禅定の修めと参禅証道(第一部)
</h3><h4 style="text-indent: 2em;">一、阿羅漢の解脱は禅定から離れられない</h4>
一部の阿羅漢は智慧によって解脱し三界を出離するものであり、これは慧解脱阿羅漢である。彼らは初禅定しか持たず、より深い禅定を持たず、神通の境界も持たない。命終の際、自らが三界の貪愛を断除した智慧によって三界を出離し、三界の法に束縛されない。まず慧解脱阿羅漢はみな我見を断っており、五陰十八界は真実不滅の自我ではないと否定した後、さらに初禅定を証得し、煩悩を断除し、三界世間に対するすべての貪愛を断除した。三界世間の中に彼らが留恋する法は一つもなく、自我の五陰世間に対する執著はすでに除去されているので、命終すれば彼らには自らの五陰を滅して無余涅槃に入る能力がある。
また一部の阿羅漢は俱解脱阿羅漢であり、解脱の智慧を持つだけでなく、四禅八定、さらに滅尽定も持っており、最後には智慧と禅定によって三界の生死輪回を出離し、解脱を得る。大多数の阿羅漢は慧解脱の阿羅漢であり、禅定に依らずして解脱を得る。しかし慧解脱の阿羅漢は初禅定を持っており、やはり禅定に依らないで解脱するわけではない。だから解脱しようとするなら、坐って禅定を修るだけでは解脱を得ることはできず、智慧だけでは禅定がなくても解脱を得ることはできない。
<h4 style="text-indent: 2em;">二、禅定と智慧の解脱に対する重要性</h4>四禅八定とは色界四禅天の定に四空定を加えたものであり、四禅八定は仏教と外道に通じるものである。外道は仏教の修証の道理を理解しないが、生死を解脱し、生死輪回の苦を出離したいと望んでいる。彼らは出離心を持っており、すでに五蓋を修除しているので、禅定は三界世俗の最高の定である非想非非想定に達することができる。世尊の外道の師および世尊が涅槃に臨む際に最後に度した外道の弟子は、みなこの無色界の最高の定まで修めており、命終するとみな非想非非想天に生まれて天福を享受した。しかし彼らは依然として三界の中で輪回しており、依然として三悪道に堕ちることを免れない。だから禅定だけを持つ人は、生死を解脱することはできない。
解脱は智慧に依らなければならず、智慧があってこそ三界の生死輪回を出離できる。この智慧の獲得は、必ず世尊が教えた解脱の道理に依拠しなければならない。まず我見を断ち、五陰十八界は我に非ず、不異我、不相在であることを承認することである。さらに、さまざまな識心の禅定の境界もまた我に非ず、真実法に非ずということを了知し承認する。我見を断った後、禅定は初禅に達すれば貪愛を断つことができ、瞋恚を断つことができ、煩悩を断じ尽くせば、どのように三界を出離するか、命終の際にどのように自らの五陰十八界を滅するかを知る。これが慧解脱の阿羅漢が修証して得たものである。
解脱の道理とは、世尊の教法を聞いてまず我見を断ち、さらに自らの禅定に依って煩悩を断除すれば、命終の際に自らの五陰を滅して無余涅槃に入ることができるというものである。俱解脱の阿羅漢は慧解脱と定解脱を兼ね備え、定があり慧があり、滅尽定に入ることができ、いつでも自らを滅して寿命を早く捨てることもでき、寿命を延ばすこともでき、寿命は自らが掌握する。彼らはみな三明六通の大阿羅漢である。
このことから見ると、智慧は小乗の解脱の道を修証するにとって非常に重要であり、大乗を修学して仏道を成就するにとってはなおさら重要である。仏法の修行は主に智慧を修めることであり、智慧によって解脱し、智慧によって成仏する。しかし智慧の増長には定力が補助的手段として必要であり、定がなければならず、定が浅くてもならない。初禅定を備えていなければ、三果・四果の人になることはできず、解脱を得ることはできない。初禅定がなく、煩悩を断っていなければ三果の人ではなく、そうであれば大乗を修学して開悟した後でも初地に入ることはできず、初地菩薩になることはできず、如来家に入って真の仏子となることはできない。そして三地菩薩の四禅八定五神通を修めて出さなければ、四地に入ることはできず、四地以上の菩薩になることはできない。
