禅定の修めと参禅証道(第一部)
世尊が娑婆世界に住世しておられた時、弟子たちに戒定慧三学の修学をしばしば教えられ、繰り返し繰り返し強調されたのは、戒によりて定を生じ、定によりて慧を生ずる、ということでした。戒定慧などの学びによって、心無漏に達することができます。持戒は心を無漏にすることができ、修定は心を無漏にすることができ、智慧の増長は心を無漏にすることができます。漏とは無明煩悩のことであり、心が無漏であれば、心解脱を得、慧解脱を得ることができ、果位は地地に増上し、戒定慧三無漏学が究竟円満した後は必ず成仏します。
戒定慧三学は開悟の前には、修行がある程度に至り、相応にある程度満足すれば、断我見あるいは明心の証悟ができます。さらにその後、戒定慧三学を増上修すれば、初地に入って心無漏に達することができます。さらに無漏の戒定慧を増上修すれば、地地に増上し、八地に至ります。さらに増上修すれば十地等覚に至り、さらに増上修して戒定慧を円満具足した後、成仏することができるのです。だから戒定慧三学および三無漏学は非常に重要であり、仏道成就の鍵となる要素です。菩薩六度の中にも、持戒・修定・般若智慧の三度が含まれており、持戒・修定を基礎の修学方法とし、般若智慧の具足に達することを最終の成果とします。
菩薩六度の中では定学の後にようやく慧学があり、仏は定によりて慧を生ずると説かれました。真の大智慧の獲得は必ず禅定の中の深細な思惟観行 (vipaśyanā-caryā) から引き出されたものであり、これは実証された智慧であって、情思意解から出た乾慧ではありません。初果の証得から成仏に至るまでの全過程がみなそうであり、どの中間段階にも禅定の支えがあり、どの智慧も禅定の結果なのです。
<h4 style="text-indent: 2em;">二、戒定慧が具足してこそ証悟できる</h4>仏は説かれました。戒によりて定を生じ、定によりて慧を生ずると。戒定慧は意識が具足することのみならず、意根も具足しなければなりません。意根が断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) の智慧、明心の智慧を持とうとするなら、やはり禅定がなければならず、禅定の中で無我の法を参究思量 (manasikāra/manana) し、真如仏性を参究思量してこそ、断我見と明心見性ができるのです。
もし意根が自ら参究思量できなければ、意識が神様に植えつけた道理を認可することができず、結局は意識の解悟にすぎません。そして意根が無我の理を参究思量しようとするなら、同様に禅定がなければならず、さもなければ神様は分心散乱してしまいます。もし意根に禅定がなければ、六識を引き連れて散乱させ、六識が散乱して絶えず了別し、いつも了別の内容を意根に報告しようとするので、意根は絶えず分心し、精力を集中して参究することができず、理想的な結果を参究することもできません。
どんな方法も禅定の代わりにはなりません。解悟の修行方法には必ず注意しなければなりません。世尊が教えられた方法に従って修行すれば、必ず間違いはありません。仏在世時のすべての弟子はみな坐禅して修定しており、そうすることで普段の行住坐臥においても心は常に定の中で仏法を思惟していました。唐宋の時代、明清以前、民国以前の修行人はみな坐禅修定を主としており、その後は行住坐臥の中でも禅定があり、心は常に定の中にあり、そうすることで心思は細密となり、破参の機縁が成熟しやすく、縁に触れれば即座に証しました。私たちが今振り返ってみると、彼らが仏法を証得したのはどれも容易に見えますが、彼らの基礎修行が相当にしっかりしており、善根福徳が具足し、三十七道品が具足し、もちろんその中に禅定も具足しており、思惟が伶俐で明晰であり、相応の何らかの法を聞けば、たちどころに証悟できたのだということを知らないのです。
