禅定の修めと参禅証道(第一部)
妄心には七つあり、第七識の意根と前六識であり、真心はただ一つ、第八識である。意根は時時処処で主宰をなす心であり、私はこうしたい、私はああしたい、私はこうすべきだ、私はああすべきだと、常に思量 (manasikāra/manana)し、執取 (upādāna)し、攀縁し絶えず、時刻に主宰をなす、これが第七識意根の体性である。一方、六識は六塵を分別するものであり、眼は色塵を一見すれば、それが何であるかを知る。この知は眼識と意識の知であり、両者が共同して色塵を了別するのである。耳は声を一聞すれば、それがどんな声であるかを知る。この知は耳識と意識の知である。
これらの知はすべて生滅無常であり、生滅変化できるものは妄法である。妄想を打つときの心は意識心であり、妄想を打たないことを知る心もまた意識心であり、これは意識心の自分に対する反観作用である。坐禅しているとき、前際はすでに断え、後際は生ぜず、中間の一段は了了分明、はっきりと明らかである。これが意識の妄心であり、意識の妄心が自分の今この瞬間に念頭があるかないかを知るのであり、知がある限りそれは妄である。真心は入定したか否かを知らず、念想(思い)があるかないかを知らない。
楞厳経中で仏は説かれた:知见立知,即无明本。これは第六意識の知であり、第六識の知を真実とみなすことが無明の根本である、すなわち妄であるという意味である。また説かれた:内守悠闲,犹是法尘分别影事。これもまた、意識心の中に事がなく、悠々自適の境界こそが法塵の境界であり、意識が分別するものであることを指し、この分別了知の心こそ妄心である第六識の意識心であり、真心ではない。坐禅して一无所知(何も知らない)状態に坐り至ったとき、第六識は自分が一无所知であることをはっきりと知っており、自分が入定したことを知っている。この知こそ妄心である第六識の反観作用であり、真心ではない。なぜなら、自分が入定したという定境の法塵を分別し了知できるこの心は第六識であり、真心は知らないのであるから、この心を真心とみなして自分は悟ったと考えるべきではなく、これは悟境ではない。
六塵に対して知があれば、それはいずれも真心の知ではなく、真心は永遠に六塵を知らない。法塵もまた六塵の一つであり、入定の境界は法塵境であり、意識心が了知するものである。たとえ三界の中で最も高い定である非想非非想定に修し至っても、定中にはなお一つの想があり、この想こそ知であり、これも第六識である。知を滅し、この知を我と認めなければ、四果阿羅漢を証得し、直ちに無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa)に入り、了生脱死し、三界を出離して解脱を得る。したがって、ある知を真と認める限り、果を証得できず、我見 (satkāya-dṛṣṭi)を断できず、生死の凡夫である。
定中で定境を了別し、すでに入定したことを知る心は意識心であり、意識心が一時的に妄念を持たなければ、入定できる。意識が定から出ると、直ちに妄念が生じ、しばらくすれば念があり、しばらくすれば念がなく、変来変去するものは真実の心ではない。真実の心は永遠に変わらず、永遠にその通りである。まして定中の無念の心は、長い時間保つことができず、遅かれ早かれ変化するものであり、いずれも一時的に現れる一種の無念の現象である。たとえ八万大劫の間入定できたとしても、意識心は定から出なければならず、一出定すればやはり念想(思い)があり、やはり散乱する。それゆえ、定中無念の意識心は生滅法である。第六識の体性には一点、第八識と似ているところがあり、いずれも無形無相であるため、見分けるのが容易ではない。両者の体性を徹底的に見分け尽くしてこそ、間違えることがない。このところは極めて重要であり、生死の大事は曖昧にできない。経典を徹底的に学べば分かるようになる。
<h4 style="text-wrap-mode: wrap; text-indent: 2em;">二、離念霊知と無念の真心の区別</h4>六祖の説いた無念とは:无者无妄想,念者念真如。これは真心の無念を指し、真心はもともといかなる念想(思い)もなく、真心は三界世間の中のいかなる一法も念じない。真心がもともと無念である以上、我々は意識を無念に修成した後、このときが無念の第八識であると考えるべきではない。このときの無念は、努力して定を修めた後に転変して現れたものであり、もともとずっと無念であった第八識ではない。もし定力が消え、念頭がまた現れたとき、第八識はどこへ行ったのか。第八識は変来変去する生滅性の一つの識なのか。当然そうではない。それゆえ、しばらく念があり、しばらく無念である心は、根本的に第八識ではなく、意識心である。
