衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2025年12月04日 閲覧数: 1424
<h3 style="text-indent: 2em;">第二節 禅定に入れない原因</h3><h4 style="text-indent: 2em;">一、禅定が修められない原因</h4>

禅定が修められない原因は多くあり、自ら細心に探求し、持つべきでない貪りの習気を除き改めるべきである。禅定を修めようと毎日心を清浄に保つには、飲食を控え、貪り食ってはならない。栄養も過剰にせず、味付けも濃厚すぎず、淡泊であればあるほど心は清浄になる。人の衣食住行、飲食や排泄など、あらゆることに極力執着せず、適度に留めるのが最良である。そうすれば人間の生活から離脱しやすく、天界の生活と相応じ、禅定は現れやすくなる。

適切な断食は身体に多くの利益があり、寿命を延ばす。飢えを恐れてはならない。飢えには飢えの良さがある。少食にすれば胃腸の負担が減り、消耗も少なくなるため、内臓器官の寿命は当然長くなる。享楽を減らせば福報の消耗も減り、福報を留めて色身を養えば寿命は延びる。水は適量で、身体に足りれば十分である。多く飲めば新陳代謝で排泄され、時間も浪費し、内臓器官の負担を増やして消耗させる。固形食を断つ状況では、流動食や果物だけを摂取すれば身体は軽く、心も清浄になり、禅定を修めることで定力が良くなるだけでなく、疾病も除去され身体はより健康になる。我々仏教徒は福を享め尽くさず、悪業は耐え忍んで消し尽くし、後半生ひいては来世を安楽にすべきである。来世、特に自らの道業を多く思いやるのが智者である。

ほぼ全ての人にとって最も捨て難いのは情と欲である。修行ではまず欲を捨てるべきで、欲は全ての煩悩の中で最も粗重で捨てやすい。天人は情はあるが欲はなく、欲界の天人も欲はあるが非常に淡いため、欲界天で生活できるのである。禅定があれば身心共に暢快で美妙である。我々は最も捨てやすいものから捨て始め、生命の質を高めるべきである。

初禅の天人は食事せず、香りを嗅ぎ味を楽しまず、男女の交わりもない。我々が初禅を得ようとするなら、飲食に貪らず、飲食の色香味に執着せず、栄養に執着してはならない。同時に周囲の生活環境の匂いも気にせず、香りを求めず、嫌な匂いを厭わず、匂いにこだわらず無関心で、全てを縁に任せて無頓着であるべきだ。男女の色にも執着せず、性別は幻化の仮相に過ぎず、四大の組み合わせは豚肉と同じで愛着するに値しない。このような心を保てば禅定を得られない心配はなく、さらに睡眠と散乱心を降伏させれば、初禅は生じやすい。

阿含経で仏は比丘に「初夜に精進して睡眠を貪らず、中夜に精進して睡眠を貪らず、後夜に精進して睡眠を貪るなかれ」と説かれた。少食少飲で昏沈せず、妄想を減らせば睡眠は少なくなる。

我々は常に自心を観察し、心を掃除整頓して清浄に保ち、無掛無碍であれば禅定は速やかに生じる。禅定を修めることはさほど難しくないが、現代生活は豊かすぎて貪心を生じやすく、禅定は修めにくい。加えて四方八方の情報が過剰で人心に侵入し、各人の心は満たされて空でない。心が空でなければどうして禅定が得られようか。さらに生存環境では戒律を保ちにくく、戒を持てなければどうして禅定が得られようか。

<h4 style="text-indent: 2em;">二、禅定に入れない原因</h4>

坐禅でなぜ禅定に入れず、定力が浅いのか。それは意根が休止せず、攀縁が絶えないためである。心が様々なことを気にかけて放せない、これが無明である。心が真に外界が存在し、人事物が実在すると錯覚するため、内面から離れられない。坐禅時、意根は常に様々に攀縁し、事柄を作り出し、意識心はそれらを弁別せざるを得ず、心は安住できず定まらず、妄念を滅することもできない。無明がなければ意根は攀縁せず執着せず、法塵を作り出さないため、意識は弁別する必要がなく、心は容易に定まる。

禅定中に見える全ての人事物も、意根の攀縁によって作り出された虚妄である。それらに執着しなければ、そうした境界は次第に消え、禅定は深まる。世尊が「凡そ所有の相は皆是れ虚妄なり」と説かれた言葉を常に心に留め、自らを戒めれば攀縁が減り、無明が薄れ、禅定は修めやすくなる。

<h4 style="text-indent: 2em;">三、定力不足は思惟を不明瞭にする</h4>

各人は自らの思惟をよく訓練し、正しい方向から大きく逸脱してはならない。思惟が不明瞭なのは必ず禅定が不足しているためで、その場合は努力して禅定を修めるべきである。禅定が修められないなら、自らに福徳が欠けているか、戒律の修持が不十分か、煩悩習気が重すぎるか、身体に障害があるかを点検すべきだ。多くの人は禅定が不足し、定力が不十分で思惟が追いつかず、多くの法が理解できず勝解に至らないため、修行から次第に脱落する。