すべての人の説法の中で、仏の説かれるものが最も円満で最も究竟であり、仏の智慧を超えられる人はいません。仏語を信じて絶対に間違いはありません。どんな時代であっても、仏法は永遠に変異せず、仏法は永遠にすべての時代に適用されます。仏経を多く読めば、智慧を増長することができ、無駄な道を歩むことがなく、人に欺かれることも容易ではありません。すべての菩薩の説法は、仏と比べれば欠漏や滲漏があり、円満で究竟でないところがあるので、私たちが仏法を修学するにはやはり仏経を主とすべきです。
<h4 style="text-indent: 2em;">三、戒定慧の実質</h4>修行の根本目的は、無明煩悩を断除して解脱を得ることであり、果位ばかりを見つめていてはなりません。果位は修行の副産物です。煩悩を降伏し、無明を除去することを目標とし、大智慧・無量の智慧を獲得することを目標とし、衆生を救度することを目標とすれば、この目標を立てることは純正で障礙がありません。目標が確立された後は、戒定慧三無漏学を修行しなければなりません。
戒定慧の実質は戒心・定心であり、心に智慧を生じさせることです。戒とは心の中の貪瞋痴慢疑を戒除し、煩悩を戒除し、我性を戒除し、遮障を戒除し、無明を戒除することであり、これが戒の根本的な働きです。無明と遮障を戒除し、心が非を起こさなければ、はじめて定があります。定とは心を定めて攀縁せず散乱せず、仏法を思惟観行 (vipaśyanā-caryā) してこそ深く徹底して力強く、仏法を証得し、智慧を出生することができるのです。慧とは心に正しく如理の仏理を薫習させることです。三者が具足すれば、真実の見地が出生し、それによって大智慧を発起して解脱と仏道成就を得、衆生を度脱する能力を持つのです。
<h4 style="text-indent: 2em;">四、戒は定の前提と基礎</h4>戒は定の前提であり基礎です。戒を守らずに定を修するのは、砂石を蒸して飯とするようなもので、飯の本ではなく、終に飯を得ることはできません。末法の時期には、戒を守る人はすでに非常に少なく、戒体を得た人もすでに非常に少なくなっています。人に戒を授ける人自身に戒体がないか、あるいは犯戒によって戒体を失っているため、他人はその人から戒体を得ることができないからです。戒体がなければ、犯戒の心に対する遮障と遮蔽の働きがなくなり、悪縁が現れた時に、容易に犯戒して悪業を造ってしまいます。
だから今の学仏の人で、禅定を成就できる人は非常に少なく、その観行 (vipaśyanā-caryā) の智慧はなおさら具備が難しいのです。大多数の人は書物を読んで法義を理解することしかできず、いくらかの知識を学んだ後、自分は何かを得て何かを証したと思い込み、慢心が高揚しますが、これは自分にも他人にも益がありません。禅定が観行 (vipaśyanā-caryā) の基礎と十分必要な条件としてなければ、実証はそもそも論じようがなく、三歳の子どものように口頭禅で遊び、大道理を講じて、八十歳まで講じても、やはり実行できず、心と口が一致しないのです。
<h4 style="text-indent: 2em;">五、戒定慧は環環相扣して欠くべからざるもの</h4>仏法修証の鍵となる部分は、仏が繰り返し繰り返し私たちに説かれた、戒定慧三無漏学です。戒学の面では必ず厳しく戒律を保持しなければならず、その後にこそ心が定まり、心が定まった後にこそ観行 (vipaśyanā-caryā) の智慧があり、観行 (vipaśyanā-caryā) が成熟すれば般若大智慧が出生します。般若大智慧があることは非常に重要で、解脱へと導くことができます。そして般若智慧の出生は深細な観行 (vipaśyanā-caryā) の智慧に依拠し、観行 (vipaśyanā-caryā) の智慧の獲得は禅定に頼り、禅定の生起は戒律に依存します。戒定慧三学は一環が一環を繋ぎ、どれも重要であり、どの環節も緊密に連なり、一つ欠けてもならず、省略したり捨てたりしてはならず、さもなければ実証ができません。
