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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2025年12月04日 閲覧数: 13134
<h2 style="text-indent: 2em;">第八章 いかにして禅を参じ話頭を参ずるか</h2><h3 style="text-indent: 2em;">第一節 話頭を参ずる方法</h3><h4 style="text-indent: 2em;">一、話頭を参ずるとは何か</h4>

いわゆる話頭とは、一言語の前頭のことである。その言葉がどれほど長くても、心はその言葉の最初の一字の前頭に住しなければならない。最初の一字もその後の字も、心の中から出てこさせてはならない。一字でも出てくれば、それはもはや話の前頭ではない。

話頭には多くのものがあり、いずれも疑情を生起させてくれる。たとえば、禅を参ずる者は誰か。念仏 (buddhānusmṛti) する者は誰か。死屍を引きずる者は誰か。万法帰一、一は何処に帰す。狗子に仏性有りや無しや。――無。風吹けば樹揺れる。風来たりて浪涌く。(風・樹・浪はいずれも比喩であり、真我と仮我を比喩したものである。)菩薩は足を挙げ足を下ろすとも、すべて道場より来たる。(道場とは何か。)何事においても疑問を起こし、誰かと問うべきである。この疑情が生起してこそ、心を起こして参究でき、最終的に疑情を解決でき、それによって明心証悟することができる。

たとえば、食事をするときは食事する者は誰かと疑い、歩くときは歩く者は誰かと疑い、字を書くときは字を書く者は誰かと疑い、話すときは誰が話しているのかと疑う。一切時において一切の事に対して問号を打ち、もともとこうであると思ってはならない。もしもともとこうであるなら、なぜもともとああではないのか。死人はなぜもともとこうではないのか。植物や鉱物はなぜもともとこうではないのか。もともとこうであるのか。楞厳経の中で仏は、一切法はもとより因縁に非ず、自然性に非ずと説かれた。仏はもともとこうであるという自然性を否定され、結論はいずれも如来蔵性である。そうであれば、われわれは一切法に対して疑を起こすことができる。もともとこうであるのではなく、奥義があるのである。奥義とは何か。これは禅を参ずることによって解決し、禅を参ずることによって合理的な結論を導き出さなければならない。

<h4 style="text-indent: 2em;">二、いかに話頭を参ずるか</h4>

まず一言語を選定する。この言葉はあまり長くなく、最も親切に感じられ、最も疑情が起きやすく、最も直接的で、意味も比較的明瞭なもの。たとえば、死屍を引きずる者は誰か。選定した後、この言葉の表面の意味をはっきりと明瞭に理解し、この意味を一点に凝縮して脳裏に懸け、頭の中に常にこの言葉の意味が顕現するようにし、時時提撕して文字言語が現れないようにしなければならない。心の中でこの言葉を念じているのではなく、まして言葉の内包を琢磨分析するのでもない。話頭を参ずるのに最も忌むべきは琢磨分析である。分析研究の最善の結果は解悟であるが、しかし智慧は何も生起せず、絶対に証悟できない。定力が不足し、思惟が細くなく深くなく究竟でないため、真実の受用を得られないからである。解悟とは真心の大体の作用を理解し明白にすることであって、真心を証得したりどれが真心かを見出したりしたのではなく、真心が具体的にどこでどのような作用を起こすのか、いかにして万法を生じさせ五陰 (pañca-skandha) を生じさせるのかが分からず、心にも解脱の真実の受用がない。

話頭を参ずる。死屍を引きずる者は誰か。この問いを、言語文字の形象のない念頭として心に懸け、この話頭の含意を心頭に懸ける。内心でこの言葉を音声として誦してはならず、この言葉の言語文字があってもならない。そうであれば定がないか定が浅い表れであり、定が浅ければ話頭を参究できない。心の中に問答があるときは、覚知心・意識の膚浅な問答であり、その定は浅く、分析の成分が多く、解悟はできても証悟は難しい。もし解悟であれば、得られるものはすべて知見推理の智慧であり、この種の智慧は非常に膚浅で、その後の修行は非常に困難になる。真の悟りは、心眼をもって深細な運作の中にある如来蔵 (tathāgatagarbha) の行相を照見することであり、そこから生じる智慧は般若 (prajñā) の智慧であって、解悟の智慧とは同日に語できない。

