衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2025年12月04日 閲覧数: 1814
<h3>第四節 仏典に説かれる修定観行の方法</h3><h4>一、円覚経に説かれる修定の方法</h4>

円覚経においては、三摩鉢提(さんまはっち)の定慧結合を修する方法が説かれ、心をもって境界を変化させ、心によって境を転じ、境は心に随って転ずるとされています。この方法は難しくなく、定中において、心を非常に集中して一つの境界を瞑想すると、定が深まるにつれて心が転変し、境界も次第に転じていきます。もともと心に悪念があっても、定が深まるにつれて内面が緩み、悪念は善念へと転じ、悪を思おうとしても悪が思えなくなり、すべての事物が美しく見えるようになります。心が瞋(いかり)から喜びへと変わり、境界が醜から美へと転ずれば、心が転ずれば境界もまた転じます。ゆえに禅定は煩悩を降伏させ、煩悩を断除し、心念を転換し、一切の法を変えることができます。諸仏や大菩薩方も皆、三摩鉢提を修し、一切の法を成就し、三界の器世間を成就・転換し、穢土を浄土へと変えられたのです。

<h4>二、四念住の修行方法</h4>

四念住経は、定慧を併せ修して法眼浄を得るための非常に優れた経典です。なぜなら、私たちには定力も慧力もなく、心が粗雑で自己を反観することができないからです。この経典は、心を微細なところまで修め、ますます明晰に自己を反観し、自己の五蘊の生滅変異が実体ではないと認め、さらに我見を断除して小乗の四つの果位を証得する方法を教えています。

経典には、観行四念住の修行方法、すなわち観身念住、観受念住、観心念住、観法念住の修行方法が説かれています。観身念住を行うときは、まず自分の呼吸を観じ、心念を常に自分の呼吸に随わせて転じさせます。心を一法に縁(よ)らせて定を得、止(し)を得た後、観(かん)を起こし、色身の生滅無我を証得します。その後、再び全身を観じ、自分の身行造作(しんぎょうぞうさ:身体的行為や作為)を観行し尽くし、自己が今何をしているかをはっきりと明らかに知るようになるまで観じます。最後にはただ一つの身念だけが残り、その念を空じ、その念想を捨て、内心で一切の法は空であり、我ではないと知るようになります。

将来、参禅(公案による修行)を行う場合には、定力によってこの念を参禅の話頭(公案の核心となる問い)や解決すべき法義に置き換え、行住坐臥(日常の動作)の中でこの参究の念を持ち続けると、時が至れば法義を参究し出すことができるでしょう。今の私たちの心は十分に警戒しておらず、自己を理解せず、自己を反観することもできません。修定を通じて心を微細にした後は、自己をよく理解できるようになり、理解して初めて自己の問題を解決できるようになります。

しばらく修行すると修行の良さがわかるようになります。最初は苦しく感じ、内心で葛藤し束縛されることを嫌がるかもしれませんが、続けて習慣にすれば良いのです。いつでもどこでも自己を反観し、身体が何をしているか、心が何をしているかを知ることができ、自分の身口意行(身体・言葉・心の行い)を理解し、深く理解できれば、己を知り彼を知れば百戦危うからず(『孫子』)で、自己の問題を解決できます。法を用いて自己を照らし合わせ、自己をよく管理し、法にかなっているかどうかを点検します。自己を管理できるようになれば、将来は他人を管理する能力も持てるでしょう。自分すら管理できない者は、他人を管理することはできず、菩薩として衆生の導首(指導者)となることはできません。

自己の現在の造作(行為)がすなわち身見・我見であり、これらの行為造作を実体と見なして我として執着し掴み取っているのだと理解しなければなりません。反観する能力があるとき、これが我執であり、一切の法の機能作用を実体として執着するのが法執だと知るのです。まずは観察できるようになれば良いのであって、今すぐにそれができるかどうかは気にしないでください。遅かれ早かれできるようになります。恐ろしいのは、今の自分がそれを知らず、自己を観察できないことであり、それが無明です。もし自分の知見が誤っていると知らず、自分に執着や無明があると知らなければ、どうして改めることができるでしょうか。

観呼吸から始めて身を観じ、身念住を修した後、受念住を修します。衆生は概ね、自分の感受が快適であるために心を駆り立てて種々の業行を造作しています。これらの感受は皆、生滅する六識の機能作用であり、意根の作用でもあり、すべて生滅変異して定まらないものです。そして心の無常を観じます。心を観じるのは最初は意識である六識心を観じますが、最後には意根にも関わってきます。内容はそれほど長く書かれていませんが、各々の小さな段落の内容を観行熟達させるには、かなり長い時間が必要であり、どれほど長いかは人によって異なります。