禅定が修出された後は、それを観行 (vipaśyanā-caryā) の智慧に転化することを学ばなければなりません。心念を転換することに長けていなければ、禅定は永遠に禅定であり、外道定と何ら変わりなく、般若智慧が出生せず、無我を証得できず、解脱して自在を得ることができません。多くの人が静坐に興味を持てないのは、心があまりに散乱して座っていられないからであり、やむを得ず動中定に頼らざるを得ないのです。しかし静の中の心は把握しにくく、動の中の心はなおさら把握が難しいのです。たとえ動中定がうまく修められたとしても、その定は静中定より浅く、心が粗く、思惟が細密でなく、観行 (vipaśyanā-caryā) の智慧も粗浅で、真に実証することができません。だから静中定は基礎であると同時に最後の帰依処でもあり、大智慧は必ず静中定から出生しなければならず、歴代の祖師・諸仏菩薩はみなそうでした。
静中定がうまく修められれば、思惟は敏鋭で深細になり、行住坐臥において心は常に定の中にあり、煩悩を降伏することができ、心境は軽やかで愉快になり、心念は自然に善念が多くなります。だから静中定は非常に重要であり、これは十方の諸仏菩薩・祖師大徳が伝え残した法宝であり、必ず大切にしてしっかり修持しなければなりません。
<h4 style="text-indent: 2em;">六、戒によりて定を生じ、定によりて慧を発す</h4>楞厳経第六巻で、仏は説かれました。阿难。汝常闻我毗奈耶中宣说修行三决定义。所谓摄心为戒。因戒生定。因定发慧。是则名为三无漏学。
毗奈耶は経律論三蔵の一つであり、仏の説かれた戒律であり、自心を調伏し身口意を調伏するという意味でもあり、身口意の作業を調和させることです。調伏の結果として、煩悩を降伏し断除することができ、心地無漏に達し、身口意がみな無漏で煩悩がなく、煩悩の習気がなく、無明がなく、畢竟成仏します。なぜ摂心を戒とするのでしょうか。どの心を摂めてこそ戒を成就できるのでしょうか。心が収摂されない時、身口意は妄動し乱動します。身は、やってはならないことをやらねばならず、行ってはならないところに行かねばならず、動いてはならない時に動かねばならず、ひどい場合には殺盗淫の業を造作し、禅定は成就できません。たとえ軽微な身体の乱行妄動であっても禅定を持つことはできません。身体が定まらないからです。禅定はあり得ません。
心が収摂されない時、口は妄説し乱説し、言ってはならないことも言い、言えないことも言い、ひどい場合には妄語・綺語・両舌となり、是非を搬弄し、五戒十善に違犯し、このように心が清浄でなければ、禅定はあり得ません。たとえ五戒十善に違犯しなくても、口が乱説すれば口行が多く、心は必ず乱想しており、心行が多く、心が寂止しないので、禅定はあり得ません。
心が収摂されない時、意業は必ず清浄でなくなります。考えてはならないことも考え、思ってはならないことも思い、覚ってはならないことも覚り、観じてはならないことも観じ、このように貪瞋痴の煩悩が必ず現前し、心水が濁って、どうして定があり得ましょうか。
考えてはならない人を、あえて考え、考えてはならない事を、あえて考え、掛けてはならない情をあえて掛ければ、心にどうして寂止があり得ましょうか。どんな人が考えてはならないのでしょうか。ある人は情が多く、内心で時々刻々、別の人の影像を心に掛けており、払い去っても去らず、呼べば即座に来り、消そうとしても消えず、このようにしてどうして禅定があり得ましょうか。坐禅の時、これらの影像は必ず自心を遮障し、観行 (vipaśyanā-caryā) 思惟を遮障し、寂静を遮止するので、どうして定があり得ましょうか。もしこれらの影像を仏菩薩の影像に換えることができれば、仏菩薩の加持により、心が清静 (praśama) となり、たちどころに禅定が生じます。