定力が非常に深いとき、意識心は非常に深細になり、心思は細緻で綿密になり、智慧が生起し、意根の思量 (manasikāra/manana) と配合して第八識および五陰一切法の来龍去脈を見出すことができる。一言語を参ずるには、この言葉の意味を一团あるいは一点に凝縮し、それからこの言葉の意味を脳裏に懸け、同時に問号を画くべきである。死屍を引きずる者は誰か、は阿弥陀仏の四字と同じであり、念仏の定がよく修まれば、自然に話頭を参ずるへと転じることができ、両者の功夫の境地は同じで、ただ文字の内包が異なるだけである。まず話頭を見て、見慣れた後、改めて話頭を参究する。

<h4 style="text-indent: 2em;">三、提撕とは何か</h4>

提撕とは、心に常にこの言葉の含意を保持し、心を話頭に住させ、その他の雑事を思わないことである。失ったらまた提起し、妄想したらまた転じて戻る。眼で色を見るとき、注意は色に在らず、心中にはなお話頭が明らかに存在する。六根が六塵に対するとき、注意はいずれも六塵に在らず、いずれも話頭に在る。初期の参究では、この状態に入るのは難しく、心にはどうしても文字言語を念じ出してしまう。自分を訓練して、まず最初の一字を念じ、後の字は念じ出さないようにし、それから一言語全体の意味を脳裏に懸ける。ひとたび散乱したら、また最初の一字を提起する。熟練した後、最初の一字も取り去り、もはや念じる必要はなく、心に常にこの言葉の意味があるだけでよい。

これはどのような心理状態か。一つの比喩を言おう。たとえば、ある人のダイヤの指輪が紛失して見当たらなくなり、心は非常に焦り、箱をひっくり返し押入れをあさって至る所探したが、部屋中探し尽くしても見つからなかった。このとき彼女はすでに非常に疲れていたので、いっそ座って休むことにし、頭脳(意識)も疲れて、指輪が一体どこにあるのかをこれ以上考えるすべがなかった。こうして身心ともに休息したが、休息していながらも、彼女はこのことを忘れておらず、心の中(意根)にはなおこのことが懸かっており、ただ指輪がどこにあるかを思考していないだけである。この(意根の思量の)状態こそが話頭を参ずる状態である。

もし彼女がそれほど疲れておらず、心がなお清明であれば、しばらく座って休んだ後、突然思い出す可能性がある。ああ、指輪はあそこにあった、一時の糊口で忘れていたのだと。彼女は思い出したので探しに行き、果たしてその場所で見つけた。真如を探すのもこのように探すのであり、意識を使って分析・研究・帰納・推理・判断してはならない。これらはすべて必要ない。ただ話頭を心に帯び、心に疑情があり、深く懸け、意根を繋ぎ止め、意根の力を動用すれば、時節因縁が具足したとき破参でき、真如如来蔵を証得できる。

もう一つ比喩を打とう。文化大革命のとき、鄧小平は軟禁された。彼はある農村の庭にいて、毎日夕食の後、庭の中を散歩し、復帰という大事を思考していた。彼は庭の中を歩きに歩き、長い時間歩いて、心は次第に定まり、もはや問題を思考できなくなった。しかし問題はなお脳裏に懸かっており、消失せず、意根を動かして、深くこの問題に縁じて放さない。この状態こそ禅を参ずる状態であり、ある時期に達すれば彼の問題を解決できる。禅を参じ話頭を参ずるもまたまたしかりである。諸君はよく体会して、日々このように経行・散歩し、話頭を一つ参じて試みても差し支えない。

話頭は宋代以後に現れたものである。宋代以前の人は心地が比較的純粋で、雑思妄想がなく、禅を参じても入道しやすかった。宋代以後の人は心が乱れ、根性 (indriya) が鈍り、妄想も多くなった。禅師たちはこの散乱した心を統摂するために、話頭を参ずるという方法を用いざるを得ず、禅を参ずる人の心思が集中しやすいようにしたのである。心念力が集中すれば定力がよくなり、定力がよくなってこそ破参でき、禅という大事を解決できる。それゆえ、われわれが日頃修行するときは、できるだけ人や事に接触することを少なくし、心の中でできるだけ世俗の事を放下するか脇に置き、やり終えた事はすでに処理し終えた以上はもはや掛念せず、自分の心を時時刻刻清浄 (viśuddha/pariśuddha) に保ち、このような心態で仏理を思惟し禅を参じれば、入道は速い。