第八識は生まれたものではなく、もともと存在するものであり、不生不滅であり、誰も神様を生み出すことはできず、むしろ神様が一切法を出生させたのである。これらの道理をみな理解してこそ、我々は明心悟道する機縁を持ち、智慧を生み出すことができ、八つの識の体性をすべて証得し、知らないことがなくなって、初めて成仏できる。特に第八識を証得すれば、妄心の七識は神様に皈依し、神様に学ぶことができ、七つの識はますます清浄 (viśuddha/pariśuddha)になり、染汚は消滅し、無明は滅し尽くされ、それによって初めて成仏できる。
諸々の法の相貌をすべてはっきり理解すれば、どれが生滅するもので、どれが不生滅のものかが分かり、もはや生滅法に執著せず、不生滅の真如自性に転依 (āśraya-parāvṛtti)すれば、すべての無明を破り尽くすこともできる。すべての生滅する法をはっきり理解し、すべて見出し、もはや生滅法を認取しなければ、生死の問題は解決できる。すべての法は識の上に落ちており、八つの識の根はなお第八識であり、第八識こそ中観であり、中道であり、第八識がなければ一切法の存在と派生はない。
<h4 style="text-wrap-mode: wrap; text-indent: 2em;">三、離念霊知心とは一体何か?</h4>第八識は一切時に遍し、一切地に遍し、一切処に遍し、一切界に遍し、一切法に遍する。一切時に遍するとは、第八識が刹那刹那存在し、衆生から離れたことがなく、第七識意根から離れたこともなく、五陰 (pañca-skandha)から離れたこともないという意味である。一切地に遍するとは、三界九地の衆生はすべて第八識の存在を有し、衆生である限りすべて第八識を有し、三界九地の中に生存する一人ひとりの衆生はすべて第八識を有し、たとえ三界を出て無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa)に入っても、なお第八識があり、ただ衆生としての自分がなくなっただけであるという意味である。
一切処に遍するとは、第八識は六根に遍し、六塵にも遍し、衆生の六根が六塵に接触するとき、いずれも第八識の存在と顕現があるという意味である。一切界に遍するとは、六根の上に第八識があり、六塵の上に第八識があり、六識の上にも第八識があるという意味である。一切法に遍するとは、存在する法である限り、認知できるか否かにかかわらず、すべて第八識の住持があり、色法であれ心法であれ、すべて第八識の執持があり、有為法であれ無為法であれ、すべて第八識の住持があり、存在する法がある限り、一切の人事物の道理、すべて第八識の住持があるという意味である。
多くの人は、離念の霊知心が果たして第六識なのか第八識なのかを理解していない。今、我々はこの離念の霊知心の本来面目が何であるかを分析してみよう。離念とは、このときちょうど念頭と妄想がないという意味であり、霊知とは霊々とした覚知であり、自分が離念していることを知り、自分に念頭がないことを知り、自分に一時的に妄想と思想がないことを知り、離念の状態において、さらには他の境界をも了知できるという意味である。では、この離念の境界には果たしていくつの識があるのか。第八識は一切時に遍するものである以上、このとき必ず第八識の存在があり、さもなければ五陰 (pañca-skandha)の存在もなく、七つの識の存在もなく、離念の状態の存在もない。
