衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2026年09月11日 閲覧数: 1445
<h3 style="text-indent: 2em;">第四節 世間定と出世間定</h3><h4 style="text-indent: 2em;">一、仏家と外道の禅定の違い</h4>

禅定はすべての衆生が共に修証する内容であり、すべての外道と学仏の人に共通する定であって、特徴の上では大きな差はありませんが、功用の上では大きな差があります。その差は、外道の定の中には五蘊に対する思惟がなく、観行がなく、観修がなく、参究などの思想活動がないため、無我の智慧が生まれることがなく、解脱を得られないことにあります。一方、仏門の如理の定には、必ず思惟・観行・参究の活動がなければならず、これによって相応の解脱の智慧が生まれます。もし学仏の人が修する定がずっと心動念せず、思惟観行の活動がないのであれば、それは外道定に属します。

一般的に言えば、学仏の人が修行する定の大多数は外道定と相通じており、後期になって定の中で思惟観修の活動を起こすときになって初めて、外道と共でない定に属することになります。ですから学仏の人は誰も外道定やいかなる禅定をも排斥する必要はなく、最後に様々な定を利用して正しい解脱の智慧を生み出すことができさえすればそれでよく、これこそが修定の根本目的です。

<h4 style="text-indent: 2em;">二、外道の殺生戒を守らない定と仏門の定にはどのような違いがあるのか </h4>

定には定福があります。殺生戒を守らない定の中では、定福が少ないのです。しかし定力の深まりに伴い、身口意の造作がますます少なくなり、ついには身口意行を造作しなくなれば、こうした外道定はすべて持戒の定となり、持たずして持つことで、自然に戒があります。このような戒は、学仏の人が持つ五戒・八関斎戒よりもさらに清浄 (viśuddha/pariśuddha) であり、大多数の菩薩戒よりもさらに清浄 (viśuddha/pariśuddha) ですらあります。このようにいかなる戒も犯さない深い禅定があるため、外道たちは仏の説法を聞くその当下に、瞬時に思惟し、直ちに四果阿羅漢を証得し、初果・二果・三果を経る必要がありません。学仏の人にそれができるでしょうか?

外道定は我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断除できず、煩悩を断除できませんが、外道定は自我を降伏し煩悩を降伏することができ、五陰我と藕断糸連の状態にあり、煩悩とも藕断糸連の状態にあります。最後に佛陀が仏法を開示すれば、外道たちは佛陀を深く信じ、真に佛陀に帰依し、速やかに証果し、我見 (satkāya-dṛṣṭi) と煩悩はもはや藕断糸連ではなく、完全に断除されます。学仏の人が修する浅い定は、もし自我を降伏できず、煩悩を降伏できず、まだ藕断糸連の状態に達していないなら、煩悩を断つまでにはまだ長い道のりがあるのです。

<h4 style="text-indent: 2em;">三、世間定と出世間定の違い</h4>

世間定とは四禅八定を指し、五陰の身心が入る定であり、妄心である覚知心の上に修する定で、いずれも出と入のある定です。それゆえ生滅的で無常であり、時時刻刻保持する必要があり、一旦保持がうまくいかなくなると、定力は消えて見えなくなります。単にこの八つの定だけでは衆生を解脱させられないのは、これらの定は妄心を調伏して煩悩を起こさせず、知見を生じさせないことしかできず、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断てず、生死の結縛を断てないからです。衆生が解脱しようとするなら、まず五陰は我であるという知見を断除し、次に初禅を修し、貪愛を断ち、煩悩を断ち、最後に三界に対する貪愛をすべて断尽無余し、もはや貪らず愛せず心喜ばなくなって、初めて解脱を得られます。四禅八定の中には、禅定に対する貪愛がまだあり、五蘊の中の或る部分を我と執著し、禅定の中の覚知を我と執著しているので、解脱を得られないのです。

或る衆生は以前に四禅八定を修したことがあるかもしれませんが、この種の定は、衆生を生死輪回から脱して解脱させることはできません。それゆえ定力が消えたとき、また下堕し、人間に戻るか、あるいは三悪道に戻ります。ではどうすれば生死から脱して解脱できるのでしょうか?我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断ち、解脱果を証して初めて生死を出離し、解脱を得ることができるのであって、他に道はありません。なぜ衆生はそれほど修定を好み、修定を唯一の修行方法とするのでしょうか?それは衆生が皆、禅定によって自分は解脱を得られると思い込み、様々な覚知できる我を滅してこそ涅槃を得、解脱を得、輪回を出られると信じないからです。ですから仏法を修学し、正知見を獲得することが最も重要であり、仏法の正理によって修行を指導し、如法に修行してこそ、成功を得ることができるのです。