<h4 style="text-indent: 2em;">四、話頭を念ずること、話頭を見ること、話頭を参ずることの区別</h4>

話頭を見ることは定力を修することであり、心を一言語の前頭に住させ、文字言語を現させないことである。定力が不足しているときは、文字言語がみな出てきて、心の中で音声が絶えない。これが話頭を念ずることである。それゆえ、定力がなければこそ、心の中で一言語を反復繰り返すのであり、定力があれば、心の中の音声と文字相はみな消失しなければならない。

話頭を見る定力が十分であるとき、意根が参与して、はじめて真に話頭を参ずることができ、この言葉の意味を参究でき、文字言語はほとんど現れず、意識のみの情思意解というわけにはいかず、こうしてこそ真に証悟でき、解悟ではない。定力の不足した人は、悟ろうとすれば解悟しかできない。話頭とは真如を指し示す一言語であり、話の中に秘密を含み、人に疑情を生起させることができ、疑った後に参究すれば、その中の秘密を解き明かすことができ、それによって迷を破り悟を開くことができる。いわゆる話頭とは、心をこの言葉の前頭に住させることであり、この言葉は一字も心の中に現れてはならないが、しかし心頭には一言語全体の意味が懸かって惦念しており、意根は参究というこの事を自分が必ず解決すべき問題として、捨てようとは思わず、暗中で意識とともに用心し、水到りて渠成るとき、秘密を解き明かすことができる。公案を参ずるか話頭を参ずるかは、各人の習慣と好みによって定め、いずれも人に迷を破らせ悟を開かせることができる。

禅を参ずることは謎解きではない。まず深厚な仏法基礎理論の素地がなければならず、禅を参ずるのは何のためか、参ずる内容と標的は何か、いかに参ずるか、どこから着手するかを知り、理論的基礎を固め、定力も具足して、はじめて話頭あるいは公案を参ずることができる。公案を参ずるときは、何を公案と言うのか、公案の内容と標的は何か、公案はわれわれに何を指示したのか、何を得させることができるのかを知らなければならない。さらに公案のキーポイントがどこにあるのか、公案はなぜこのようであるのか、さらに何を説明しているのかを知らなければならない。われわれの定力・福徳・因縁がみな具足したとき、参究する内容に対して疑情を生起させることができ、疑い疑って、ひとたび水到りて渠成れば、真心第八識を悟得でき、これが開悟である。

話頭を見ることは定力を修することであり、話頭を参ずることは話頭の内包を参究することである。定力が具足してこそ疑情が生起でき、疑情があってこそ参究でき、参究した後、疑情を解決して参究の標的――如来蔵を証得できる。これが開悟であり、そのとき話頭の中に含蔵されていた一切の秘密がすべて分かる。話頭を参ずるか公案を参ずるかどちらが適切かは、人によって異なる。一般に、公案は内容が多く、指示する方向が比較的明瞭で、方法は簡潔明快で、思路が比較的活発で、着手しやすい。

話頭あるいは公案を参ずるには、自分が興味を持ち、疑情が比較的重く、切入点多あるように思われるものを選んで参ずるほうが速い。その前に、自分の菩薩六度修行の程度を点検し、菩薩の条件が具足しているかどうかを確かめ、それからできるだけ六度の条件を完善しなければならない。六度がまだ修まっていないうちは、しばらく焦って禅を参じないこと。修行は一つ一つの階梯を上がって進むものであり、一歩一歩着実に基礎を固めなければならない。基礎が堅固であれば、その後の修行は順水に舟を推すように順調で、阻碍がない。

<h4 style="text-indent: 2em;">五、いかに憶仏から話頭を見ることへ転じるか</h4>

憶仏と話頭を見ること、両者の功夫には相同じく相似たところがある。いわゆる憶仏とは、心に仏を想う念頭が存在することであり、一つの知念である。話頭を見ることもまた心中に話頭の思いが存在し、一つの知念である。両者の心理状態は同じであるから、憶仏から話頭を見ることへ転じることができる。