ある人は心を摂めず、自分に関係のない事、人を利する事でない事を、念念として心に置き、時々として忘れず、事事として心に掛け、心はぎっしりと満ちて隙間がなく、このように心水は洶涌澎湃し、鼓動喧鬧して、どうして定があり得ましょうか。心が収摂されず、時々刻々、財色名食睡を心に掛けており、六塵縁影が重重畳畳と重なり、心が空でなく、物が遮蓋していれば、どうして禅定があり得ましょうか。
多くの人が定の修め方が悪いと不満を言いますが、それなら自分を点検して、いったい何の原因で禅定がうまく修められないのか、心の中にいったい何が自分を遮障しているのかを、これらのものを掘り出して解決すれば、心が空になり、禅定は自然に修成しやすくなります。禅定に影響するのは、貪瞋痴の煩悩であり、心の中で世俗法を執取 (upādāna) して放捨しようとせず、何もかも真実とみなし、役に立つ物とみなし、掴まなければならず、死んでもこれらの世俗法を執取 (upādāna) しなければならないなら、どうして定があり得ましょうか。
このように説いた後でも、まだ多くの人が自分を点検できず、自分の心の中にいったい何があるのかを知りません。心が境界に随って流散することに慣れてしまい、境界にあまりにも密着して分かちがたいため、境界の外へ跳び出して自心を観察することができず、このようにしてどうして観察の智慧があり得ましょうか。どうして自心の煩悩と習気を観察できましょうか。輪の外へ、境界の外へ、心の外へ跳び出して自心を観察してこそ、観察の智慧があり、観照力があり、従前発見できなかった事相を発見することができ、はじめて自心を対治し、自心を転じさせる方法があり、自心を降伏する力を持つことができるのです。
今まず最初にすべきことは、心を境界の上から引き離して移すことであり、心は心、境は境、人は人、物は物とし、諸法はそれぞれ法位に住し、自らの心とは互いに無関係とすることです。心が境を離れ、覚照力が強大になれば、諸法実相を覚悟しやすく、禅定は自然に増長し、智慧は自然に現起します。
以上述べたのは戒によりて定を生ずる原理です。自心を収摂することが戒であり、心が非を起こさないことが戒であり、心が乱想・乱思・乱動・乱択・乱造作しないことが戒です。この心は主に第七識意根を指し、意根の触・作意・受・想・思が、六識の作意・触・受・想・思を引き起こし、六識の身口意行の散動を引き起こします。意根を収摂することは、身口意行の総スイッチを制御することに相当し、将軍と指揮官を降伏することに相当します。そうすれば配下の六識という兵士たちはおとなしく従い、素直に乱動しなくなり、禅定がないことを何の心配があろうか。
修学の最も重要な一点は、定によりて慧を発することです。発とは、生発引生という意味であり、佛陀は私たちに指示されました。心は禅定の定力により、心が定まれば力があり、この力が智慧を発起して生じさせることができると。ある種の力が芽を土の中から押し出すようなもので、押し出されることを生と呼び、発と呼びます。智慧とは禅定の力によって、心の中から押し出され、生発されたものであり、禅定がなければ心に力がなく、智慧を生長することができません。
佛陀が私たちに残された宝蔵は、戒定慧三無漏学です。もし私たちが戒を保持できず定を修できないという理由で、前の二つの宝蔵を捨て去り、この二つは役に立たないと言い、宝蔵一つで十分だと言うなら、私たちは敗家子ではないでしょうか。佛陀の伝家の宝を壊して顧みず捨てる私たちは、まだ佛陀の弟子でしょうか。佛陀の家宝を守護しなければ、私たちは佛陀の孝子賢孫ではありません。前の二つの宝蔵がなければ、最後の宝蔵はあり得ず、最後の一つがたとえあったとしても、それは偽物であり、真の智慧ではありません。