出世間定とは、第八識如来蔵 (tathāgatagarbha) の出ずることも入ることもない楞厳大定を指し、楞伽大定とも呼ばれます。如来蔵 (tathāgatagarbha) だけが三界世間の中におらず、其余の法はすべて世間の中にあり、意根と意識心を離れないからです。如来蔵 (tathāgatagarbha) は常に定の中にあり、永遠に出ず入らず、不生不滅で、常恒自在です。如来蔵 (tathāgatagarbha) は大定の中に常住し、定から出たことがなく、入定する時もなく、神様は一切の法に攀縁せず、六塵に対して、神様は心念と心行を起こしたことがなく、散乱したことがなく、掉挙したことがなく、昏沈したことがなく、眠りに落ちたことがなく、方便的に神様は定の中にあると言うのであり、それゆえ如来蔵 (tathāgatagarbha) には定と不定という言い方がありません。如来蔵 (tathāgatagarbha) はまた本来不動揺であり、一切の法に対して見ることも聞くこともないため、心念を動かしたことがありません。神様の運作は、完全に衆生の業力・習気・因縁に随順するものであり、随順しながらも念想(思い)を動かさないため、首楞厳大定とも呼ばれるのです。

楞厳経は楞厳大定を説いており、経全体が如来蔵 (tathāgatagarbha) を説いています。これが我々の真心であり、神様は常に定の中にあり、定から出ることも入ることもなく、出入りがなく、これこそ真の不生不滅の禅定境界であり、非常に堅固であるため、楞厳大定とも呼ばれるのです。なぜ如来蔵 (tathāgatagarbha) は定から出ず入らず、常に定の中にあるのでしょうか?神様には眼がなく、色を見ず、色が来ても神様は分別せず、起心動念せず、乱心したことがなく、その他の五塵に対しても分別せず、動念せず、心は散乱しません。神様は永遠に六塵と相対することがなく、永遠に生心動念せず、永遠に境界に随って動かない、これが楞厳大定です。六祖は言われる:「那伽常在定,无有不定时」,この意味です。

もし楞厳大定はこの心体の定を指すのではないと言う人がいれば、その人の意味するところは四禅八定ということになります。しかし四禅八定は出と入のある定であって常定ではなく、生滅変化のある定は楞厳大定ではありません。四禅八定を修するなら、まず欲界定まで修しなければならず、それは欲界第六層天の定であり、未到地定 (anāgamya-samādhi) です。未到地定 (anāgamya-samādhi) を過ぎれば色界の初禅天の定であり、初禅以上の定こそ真の四禅八定なのです。

欲界と色界の天人の色身は我々人間より何倍も大きく、彼らの心の覚受も非常に愉悦です。我々がこの二つの定まで修すると、色身の四大が変化し、天人の色身が我々人間の色身の上に同時に現起し、我々は身体がこの上なく大きく感じられ、心の感受も非常に快適になります。これらの定境に達するには、人間の人事物物理にあまりこだわらず、何の希求もなく、五欲を非常に淡薄になるまで減らさなければ、それらの定境まで修することは不可能です。未到地定 (anāgamya-samādhi) まで修したら、五蓋を降伏し、欲界のものをすべて好まなくなって初めて初禅が現前します。さらに上へ修し、四禅八定を修め尽くします。とはいえ、四禅八定は依然として出と入のある定であり、永遠に定の中にあるのではなく、心にはまだ動揺があり、真の永遠に動かない定ではないため、楞厳大定ではないのです。

<h4 style="text-indent: 2em;">四、邪定と正定とは何か?どのように邪定を正定に転換するか?</h4>

邪定とは解脱の道の上にない定であり、解脱の智慧を生み出せない定であり、解脱に趣向できない定であり、外道と共の定です。この種の定の中では、識心が沈鬱あるいは昏沈し、用心するところがなく、思惟を起こさず、教理を思わないのです。

