衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2026年08月11日 閲覧数: 1216
<h2 style="text-indent: 2em;">第九章 悟りに関する正しい知見</h2><h3 style="text-indent: 2em;">第一節 解悟と証悟の違い</h3><h4 style="text-indent: 2em;">一、戒定慧を具えて初めて証悟が可能となり解悟を避けられる</h4>

仏は説かれた:戒によって定が生じ、定によって慧が生ず。戒定慧は意識が具えるべきものだけでなく、末那識(意根)も具えなければならない。末那識が我見を断つ智慧や明心の智慧を持つためには、禅定も必要である。禅定の中で無我の法を参究思量し、真如仏性を参究思量してこそ、我見を断ち明心見性できるのである。

もし末那識が自ら参究思量できなければ、意識が教え込んだ道理を認めることができず、結局は意識による解悟に終わる。末那識が無我の理を参究思量するにも、同様に禅定が必要である。そうでなければ、末那識は散乱してしまう。末那識に禅定がなければ六識を散乱させ、六識が散乱すれば絶えず了別し、その内容を末那識に伝え続けるため、末那識は絶えず気が散り、集中して参究できず、理想的な結果を参究し得ない。

禅定に代わる方法はない。解悟の修行方法には細心の注意が必要である。世尊の教えに従って修行すれば、決して間違いはない。仏在世の弟子たちは皆、坐禅によって禅定を修めていた。こうして日常の行住坐臥においても心は定の中で仏法を思惟していた。唐宋の時代、明清以前、民国以前の修行者たちは主に坐禅修定を重んじ、その後は行住坐臥の中で禅定を得て、心を常に定中に保った。こうして心が細やかになり、破参の機縁が熟しやすく、縁に触れて即座に証悟したのである。今振り返ると彼らの悟りは容易に見えるが、実は彼らの基礎修行は非常に厚く、善根福徳を具え、三十七道品を具えていた。当然、その中には禅定も含まれており、思惟は鋭く明晰であった。相応する法を聞けば、即座に証悟できたのである。

あらゆる説法者の中で、仏の説法は最も円満で究竟である。仏の智慧を超える者はいない。仏の言葉を信じることに絶対の誤りはない。いかなる時代であろうと、仏法は永遠に変わらず、あらゆる時代に適用する。仏経を多く読めば智慧が増し、無駄な道を歩まず、人に欺かれにくくなる。全ての菩薩の説法は、仏と比べると欠漏があり、不円満不究竟な点がある。したがって、私たちが仏法を修学するには、やはり仏経を主とすべきである。

<h4 style="text-indent: 2em;">二、定力が不足している時は意解に留まる</h4>

菩薩道の修行において、禅定・福徳・智慧は全て重要であり、深く修行しなければならない。これには煩悩心性を調伏し、菩薩性を養い、大願を発し、広く衆生を利し、縁に随って初心の衆生を接引し、自ら度り他を度することを含み、漸く菩薩の条件を備えることができる。その中の禅定については、静坐中の定も縁に随って尽力して修めるべきである。これは定力を得る重要な途である。定力は非常に重要であり、定力があれば一切法を実証でき、一切法が幻の如く、陽炎の如く、夢幻の如くであることを切実に体悟できる。こうして初めて煩悩を真に調伏・滅除でき、大小乗の智慧証量を増進できる。定力が不十分な時は、仏性を参究できず、仏性を親証できない。たとえ仏性の内蘊を参究し得ても、定力不足のため自ら仏性を証得できない。

定力が不足している時は、仏法の多くを意識で理解するだけで真に証得できず、口先だけの修行となり、実際には何事も成し得ない。定がある時こそ、真実に仏法を証知し、一切法に対する切実な体悟が得られる。定が深ければ悟りも深く、感触も深くなり、心行に極めて大きな転変が生じる。定があるかないかでは大きな差がある。仏法を滔々と説く者がいても、内心には実証がなく真実の智慧がなく、言うことは全て学んだ言葉や意解に過ぎない。こうした状態では内心を変えるのは非常に困難で、煩悩は依然として重く、内心に解脱の功徳受用は得られない。

定があれば事情は異なる。多くの仏理を学ばずとも、仏法に触れ仔細に思惟すれば貫通し、触類傍通でき、自然と多くの体悟が生まれ、思想境界の転進も速い。定がなければ心は散乱し、深く細やかに仏法を観行できず、自らの智慧を遮障してしまう。したがって、悟る前も悟った後も、皆様には禅定をよく修めるようお勧めする。