四念処経の最後には、法無我を観ずることが説かれています。この法無我とは、一切の法が第八識(阿頼耶識)であるこの我ではないという意味ではなく、小乗の観行はそのように観るものではなく、そのように観ても証果は得られません。小乗における「我」とは、散壊(さんえ:分散・壊れる)し滅びることのできる我を指しますが、実際には恒常不滅の我は存在せず、一切の法は恒常に存在できず、遅かれ早かれ皆滅びに帰するため、ゆえに法は無我であり、我ではないと説くのです。

<h4>三、諸仏菩薩は甚深禅定において色法の四大種子を転変できる</h4>

仏典原文:転変者(てんぺんしゃ)。謂(いわ)く仏菩薩は定自在(じょうじざい)に依(よ)る。若(も)し其(そ)の地(じ)に於(おい)て水勝解(すいしょうげ)を起(おこ)せば、即(すなわ)ち成水(じょうすい)せしめて実(じつ)に余(よ)に非(あら)ざらしむ。火風勝解(かふうしょうげ)も亦(また)復(また)是(かく)の如(ごと)し。若(も)し其(そ)の水(すい)に与(とも)に地勝解(ちしょうげ)を起(おこ)せば、即(すなわ)ち成地(じょうち)せしめて実(じつ)に余(よ)に非(あら)ざらしむ。火風勝解(かふうしょうげ)も亦(また)復(また)是(かく)の如(ごと)し。若(も)し其(そ)の火(か)に於(おい)て地勝解(ちしょうげ)を起(おこ)せば、即(すなわ)ち成地(じょうち)せしめて実(じつ)に余(よ)に非(あら)ざらしむ。水風勝解(すいふうしょうげ)も亦(また)復(また)是(かく)の如(ごと)し。若(も)し其(そ)の風(ふう)に於(おい)て地勝解(ちしょうげ)を起(おこ)せば、即(すなわ)ち成地(じょうち)せしめて実(じつ)に余(よ)に非(あら)ざらしむ。水火勝解(すいかしょうげ)も亦(また)復(また)是(かく)の如(ごと)し。

答:諸仏菩薩は甚深禅定の自在の力に依って、地水火風を変え、世界を変化させることができます。例えば、諸仏菩薩が大地を見るとき、地性を水性に変えようとすれば、地大を見ず、この地大の上に水大を見るようになり、大地山川は河海江流に変わり、河海江流以外の物質塵境(物質的な対象)は存在しなくなります。諸仏菩薩が大火を見るとき、強いて大火の上に水を見ようとすれば、火大種子が水大種子に転変し、大火は大水に変わり、大水以外の物質塵境は存在しなくなります。諸仏菩薩が大風が吹き荒れるのを見るとき、大風を滅除しようとし、強いて大風を大水と観想すれば、風大種子は水大種子に変わり、大風は大水に転変し、大水以外の物質塵境は存在しなくなります。

もし諸仏菩薩が大水を見て、大水を滅除しようとし、強いて大水を大地と観想すれば、水大種子は地大種子に転変し、大水は大地に変化し、大地以外の物質塵境は見えなくなります。もし諸仏菩薩が大火を見て、大火の存在を望まず、強いて大火を大地と観想すれば、火大種子は地大種子に転変し、大火は大地に変わり、大地以外の物質塵境は見えなくなります。もし諸仏菩薩が大風が吹いてくるのを見て、大風の存在を望まず、強いて大風を大地と観想すれば、風大種子は地大種子に転変し、大風は大地に変換され、大地以外の物質塵境は見えなくなります。

要するに、諸仏菩薩は甚深禅定を持つがゆえに、その心は自在であり、随意に四大種子を転変させ、一切の物質色法(物質的現象)を変え、心のままに一切の世界を変化させることができます。無量の神通力・道力をもって一切の衆生を度化し、仏道に入らしめるのです。

心を一処に制すれば、為せざることなし(心を一点に集中すれば、成し遂げられないことはない)。外道も心を一処に制することができ、阿羅漢や辟支仏も心を一処に制することができ、諸大菩薩も心を一処に制することができ、諸仏はさらに心を一処に制することができ、皆心を自在にすることができ、皆相応して心のままにすることができ、皆相応の事業を成就します。しかしながら、心量(心の広さ)が異なり、禅定の深浅の程度が異なり、智慧が異なるため、心の自在の程度も異なり、成就する事業も異なってくるのです。