このように見ると、定力と智慧は同等に重要である。それなら、いつ定を修めるべきか、どのような定を修めれば修道に役立つかを知らなければならない。定が浅ければ、観行 (vipaśyanā-caryā) によって智慧を生み出すことができず、定が深すぎると心が沈没して観行 (vipaśyanā-caryā) ができなくなり、智慧の生起を障害する。三果・四果を証した後、菩薩の心性が弱く、成仏の心が強くなければ、小乗の無余涅槃の道を歩みやすく、定が深いと不注意に入って無余涅槃に入ってしまい、それでは仏道を成就するすべがなくなる。だから証果・開悟の前には、初禅定、あるいは初禅以前の未到地定 (anāgamya-samādhi) まで修めればよく、そうすれば小乗と大乗の法の観行 (vipaśyanā-caryā) もでき、比較的容易に智慧が生じる。三地菩薩の果位に達した時には、必ず四禅八定五神通と四無量心を加えて修めなければ、三地満心となって四地に入ることはできない。
観行 (vipaśyanā-caryā) と法理の思惟 (manasikāra/manana) を行おうとするなら、必ず未到地定 (anāgamya-samādhi) の功夫がなければならない。定力が不足していれば、心が散乱しやすく、観行 (vipaśyanā-caryā) ができず、あるいは観行 (vipaśyanā-caryā) があっても粗浅で深細でなく、得られる智慧も深細ではない。もし無心定を修め、常に無心の状態にあれば、それも観行 (vipaśyanā-caryā) ができない。身心の感受は快適で、煩悩を降伏することはできるが、智慧を獲得することはできず、その禅定は仏法の修行とは無関係である。古代の禅師たちはみな無心定を修めることに反対し、それは黒山の鬼窟の中に坐して百も思うところなく、何も成就できない、事に於いて無心、心に於いて無事、何も成就できない、たとえ神通を修得しても、行こうと思えばすぐ行き、どこに投生しようと思えばそこに投生できるが、何も成就できない、と言った。我々はこの道理を理解した後、どのように定を修めれば最も速く最大に成就できるかをよく揀択すべきである。
<h4 style="text-indent: 2em;">三、なぜ甚深の禅定があれば心は大自在を得られるのか?</h4>禅定は制心一処とも呼ばれ、制心一処であれば、事成らざるはなし。外道は制心一処ができ、阿羅漢・辟支仏も制心一処ができ、諸大菩薩は制心一処ができ、諸仏はなおさら制心一処ができる。いずれも心に自在を得させ、いずれも相応して随心所欲であり、いずれも相応の事業を成就できる。しかし禅定の深浅の程度が異なり、智慧が異なり、心量が異なるため、心の自在の程度が異なり、成就する事業も異なってくる。
一般の人の禅定に対する理解は、定は一種の束縛であり、一種の拘束であり、身体の頭・足・四肢を束縛し、心霊の自在な遐想を拘束するというものである。しかしもし身体が束縛されず、あちこち遊び回り、力があちこちに分散すれば、一切の法を変化させ改変させる強大な力は生じない。もし心霊が拘束されず、八方に任意に遐想が分散すれば、一切の法を指揮し創造する強大な力は生じない。そうなると身心は永遠に環境の拘束を受け、かえって自在にならず、まして大自在は望めない。
修定の最初の段階では、身体は束縛を受け、心霊も拘束を受ける。しかし禅定が次第に深まるにつれて、身体上の四大が変化し、気血が通暢すると、とても心地よく感じられ、もはや地水火風の四大の拘束を受けず、ますます軽安と自在になる。同時に心霊ももはや色身と境界の束縛を受けず、ますます恬淡で快楽になり、ますます自在になり、ますます力強くなる。
自在と解脱を得る心はどれか。最初は六識心であり、五識は身体内外の五塵境の束縛による苦痛を感じず、意識は法塵の拘束による煩悩を感じない。次第に意根は色身内外の境の束縛を受けなくなり、随意に塵境に攀縁することもなく、次第に一処に集中し、力が集中し、心力が増強される。そうなると、意根がどんな境界を望めば、どんな境界でも現前し、如来蔵 (tathāgatagarbha) は神様に随って神様を護持し、意根は六識と如来蔵 (tathāgatagarbha) を利用して一切の法を改変し、一切の世間を変化させる。しかし禅定が深くなるほど六識の功能作用は小さくなり、最後には六識を用いなくても、意根が如来蔵 (tathāgatagarbha) を連れて天上地下、十世古今を任意に遊歴し、いかなる拘束も受けず、大自在を得る。これが解脱である。
