衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 3990

第四章 仏典に説かれる修定観行の方法

一、円覚経には、三摩鉢提(さんまはってい)の定慧結合を修行する方法が述べられており、心によって境界を変化させ、心が転じれば境界も転じ、境界が心に従って転ずる。この方法は難しくなく、定中において、心を非常に集中して一つの境界を冥想すると、定が深まるにつれて心が転じ、境界も次第に転じていく。元々心に悪念があっても、定が深まるにつれて内心が弛緩すると、悪念は善念に転じ、悪を思おうとしても悪が思えなくなり、あらゆる事物が美しく見えるようになる。心が瞋(いかり)から喜悦へと変わり、境界が醜から美へと変わる。心が転ずれば境界も転ずる。ゆえに禅定は煩悩を降伏させ、煩悩を断除し、心念を転じ、一切の法を変えることができる。諸仏や大菩薩方は皆、三摩鉢提を修行し、一切の法を成就し、三界の器世間を成就し転変させ、穢土を浄土へと変えたのである。

二、四念処(しねんじょ)の修行方法

四念処経は、定慧を共に修めて法眼浄を得る非常に優れた経典である。なぜなら我々には定力も慧力もなく、心が粗雑で自己を反観することができないからである。この経典は、心を微細な程度まで修め、ますます明晰に自己を反観し、自らの五蘊の生滅変異が実体なきことを認め、さらに我見を断除して小乗の四つの果位を証得する方法を教えている。

経中では、四念処を観行する修行方法が説かれている:観身念処、観受念処、観心念処、観法念処である。観身念処の際には、まず自らの呼吸を観じ、心念をひたすら自らの呼吸に従わせて転じさせる。心を一法に縁(よ)らせて定を得て止(し)を成じ、その後観(かん)を起こし、色身の生滅無我を証得する。その後さらに色身全体を観じ、自らの身行の造作(行為)を徹底的に観行し透徹するまで続ける。自らが今何をしているかをはっきりと明らかに知り、ついにはただ一つの身念だけが残る。その念を空じ、その念想を捨てる。内心は一切の法が空であり、我ではないと知るのである。

将来、参禅する場合には、定力によってこの念を参禅の公案(こうあん)に換えるか、解決すべき法義(ほうぎ)に換える。行住坐臥においてこの参究の念を帯び続けると、時至って法義を参究し出すことができる。今の我々の心は十分に警覚しておらず、自己を理解せず、自己を反観することもできない。修定を通じて心を微細にした後、初めて自己をよく理解できるようになる。理解してこそ自らの問題を解決できるのである。

しばらく修行すると、修行の良さが分かってくる。初めは苦しく感じ、内心で葛藤し束縛を受けたくないと感じるかもしれないが、続けて習慣になれば良くなる。いつでもどこでも自己を反観し、身が何をしているか、心が何をしているかを知ることができる。自らの身口意の行いを理解し、徹底的に理解する。己を知り彼を知れば、百戦危うからず、自らの問題を解決できる。法を用いて自らを照らし合わせ、自らをよく管理し、法にかなっているかどうかを点検する。自らを管理できるようになれば、将来は他人を管理する能力も持てる。自らすら管理できない者は他人を管理できず、菩薩として衆生の導き手となることはできない。

自らが今まさに行っている造作(行為)が身見・我見であることを理解しなければならない。これらの行為・造作を全て実体あるものとして「我」と執着し掴み取っている。反観する能力ができた時、これが我執であると知る。一切の法の機能作用を実体あるものと執着するのが法執である。まず観察できれば良い。できるかどうかは気にせず、遅かれ早かれ必ずできる。恐ろしいのは、今の自分が知らず、自己を観察できないこと、つまり無明である。自らの知見が誤りであることを知らず、自らに執着と無明があることを知らなければ、どうして改められようか。

観呼吸から始めて身を観じ、身念処を修めた後、受念処を修める。衆生は多く、自らの感受が快適であるために自らの心を駆り立てて種々の業行を造作する。これらの感受は全て生滅する六識の機能作用であり、意根の作用もあり、全て生滅変異して定まらない。その後、心が無常であることを観じる。観心は初めに意識・六識心を観じ、最後には意根にも及ぶ。内容はそれほど長く書かれていないが、それぞれの小段落の内容を観行し熟達するには、かなり長い時間がかかる。どれほど長いかは人によって異なる。

四念処経の最後には、法無我を観ずることが説かれている。この法無我とは、一切の法が第八識であるこの我ではないという意味ではない。小乗の観行はそのように観ずるものではなく、そのように観じても果位を証得できない。小乗における我とは、散壊(さんえ)し滅びうる我を指す。実際には恒常不滅の我は存在せず、一切の法は恒常に存在できず、遅かれ早かれ滅びに帰する。ゆえに法は無我であり、我ではないと説くのである。