<h4>四、摩訶止観(まかしかん)における修定の方法</h4>

原文:観(かん)を聴(ゆる)すこと多(おお)ければ、日(ひ)の芽(め)を焦(こ)がすが如(ごと)し。即(すなわ)ち応(まさ)に止(し)を聴(ゆる)すべし。定水(じょうすい)を以(もっ)て潤(うるお)す。或(あるい)は定(じょう)を聴(ゆる)すこと淹久(えんきゅう:長く留まる)すれば、芽(め)の爛(ただ)れて生(しょう)ぜざるが如(ごと)し。即(すなわ)ち応(まさ)に観(かん)を聴(ゆる)すべし。風日(ふうじつ)をして発動(はつどう)せしめ、善法(ぜんぽう)を現前(げんぜん)せしむ。或(あるい)は時(とき)に馳覚(ちかく:覚知が走り回る)し、一念(いちねん)も住(じゅう)すべからず。即(すなわ)ち応(まさ)に止(し)を聴(ゆる)すべし。以(もっ)て散心(さんじん)を治(ち)す。或(あるい)は沈昏(ちんこん:沈み昏れる)蒙蒙(もうもう)として霧(きり)に坐(ざ)するが如(ごと)し。即(すなわ)ち当(まさ)に観(かん)を聴(ゆる)すべし。此(こ)の睡熟(すいじゅく)を破(は)す。或(あるい)は止(し)を聴(ゆる)すこと豁豁(かつかつ)たり。即(すなわ)ち専(もっぱ)ら止(し)を聴(ゆる)す。或(あるい)は観(かん)を聞(き)くこと朗朗(ろうろう)たり。即(すなわ)ち専(もっぱ)ら観(かん)を聴(ゆる)す。是(こ)れ自修信行(じしゅうしんぎょう)の為(ため)の、八番(はちばん)の巧安心(こうあんじん)なり。

釈:心が法義を思惟観行すること(観)が多いときは、太陽の光が萎れた小さな芽苗を照らすようなものです。この時は思惟観行を止め、心を止息させて定(止)を修すべきであり、それは萎れた芽苗に水をやって潤すようなものです。心が定中に長く留まった後は、水に浸かった芽苗のように、芽苗が腐って生えなくなるようなものです。この時は寂止の定から心を動かして法義を思惟観行(観)すべきであり、心に善法の功徳が現れ増長するようにするのです。それは風で腐りかけの芽苗を吹き、陽光で腐りかけの芽苗を照らし、地水火風の栄養を均等に芽苗に与えるようなもので、芽苗はそうして初めて健やかに成長するのです。

修行の過程において、時に覚観(かくかん:気づきと観察)が奔放に走り回り、念頭が湧き止まらず、心が躁動(そうどう:落ち着きなく動く)し、善法の功徳が消失するか現前しないことがあります。この時は定(止)を修し、心を止めて、散乱攀縁心(さんらんはんえんしん:散漫で対象に縁る心)を対治し、智慧の功徳を生じさせるべきです。修行の過程において、時に静座中に頭脳が昏昏(こんこん)として朦朧(もうろう)とし、霧の中にいるように、心が昏暗で智慧の功徳利益を生じないことがあります。この時は心を起こして法義を思惟観行(観)し、昏睡状態を破るべきです。修行の過程において、定中で内心が清明朗照(せいめいろうしょう)し、日が中天にあるようであれば、この時は引き続き一心に定(止)を修すべきです。なぜなら、そうすれば智慧の水が生じやすいからです。時に反観して観行の智慧が細い流れのように湧き出るのを見るならば、この時は引き続き一門心思に観行(観)を修すべきです。そうすることで智慧の水が絶えず湧き出るのを保証するのです。

以上が、衆生が修行の過程において理解し運用すべき八種の巧妙な安心(あんじん:心を安んじ落ち着かせる)の方法です。定慧等持(じょうえとうじ:止と観を平等に保つ)をできるだけ行い、一方に偏ってはなりません。そうでなければ修行は成就しないでしょう。

<h4>五、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)第一観</h4>

原文:(仏説)如来今者(にょらいこんじゃ)。韋提希(いだいけ)を教(おし)え、及(およ)び未来世(みらいせ)一切衆生(いっさいしゅじょう)に、西方極楽世界(さいほうごくらくせかい)を観(かん)ぜしむ。仏力(ぶつりき)の故(ゆえ)に、当(まさ)に彼(か)の清浄国土(しょうじょうこくど)を見(み)ることを得(う)べし。明鏡(みょうきょう)を執(と)るが如(ごと)く、自(みずか)ら面像(めんぞう)を見(み)るが如(ごと)し。彼(か)の国土(こくど)の極妙楽事(ごくみょうらくじ)を見(み)て、心(こころ)歓喜(かんぎ)する故(ゆえ)に、応時(おうじ)即(すなわ)ち無生法忍(むしょうほうにん)を得(う)べし