具体的な方法は、憶仏の念頭が非常に明晰で、定力がよいとき、心が時刻に仏を憶念し想うことができ、念頭も絶えないなら、心中に憶念する阿弥陀仏の四字を、一言語に改める。たとえば、死屍を引きずる者は誰か。この功夫と憶仏想仏の心理状態は相似ており、ただ文字が二字多く、内包が変わり、さらに一つの問号が増え、内心の疑情が増しただけである。憶仏から話頭を見ることへ転じるには、一段時間の練習が必要である。話頭が明晰でなくなったり断絶したりしたら、最初の一字を提起し、以後の字は出てこさせず、このとき一言語全体の意味を心中に懸け、熟練した後、さらに最初の一字も取り去る。反復繰り返し練習し、話頭を見る功夫が憶仏の功夫と同じく綿密に失われなくなるまで続ける。

このとき心念はこの言葉の前頭に住し、この言葉の意味は心中に懸かっており、行住坐臥、何をしていようと、心はこの言葉を帯びている。同時にこの言葉に対して疑情を生起させ、誰かと疑い、一体誰なのか。この疑情を軽く帯び、疑情が連続不断で、非常に濃くなったら、心を起こしてこの言葉を参究し、この言葉の奥義を探求できる。残りは時節因縁を待って、この誰かを見出すだけである。さらにこの誰を、経論に照らして検験し、経中の聖教量に符合するかどうかを見る。その後、いくつかの般若経典が読めるようになり、粗浅な公案もいくらか読めるようになって、はじめて自分が確かに明心したと確認できる。一般に、自分で認証することは勧められない。自分では往々にして誤会し、意識が解した境界か意根が証した三昧 (samādhi) 境界かを区別できないからである。今は善知識が検験を助けてくれるのに事欠かない。善知識の検験があれば、さらに自分の智慧の水準を高めることもできる。

憶仏念仏と話頭を見るとき、いかにして念をこの言葉の前頭に置くのか。憶仏の状態とは心に仏を想うことであり、この仏を想う念がずっと心中に絶えない。一言語の意味は憶仏の思いに相当し、この言葉の意味を一点として心に懸け、文字相と言語音声相を出させないことである。これらの相があれば、内心はなお粗く、定力が十分でなく、話頭を参究できず、破参明心もできない。この言葉の中の一字も心の中に出てこさせてはならず、心念はこの言葉の前頭に在り、これを話頭と名づける。心中有仏と心中にこの言葉の意味があるとは含意が同じであり、こうすれば阿弥陀仏の四字を、死屍を引きずる者は誰かに換え、仏を想う思いを一言語の含意に換え、しっかりと意根を繋ぎ止めれば、この定力で禅を参じるに十分である。

<h4 style="text-indent: 2em;">六、念仏の方法を用いて話頭を参ずることへ転じる</h4>

われわれが学仏する目的は明心見性することであり、明心見性するには、禅を参じ、話頭を参じ、公案を参じなければならない。そして禅を参じるには欲界の未到地定 (anāgamya-samādhi) を具足しなければならず、この定があってこそ、行住坐臥の中で一つの話頭を参究でき、破参の目的に達することができる。話頭を参ずる以上、心中は空であってはならず、定境に入ってはならない。定境の中では、心は空であり、法理を思惟できず、破参明心見性の目的に達することができない。行住坐臥ともに禅を参ずることは、活動中の定であり、定境に入ることは静中の定である。定境に入っては禅を参じられず、静中の定の中でも、禅を参ずる念頭がなければならず、話頭も参じなければならない。さもなければ禅を参ずるのに大きな用がない。

未到地定が具足しなければ、心はしばしば散乱し、心思が集中せず、話頭を参究できない。過去の禅を参ずる人は、二六時中、心中に常に一つの話頭を抱いて放さず、話頭が落ちたらまた拾い上げ、内心の功夫は綿綿密密で、散乱せず、また沈没もしない。沈没とは昏沈のこと、あるいは思いがなくなることである。彼らは山に登るのも田に下るのも、火を焚いて飯を炊くのも、禅を参ずることを離れず、話頭を参ずることを離れなかった。

われわれも今、動中の定を練習すべきであり、話頭を参じられないときは念仏する。阿弥陀仏の四字をもって話頭に代え、熟練し、定が具足し、慧もあれば、話頭を参ずることに改めることができる。たとえば、死屍を引きずる者は誰か。念仏する者は誰か。話頭とは一言語の前頭、最初の一字の前頭であり、一字でも出てきたり一言語全体が念じ出されたりすれば、それは話の尾である。