三、仏典原文:転変するとは、仏菩薩が定に依って自在であることを謂う。若し其の地に於いて水の勝解を起こせば、即ち之を成じて水と為し、実の如くにして余のものならず;火・風の勝解も亦た是の如し。若し其の水と与に地の勝解を起こせば、即ち之を成じて地と為し、実の如くにして余のものならず;火・風の勝解も亦た是の如し。若し其の火に於いて地の勝解を起こせば、即ち之を成じて地と為し、実の如くにして余のものならず;水・風の勝解も亦た是の如し。若し其の風に於いて地の勝解を起こせば、即ち之を成じて地と為し、実の如くにして余のものならず;水・火の勝解も亦た是の如し。

答:諸仏菩薩は甚深なる禅定の自在の力に依って、地水火風を変え、世界を変化させることができる。例えば諸仏菩薩が大地を見た時、地性を水性に変えようと欲すれば、地大を見ず、この地大の上に水大を見るようになる。すると大地山川は河海江流に変わり、河海江流以外の物質・塵境は存在しなくなる。諸仏菩薩が大火を見た時、大火の上に水を見ようと強く念じれば、火大の種子が水大の種子に転変し、大火は大水に変わり、大水以外の物質・塵境は存在しなくなる。諸仏菩薩が大風が吹き起こるのを見た時、大風を滅除しようと欲し、大風を大水と観想しようと強く念じれば、風大の種子が水大の種子に変わり、大風は大水に転変し、大水以外の物質・塵境は存在しなくなる。

もし諸仏菩薩が大水を見て、大水を滅除しようと欲し、大水を大地と観想しようと強く念じれば、水大の種子が地大の種子に転変し、大水は大地に変化し、大地以外は他の物質・塵境を見ず。もし諸仏菩薩が大火を見た時、大火が存在することを望まず、大火を大地と観想しようと強く念じれば、火大の種子が地大の種子に転変し、大火は大地に変わり、大地以外は他の物質・塵境を見ず。もし諸仏菩薩が大風が吹いてくるのを見た時、大風が存在することを望まず、大風を大地と観想しようと強く念じれば、風大の種子が地大の種子に転変し、大風は大地に変換され、大地以外は他の物質・塵境を見ず。

要するに、諸仏菩薩は甚深なる禅定を有するが故に、その心は自在であり、随意に四大の種子を転変させ、一切の物質色法を変え、心のままに一切の世界を変化させることができる。無量の神通力・道力をもって一切の衆生を度化し、仏道に入らしめるのである。

心を一処に制すれば、為せざる事なし。外道も心を一処に制することができ、阿羅漢・辟支仏も心を一処に制することができ、諸大菩薩も心を一処に制することができ、諸仏は更に心を一処に制することができる。皆、心を自在にし、相応して心のままにすることができ、相応する事業を成就することができる。しかし心量が異なり、禅定の深浅の程度が異なり、智慧が異なるため、心の自在の程度が異なり、成就する事業も異なってくる。

四、摩訶止観原文:観(かん)を聴(ゆる)すこと多し。日(ひ)の芽(め)を焦(こ)がすが如し。即ち応に止(し)を聴(ゆる)すべし。定水(じょうすい)を以て潤(うるお)す。或(あるい)は定を聴(ゆる)すこと淹久(えんく)にして、芽(め)の爛(ただ)れて生ぜざるが如し。即ち応に観(かん)を聴(ゆる)すべし。風日(ふうじつ)をして發動(ほつどう)せしめ、善法(ぜんぽう)を現前(げんぜん)せしむ。或(ある)時は馳覚(ちかく)し、一念(いちねん)住(じゅう)すべからず。即ち応に止(し)を聴(ゆる)して、以て此(こ)の散心(さんじん)を治(ち)すべし。或(あるい)は昏沈(こんじん)蒙蒙(もうもう)として霧(きり)に坐(ざ)するが如し。即(すなわ)ち当(まさ)に観(かん)を聴(ゆる)して、此(こ)の睡熟(すいじゅく)を破(は)すべし。或(あるい)は止(し)を聴(ゆる)して豁豁(かつかつ)たり。即(すなわ)ち専(もっぱ)ら止(し)を聴(ゆる)すべし。或(あるい)は観(かん)を聞(き)いて朗朗(ろうろう)たり。即(すなわ)ち専(もっぱ)ら観(かん)を聴(ゆる)すべし。是(こ)れ自修信行(じしゅしんぎょう)の、八番(はちばん)の巧(たくみ)なる安心(あんじん)なり。