正定の中で最も正しい定は、定の中で心が顛倒せず、世間の一切の法を思わず、善を思わず悪をも思わず、一切の法に著せず、しかし無上の智慧をもって衆生に随順して一切の法を生み出すことができ、一切の法に拘碍束縛されず、一切の法から解脱しています。次に正しい定は、定の中で種々の正理を深細に思惟でき、世間の一切の相に著せず、善悪に著せず、種々の解脱の大智慧を生み出すことができ、世界を変化させ、自他一切の善根福徳因縁を成熟させ、心は正道に向かい、心は正道にあるのです。

禅定がある程度まで修まると、心が清浄 (viśuddha/pariśuddha) に落ち着き、心力が高度に集中でき、思考にある程度の深さが出てきたら、定の中で思惟を起こし、現在解決すべき仏法の問題を考え、現在理解すべき問題を考えなければなりません。そして定から出た後も、仏法を用心して思惟し、朝にも夕べにも、心心念念、すべて仏法をめぐり、現在解決すべき仏法の問題をめぐらなければなりません。こうすれば仏法を明らかにすることができ、因縁条件が具足したとき、相応の法を証得し、智慧を開くことが可能になります。

比較的深い正定の中では、意識の思惟は少なく軽微で、情思意解はありませんが、意根には察しがたい思量 (manasikāra/manana) があり、意根は深く考え、意識より多く用功し、意根の思量 (manasikāra/manana) を主とします。ここには定と慧があり、定とは正定であり、邪定の中にはこのような思量 (manasikāra/manana) はありません。自分が着実に功夫を作し、思量 (manasikāra/manana) の技巧を習得し、思量 (manasikāra/manana) を学べば、必ず益があり、百益あって一害なしです。

禅定中の昏沈にはいくつかの原因があり、原因を見つけ出し、対処すれば、昏沈の問題を解決できます。一つは気血が通ぜず、血管が詰まり、供血不足になると昏沈します。座る時にツボをマッサージし、気血を疏通させることができます。一つは睡眠不足あるいは身体の疲労です。呼吸を調節し、深呼吸を数回行うことができます。一つは意根が興味を持つ所縁の法が欠けているため、心が沈鬱になることです。この時、面白い図景を観想し、心を沈鬱から解放することができます。

禅定がないときは、まず仏法を観行 (vipaśyanā-caryā) しないでください。定力が不足しているときも、仏法を観行 (vipaśyanā-caryā) しないでください。そうすると、結論や答えを推論しやすくなり、以後真に用功して参究することができなくなり、その後の実証が非常に難しくなり、道業が大きな阻碍を受けます。禅定のない思惟観行 (vipaśyanā-caryā) は、解脱に益なく、道業に益なく、知見と我慢を増長するだけで、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断除できず、功徳の受用がありません。

<h4 style="text-indent: 2em;">五、外道の神通は消えてしまう</h4>

外道が四空定まで修し、神足通を修得したのに、なぜまだ色を見て心を起こし、神足通を失うのでしょうか?淫欲心の断除は、初禅定と断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) の証量が配合されて初めて成り立ち、この二者が結合して初めて三果人となり、欲心の断除ができるのです。初禅定と四禅八定だけ、あるいは断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) だけでは、淫欲心を断除できません。それゆえ外道は禅定と神通があっても、なお色を見て心を起こし、その後、禅定と神通はすべて消失します。断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) の智慧がなく、禅定だけでは、淫欲を断除できないことが分かります。

以前の経文に、禅定と神通のある人が、色を見て心を起こしたため、心念が起こると同時に神通と禅定が退失し、来る時は飛行したが、帰る時は歩いて帰った、と記載されています。それは初果の功徳を証しておらず、禅定だけだったからです。淫欲を断除するには、必ず断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) して初果を証し、初禅定を加えなければならず、禅定だけではだめです。それゆえ初果の分証解脱の功徳受用はやはり非常に大きいと言えるのです。

提婆達多も同様に、断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) しないまま神通を修得して天に上りましたが、天の花を盗む念を動かしたため、神通はたちまち消失し、天から落ちてきました。もし初果を証した後、初禅定があり、さらに神通があれば、それは三果であり、邪な念を動かすことはなく、戒を犯すこともないので、神通を失うこともないのです。

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