だから解脱はわずかたりとも禅定から離れられず、大智慧からも離れられない。最初は戒律からも離れられない。戒律は最初は身心を拘束し、身心を以前のように自在に随心所欲にさせないが、そのような自在な随心所欲こそが不自在であり、悪業を造作し、苦報を感召する。ひとたび身心が戒律に慣れ、悪業を造作しなくなれば、身心は戒律の拘束を感じなくなり、いつでもどこでも自在を感じ、戒律の存在と拘束を感じなくなる。
例えば、最初に制定された交通規則は左側通行であったが、衆生は気ままに慣れているので、左右中央を随意に歩き、左側通行を好まない。この時は交通規則の拘束を不自在に感じる。交通規則に慣れてしまえば、自然に左側通行となり、少しも拘束を感じなくなる。この時こそ真の自在であり、通行の安全も保障できる。以前、交通規則を守らなかったいわゆる自在は実は不自在であり、人身の安全を保障できなかった。
一切の法則に対して、慣れていない時には拘束だと感じるが、慣れてしまえば自在を感じ、拘束感がなくなる。修行とは衆生に良い習慣・善い習慣を持たせ、過去の悪い習慣・悪い習慣を改めさせることである。良い習慣・善い習慣は一種の解脱であり、悪い習慣・悪習慣は束縛と不解脱であり、苦果を受けることになる。
五戒を受けたくない人、まして菩薩戒を受けたくない人がいて、戒律の束縛を恐れる。しかし佛陀は、戒律は衆生に解脱をもたらすと言い、これを別解脱戒と呼ぶ。一つの戒を守れば、この戒について自在となり、一種の悪業を少なく造作すれば、身心は一種の解脱を得る。戒を守ることに慣れれば、戒律の存在と制約を感じなくなり、戒を守るという思想観念もなくなる。これが戒について自在であり、随心所欲にして矩を逾えずということができる。
諸仏菩薩は久遠長劫にわたって戒を守り、すでに戒律の拘束を受けていない。だから諸仏菩薩はみな戒を守らず、また戒を犯さない。仏は無戒者であり、それゆえ最大の自在解脱者である。凡夫は必ず受戒と守戒の修行段階を経なければならず、ひとたび戒律に慣れれば、もはや戒律の束縛を受けず、諸仏菩薩のように自在解脱となる。
<h4 style="text-indent: 2em;">四、初禅定は心解脱の唯一の条件ではない</h4>初禅を獲得しただけでは、心解脱ではなく、心解脱を得ることもできない。初禅定があれば煩悩を降伏できるだけで、煩悩を断除することはできず、それゆえ心解脱を得ることはできない。単なる初禅定と解脱とは必然のつながりがなく、心解脱の条件と基準は、我見を断った功徳受用があり、さらに初禅定を加え、この二者が欠けてはならないということである。
我見を断った後、初禅定の中で、次第に貪欲と瞋恚の二種の煩悩を断除でき、心は欲界の貪欲と瞋恚から解脱し、この二種の煩悩に繋縛されない。これを心解脱の三果聖人・阿那含と呼ぶ。しかしまだ色界と無色界の愚痴が断除されていない。三界の愚痴無明煩悩を断じ尽くせば、智慧解脱の四果聖人・阿羅漢である。三果・四果人の大乗菩薩は、将来になって初めて初地以上の聖人となる資格を得る。
だから禅定を修めず、いかなる三昧 (samādhi) の境界もなければ、解脱を得ることはできず、まして成仏はできない。我見を断除しなければ同様に解脱できず、まして成仏はできない。この二つの関門は、初地と三果人の前には必ず通過しなければならず、どのようにしても迂回できず、避けられず、どんな花形を修し出しても駄目である。たとえ三蔵十二部経を天花乱墜のごとく講じても、この二つの関門を通らなければ、解脱と成仏とは無関係であり、真実の証量とも無関係である。口先の智慧がどれほど高くても、仏地まで高くても、二つの関門は一つとして跨越できず、必ず経過しなければならない。さもなければ、それは高談闊論と呼ばれ、解脱涅槃・成仏とは無関係である。
心解脱の条件は、比較的良い禅定の功夫を基礎として備え、意根が比較的良い禅定の中で、意識の補助によって観行 (vipaśyanā-caryā) を行い、五蘊の虚妄を証得し、その後我見を断ち、もはや色身を死に物狂いで執著しなければ、意根は最も初步的な解脱を獲得し、初果の解脱功徳受用がある。