このとき第七識はあるのか。当然ある。もし第七識がなければ、衆生は無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa)に入ってしまい、離念霊知の状態は根本的に現れ得ない。ここに第六識はあるのか。当然ある。五つの場合において第六識が断滅する以外、すなわち、眠って夢のないとき、昏倒しているとき、死亡しているとき、無想定のとき、滅尽定のときであり、離念霊知はこの五つの場合に属さないのであるから、第六識心も存在していることを示している。しかも、自分の無念という法塵の境界を了知できるのであり、これは離念霊知のときになお知の心があり、それこそ第六識であることを示している。離念霊知のときに前五識があるか否かについては、色・香・味・触の五塵の存在を了知できる限り、それは五識の了知である。
離念霊知のとき、少なくとも第八識、第七識、第六識の三つの識があり、さらには前五識さえあるのだから、もし誰かがこのとき開悟したと言うなら、果たしてどの識を悟ったのか。ここには大きな差別があり、正しく悟れば第八識を悟ったのであり、誤って悟れば第六識を悟ったのである。第七識は一般の人には悟りにくく、第八識も悟りにくく、これは特殊な条件を必要とする。この特殊な条件とは、仏の説かれた菩薩六度の条件である。六度の条件が具足しなければ、第八識を悟ることはできず、明心して真実義の大菩薩になることができず、凡夫位から脱することができず、それによって未来永遠に三悪道に堕ちないようにすることもできない。
もしこの人が修行において、福德が不足し、持戒もなく、心性がまだ十分に良くなく、忍辱が足りず、布施 (dāna)、持戒、忍辱、禅定、般若 (prajñā)の修学においていずれも精進が足りず、禅定も未到地定 (anāgamya-samādhi)に具足せず、仏法の知見も具足せず、第八識の体性も了知していないならば、想像できるように、この人はどのようにしても第八識を悟ることはできない。もし誰かがこのとき悟ったと考えるなら、自分が悟ったのは果たしてどの識なのかを注意深く点検しなければならない。八つの識の体性をすべて学び理解し通じてから、自分と他人の所悟を判断すれば、何を悟ったのかが分かる。
<h4 style="text-wrap-mode: wrap; text-indent: 2em;">四、意識の知と真心の知をどのように区別するか?</h4>問:もし未到地定 (anāgamya-samādhi)と初禅に修し至ったときに明心見性できるのであれば、このとき意識心の知と真心の知をどのように見分けるのか。明心とはどんな心を明らかにするのか、見性とはどんな性を見るのか。
答:禅定は明心見性の条件の一つであり、他の条件が満たされなければ、未到地定 (anāgamya-samādhi)と初禅定があっても明心見性はできない。明心見性とは、妄心の七識が真心と仏性を証得することであり、六識・七識の知と証である。明心のとき、第八識が五陰身の中で運作する粗略な状況を現前観察し、五陰身の由来を明らかにする。
明心のときの知と明は、妄心の知と明であり、知と明の対象はいずれも第八識であり、真心である第八識は開悟明心の道理を知らず明らかにせず、真心は自分を探さず、自分を証せず、自分を明らかにしない。意識心は極めて優れた修行と生活の道具であり、神様は一切法を了別し、一切法を明らかにすることができる。もし意識心がなければ、意根を導いて参禅参究させ第八識を参ずることができず、意根は何事も知らず明らかにしない。学仏修行のときには意識心を十分に活用し、神様に分析、思惟、判断、推理、求証を行わせ、意根を導いて参究させ、最後に一切法を実証し、一切法を現量観察する。参禅と観行 (vipaśyanā-caryā)のときには意識を滅してはならず、意識が滅去すれば、意根は参禅も観行 (vipaśyanā-caryā)もできず、案内人がいなくなれば、どうしてよいか分からなくなる。
<h4 style="text-wrap-mode: wrap; text-indent: 2em;">五、前念すでに断え後念未だ生ぜず、中間の状態とは何か?</h4>前念すでに断え後念未だ生ぜずのとき、七識が断滅した、あるいは七識が出生していないことを意味するのではなく、まさに七識がすべて存在し運行している。そのうち第七識は、四果阿羅漢が無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa)に入るときに断滅できる以外、他の人には断る能力がなく、凡夫には断滅する能力がなく、地上菩薩および諸仏は断滅する能力があるものの、いずれも断ることを望まず、それゆえ第七識は断えない。我々がたまに念頭がないとき、あるいは念頭が生起する中間の状態にあるとき、意識心あるいは五識心は断滅しておらず、なお存在し運行しており、このときなお一つの知が存在し、自分がこのとき一時的に念頭がないことを知っている。この知こそ意識を主とする生滅する妄心であり、この心を第八識とみなせば、それは誤った悟りである。
