禅定の修めと参禅証道(第一部)
座禅で定を修める時、心の中に事があって空しく清浄 (viśuddha/pariśuddha) でなく、心が絶えず攀縁し続けているなら、この時に心を清浄にして安穏に座ろうと思っても、それはまず不可能です。意根はあちこち攀縁するのを好むので、心の中で何かの事を気にかけていれば、心中に妄念が絶えず、すべての事は意根が攀縁して生み出したものです。だから禅定をしっかり修めたいなら、まず心の中の念頭を掃除して、まず自分の心の中にまだ手放せていない事、まだ気にかけている事が何かあるかを点検します。心の中で気にかけている事があれば、まずそれを処理し段取りをつけ、その後は心の中でそれを思い続けず、すべて手放し、自分がこれらの事に影響されないようにします。処理を終えてからあぐらをかいて座禅をすれば、心は清浄になれます。意根の心に一つでも気にかけている事がある限り、意識の心がいくら静まろうとしても容易ではなく、その事があなたに影響を与えてしまうのです。
座禅を終えた後、体内に残留する気があって、気脈の通らなくて滞っている所があるなら、気を排出する方法を考えなければなりません。気を頭頂から出すと観想するのが最良で、その後手をこすり合わせ、頭頂をこすります。どこかの部分が不快に感じられたら、気はそこに留まっている可能性があるので、その部分をマッサージし、気をそこから散らすと観想し、マッサージして疏通し、体をたたけば、気が出て行き、体は楽になります。
座禅の時に昏沈しやすく、眠り込みやすいなら、この状況を変えるには、第一に食事を減らすことです。食べ過ぎないようにするか、食後に一定の消化時間が経ってから座禅をし、満腹のまま座禅をしないようにします。座禅で定を修める人は必ず少食でなければならず、一般に腹七分目で十分です。食べ過ぎると禅定に影響し、頭が昏沈しやすくなり、心が清明でなくなります。しかも少食は体にも良く、胃の負担を減らします。胃が常に働き動いていれば、絶えず摩擦が生じ、摩耗して損傷を受けやすく、体の他の部分も損耗することになります。だからやはり少食が良いのです。食事を少し減らしても体には影響がなく、逆に食べ過ぎは体に良くなく、体の臓器の負担が重くなり、内臓器官の消耗が速くなると、人は老いが早くなり、寿命もあまり長くはなりません。
第二に、昏沈しやすい時間帯を避けることです。毎日昏沈しやすい時間帯があるなら、その時には座禅をせず、時間を変えて座ります。第三に、座禅で昏沈した時、心が沈んで重いなら、観想を修めることができます。面白い境界、自分が非常に興味を持っている情景を観想し、心の積極性を呼び起こし、心を活発にさせます。この事に興味を持つと、すべての注意力がこの一つの事に集中されるので、気力が出て昏沈を克服でき、その後、元の修定の方法に従って修行を続けます。
昏沈するたびに、それはあなたの観慧が不足していることを示しています。その時は観想を修めるべきです。もし心が活発すぎて、心が止まらないなら、呼吸を調整する方法を使い、呼吸を下丹田に導きます。気息が丹田に到達した時、思惟はもはや活発でなくなり、妄想がなくなり、その時には入静も入定も比較的速くなります。これらの方法はいつでもどこでも呼び出して使うことができ、様々な症状が現れた時に、相応の方法を上手に用いて調整・対処すべきです。さらに、いつでもどこでも経験を総括することに注意し、経験が積み重なれば、調整・対処の方法が持てるようになり、修定に障害がなく、入定も比較的速くなります。
<h4 style="text-indent: 2em;">二、観想の時に妄念がますます増えるように感じるのはなぜか?</h4>妄念はもともと虚妄なものです。それに対処しようとすれば、対処する心そのものもまた虚妄であり、対処している時には心が清静 (praśama) でなくなります。さらに能対処の心を滅しようとすれば、また一層の虚妄が加わり、このように妄の上に妄が重なって、いつになったら終わるのでしょうか?
仏像を観想するのは、心の目標であり、正行です。ただ目標を見つめていればよく、目標以外のものを気にしてはいけません。北京へ行こうとしていたのに、途中の風景に魅了され、道端の風景を次々と鑑賞し続けていたら、いつ北京に到達できるでしょうか?禅定がない時、心は散乱しており、心が散乱しているがゆえに、自分の心が散乱していることに気づけません。一度心を少し引き戻し、少し静まってこそ、自分の心がもともと散乱して清静 (praśama) でないことに気づけるのです。発見があってこそ自分の心が覚悟したことを示し、自分に妄念があることに気づけなければ、その心は覚悟していないのです。妄念を発見できるのと発見できないのと、どちらが良いのでしょうか?