念仏の方法で練習するとき、最も重要な点は、阿弥陀仏の四字を一切出させず、しかも心中になお仏があり、念仏の状態の中にいることである。この念は口で念じる念ではなく、心中に念仏する継続状態である。この状態はこう体会できる。われわれが普段仏七を打つとき、口で念じて疲れると、それは定があるということなので、心念に改める。心念に定があるとき、心中でももはや念じ出せなくなる。これは一種の念仏定の中にいるのであり、粗浅な念仏三昧である。この定の中では、心中は仏号を念じ出せないが、散乱もなく、昏沈もなく、心中にはなお仏があり、空に落ちてはおらず、仏を念じ仏を想う境界と状態であり、心中が空っぽで何もない状態とは全く異なる。

それなら、この念仏三昧を直接持ってきて練習することができる。いかに練習するか。阿弥陀仏の四字を二つの部分に分ける。阿弥と陀仏である。阿弥と念じ終わって、さらに陀仏と念じ、慣れた後、阿弥と念じ終わって、立ち止まり、まず陀仏を念じず、このときの心中の状態を細心に体会する。陀仏が出てくるのを待っているのではないか。必ずそうである。陀仏と念じ終わって、阿弥を念じず、心中では阿弥の二字が出てくるのを待っている。このとき心中は空でなく、一種の念仏の継続状態であり、仏を想う状態の中にいる。さらにこの状態を延長し、散乱するまで続け、また阿弥の二字を提起する。心中で仏を想い、散乱したらまた提起し、散乱しないときは常にこの仏を想う状態の中にいる。これは一種の念仏定である。

功夫が延長でき綿密になったら、阿弥陀仏の四字を一つの話頭に改めることができる。たとえば、死屍を引きずる者は誰か。心中に常にこの言葉の意味が懸かっており、一字も出させない。散乱したら、単独に「死」の一字を提起すればよい。心中には一言語全体の意味がなければならない。さらに熟練したら参究でき、参究が通れば明心する。これは大体の禅参の枠組みであり、細部は自分で練習し体会するしかない。もし修定するなら、心中に思いがなく、定に入って話頭もなく思惟もなければ、参究できず、明心開悟もできない。

<h4 style="text-indent: 2em;">七、禅を参ずることと修定することの区別</h4>

開悟して明心見性しようと思うなら、禅を参じ、話頭を参じ、公案を参じる方法によってこそ如来蔵を証得し、真如心第八識を明らかにすることができる。いわゆる参とは、意識・意根をもって真如の理を参究し、第八識の所在を尋ね求めることである。参究である以上、この意識心は当然清醒で、智慧があり明理でなければならず、糊塗で昏沈であってはならず、まして定の中で消失して見えなくなってはならない。理智のある意識こそ第八識を参究でき、意識がなければ、あるいは意識が昏沈すれば、参究も尋ね求めることもできず、その結果は何一つ知るところとなり、明心悟道の目的に達することができない。

ちょうどわれわれがある人を探すとき、必ず尋ね求める心がなければならず、しかもどこへ探しに行くか、いかに探すかを知らなければならない。どこへ探しに行くかと探す方法を知らず、その人がどんな人かも知らず、その人の写真もなければ、どうしてもその人を見つけることはできない。禅を参じて第八識真如を尋ね求めるのも同様であり、われわれはあらかじめ第八識の体性を知らなければならない。そうすれば第八識の写真を持つのと同じである。第八識の写真を持つだけではまだ十分でなく、いかに探すかを知らなければならず、神様は一般にどこに現れるのか、これらが分からなければ、大海に針を捞むように、徒労にして獲なしとなる。

そうであれば、数息の方法では開悟できず、参究の心念がないからである。念頭に注意を注ぐ方法でも開悟できず、第八識を尋ね求める心念がないからである。打坐入定の方法でも開悟できず、定中の意識は何一つ知るところがなく、第八識と相応できないからである。これらはみな修定の方法であって、禅を参ずる方法ではない。数息するときは注意力が数字の上にあり、第八識を参究尋ね求めることの上にないので、第八識は見つからないのは必定であり、しかも数息の時間が長くなると、昏沈あるいは入定しやすく、なおさら第八識を見つけられない。念頭に注意を注ぐと、意識心の注意力は念頭の上にあり、真如を参究尋ね求めないので、悟ることもできない。打坐して定に入ると、覚も知もなく、参究尋ね求める心がなく、それではいかなる真理も発見できず、真如第八識を見つけることもできない。