この状態の中で、眼識は相変わらず色を見ることができ、耳識は相変わらず声を聞くことができ、鼻識は相変わらず香を嗅ぐことができ、舌識は相変わらず口中の味を覚知することができ、身識は相変わらず身体が快適かどうかを覚知することができ、意識は相変わらず自分に念頭があるかないかを知ることができる。このとき六つの識はすべてあり、意根もあり、第八識は必然的に存在している。つまり、無念のとき、八つの識はすべてあることが分かる。では、前念すでに断え、後念生ぜず、この中間は果たして何なのか。これは心が法塵に攀縁しない一時的な定 (samādhi)であり、その中にはなお意識の存在と意根の存在があり、第八識だけではない。それゆえ、このときに悟っても、必ずしも第八識を悟るとは限らず、もし意識が無念で、第八識を知らず認識していなければ、なおのこと悟ることはできない。
念頭がないとき、少なくとも第六識、第七識、第八識の三つの識があり、このときは第八識を悟ることが可能である。しかし、一般の人には第八識を悟る能力がなく、開悟の条件を具備していないからである。凡夫異生の心性は遠くに降伏を得ておらず、勝義菩薩になる資格を根本的にまだ持っていないので、その中で第八識を明らかにして証悟を得ることができない。それゆえ、往々にして念頭がないときの意識心を真心第八識と認定し、誤った悟りとなり、間違って誤ってしまうのである。
真心と妄心は同時に存在している。妄心を見つけるのは容易であるが、真心を見つけようとするのは非常に困難であり、これには一定の因縁条件が必要であり、因縁条件が具足しなければ、真心である第八識を証得できない。第八識を証得しなければ、第八識から起修することができず、第八識を見つけてからこそ悟後起修できる。無念の意識と第八識は特に混同しやすく、多くの人は意識が無念であれば第八識であると考えるが、実際には、第八識は你有念無念にかかわらず、神様はずっと存在しており、後になって修行して第八識が現れたのではない。
古代の祖師たちが参禅して開悟したとき、色を見たときに開悟した者があり、声を聞いたときに開悟した者があり、棒喝されたときに開悟した者があり、また門に挟まれたときに開悟した者もあり、悟り方は多種多様で、非常に柔軟である。必ずしも念頭がないときにしか悟れないということはなく、実は念頭がないときに開悟しようとすることは、非常に困難である。それゆえ、祖師たちは弟子たちに無念の定 (samādhi)を修めることを許さなかった。無念の定 (samādhi)はたとえ修成できても悟ることはできない。
禅宗の公案を多く見れば分かるが、大多数の祖師の開悟は真の悟りであり、それゆえみな得道の人である。現代の人は善根も福德も不足しており、往々にして仏法を誤って伝え、衆生をして修行の回り道を歩ませている。我々の辨别能力はまだ十分ではなく、正しいか誤りかを辨别できない。もし念頭がないときが第八識であるなら、しばらくして念頭がまた現れたとき、第八識は消滅したのか。そうであれば、第八識は生滅するものになってしまうのではないか。了了分明、了とは知であり、分明とは明白であることであり、これも知である。知がある限り妄心であり、真心は知らず、了了分明ではない。
了了分明のときの心は諸々の境界を知ることができ、知らないのではない。六塵の境界を知ることができるものは真心ではなく、真心は六塵の境界を知らず、自分が今どんな状態にあるのか、真心は知らず、これこそまさに意識心が知り了別できることであり、これこそ証悟の鍵である。意識心は時に離念であり、霊知であるが、これもなお知であり、六塵を知ることができる心は真心ではない。皆は古代禅宗の法と多く照らし合わせて、祖師たちがどのように悟ったのか、いつ悟ったのか、悟った内容は何なのかを見るべきである。