愚痴な人は、自分が愚痴であることを永遠に知りません。他人がその愚痴を指摘しても、認めるどころか、瞋心を起こして人に報復します。これはさらに愚痴ではないでしょうか?愚痴な人が一度覚悟すれば、自分がもともとこのように愚痴であったことに気づき、自分の愚痴を知ってこそ対処の方法を考え、賢くなることができるのです。もし人が自分の愚痴すら知らないなら、いつになったら少し賢くなれるのでしょうか?
人が自分の様々な悪さ、様々な過ちを認めようとしてこそ、覚醒した人であり、一度覚醒すれば徐々に自分の欠点と過ちを改め、初めて進歩し始めることができます。過ちすら認めないなら、どうしてその人が過ちを改めることを期待できるでしょうか?それなら、ただ過ちを抱えたまま、最後まで間違い続けるしかありません。
<h4 style="text-indent: 2em;">三、座禅の時に幻覚が出たらどうするか?</h4>一切の法は幻化で実のないものです。私たちが非常に真実だと感じる法でさえ幻化で実のないものなのです。まして座禅の時に現れる幻覚はなおさら幻化であり、幻の上に幻ですから、何かを対待し対処する必要はなく、無視すればよく、幻化の境界は自動的に消えて見えなくなり、幻覚もなくなります。
過去に、座禅で入定した人が、誰かが刀を持って自分を殺そうとするのを見て、その人を真実のものとみなし、自衛のために刀をその人に突き刺しました。出定してから自分の身に刀の痕があり、しかも出血しているのを発見し、それで自分が刺したのだと悟り、幻影に騙されたことを知って、非常に悔やみました。また、座禅で境界を真実とみなして境界に入り込み、その結果魔に入った人もいます。
座禅で定を修める中では、正しい理念を持つべきです。定の中にどんな境界や感覚が現れても、すべて幻化で真実でないものです。一律に取り合わなければ安全無事です。心の静かな人は、座禅の時に境界が現れにくく、心に思いと執着があってこそ境界が現れやすく、様々な幻化の覚受があるのです。普段から自分を訓練して相に着せず、境に着せず、心空で思いがなく、座禅の時に入定が速く、境界も現れないようにすべきです。
<h4 style="text-indent: 2em;">四、入定の時に外界に対する感知はあるか?</h4>定は多くの階層に分けられます。粗浅な定は欲界定で、心がやや平和になり、やや清浄 (viśuddha/pariśuddha) になり、雑念がやや減り、色身がやや軽霊になります。この定の中では依然として六識が六塵を了別でき、六識による六塵の感知と思惟があり、身口意行もあるので、人と接し物事に対応できます。欲界の未到地定 (anāgamya-samādhi) の中では、心が専一に思惟でき、無雑念をなし得て、心はより清浄になり、色身はより軽霊になり、六識による六塵の感知と思惟もあり、身口意行もあるので、人と接し物事に対応できます。
色界の初禅定の中では、心念はさらに清浄で専一になり、六識の中に鼻識と舌識がなくなり、残った眼・耳・身・意の四つの識が依然として四塵を了別でき、依然として四塵に対する感知と思想があります。この数種の定の中では、いずれも人と接し物事に対応でき、煩悩は軽微で、思惟は敏捷です。二禅以上の定では、人と接し物事に対応できません。五識がなくなり、体は動けず、色声香味触を了別できず、身行と口行ができないからです。
修行の中で禅定が現前すると、心の機能が開発・拡張され、色陰の障害が小さくなります。もともと目を閉じれば眼前は暗かったのが、今は目を閉じても眼前の光明が見えます。実際には、目が閉じていようがいまいが、眠っていようがいまいが、如来蔵 (tathāgatagarbha) は眼根を通じて色塵を伝導します。ただ識心の分別能力がどうであるか、色陰に遮障されているかどうかの問題です。眠っている時にも依然として外の色塵が絶えず勝義根 (indriya) に伝導されています。例えば朝、時々私たちは強い日光の刺激で目を覚ましますが、これは先に勝義根 (indriya) の中の色塵と法塵があり、後に眼識と意識が生まれ、それで目を覚ましたからです。座禅で定がある時、眼前は暗いのではなく、一定の光明があります。どんな光明で、どの程度明るいかは、禅定の深浅の程度によります。
<h4 style="text-indent: 2em;">五、どんな状況が邪定に属するか?</h4>問:正思惟のない定は邪定だと言えるのでしょうか?時々、ぼんやりして念頭が回らなくなり、思惟もできず、念仏 (buddhānusmṛti) もできない状況に遭遇することがありますが、このような状況は離れるべきですよね?