釈:心の中で法義に対する思惟観行が多い時は、太陽の光が萎(しお)れた小さな芽苗(めなえ)を照らすようなものである。この時は思惟観行を止め、心を止息して定を修めるべきである。萎えた芽苗に水をやり潤すようなものである。心が定中に長く留まった後は、水が芽苗を浸し、芽苗を腐らせて生長しなくなるようなものである。この時は寂止の定から心を動かし念を起こして法義を思惟観行すべきである。そうすれば心に善法の功徳が現れ増長する。風で腐りかけの芽苗を吹き払い、陽光で腐りかけの芽苗を照らし、地水火風の栄養を均等に芽苗に与えるようなものであり、そうして初めて芽苗は健やかに成長するのである。

修行の過程において、時として覚観(かっかん)が奔放に駆け巡り止まらず、念頭が湧き上がって止められず、心が躁(さわ)ぎ、善法の功徳が消失するか現前しないことがある。この時は定を修め、心を止めて、散乱し攀縁(はんえん)する心を対治し、智慧の功徳を生じさせるべきである。修行の過程において、時として静座していると頭の中が昏々(こんこん)として朦朧(もうろう)とし、霧の中にいるようで、心が暗く智慧の功徳利益が生じないことがある。この時は心を起こして法義を思惟観行し、昏睡状態を破るべきである。修行の過程において、定中で内心が清明に明るく照らされ、太陽が中天にあるような時は、引き続き一心に定を修めるべきである。この方が智慧の水を生じやすいからである。時として反観すると観行の智慧が細い流れのように絶え間なく湧き出ていることがある。この時は引き続き一門心思(いちもんしんし)に観行を修め、智慧の水が絶えず湧き出るように保つべきである。

以上が、衆生が修行の過程において理解し運用すべき八種の巧妙な安心の方法である。定慧等持を極力実現し、一方に偏ってはならない。さもなければ修行は成就しない。      

五、観無量寿経 第一観 

原文:(仏説)如来今者(にょらいこんじゃ)、韋提希(いだいけ)を教え、及び未来世一切衆生、西方極楽世界を観ぜしむ。仏力の故をもって、まさに彼の清浄国土を見ることを得べし。明鏡を執るが如く、自ら面像を見るが如し。彼の国土の極妙なる楽事(らくじ)を見て、心歓喜するが故に、応時(おうじ)に即ち無生法忍(むしょうほうにん)を得ん。 仏、韋提希に告げたまわく:汝は是れ凡夫なり、心想羸劣(るいれつ)にして、未だ天眼を得ず、遠く観ることを能わず。諸仏如来は、異方便(いほうべん)有り、汝を見ることを得せしめん。 時に韋提希、仏に白して言(もう)さく:世尊(せそん)!我が今者の如く、仏力の故をもって、彼の国土を見る。若し仏滅後の後、諸の衆生等、濁悪不善にして、五苦に逼(せま)らるるに、云何(いか)んぞ当に阿弥陀仏の極楽世界を見ることを得んや? 仏、韋提希に告げたまわく:汝及び衆生は、まさに応に専心一処に系念し、西方を想うべし。云何が想いを作(な)すや?凡そ想いを作す者は、一切衆生、自(おの)ずから生盲(しょうもう)に非ずして、目あるの徒(ともがら)は、皆日没を見る。まさに正念を起こし、正しく坐して西に向かい、諦(つまび)らかに日の没せんとする処を観じて、心をして堅住せしめ、専想移(うつ)らず。日の没せんとする状、懸鼓(けんこ)の如きを見る。日を見ること既(すで)にして、目を閉じ目を開くも、皆明らかにせしむ。是れ日想(にっそう)と為し、名づけて初観と曰(い)う。 

釈:仏陀は、心力の劣った者が命終して極楽世界に往生するために、衆生に一つの方便の方法を教えた。それはまず西方に向かって落日を観想し、次に水観、地観を観じることであり、この三観が成就すれば、命終して極楽世界に往生することが保証される。全部で十六観あり、各観には仏力の加護がある。もし衆生が単独で観想を成就しようとすれば、おそらく非常に難しい。なぜなら仏は衆生の心想は劣り観想力が弱いと言われているからである。なぜ衆生の心想は劣り観想力が弱いのか。衆生は無量劫以来、業種が深重で、世俗法への攀縁が多すぎ、心が散乱しすぎて、一つのことに全精力を集中することができず、ゆえに一つのことを成就しにくく、仏力の加護に頼って観想を完成させるしかないのである。

仏は言われた、私は今、韋提希夫人および未来世の一切の衆生に、西方極楽世界を観想することを教える。仏力の加護の故に、現世において極楽世界の清浄な国土を見ることができるようになる。それはあたかも手に明るい鏡を持って自分の容貌を見るように、極楽世界の勝妙荘厳な事柄を現前して眼見することができる。そうして心に歓喜が生じる。内心が歓喜するが故に、その時に一切の法が自心によって幻化され、皆無生であり実在しないことを知り、この事に忍(にん)ずれば、無生法忍を得るのである。

