衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2025年12月04日 閲覧数: 1216
<h3>第三節 禅定の境界</h3><h4>一、軽安の状態</h4>

未到地定が現れる前後には軽安の状態が生じることがあり、三昧は初禅以上の定中に現れる定境である。未到地定にも軽安状態は存在するが、初禅定の軽安とは大きく異なり、初禅はまさに仙人の感覚のようである。未到地定の軽安はやや劣り、身体に高大・膨大・微細・軽飄といった現象が現れる可能性がある。歩行は軽快で身体は上昇し、全身が軽やかになり、歩く音もなく内心は安定する。同じ禅定の中でも個人によって身心の状態は完全には一致せず、同じ人物でも時が異なれば表現に多少の差異が生じる。欲界定の状態も多種多様で、定の深浅は一律ではない。同様に初禅定においても、個人の身心の感受と状態は完全に同一ではなく、一人の人物が異なる時点で同じ定に入っても、その身心の状態と感受は完全には一致しない。

「軽安」という同じ言葉であっても、その界定する境界は異なり、表現の程度も依然として異なるため、軽安の臨界点がどこにあるかを厳密に確定することはできない。個人によって定義に差が生じる可能性がある。もし心が平穏でない者が議論を強要するならば、各自が主張を固持するほかない。三昧は厳密に言えば初禅以上の定の中にあり、これが正式な禅定であり、四禅八定の始原である。

<h4>二、初禅以上の境界</h4>

初禅以上の境界において、色界初禅以上の天人は欲界衆生の貪欲を持たず、性別がなく男女を分たない。鼻識も舌識もなく、香りを嗅がず飲食せず、排泄の必要もない。二禅以上の天人は定中に五識がなく、五塵の境界を分別しない。無色界の天人は色身を持たず、前五識がなく、意識・意根・第八識のみがある。無想天の天人は意識心も滅し、意識がなければ想心所もなく、意根と第八識のみが残る。俱解脱の阿羅漢が滅尽定に入る時は意識心がなく、意根の五遍行心所法も二つが滅する。受と想が滅するため滅受想定とも呼ばれるが、意根にはなお三つの心所法が残り、第八識が依然として身を保持する。故に滅尽定中の阿羅漢は生きている者であり、第八識が離脱すれば即ち死者となる。

<h4>三、二禅の経験</h4>

初禅には覚も知もあり、時間と空間の観念が存在し、いつ・どこにいるかを知る。二禅には覚も知もなく、念頭があることを感じられず、出定して初めて自身が先ほど入定していたことを知る。ある者は四禅にもなお念頭があると言うが、私はこの説を初めて耳にした。二禅において意根には依然として念があるが、ただ意識が知らないだけである。その時は入定が深く意識が全く知覚しないためである。しかし誰かが小声で「斎時です」と言えば、即座に聞こえて心が出定する。なぜかくも微かな音を聞いて出定できるのか? それは意根が食事という事柄を心に留めており、微かな音を聞いて意識に出生・了別させ、それによって出定するのである。

二禅定は一瞬で入ることができ、その後は何もわからなくなる。出定も一瞬であり、出定後に初めて自身が先ほど入定していたことを知る。身体が非常に快適に感じられ、心情は特別に愉悦し、頭脳は格別に明晰となる。微かな音一つで耳識が目覚め、それによって出定する。意根にはなお心に留めている事柄があるため、時が来て重要な事柄を誰かに指摘されれば、たとえ蚊の羽音であっても聞こえ、それによって出定する。入定前、非常に騒がしい音の中でも心は速やかに沈静化し、騒音は次第に微弱となって聞こえなくなり、やがて人は入定する。

二禅において意識は滅していないが、非常に微細である。私は何も気づかず、自身が入定していることを知らない。まるで何もわからず、当時の意識がどのような状態であったかもわからない。なぜなら意識には反観力がないからである。二禅において意根が食事という事柄を心に留めていなければ、誰かが「斎時です」と言っても出定しない。なぜなら私が入定している時、周囲の数十人が互いに会話していて静まったことがないにもかかわらず、私は聞こえず「斎時です」という言葉だけを聞いたからである。私は四禅に入ったことがなく、四禅における意識心の状態を知ることはできない。実証がなければ発言権はない。三禅には一日入ったかもしれないが、あまりに楽しく、魔境に入ることを恐れて捨てた。

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