解脱は実際には意根の解脱であり、意根が無明に繋縛されており、意根が生死を輪回しているのである。もし意根の無明を破除せず、六識の無明だけを破除すれば、死亡の時、意根は無明に牽引されて、生死苦海に沈淪し続けなければならない。その時には六識はすべて跡形もなく消えており、後世に行くことは根本的にできない。その時には意識に無明があろうとなかろうとどうでもよくなる。ただ五陰身が世に在る時に、無明のない意識が効果的に意根を熏染し、意根にも無明を破除させ、無明をなくさせることができる。もし意識が五陰の生きている時に無明があれば、意根を熏染して意根に無明を破除させることができず、意根は依然として作主して身口意の悪行を造作し、未来世の悪業種子を残し、生死輪回の苦を受け続けることを免れない。
<h4 style="text-indent: 2em;">五、単なる四禅八定では生死輪回から脱することはできない</h4>古来より四禅八定を修し出した人は少なくないかもしれないが、単なる四禅八定では、衆生を生死輪回から脱させて解脱を得させることはできない。なぜなら、まだ五陰の中のある一法を自分とみなして執著しているため、執著した法によって束縛され、解脱を得られないからである。定力が消滅する時には、また下堕して人間あるいは三悪道に戻らなければならない。ではどうすれば生死から脱して解脱を得られるのか。相当良い定力の支えの下で我見と我執を断除し、解脱果を証してこそ、生死輪回を出離して解脱を得ることができ、他に道はない。
なぜ衆生はあんなに努力して禅定を修めるのか。それは衆生がみな、禅定が自分を解脱させられると思っており、我見を断つこと、五陰の中のさまざまな我の知見を断除することが解脱を得る因であることを知らず、さまざまな覚知心の我を滅してこそ涅槃を得、解脱を得、輪回を出離できることを知らないからである。だから仏法を修学し、正知見を獲得することが最も重要であり、仏法の正理によって修行を指導し、如法に修行してこそ、修行は成就するのである。
六、佛陀が教えた修行のルート
坐禅三昧経の中で教えている思惟 (manasikāra/manana) の方式は、まさに観行 (vipaśyanā-caryā) であり、思路は明晰であるが、やや粗雑なところがある。禅定に観行 (vipaśyanā-caryā) を加え、定慧を斉しく修めれば、証果とさまざまな三昧 (samādhi) の証得に十分である。佛陀在世の時、比丘たちの修行も禅定の中での観行 (vipaśyanā-caryā) であり、比丘たちは聞法の後、一方で禅定を修め、一方で思惟 (manasikāra/manana) 観行 (vipaśyanā-caryā) を行い、その後証果した。当時はまさにこの修行ルートであり、効率が非常に高かった。唐朝・宋朝の時も同様で、大衆はみな非常に深い禅定を持ち、みな参禅ができ、禅師が上堂して開示する時、時節因縁が具足すれば明心見性する人がいた。
外道たちは一人一人みな禅定の功夫を持っており、世尊に会った時、世尊が一たび法を講じると、彼らはすぐに思惟 (manasikāra/manana) 観行 (vipaśyanā-caryā) ができ、その場で証果した。だから、人家が最後に証果する手順が聞法の当下に智慧を獲得することだと見てはならない。その前に、禅定はすでに成就しており、心はすでに清浄 (viśuddha/pariśuddha) になっており、三十七道品もすでに修し出しており、正知見だけが欠けていた。世尊が法を講じて彼らの正知見を補い足したので、聞法の当下に証果したのである。我々は人家の最後の成果だけを見てはならず、彼らが修行した過程を観察しなければならない。過程が非常に重要であり、如理の過程がなければ、正しい果証もあり得ない。
過去の禅宗の祖師はみな修定の高手であり、一人一人みな禅定を持ち、菩薩六度はすでに修め終えており、修行の過程はすでに完成していた。禅師が上堂して開示すると、座下の弟子は悟り、果はこのように出現したのである。我々は成就した人の結果だけを見てはならず、最も重要なのは人家の修行過程を見ることであり、前世に何まで修めていたか、どのように修行したか、どのような根基を持っていたかを含めてである。根基がすでにできている人は、聞法の当下に頓悟でき、漸修を必要としない。なぜなら以前あるいは前世にすでに漸修が済んでおり、その道のりはすでに歩み終えているからである。修行人の修行過程から最後の一段だけを切り取るのは、ひどい断章取義であり、人を害することが甚だしい。
