禅定の修めと参禅証道(第一部)
末法の時代、衆生は福が薄く、情報と科学技術が発達した時代にあって、競争は激しく、生活の圧力は大きく、心は繁雑に乱れ、心が清浄 (viśuddha/pariśuddha) ではなく、またじょう (samādhi) を修するための環境条件も具わっていない。さらに衆生は博聞強識を好み、心が浮ついて落ち着かないため、禅定はなかなか修行しにくく、定力が全般的に不足している。ところが禅定こそまさに仏法の修証の鍵となる要素であり、仏が強調された重要な三無漏学の一つであり、解脱の智慧を得る鍵である。定がなければ慧もない。それゆえ解脱を得ようとするなら、じょう (samādhi) を修することは差し迫った急務なのである。
いかにして禅定をよく修めるか、これは修行者の前に置かれた最も現実的な問題である。なぜなら禅定がなければ、仏法の修証はすべて語れないからである。戒・定・慧の三学は仏法の修行過程において同等に重要であり、どれ一つ欠くこともできない。定学が第二位に置かれているのは、定力が修行にとって極めて重要であり、極めて鍵となるものであることを示している。それは智慧の宝蔵を開く黄金の鍵であり、涅槃の彼岸へと通じる舟である。
現在、大部分の人の修行のボトルネックはいずれも禅定にある。禅定がうまく修められず、内心が散乱して清浄 (viśuddha/pariśuddha) でなく、煩悩を降伏できなければ、仏法を観行 (vipaśyanā-caryā) する際に力が及ばず、実証できない。世尊は『坐禅三昧法門経』の中で弟子たちに教えてこう言われた。内心が散乱して禅定が現前しない原因は、貪・瞋・癡の煩悩の遮障があるためであり、内に多くの繋念と懸念があって、心が静止しにくいのだと。仏は弟子たちに、禅定を修する前に智慧をもって様々な覚観 (vitarka-vicāra) を除き、散乱した思惟 (manasikāra/manana) を除き、智慧をもってこれらの煩悩を観照し、それから禅定を生起させ、続いて煩悩を降伏し、煩悩を断除するようにと教えられた。
現在、仏法を学ぶ人に普遍的に見られる現象は、じょう (samādhi) を修する条件も福徳も不足しているため、定力がなかなか修め出せないことである。表面上は、多くの人の物質的な生活水準は確かに向上したが、出世間法である仏法に用いることのできる福徳は非常に不足している。禅定がうまく修められず、内心が空浄でない人は、自分の内心が欲界の財・色・名・食・睡で満たされていないか、欲界の様々な人事物理に貪着していないか、欲界の法に対して深い執念を抱いていないかを、常に点検し、自分の内心を反観力 (pratyavekṣā-bala) しなければならない。これらの貪着はいずれもじょう (samādhi) を修することを妨げる根本因である。この病根を見つけたら、取り除く方法を講じ、禅定をしっかり修めるようにしなければならない。
もし人が美食を好み、快適さを好み、享受を好み、賛美を好み、欲界の人間の法にすべて貪着し、人間の一切の事物をすべて思い懸念し重んじるならば、禅定は修め出すことは不可能である。人生を追求すればするほど、人生に対して希望と興味を持てば持つほど、禅定はますます得がたくなる。なぜなら物が心を塞げば、心の負担は重くなり、空静になることができず、軽安を得ることができないからである。これらの貪執を降伏し軽減することができれば、禅定はたちまち現れることができる。
もし五陰 (pañca-skandha) 世間に対して厭離の心を生起させ、欲界の人間の生活に対して少欲あるいは無欲であれば、欲界定が初めて現れる。欲界天人の五陰 (pañca-skandha) の生活環境を厭離してこそ、色界定が初めて現れる。もし世間の一切の法に対して常に希求があり、心が常に境に趣くならば、より殊勝でより勝妙なものを受け入れることは難しい。それゆえ内心の様々な欲望と貪求から脱却し、少欲知足であることが必要であり、そうすれば心は必ず清浄 (viśuddha/pariśuddha) に落ち着き、禅定は必ず現れるであろう。