<h4 style="text-indent: 2em;">三、如何にして親証し解悟を避けるか?</h4>

いわゆる親証とは、末那識が自ら証得することで、意識単独の推理や推測に依るものではない。いわゆる解悟とは、意識が如来蔵の某些の体性を理解し、如来蔵の大まかな機能作用を漠然と感じたり推測推理によって得たりして、自分は如来蔵を証得したと認めることに過ぎない。しかしこれは真の如来蔵証得ではなく、如来蔵の運作を現観して如来蔵が五陰に及ぼす機能作用を知るものではない。したがって如来蔵が実際に何処に現れ、真に如何なる機能作用を及ぼすかは分からず、ましてや如来蔵が如何に運作するかを現前に観察することはできず、身心世界に根本的な転変は生じない。よって証悟ではない。真に如来蔵を証得した者は、現前に如来蔵の運行を観察でき、如来蔵の体性・機能・作用を真に知り、如来蔵が如何にして五陰を現起するかを、掌中の物を観るように明らかに知るのである。

正教量とは、仏陀が教えられた全ての正真の理であり、これを聞いて初歩的な理解と信受に達することである。しかし証得していないため、心は真に了知しておらず、現前にこれらの法の正しさを実証できない。するとこれらの法は自らにとって現量ではなく、真に奉行し執持する方法もなく、実際に操作し運用できず、自らの思想や行為を真に変えることはできない。

仏の正教量を自らの現量とするには、この定中の参禅によって実際に如来蔵法を親証しなければならない。こうして自らの内心が深くこれらの法を認知し、内心に真の依り所と帰宿が生じ、それによって内心に大きな転変が起こる。これ以後、漸次に現前に如来蔵の運行を観察し、更に多く深い智慧を得て、仏陀の真理を自らの真の智慧認知とし、自らの見地とすることができるのである。

親証には、参禅・参話頭・参公案などの方法で親証する必要があり、これには未到地定を修め、相応する定力を具えた上で如来蔵を参究しなければ、証得の可能性がある。前提として福徳を具え、戒定慧を具え、心性が調柔で、忍辱柔和であり、大菩薩の心性に漸く相応し、賢人の心性に漸く相応してこそ、俗を脱し聖賢となることができる。

<h4 style="text-indent: 2em;">四、「照見五蘊皆空」における「照」の意味</h4>

「照」は鏡に影が現れる如く、鏡は末那識と意識であり、影は証悟された法である。鏡が動かず影が自ら現れることを「照」といい、末那識が動かず法が自ら現れることを「照」という。何故法が自ら心に現れ、意識が攀縁する必要がないのか? それは定慧が具わり、三昧力が強いため、法影が現れざるを得ないからである。未到地定または初禅定の中で、末那識が参究し、心開意解して如来蔵を証得し、現前に五蘊が全て如来蔵によって生じ、我ならず実有ならざることを観察し、五蘊皆空となる。この「照」の境界には禅定も智慧もあり、定慧等持である。これが証悟の甚深なる智慧の顕現である。定力が欠けた状態で、意識が心浮き足立つ情解思惟によって仏法を解悟するものではない。

この「照」の字は、心が非常に深く細やかであり、観慧が非常に強く、心が止まってこそ智慧が深くなることを示している。ここで「照」の字が用いられたのは非常に適切で正確であり、これが真実の用功の着手点であり、まさに世尊が説かれた「戒定慧の三無漏学を具えて初めて実修実証し、如実智を発す」ことに照応する。したがって必ず甚深なる禅定の中で参禅し、それによって如来蔵を証得し、真如の理を明悟するのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">五、知識は証量に等しからず</h4>

知識は証量に等しくない。現代人は通信が発達しているため仏法知識を容易に豊富に得られるが、福徳と禅定が不足しているため、学んだ知識を実際に証得できず、単に理論段階に留まり真実の受用がなく、無明煩悩や生死の問題を解決できない。昔の人は科学技術や通信が発達しておらず経を聞き法を聞くのは非常に困難であったが、心が清浄で禅定があり、当時は仏法が純正であったため、実証は容易であった。一旦仏法に遇えば少し観行するだけで証得でき、証量ある者は少なくなく、仏法の真実の受用を容易に得られた。

菩薩の修行の果位は、実際の証量を基準とし、知識の多寡で決まるものではない。必ず持つべき観行を一つも実際に観行していなければ、学識が豊富であっても、仏法に通達した菩薩と智慧を比べることはできない。証量がなく実際に証得していないからである。逆に、教養がほとんどなく仏法もあまり学んでいない者が、少し仏法に触れるだけで禅定の中で観行でき、これを基礎として更に多くの仏法を観行できれば、その証量は非常に優れており、学識豊富な者より智慧は深く、生々世々仏法上の利益を得ることができる。今、自分はすでに証果し明心したと言う者が多いが、実際には理論上の知識に過ぎず、実際に証得したものではない。煩悩は依然としてあり、身心に変化がなく受用がない。したがって末法時期においては、実修実証が非常に重要なのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">六、自性如来蔵を証得して初めて開悟となる</h4>