修行において各人は自らの問題点、不足や欠点を努力して見出し、見出した後は改善策を考え、自らを振り返って欠陥を補うべきである。これが精進である。定力が少しでも不足すれば観行は適切に行えず、語ることは証拠に欠け、必ずしも事実の真相ではない。したがって自らの観行力が不十分で論理的思惟力が強くなければ、自らの見解を断定的に表明すべきでない。それは不究竟である。

<h4 style="text-indent: 2em;">四、禅定を修める禁忌</h4>

禅定とは不動・安静・不躁動である。身心を安静に保ち不動にしたいなら、飲食を減らし、過飽にせず、栄養と量を控え、良すぎるもの多すぎるものを食べてはならない。そうすれば身心は安静を保ち躁動しない。飲食のエネルギーが過剰すぎると外に漏れ出し、漏出時には身心は躁動して静まらない。身体が正常なら飲食は普通でよく、栄養やエネルギーを貪求してはならない。これは修行に不利である。もちろん栄養不足で陽気が足りず身体が虚弱でも修行はできない。身体を適切に中庸に保ってこそ心は安静になり、禅定は修められる。

<h4 style="text-indent: 2em;">五、戒律を保ち罪業を懺悔して初めて禅定を修められる</h4>

一切の法の証得は真に甚深な禅定の中にある。禅定が不足すれば学ぶのは知識であって真の智慧ではない。したがって禅定と観行を重視しなければならない。禅定不足の原因は心の散乱にあり、心散乱の原因は攀縁と貪求が多いためである。心を収摂すれば必ず禅定が得られる。身心を収摂するには戒律が必要で、戒律を持つ前に受戒が必要であり、受戒前に全ての罪業を懺悔すべきである。罪業が消えれば遮障は消失し、心は清浄になる。

懺悔において第一に種子を転換し、新たに造った業を懺悔して古い罪業を相殺すべきである。懺悔を通じて心行が転換すれば業も転換し、再び造らなくなる。意識と意根が清浄になることが真の懺悔の結果であり、この結果があれば一に業を消し、二に新たな業を造らなくなる。この効果がなければ懺悔の心が誠実でない偽りの懺悔である。懺悔後に罪業が消えたかどうかを判断するには、まずどのような罪業か、軽罪か重罪かを看る必要がある。重罪は瑞相が現れ、その後内心が以前より遥かに清浄になり、一部の障害が消え、修行速度が速まる。軽罪は懺悔後、心も清浄になる。

<h4 style="text-indent: 2em;">六、妄念と闘うのは正しい修行方法ではない</h4>

多くの人が仏法を学ぶ過程で絶えず妄念と闘い、妄念を消せば仏法が証得できると思っている。しかし妄念と百年闘って降伏させても、結局仏法は理解できず、智慧は生じず解脱できない。正しい修行方法は、意根の注意を仏法の思考観行に転換させることであり、そうすれば妄念は自然に減り、注意と攀縁の対象を転換すれば修行は速やかに成就する。

常に妄念をあれこれ論じることは、仏法の修行と智慧の獲得に何の益もない。最も直接的な方法は攀縁の対象を転換し、世間法から仏法へ、世間法への執着から仏法へ、興味を転換し、貪る対象を転換し、世智弁聡という世間法の小賢しさを仏法を観行する智慧に転換することである。そうすれば定慧は直ちに現れ、悟りを得られない心配はない。仏法を善く学ぶ者は妄念を善く利用すべきで、念を圧殺するのではなく、仏法を思惟する念に転換することを知るべきである。心心念念が仏法にあれば、心心念念が仏法そのものになり、そうすれば定慧は成就する。

毎日妄念と闘うことは、外道の修行方法と異ならず、そもそも外道の深い禅定には及ばない。かつて外道は禅定を修め、四禅八定を成就し五神通も得たが、未だ我見を断っておらず、五蘊十八界の何らかの法を我とし実在と認め、邪見倒見は微塵も破られていない。この邪見に依るため、生死輪廻を免れず、たとえ八万大劫もの長きにわたり禅定に入っても、出定後はなお三悪道に堕ち、生死輪廻の苦を免れない。衆生は我を執る邪見によって業を造り生死輪廻するのであり、我見を断てば自らを縛る結びが解け、三悪道に堕ちないと保証される。修行で邪見を破り正知見を得ることは極めて重要であり、そうしなければ無量劫修行してもなお邪路を歩み、正路に帰れず解脱も得られない。

福徳が具わり目標が正しく方法が適切であれば、悟りを開くことはさほど難しいことではない。各人の根基が異なるため修行方法も異なり、幼少期から清静を好み独処を好み趣味が少ない人は禅定が速く、坐禅しなくても心の攀縁が少なく精力が集中する。仏法に遇えば専心して仏法を思惟し、深く仏法に入る。仏法の正知見をしばらく熏習すれば正知見が生じ、参禅の方法を理解し自ずと参禅を始める。逆に坐禅を十年二十年してもなお仏法に専心思惟できず、仏法を如何に観行するか理解できず、法の正邪や次第も弁別できない人もいる。

目次

次へ

前へ

ページトップへ戻る

ページトップへ戻る