以上の修定の方法は、いずれも禅を参じて証悟するのに用いることはできず、方向が明らかでなく、方法も正しくなく、心思を誤って用いれば、結果は想像に難くなく、何一つ得るところがないだろう。このように続ければ、一段時間修行した後に信心を失いやすく、退道は免れない。修行の過程では明理が最も重要であり、智慧があり正知見があることが最も重要であり、盲修瞎練してはならない。学仏の人は、しばしば自分の修行方法・路線が正しいかどうか、目標に達することができるかどうかを探究すべきである。もし達することができないなら、随時に自分の修行方向を調整し、細心に自分に適した方法を選ばなければならない。修定には修定の方法を用い、開悟にも禅を参ずる方法を用いなければならない。何が禅であるか、いかに参ずるか、いつから参じ始めるかなどを明らかにする。この一連の問題をすべてはっきりさせ、さらに自分の禅を参ずる条件が具足しているかどうかを観察し、各種の必備の条件を努力して完善した後、はじめて禅を参じ始めることができる。

<h4 style="text-indent: 2em;">八、開悟の時は無念の時ではない</h4>

しばしば人からこう聞く。妄念頓に歇すれば、歇する即ち是れ菩提であると。意味は、妄念が歇めば、妄念のないときの心が菩提であり、このとき菩提が現れ、これが明心であり、開悟であるという。ここでの意味は、菩提は有生の法であることを表明している。妄念が歇んでこそ菩提が出生し、有生ならば滅もあり、妄念が滅すれば菩提もそれに従って滅する。しかし菩提はもとより生滅せず、妄念の有無にかかわらず、菩提は分秒刹那に運作しており、妄念の影響を受けない。ただ念頭が清浄なとき、智慧をもって菩提を観察することができ、観察した後は、いかなる時にも菩提の運行を観察することができ、観察の智慧は永遠に失われない。

実際には、開悟の一刹那こそ、まさに念頭が動転しているときであり、念頭が止息しているときではない。このときちょうど五陰の活動の中にある如来蔵を識得し、突然に現量で如来蔵と五陰身が和合運作する関係を観察したのであり、このときもまたまさに念頭が運転しているときであり、根本的に念頭を歇めることはできない。考えてみよ、われわれが茫茫たる人海の中で久しく別れていた親族を見つけたとき、このときこそ親を認めるときであり、念頭を働かせて辨認観察しているときであり、このときは必ず念頭を歇めることはできず、心中に事があってはならず、内心の奥底には必ず喜びがあり、観察と辨别の思想活動があり、情緒は起伏波動していて、事がないかのように平静で心中に念がないというわけにはいかず、絶対に心を歇め念頭を息めることはできない。その後になってこそ、心意はすでに足り、他に思うことはなくなる。

開悟の時もまたしかりである。念頭は根本的に停止できず、思惟は非常に深細で、如来蔵に対する辨别・確認・観察など、種々の思想活動がみな現れ、内心の喜びは抑えきれない。もし開悟の時、念頭が停止でき、内心に思想活動がなければ、智慧はいかにして出生するのか。六祖はいかにして開悟の時に五つの何期自性 (svabhāva) を明らかにできたのか。いかにして五つの何期自性を説き出せたのか。もし念頭がなければ、如来蔵を観察できず、如来蔵の運作についても何一つ知るところがないなら、開悟にいかなる功徳利益があるのか。禅定と何の区別があるのか。禅定を修めば無念でき、心を歇め、念頭を止息できる。わざわざ禅を参じて開悟する必要があろうか。

開悟したことのない人は、種々の想像、情思意解で、開悟の時とは無念頭・無妄想の状態であり、何一つ知らない無智慧の状態であると考える。もしそうであれば、われわれはいっそずっと修定すればよい。なんと簡単で、軽くて、愉快で、快適なことか。わざわざその脳みそと精力を使って禅を参じ、寝食を忘れ、衣帯が次第に緩んで人がやつれるまで参じる必要があろうか。禅を参ずるとき、もし念頭を泯滅し、念頭を掐断して無念に達するなら、いかにしてこれを参と言えるのか。心念がなければ、いかに参ずるのか。もし開悟の時、冷暖自ら知り、人に向かって説くことができず、吐露できないのであれば、六祖はなぜ五つの何期自性を説き出したのか。歴代の祖師はなぜ学人を教導して禅を参じ悟道させることができたのか。仏はなぜそれほど多くの明心見性の法を、それほど多くの大乗如来蔵法を説くことができたのか。