答:一般に、外道が修める定を邪定と呼びます。外道は入定した後、解脱の真理を思惟せず、定の中で心を起こさなければ解脱が得られると考え、定の中で解脱の智慧を生み出すことができません。だから、長期にわたって入定し思惟を起こさず、解脱の理を観行 (vipaśyanā-caryā) せず、参禅悟道しなければ、その定は正定ではありません。しかし短時間のうちに定の中で思惟がないことは邪定に属しません。思惟のない禅定は身心を調伏し、身心を滋養し、煩悩を降伏させることができ、その後にこそ禅定をうまく利用して仏法を思惟・観行 (vipaśyanā-caryā) でき、このようにしてこそ証果が速くなるからです。
禅定は非常に重要で、自心を澄浄にし、煩悩と性障 (kleśāvaraṇa) を降伏させ、心を法の上に定めて思量 (manasikāra/manana) させ、大智慧を生じさせることができます。定は多くの種類に分かれ、様々な階層上の転折もあります。現時点では、定が持てるだけでもすでに非常に貴重です。心が安定した後、機会を見つけて心を仏法を思惟できる定に転換すればそれでよく、枯定をあえて嫌ったり避けたりする必要はなく、枯定をうまく利用して身心を転変させ、さらに幻定の方式に変えればよいのです。一般の人は毎日十数時間の正思惟などできません。それは非常に心を疲れさせます。適度にぼんやりすることも、非常に心と身と精神を養うものです。
なぜ座禅の時に問題をはっきり考えられるようになりやすいのでしょうか?座禅の時には禅定があり、心が散乱せず、妄想せず、心念が専一になるからです。心が問題の思考に専注すると、意識の散乱した思惟から専一の思惟へ、さらに意根の思量 (manasikāra/manana) へと進み、意根が専心に思量 (manasikāra/manana) すれば、問題の根源を明らかにでき、そこから根源から問題を解決できるのです。
<h4 style="text-indent: 2em;">六、なぜ禅定が深くなるほど了別性が弱くなるのか?</h4>問:なぜ禅定がある時、識の種子の流注がますます少なくなり、識心の了別がますます弱くなるのでしょうか?了別することを誰が決めているのでしょうか?了別を減らすことと了別しないことを誰が決めているのでしょうか?
答:禅定の中では、意根が意識の牽引作用によって特定の境界上に束縛されるため、意根はもはやあちこちで他の塵境を攀縁しなくなり、こうして如来蔵 (tathāgatagarbha) は他の塵境の上に意識と五識を出生しなくなり、六識の識の種子の流注が減少します。意根が特定の法塵に対しても攀縁を減らすと、如来蔵 (tathāgatagarbha) が出力する六識の種子、あるいは意識の種子がますます少なくなり、こうして六識の了別はますます弱くなり、ついには滅して了別しなくなり、甚深の禅定が現れます。
禅定の中で、なぜ意根は了別を減らすことと了別しないことを決めるのでしょうか?なぜ禅定の中でなければ意根はこのように決めないのでしょうか?意根と禅定はどんな関係にあるのでしょうか?禅定は主に意根に対する拘束作用で、意根が受動的な少攀縁から能動的な少攀縁へと移り、塵境に対してますます興味を失うと、了別を減らすことと了別しないことを決め、六識の心の了別はますます弱くなり、最後には了別が停止します。このことから、塵境に対する了別は意根が掌握していることが分かります。意根の攀縁性を拘束し制御すれば禅定が現れ、それなら禅定は意根を定めるものなのです。もし禅定が六識だけを定め、意根を定めなければ、意根はあちこち攀縁し、あちこち了別し、その結果六識は意根に従ってあちこち了別し、強烈に造作して、禅定はまったくなくなります。意根が攀縁を減らし攀縁せずに静まってこそ禅定が現れ、内心は平穏安和になります。
<h4 style="text-indent: 2em;">七、観行 (vipaśyanā-caryā) のない禅定も修行に必要なもの</h4>問:座禅で出入息を観行 (vipaśyanā-caryā) して、後には観の念頭だけが存在し、観の対象である出入息がなくなり、入定はほぼ一時間でした。このような修め方で正しいのでしょうか?