六祖が悟ったとき、五つの何期自性 (svabhāva)を知った。もし離念霊知心を悟ったのであれば、どのようにしても五つの何期自性 (svabhāva)を知ることはできなかっただろう。心経と照らし合わせれば、真心は不生不滅であり、永遠に変わらないが、この霊知心は生滅するものであり、しばらくあり、しばらく無く、長期にわたって保つことができない。それゆえ、霊知心が真心なのか妄心なのか、心の中で明らかであるべきである。この問題はあまりにも重要であり、必ず注意しなければならない。生死の大事は曖昧にできない。法を学ぶには注意深く慎重に、多方面から求証しなければならない。万一学び誤れば、それは一生一世のことでは済まされないのだから。
<h4 style="text-wrap-mode: wrap; text-indent: 2em;">六、真知真覚と妄知妄覚の区別</h4>衆生は六根を通して初めて見聞覚知があり、眼根を通して色を見、耳根を通して声を聞き、鼻根を通して香を嗅ぎ、舌根を通して味を嘗め、身根を通して触を覚え、意根を通して法を知る。六根門頭の覚知には、前五識と意識心の妄覚妄知があり、真如の真覚真知もある。しかし、両種の覚知の体性は全く異なり、覚知の対象と内容の範囲も異なる。着衣・食事を知り、行住坐臥を知り、動を知り静を知るのは、すべて六識心の知であり、六識心は六塵に対して了知性を有するからである。真如心は六塵に対応せず、それゆえ六塵を知らない。意識は生滅変異の法であるから、六塵の境界を知る知は生滅法であり、真如の不生不滅の知ではなく、真如は从来そして永遠に六塵を知らない。
了了霊知こそ真如であると考える人がいるが、実はそうではなく、それは意識心の体性であり、意識の知である。なぜなら、知の対象は六塵の境界であり、しかも知の自体も生滅変異性の知であり、真知ではなく、真知は永遠に生滅変異しないからである。意識心は妄念を動かさないときでさえ、六塵を了知し、六塵を知ることができる。そしてこの知こそ想陰と想心所であり、まさに妄心の作用であり、真如は从来六塵を知らない。
眼が色を見るとき、覚知の作用を生起できる識が四つある。すなわち眼識、意識、意根、第八識である。もし色を見たときに自分は開悟したと考えるなら、自分が四つの識のうちどの識を悟ったのか、真識なのか妄識なのか、それとも真妄和合体なのかを点検しなければならない。菩薩六度の条件が具足しなければ、真如を悟ることはできない。
耳が声を聞き、鼻が香を嗅ぎ、舌が味を嘗め、身が触を覚えるとき、いずれも四つの識がそれぞれ了別に参与し、覚知の作用を起こしている。この中で、真の第八識を見つけてこそ自分は悟ったと言うことができ、意識を真心と認めれば、誤った悟りと誤解にしかならず、他人に語れば、大妄語業を構成し、未来世に悪い果報がある。それゆえ、学仏修行は注意深く慎重であるべきであり、仏法を誤解してはならない。
多くの人の開悟とは、霊知不昧の心を悟ることであり、念頭がなく一念不生の霊知不昧の意識心を悟ることである。確かに保任が必要であり、この意識心がずっと妄想を持たず、ずっと念頭を持たないように保ち、意識を真の第八識の体性と似通わせてこそ、ずっと開悟の状態に属することができ、あたかもこれこそ念頭のない真如第八識であるかのように。このいわゆる開悟は、絶えず定 (samādhi)を修めて無妄想と妄念を保たねばならず、しかし六祖の説いた那枷常在定の真如第八識ではない。これは妄心を真如とみなしたものであり、偽の真如を見つけたのであって、もともと念頭のない真如第八識ではなく、もともと修行を必要としない真如第八識ではない。第八識を悟れば保任は不要であり、第八識は永遠に逃げ出さず、失われず、いかなるときも念想(思い)を起こさず、神様は打っても打ち払えず、滅そうとしても滅せず、何のために保任する必要があろうか。
真如第八識の自体の存在性は真実有であり、見えず、触れられず、神様を感じ取ることはできないが。神様は六塵相の形式で存在せず、三界世間のいかなる相によっても存在せず、神様の存在方式は非常に特別である。衆生はどのように思惟想像しても想像できず、それゆえ明心して神様を証悟することは極めて困難である。意識心を悟ることは非常に容易であり、多くの福德を必要とせず、多くの戒定慧を必要とせず、容易に意識心を発見できるので、偽の開悟の人が非常に多い。もし意識心を発見することが開悟であるなら、聖人があちこちに走り回っていることにならないだろうか。