仏教を初めて学ぶ人は、佛陀の本生事跡を多く読み、佛陀が初発心から始めた修行の道のりを参考にすべきであり、我々にとって大きな啓発となるはずである。学仏学仏とは、まさに佛陀が修め、教えた一切の法を学び、佛陀の歩んだ足跡を歩むべきである。
<h4 style="text-indent: 2em;">七、外道が速やかに証果した原因は禅定があったからである</h4>阿含経に記載された事例も、大涅槃経に記載された事例も、みな真実性があり、確かに一部の外道たちは四禅八定を修し出した後、仏の講法を聞いて、数分間思考しただけで我見を断ち、我執を断ち、四果俱解脱の大阿羅漢となり、その後無余涅槃に入った。これらの外道は並外れており、四禅八定の功徳は並外れている。我々の多くの人は一生仏法を聞いても我見を断つことができないのに、外道は四禅八定を持っており、数分あるいはそれより短い時間だけで、我見を断つだけでなく、我執も断ち、直ちに無余涅槃に入ることができる。実に不可思議である。
皆考えてみよ、彼らはなぜこれほど利根なのか。彼らが四禅八定を修行する過程において、これほど深い禅定があったため、意識心は非常に細密で非常に霊敏であり、意根はすでに降伏を得ており、ただ知見上の一つの錯解が厘清されておらず断除されていなかっただけである。ひとたびこの邪見 (mithyā-dṛṣṭi) を断除すれば、すべての煩悩と執著がその時に脱落する。これが四禅八定の功徳である。このことから、意根の煩悩を降伏することは四禅八定と非常に密接な関係があり、禅定は非常に重要であることが分かる。
万巻の書を読むことができても、その意を知らなければ、真の精進ではない。学法の根本目的は智慧を獲得することであり、無数の知識と学問を収蔵するためではなく、学ぶために学ぶのでもなく、まして他人に見せるために学ぶのでもない。だから智慧を獲得するために、我々は何をすべきか、どのようにすべきか、用心して思考すべきである。学仏の人は、仏の心と行を学ぶのであり、仏のすべての言葉を収集するのではなく、仏の言葉を通じて仏の心を了解し、その後仏の心を学び、仏の行に倣って、初めて仏と平等無二となり、人に慈悲を施すことができるのである。
<h4 style="text-indent: 2em;">八、古の聖賢の実務的な修道は禅定を離れない</h4>楞厳経の二十五聖の修行から見ると、過去の修道人は修行がみな非常に実務的であり、学んだ理論はそれほど多くなく、彼らは少し理論を熏習すると、すぐに禅定の中で実際に観修しに行った。修行はみな禅定と観行 (vipaśyanā-caryā) を主とし、修定と参究が修行の八割以上を占め、修行は非常に踏実していた。だから彼らはすぐに理を証し、三昧 (samādhi) を獲得し、成就が速く、理を証する者が多く、理を説く者が少なかった。
今の人は逆であり、九割以上の精力を理論知識の学習に使い、復述・暗唱の能力は強いが、独りで修行する能力はなく、修定を好まず、心思が繁雑で禅定を修し出すこともできず、観行 (vipaśyanā-caryā) は意識の情思意解だけに頼り、多く知っていれば道があると思い、似たような答えを一つ知れば証得したと思い、知解宗徒と説食不飽の帰結が何であるかを全く知らない。その後著書立説し、広く徒衆を収め、子弟を誤らせ、衆生を岐路に導くことになるかどうかを少しも考慮しない。これは末世の衆生の思想が浮躁で、思惟 (manasikāra/manana) が浅薄である結果であり、見渡す限り、みな理を説く説客ばかりで、理を証する道者はほとんど見られない。衆生の福德が乏しくなるほど、これらの現象はひどくなる。これらのことを多く言えば人に恨まれ罵られるが、復古して古の仙人の修行の足跡に従うことはあまりにも難しく、仏教に大きな危機が存在し、不良現象がどれほどひどいかを意識できる人はほとんどいない。
世俗界のあらゆる業界において、成就を収めた人はみな相当の禅定を持つ人であり、彼らは定の中で専心一意、他に顧みることなく、霊感と創意が現れやすく、他人の目に映る天才と成就者となる。ここで言う霊感と創意は、一般に意根から来るものであり、最初は意識の構思と情思意解によるが、最後には意識は力を出せなくなり、意根の智慧と潜在能力が引き出され、優れた作品が生まれる。甚深の禅定の中での思惟 (manasikāra/manana) 創作は、禅定のない普通の人の意識の情思意解をはるかに超えており、これが天才が常人と異なる特異なところである。