真に開悟すれば、悟の時も悟の後も、如来蔵の運作と体性に関することを知ることができる。あのような、いかなる妄念も消融し人に説き示すことができず、無言無語、心行止息、愚か者のように、入定のように、というのではない。もしそうであれば、誰が如来家業を継ぎ、法を説いて衆生を度すのか。智慧はいかにして灯灯相燃ぐるように伝承されるのか。禅定を修めば一念不生でき、禅定には無念の状態がある。禅を参ずることは絶対に無念であってはならず、一念不生であってはならず、了別があってはならず、意識があってはならず、無知であってはならず、智慧の顕現があってはならない。禅定の中では如来蔵に触れなくてもよいが、禅を参ずることは必ず如来蔵と関わらなければならず、さもなければ単なる禅定の修習である。禅定の中で知がなく、思惟しなければ、絶対に智慧は出生できず、それは外道の定と異なるところがなくなる。

<h4 style="text-indent: 2em;">九、禅を参ずることは妄心をもって真心を参究することである</h4>

禅を参ずるとは、見聞覚知の妄心をもって、見聞覚知のない真心如来蔵を参究することである。明心見性しようと思うなら、禅を参じ話頭を参じる方法を用いなければならず、禅を参じ話頭を参じるとは、意識心と意根を用い、心法を了知できる有慧心所を有する識心をもって如来蔵を参究することである。そして如来蔵を参究するには、必ず定力が十分な状況の下で神様を参究しなければならず、最善は心中に疑情を生起させた後、自我の五陰の一切の活動に対してみな疑情を生起させ、内心に時刻その疑情を懸け、あるいは一つの話頭を懸け、それから疑情を体究し、最終的に疑情を解決することである。

相当な禅定の功夫がなく、深い疑情がなければ、着手して参じるべきではない。心が非常に粗く、功夫が至らなければ、実際に参究できない。意識で粗略に分析思惟想像してはならない。このような情思意解は多くとも解悟であり、真実の証悟はできず、智慧は出生せず、解悟さえできないかもしれない。もし証悟できず解悟であるなら、般若の智慧は生起しにくく、その後の道は歩みにくく、煩悩も降伏しにくい。むしろ各方面の基礎をしっかり固めてから悟りを求めるほうがよい。基礎をしっかり固めて悟れば、智慧は非常に深利となり、煩悩も効果的に降伏でき、真実の功徳受用を得ることができる。

<h4 style="text-indent: 2em;">十、いかに参究の功夫を作すか</h4>

意根が捨受 (upekṣā-vedanā) であるかどうかを参究するという問題を例にとって、いかに参究の功夫を作すかを説明する。たとえば、以下の状況の下で意根が捨受であるかどうかを参究する。人が非常に喜んでいるとき手舞い足踏みし、意気揚々とすること、怒っているとき悪口を浴びせ、殴り合うこと。まずわれわれは、これらの身行と語行は、意根が主導指揮して造作したものであり、その中には身識と意識の参与があり、さらに眼識と耳識の参与もあり、当然意根の参与もあり、意根・意識はこの一切法に縁じ、眼識・耳識・身識は各々各法に縁じ、いくつかの識が共同で協力して、これらの身行と口行が現れたことを知らなければならない。

意根が指揮主導して造作したものである以上、意根はなぜ二種の異なる身行と口行を指揮造作するのか。なぜ喜んでいるとき、意根は手舞い足踏みする行為を指揮造作するのか。この行為は五蘊が喜び興奮していることを表明しており、主体・主人は意根であり、意根は自分の心境を表現するために、六識を出して造作させ、自分の快楽の情緒を宣泄させ、そこで手舞い足踏みし意気揚々となる。なぜ怒っているとき悪口を浴びせるのか。この行為は五蘊が憤り怒っていることを表明しており、五蘊の主体・主人は意根であり、意根は自分の憤怒の情緒を宣泄するために、六識を主導して殴り合う。