釈:仏陀は、心力の劣弱な者が命終して極楽世界に往生するために、衆生に一つの方便の方法を教えました。それはまず西方に向かって日没を観想し、次に水観、地観を行うというものです。三観が成就すれば、命終して極楽世界に往生することが保証されます。全部で十六観あり、各観には仏力の加持があります。もし衆生自身の観想だけで成就しようとすれば、おそらく非常に難しいでしょう。なぜなら仏は、衆生の心想は劣弱で観想力が弱いと言われているからです。なぜ衆生の心想は劣弱で観想力が弱いのでしょうか。それは衆生が無量劫(むりょうこう:無限の時間)以来、業種(ごうしゅ:業の種子)が深重で、世俗法への攀縁(はんえん:執着)が多く、心が散乱しすぎて、一つのことに全精力を集中できないため、一つのことを成就しにくく、仏力の加持に頼って観想を完成させるしかないからです。 

原文:仏(ぶつ)、韋提希(いだいけ)に告(つ)げたまわく、汝(なんじ)は凡夫(ぼんぷ)なり。心想(しんそう)は羸劣(るいれつ)なり。未(いま)だ天眼(てんげん)を得(え)ず。遠(とお)く観(かん)ずることを能(あた)わず。諸仏如来(しょぶつにょらい)は、異方便(いほうべん)有(あ)り。汝(なんじ)をして見(み)ることを得(え)しむ

釈:仏は言われました。私は今、韋提希夫人および未来世の一切の衆生に、西方極楽世界を観想することを教えます。仏力の加持の縁故によって、現世において極楽世界の清浄な国土を見ることができるようになります。それはまるで明るい鏡を手に取って自分の容貌を見るように、現前に眼で極楽世界の勝妙荘厳な事柄を見ることができるのです。そうして心に歓喜が生じ、内心が歓喜するがゆえに、その時に無生法忍(一切の法は自心によって幻化し、無生であり、実在しないことを忍可する智慧)を証得するのです。

仏は韋提希夫人に言われました。あなたは今なお凡夫であり、心力は非常に弱く、観想する力がなく、天眼通もありません。遠くまで観ることはできず、ましてや極楽世界を観ることはできません。しかし諸仏如来にはいくつかの善巧方便(巧みな手段)があり、あなたに極楽世界を見させることができるのです。

原文:時(とき)に韋提希(いだいけ)仏(ぶつ)に白(もう)して言(い)わく、世尊(せそん)、我(わ)が今者(こんじゃ)の如(ごと)く、仏力(ぶつりき)の故(ゆえ)に、彼(か)の国土(こくど)を見(み)ることを得(う)。若(も)し仏滅後(ぶつめつご)には、諸(もろもろ)の衆生等(しゅじょうら)は、濁悪不善(じょくあくふぜん)にして、五苦(ごく)に逼(せま)らる。云何(いかん)ぞ当(まさ)に阿弥陀仏(あみだぶつ)の極楽世界(ごくらくせかい)を見(み)ることを得(う)べき

釈:韋提希夫人が仏陀に申し上げました。世尊、私のように、仏力加持の縁故によって、極楽世界の仏国土を見ることができるのでございます。もし世尊が滅度(入滅)された後、後世の衆生が心性が濁悪不善であり、生老病死の苦に逼迫されているならば、彼らはどうして現前に阿弥陀仏の極楽世界を見ることができるでしょうか。

原文:仏(ぶつ)、韋提希(いだいけ)に告(つ)げたまわく、汝(なんじ)及び(および)衆生(しゅじょう)は、応(まさ)に専心(せんしん)に一処(いっしょ)に系念(けねん)し、西方(さいほう)を想(そう)うべし。云何(いかん)ぞ想(そう)いを作(な)す。凡(およ)そ想(そう)いを作(な)す者は、一切衆生(いっさいしゅじょう)、自(おの)ずから生盲(しょうもう:生まれつきの盲人)に非(あら)ざる、目(め)有(あ)るの徒(と)は、皆(みな)日没(にちもつ)を見(み)る。当(まさ)に正念(しょうねん)を起(おこ)し、正坐(しょうざ)して西(にし)に向(む)い、諦(つまび)らかに日(ひ)の没(ぼっ)せんとする処(ところ)を観(かん)ずべし。心(こころ)をして堅(かた)く住(じゅう)せしめ、専想(せんそう)して移(うつ)らざらしむ。日(ひ)の没(ぼっ)せんとするを見(み)て、状(かたち)は懸鼓(けんこ:吊るされた太鼓)の如(ごと)し。日(ひ)を見(み)たる後(のち)、目(め)を閉(と)じ目(め)を開(ひら)くも、皆(みな)明(あき)らかにせしむ。是(こ)れを日想(にっそう)と為(な)し、名(な)づけて初観(しょかん)と曰(い)う