開悟は必ず自性如来蔵識を証得し、如来蔵を証悟の標的とし、現量で如来蔵が如何にして七つの識と配合して五陰活動を生じるかを観行でき、悟後に漸次に如来蔵が如何にして世間の万法を生じるかを観察できなければならない。悟った内容は六祖の説く五つの「何れも自性」に合致しなければならない。ある道理を理解しただけで開悟とはならず、それらの道理は書物に書かれ他人が常に議論しているもので、自ら自性を見出して悟ったものではないなら、悟りとは言えず、表面的な理解・推理・比量思惟に過ぎず、理解すらできない場合もある。

私たちは仏法に説かれる理論を直接自らの修証の結果として取り扱ってはならない。それは仏の智慧の結晶、仏の智慧の総括であり、私たち自身とは関係がない。仏語や祖師大徳の言葉を学ぶことは、自ら内心深くから感得し証悟したものでなければ開悟に属さない。真の修行者は、自ら既知の仏法理論を用いてこれらの仏法理論の真実性を再証得し、それによって自らの内心のものとし、自らの真実の智慧を生じさせなければならず、他人の修行の結論を直接自らの結論として取り、終日口にすることはできない。それは口頭禅であり、口頭禅には一点の実際の功徳受用もない。

<h4 style="text-indent: 2em;">七、六祖の頓悟と神秀の漸修の関係</h4>

唐代、南宗の門派は六祖を首として頓悟を主張した。六祖の有名な偈:菩提もと樹にあらず、明鏡また台にあらず、本来一物も無し、何れの処にか塵埃を惹かん。一方、北宗の門派は神秀を首として漸修を主張した。神秀の偈:身は是れ菩提の樹、心は明鏡の台の如し、時に時に勤めて拂拭し、塵埃を惹かしむること勿れ。六祖の偈は彼が未だ小乗の空の境界に留まっており大乗は悟っておらず、神秀の偈は彼が身心を修理する段階にあることを示している。当時の人々や後世の人々は多く六祖を称賛し神秀を貶したが、その中にそれぞれ道理があり、根基が異なり因縁が異なるため、修める法も同じであるべきでないことを知らなかった。両者は頓悟と漸修の関係にあり、強いて一致させるべきではない。

漸修と頓悟の関係について、私はかつて例を挙げた。大木を鋸で切るようなもので、大木が倒れる時が頓悟に喩えられ、大木が倒れる前の作業が漸修に喩えられる。漸修の後に初めて頓悟があり、頓悟の後も漸修が必要である。前の修めと後の修めでは修める法が異なり、悟後の修めと悟前の修めでは修める内容が明らかに異なる。神秀の説く漸修は頓悟前の漸修であり、基礎を築く段階にある。この漸修がなければ後の頓悟はない。六祖の「本来一物も無し」は未だ大乗の頓悟ではないが、彼の前世における修行の功績がすでに完了しており(いや何世も何劫も前から完成していた)、今世では内心がすでに空であり、身心を修理し「時に時に勤めて拂拭」する必要がなかったのである。

六祖の立場に立てば、六祖の根性は完全に直接空に向かうことができた。大乗の空には達していず禅宗の頓悟にも属さないが、六祖は畢竟空の能力を持っており、この境界は確かに神慧よりはるかに高く、すでに漸修の段階を過ぎており、因縁が到来すればいつでも頓悟の境地に至ることができた。一方、神秀は頓悟からはるかに遠く、彼は必ず漸修しなければならず、「時に時に勤めて拂拭」して心の汚れを除かなければ頓悟できず、小乗の空すら不可能であった。

どの場所にいるかによって相応しい言葉があり、どの段階にいるかによって修めるべき法がある。各人が置かれた境界が異なるため、修める法は同じであるはずがない。小学生には小学生が修める法があり、大学生には大学生が修める法がある。全ての人に大学の課程を学べとは要求できず、ほぼ全ての人が前段階の小学・中学を経なければならない。道は一歩一歩進むものであり、中間の過程を飛び越えることはできない。時間の長短は人によって異なるが、この過程は必ず必要であり、たとえ一瞬の過程であっても存在しなければならない。この全ての過程を終えて初めて、最後の頓悟の境界に至ることができる。これが六祖と神秀の頓悟と漸修の弁証法的関係である。

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