこの効果がなければ、懺悔の心が誠実でない、偽りの懺悔であることを示しています。懺悔後に罪業が消えたかどうかを判断するには、まずその罪業がどのようなもので、軽いか重いかを見極めます。重罪は瑞相を見る必要があり、その後内心が以前よりずっと清浄になり、いくつかの障害が消え去り、修行の速度が速まります。軽い罪業は懺悔後、心も清浄になります。