戒は、展開して言えば、言い尽くせません。定は、展開して言えば、これも言い尽くせません。慧は、展開して言えば、なおさら言い尽くせません。帰するところ、戒定慧は浮浅な六識心の戒定慧から、帰根究底の第七識意根の戒定慧に達してこそ、それが真の戒定慧です。真の戒定慧は心戒・心定・心慧であり、表面的な六識の身行と口行のみならず、意識の心行のみならず、第七識意根の心行の問題です。意根が収摂され、非を起こさず、乱動しなければ、必ず智慧が出生します。意根の戒定慧は一切法を統領し、最後には必ず意根の戒定慧によって究竟成仏するのです。
<h4 style="text-indent: 2em;">七、禅定はなぜ修めにくいのか</h4>過去、世尊が在世して法を説かれた時は、戒定慧の三方面から同時に着手され、比丘たちに厳しく戒を保持し、精進して定を修し、多聞して深く考え、勤めて観行 (vipaśyanā-caryā) を修することを求められました。弟子たちの戒定慧における成就は速く、証果した人が多くいました。しかし今の末法時代は大きく異なり、法を説くには逆に説かなければならず、まず法義を講じ、後に禅定を修し、最後に戒律を学ぶというように、少しずつ循循善誘します。衆生は逆に修しなければならず、山ほどの理論を学んでも禅定観行 (vipaśyanā-caryā) がなく、戒律が成就しないため禅定を生起できず、真の智慧も出生せず、学んだものはすべて単なる知識にすぎません。
戒律は先に講じることができず、大多数の衆生に対して戒律を厳しく要求することができません。衆生が戒を保持できないために、戒律の束縛を恐れて、仏法を学ばなくなったり、戒を受けたくなくなったりすることを恐れるのです。意根の野性は調伏し難く、時々良田の苗稼を踏み荒らします。もし戒律の鞭と縄で束縛すれば、牛の角が人を傷つけ、牛の蹄が良田を踏み荒らすことが恐れられます。戒律の鞭は、心性の調柔した良馬にのみ有効であり、良馬は鞭の影を見ただけで正路を駆け上がることができますが、劣馬はたとえ皮鞭が身に当たって皮開肉綻しても、知らず覚えずです。
私たちの多くは禅定が修めにくいと不満を言いますが、修めにくい原因は誰にも分からず、分析研究もしようとせず、禅定の発起を阻害する要素を知る人はおらず、ましてそれを対治し、自心を調伏する人はいません。多くの人が日常生活の中で、己の意に順い己の習に順うことに慣れてしまい、己の意も己の習も不善不正であり、修行人にあるべき習気と相応せず、隔たりがまだ大きいことを知りません。このように仏法を学んだ結果は、どれだけ長く修しても、戒律は成就せず、禅定は成就せず、智慧は成就せず、せいぜい乾慧があり、それを口頭禅として口の瘾を過ごすことはできますが、実際の修証はそもそも論じようがありません。もし知らず覚えずさらに悪業を造れば、果報は三途を免れず、一世を空しく過ごし、殊勝な仏法に一度空しく出会い、美餐は結局飢えと渇きを解決できず、依然として窮困に加えて潦倒したままです。
<h4 style="text-indent: 2em;">八、魚と漁の区別</h4>人に魚を授けるは人に漁を授けるに如かず。魚は何を表すのか。漁は何を表すのか。魚は果実であり、漁は果実を得る方法です。人に魚を授ければ、魚が尽きればそれで終わりですが、人に漁を授ければ、根本の技能を習得し、尽きることのない果実を得ることができ、未来の衣食は憂いがありません。
漁とは、戒定慧三無漏学であり、戒を保持することを通じて、定を修することを通じて、観行 (vipaśyanā-caryā) 参究を通じて、思惟を通じて、解脱の智慧を獲得することです。最初の慧は学慧であり、学習によって得た智慧であり、最後は得慧であり、観行 (vipaśyanā-caryā) 参究の後に開発された智慧であり、自分の心の窩から掏り出した智慧であり、自分だけの所有に属し、誰にも奪われることはありません。一方、学慧は、昏眛死亡の後には煙消雲散し、行方も知れなくなります。
前の戒の保持がなければ、中間の禅定はなく、禅定がなければ観行 (vipaśyanā-caryā) の智慧はなく、観行 (vipaśyanā-caryā) の智慧がなければ、智慧の魚を獲得することができません。