釈:仏は韋提希夫人に言われました。あなたとこれらの衆生は、専一に心を一処に繋ぎ、西方を想うべきです。どのように想うのでしょうか。観想をしようとするこれらの衆生は、生まれつきの盲人ではなく、眼があって色を見ることのできるこれらの人々は、皆太陽が西の山に沈もうとする光景を見ることができます。あなた方は正念を起こし、ただ一つのことに念いを置き、西方に向かって端座し、つぶさに一心に太陽が沈もうとしているところを観察すべきです。心を非常に堅忍強くこの景象に住まわせ、専らこの景象を観想し、移動させないようにします。この時、太陽がまさに沈もうとしている様子を見ることができ、その形状は半空に吊るされた太鼓のように丸いはずです。落日を見た後、目を閉じても開けても、落日の様子がはっきりと見えるようになります。いつでも見ることができ、失うことがなくなれば、三昧(さんまい:深い集中)が成就します。これが日想観であり、十六観における初観です。

原文の仏が説かれたのはこの意味です。私たちが観想しやすくするために、太陽が沈むときにスマートフォンで動画を撮影すれば、動画はより生き生きと鮮明で、観行記憶の助けになります。落日は白色ではなく、経典では橙赤色、赤の中に少し黄色を帯びたものとされています。落日の真実の相はどのようなものか、実際に目で見て、できるだけリアルなものが良いです。西方の落日は、通常午後五時か六時頃のもので、想像したものではなく、画像処理(P)したものでもいけません。自分が比較的好きなものを一つ選び、スマートフォンに保存して、長期間見続け、長期間観想します。いくつも観想せず、必ず専一に、雑念を入れずに行います。そうでなければ禅定は現れません。他の模様や背景を加えてもいけません。模様や背景があると注意が散漫になり、定を得にくくなります。画像は単調なほど良いです。私たちは景色を鑑賞するのではありません。鑑賞の心があるのは、散乱心と貪愛心(執着心)であり、それでは禅定は得られません。

落日の景象を選んだら、毎日見続け、見た後は独頭意識(意識のみで、五感を伴わない思考)で再び想像し思い出します。思い出すことが比較的固着し、いつでも思い出せるようになったら、目を閉じたときに目の前に落日の景象が現れるように訓練します。目を閉じたときにいつでも落日が現れるようになったら、最後に目を開けても閉じても、目の前は落日であり、この景象が消失しなくなるまで行います。そうすれば日観三昧が成就します。

第三観が成就する時、仏陀は衆生が命終して極楽世界に往生することを保証します。この期間中、禅定は永遠に失われず、この修法は非常に殊勝です。三昧が成就する時、重罪は軽くなり、軽罪は消失します。ゆえにすべての禅定三昧が成就する時には業を消すことができ、特に浄土を修め仏力の加持があるものはさらに業を消すことができ、三昧の境界を失わずに保つこともできます。第七観が成就する時には、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)の業は全て消滅し、直ちに開悟し、十方諸仏が目の前に立っているのを見ることができます。

これは意根(末那識、自我執着の根本)を改め降伏させる方法です。意根が一旦降伏すれば、その後いかなる禅定を修めても、速やかに成就し、各種の三昧も修めれば容易に成就します。日想観が成就した後、水を観じれば、水観も速やかに成就します。その後は地観であり、地観が成就すれば、極楽世界に行くことが保証されます。

落日の景象を一つ選び、長期間見続け、その後思い出します。いつでも思い出せ、失わなくなったら、目を閉じたときにいつでも目の前に現れるようにします。目を閉じたときにいつでも現れるようになったら、目を開けても見えるように練習します。もし目を開けても閉じてもいつでも落日の景象を見ることができ、失われず散壊しなければ、第一観が成就します。第一観が成就した後、第二観は容易に成就し、第三観までも容易に成就します。極楽世界への往生は保証されます。第一観が成就した後は、他のいかなる観行を修めても、容易に成就します。念仏三昧も、明心見性(自性を悟る)も難しくありません。比較的大きな罪業のある者でも、このように観行すれば、仏はすでに罪を滅し、さらに極楽世界に往生し、明心見性できることを保証されています。

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