答:能観は見分 (darśana-bhāga) であり、所観は相分 (nimitta) です。能観がある限り、所観があり、観の結果を自証分 (svasaṃvitti) と呼びます。心の中に観はあるのに呼吸がないなら、他の相分 (nimitta) が存在していることになります。独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) の観だけがあり、何を観たか分からないなら、これは意識に反観力 (pratyavekṣā-bala) がなくなったことを示し、入定したことを意味します。呼吸を観る目的は、心を摂するため、心を一処に定めるためであり、一つには定を得ること、二つには観慧を生じて法を証得することです。観の中に呼吸はなくても、観がうまくいき、心がよく定まっていれば、一定の目的には達しており、何も間違っていません。定力が十分になった時、心を呼吸を観ることに移し、呼吸を観続け、呼吸の生滅変異無常を証得し、我に非ず我のものに非ざることを証得すればよいのです。
どんな禅定であっても、外道の定であろうと内道の定であろうと、心を摂するを戒とし、ただ持ってきて使えばよく、心を摂した後、さらに定の中で仏法を観行 (vipaśyanā-caryā) すれば、いずれも非難されることではありません。佛陀が修めた四禅八定はまさに外道の定であり、その後四禅定の中で仏法を思惟し、阿耨多羅三藐三菩提を証得しました。外道と共通する四禅八定がなければ、諸仏は成仏できず、凡夫は菩提を証得して菩薩になることができません。黒猫でも白猫でも、鼠を捕まえれば良い猫です。
定を修めるのは観行 (vipaśyanā-caryā) の慧を持つためであり、観行 (vipaśyanā-caryā) の慧があれば仏法を証得でき、大智慧が生まれます。どんな定か、どう定めるかを気にする必要はなく、定まればそれでよく、凡夫の心があちこち攀縁するよりはましです。目標を定め、目標に向かって進めば、水路・陸路と旱路を気にする必要はなく、直路であればそれでよいのです。外道の色身と学仏人の色身は同じであり、学仏人の心と外道の学仏しない人の心は同じです。その心を降伏させるためなら、世俗の心理学や生理学も同様に学仏人に適用でき、心を調伏することが最も重要です。
定を修めるのは観行 (vipaśyanā-caryā) のためであり、観行 (vipaśyanā-caryā) は智慧を生むためです。智慧を生むことは一時間という時間にはこだわりません。もし無心定に一時間入ることができ、思惟はなくても、出定後、身心が爽快で、覚受が素晴らしく、一日中体が楽で、気分が爽やかで、煩悩が生じず、思惟が鋭敏で、反応が敏捷で、人や事への対応に智慧があり、修養と教養もあり、品性が向上するなら、何を躊躇うことがありましょうか?禅定はまさに身心世界を調伏し、人品と修養を高めるために用いるものであり、心を養い道を養うものです。何を躊躇うことがありましょうか?
<h4 style="text-indent: 2em;">八、なぜ観行 (vipaśyanā-caryā) の途中で引っかかってしまったように感じるのか?</h4>問:定が深まると呼吸は緩やかで短くなり、呼吸の間隔が長くなるのでしょうか?しかも最近、法義を観行 (vipaśyanā-caryā) し思惟する時、観行 (vipaśyanā-caryā) の途中で言語文字がなくそこで引っかかってしまい、前の思惟の内容と少し繋がらないように感じることがよくあります。
答:禅定がますます深くなると、意根は定があるため、身体への制御を緩め、呼吸もあまり制御せず、呼吸にあまり執着しなくなるので、呼吸はますます軽微で緩やかになり、呼吸の時間が長くなり、途中で止まったかのように見え、呼吸の間隔が短いと誤解します。呼吸が軽微なため、呼吸が途切れそうだと誤って感じるのですが、実際には呼吸の一口気に必要な時間が長くなり、非常に緩やかになったので、非常に遅く、非常に軽く、非常に深く感じるのです。途切れそうに感じる時、内心の緊張によって呼吸が速められ、それで呼吸が短いと感じるのです。四禅定の中でこそ呼吸を断つことができ、四禅の前には依然として呼吸があり、ただ途切れそうに感じられる可能性があり、途中の間隔が長くなります。この時、思惟も断たれようとし、思惟は非常に緩やかで、非常に疲れるように感じられ、脳の思惟が空になって初めて楽に感じられます。
定の中で思惟が深くなると、意根は何の法も攀縁したがらず、意識は非常に緩やかに運行し、意識が滅しようとするように感じられ、言語文字を持ちたくなくなり、余計で煩わしく疲れるように感じます。心行がますます緩やかになると、問題を考えたくなくなり、妄念も少なくなり、妄念があっても疲れます。意識が造作しなくなると、意根の作用が際立って現れます。意識の思惟が活発な時には、意根の作用は覆い隠されていたからです。禅定が深い時、意根の作用が際立ち、この時心の中に言語文字がないことに気づきます。しかし意識に言語文字がなければ、意根が出てきても言語文字はなく、意識が動かず少しだけ動く時、意根の作用は非常に際立ち明らかになります。神様の思量 (manasikāra/manana) の方式は意識の思惟とは異なるので、繋がらなかったように感じるのです。