仏は韋提希夫人に言われた:あなたは今なお凡夫であり、心力は非常に弱く、観想する能力がなく、天眼通もなく、遠くまで観ることはできず、ましてや極楽世界を観ることはできない。しかし諸仏如来にはいくつかの善巧方便があり、あなたに極楽世界を見させることができる。

韋提希夫人は仏陀に言った:世尊よ、私が今このように、仏力加護の故に極楽世界の仏国土を見ることができるのは幸いです。しかし世尊がもし滅度された後、後世の衆生は心性が濁悪不善であり、生老病死の苦に逼迫されているのに、どうして現前して阿弥陀仏の極楽世界を見ることができるでしょうか?

仏は韋提希夫人に言われた:あなたとこれらの衆生は、専一に心を一処に繋ぎ止め、西方を想うべきである。どのように想うのか。観想を望むこれらの衆生は、生まれつき眼が盲目な者ではなく、眼があって色を見ることのできるこれらの人々は、皆太陽が西の山に沈もうとする光景を見ることができる。あなた方は正念を起こし、ただ一処を念じ、面を西に向けて端座し、つぶさに一心に太陽が沈もうとしている場所を観察し、心を非常に堅忍にこの景象に住まわせ、専らこの景象を観想し動揺させてはならない。この時、太陽がまさに沈もうとしている様子を見ることができるはずである。その形状はまるで半空に吊るされた太鼓のように丸い。落日を見た後、目を閉じても開けても、落日の様子がはっきりと見えるようになる。いつでも見え、失われることがなくなれば、三昧が成就する。これが日想観であり、十六観における初観である。

原文で仏が説かれたのはこの意味である。我々が観想しやすくするために、太陽が沈む時にスマートフォンで動画を撮影する。動画はより生き生きと鮮明で、観行と記憶に役立つ。落日の色は白くないもの、経典では橙赤色、赤の中にわずかに黄色を帯びたものだと説かれている。落日の真実の相はどのようなものか、実際に目で見るべきであり、より現実的であればあるほど良い。西方の落日は通常午後五時六時頃のもので、想像上のものではなく、画像編集(P)されたものでもない。自分が比較的好きな一種類を選び、スマートフォンに保存して長期間見続け、長期間観想する。何種類も観想せず、必ず専一にし、雑念を混ぜてはならない。さもなければ禅定は現れない。他の図案や背景を加えてもいけない。図案や背景があると注意力が散漫になり、定を得にくい。画像は単調であればあるほど良い。我々は景観を鑑賞するのではなく、鑑賞の心は散乱心と貪愛の心であり、そうすれば禅定は得られない。

落日の景象を選んだら、毎日見続ける。見た後、独頭意識(どくずいしき)で再び想像し思い出す。思い出すことが比較的堅固になり、いつでも思い出せるようになったら、目を閉じた時に目の前に落日の景象が現れるように訓練する。目を閉じていつでも落日が現れるようになったら、最後に目を開けても閉じても、目の前が常に落日となり、この景象が消失し見えなくなることがなくなれば、日観三昧が成就する。

第三観が成就する時、仏陀は衆生の命終後極楽世界に往生することを保証される。この期間中は禅定が永遠に失われず、この修法は非常に殊勝である。三昧が成就する時、重罪は軽くなり、軽罪は消失する。ゆえに全ての禅定三昧が成就する時は業を消滅させることができ、特に浄土を修め仏力の加護があるものは更に業を消滅させ、三昧の境界を失わずに保つこともできる。第七観が成就する時には、三悪道の業は全て消滅し、即時に開悟し、十方諸仏が目前に立っているのを見るのである。

これは意根を変え降伏させる方法である。意根が一旦降伏されれば、その後いかなる種類の禅定を修めても、速やかに成就し、各種の三昧は修めれば容易に成就する。日想観が成就した後、水を観じれば水観も速やかに成就する。その後は地観であり、地観が成就すれば、極楽世界に行くことが保証される。

一種類の落日の景象を選び、長期間見続け、その後思い出す。いつでも思い出せ、失われなくなったら、目を閉じた時に常に目の前に現れるようにする。目を閉じて常に現れるようになったら、目を開けて見る練習をする。もし目を開けても閉じてもいつでも落日の景象が見え、失われ散壊しなければ、第一観が成就する。第一観が成就すれば、第二観は容易に観じ成功し、第三観までも容易に観じ成功する。極楽世界への往生は保証される。第一観が成就すれば、他のいかなる観行を修めても容易に成就し、念仏三昧や明心見性も難しくなくなる。比較的大きな罪業がある者でも、このように観行すれば、仏は既に罪を滅することができ、更に極楽世界に往生し、明心見性することもできると保証されている。

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