意根は喜んでいるときに喜んでおらず、ただ捨受であり、怒っているときに怒っておらず、これも捨受なのか。意根には喜びの情緒と怒りの情緒反応がないのか。もし意根に喜びの情緒がなく、快楽を感じないなら、なお六識を主導して手舞い足踏みできるのはなぜか。もし意根に不喜の情緒反応がなく、苦受がなければ、怒っているときになお六識を主導して殴り合えるのはなぜか。六識が造作する前に、まず意根が喜びあるいは憤怒の人・事に縁じ、縁じた後に情緒が生じ、はじめて六識を指揮して生じさせ身口意行を造作させるのである。もし意根が捨受で、いかなる感覚もなければ、六識を指揮して出生造作させることはないだろう。

以上は問題に対する分析理解であり、脈絡思路はやや長いが、意識は仔細に思惟分析し、これらの言語の中の意味をすべて明晰徹底に了別しなければならない。このときは言語文字と音声形象があり、心中に言語文字相を反復現さなければならない。意識がこれらの言語の意味を表面上明らかにした後、これらの内容を一点に凝集し、無形無相の凝縮された含意を形成し、それから意根に交付する。意根は心中に深くこの無形無相の含意を懸け、捨てて顧みることをしてはならない。これが意根の思量の方式である。

意根の思量はすなわち参究であり、参究するときは言語文字と音声がなく、静かに、深く、連続的に、朝も斯く斯く、夕も斯く斯くと、絶対に移転せず、最後には夢の中も外も放棄しない。これが意根の参究の状況であり、意根を主とし、意識を輔とする。前述の言語文字の内容を思惟理解するときは、意識を主とし、意根が意識を輔助するが、今はちょうど逆である。これが真の禅参の方法であり、真の参究の功夫であり、因縁が一たび到れば、必ず破参でき、答案を見出し、心中の疑を証解し、疑情大いに開き、般若の大智慧が生起する。

意根が意根自身の功能体性を参究するとき、意根と自分という概念もなく、概念と文字に相応せず、言語と冗長な話がなく、直直白白、簡簡単単、利利落落、直ちに中心と重点に趨く。神様は飲食・排泄に影響せず、行住坐臥に影響せず、五陰の正常な生活活動に影響せず、ただ雑念がなく、より多くの心思がなく、比較的専注で、雑に用心しないだけである。

これは意根が自分の心行を参究するのであり、如来蔵を参究するのも同様であり、いかなる法義を参究するのも同様である。いかに深い法義であっても、このように功夫を作し、このように用功しなければならない。意識と意根が互いに緊密に配合し、如来蔵は隠形の助手、無名の資助者として、参究に用いる一切の所需と給養を供養する。

<h4 style="text-indent: 2em;">十一、いにか離心意識にして参ずるとは</h4>

過去に学人が禅師に問うた。禅を参ずるときいかに用心するのかと。禅師は答えて言った。離心意識にして参ずると。過去の学仏の人はほとんど皆禅定があり、禅定のある人は禅を参じることができ、用功でき、悟道の因縁が熟しやすかった。それゆえ禅師たちは、意根の体性を知らないにもかかわらず、意根をもって話頭を参究し、徒弟たちに禅を参ずる訣竅を教導した。意の下に卜度してはならず、情思意解であってはならず、意識を離れ、意識を使って琢磨と推理をすることを少なくしなければならないと。このようにすれば、禅参の功夫は非常に深く安定し、着実であり、禅師が上堂して開示するとき、下にいる人は随時に悟道できた。他人から見れば容易なように思えるが、彼らは大きな功夫を下したのであり、一日二六時中、雑に用心せず、みな禅を参じており、田間の労作、火を焚いて飯を炊くことを含め、眠っているときさえも用功できた。もし意識で用功すれば、眠った後功夫は断れるが、意根で用功すれば眠っていても断れない。

その後、ある人は素直に用功しなくなり、三人一群、二人一組になって集まって公案を研究した。禅師が見れば一棒で打散し、彼らの研究討論を禁止し、書物を読むことも許さなかった。功夫が道に上ったときは、仏経さえ読むこともできず、全身心で禅を参じて用功した。

さらにその後、六祖壇経が流布するに及んで、実修する人は次第に少なくなり、各人が壇経を手にして口を開けば懸河の如く、雄弁滔々と、皆自分に道があると思い込み、そこで禅宗は衰落凋零した。今の人はあの時代の人よりもさらに口を開けば懸河の如く、雄弁滔々で、勝るとも劣らず、人人が講じることができ、鸚鵡返しにしながら、人人に真の功夫がなく、口では実修実証を叫びながら、足は雲端に踏んでおり、天梯がなくても上って行けるという有様である。

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