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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2025年12月04日 閲覧数: 1264
<h3 style="text-indent: 2em;">第四節 参禅証悟の前提条件</h3><h4 style="text-indent: 2em;">一、六度は参禅の基礎である</h4>

頓悟の前提は漸修であり、頓悟した人は誰でも、長短はあれ漸修の過程を経なければならず、漸修がなければ頓悟もない。頓悟したいなら、基礎をしっかり固めなければならず、菩薩の六度がその基礎であり条件である。菩薩になりたいなら、相応の菩薩としての条件を備えなければならず、理由もなく菩薩になれるものではない。無量劫以来の生死の大事を解決することは、簡単なことではなく、必ず相応の代価を払ってはじめて成し遂げられるのである。

これらの条件が達成されさえすれば、必ず頓悟できる。開悟に定員の制限はないからである。世間法における良い事にはすべて限量があり、ひょっとすると抜け駆けやコネを使わなければ成し遂げられないかもしれないが、開悟明心という法にはそれが不要で、条件を備えた者は誰でも悟ることができ、他人はそれを妨げることはできない。だからこそ、必ず自分を修め、自分を完成させ、聖賢に近づきまた近づいて、最終的に聖賢の仲間に入ることができるのである。

現在の学仏者には焦りの感情があり、基礎を築かず、六度を修めず、直接参禅して、すぐに悟ろうとする。多くの人の心态は、七階だけ欲しくて一階と二階は要らないというものである。世尊は菩薩の六度を繰り返し説かれ、福德と戒律が非常に重要であり、心性の調伏もきわめて重要である。学仏者はこれらを顧みず、最後の般若 (prajñā) の慧だけを求めているが、それは得られるはずがない。智慧の獲得にはいくつかの前提条件が必要であり、すなわち福德資糧が具足し、戒律も受持しなければならず、そうしてはじめて禅定が具足し、最後に慧の出生があるのである。

私たちは理行や慧行の上でのみ用心し、基礎である福德と戒律の上では用心しないということがあってはならず、そのような修行には成就があり得ない。私たちは仏語を信受しなければならず、仏が修めと言われたことを、私たちは必ず努力して修めなければならない。帰依、受戒、持戒、心性の調伏はいずれも非常に重要であり、これらの条件を捨てて直接に果を得ようと考えてはならない。世俗の染汚が非常に重い人は、聖者になることはできない。修行者と聖者との差が大きすぎてはならないので、五戒、八関斎戒、菩薩戒はいずれも受持すべきであり、心が世俗法から少し離れてはじめて道を証し、聖者の列に入ることができるのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">二、参禅の前に十分な福德を積むこと</h4>

学仏の修行では、急いで参禅して開悟しようとしてはならない。多くの基礎的なもの、資糧道糧がまだ備わっておらず、菩薩の六度がしっかり修められていないなら、しばらく参禅してはならない。参禅しても意識心がそこで推測揣摩しているだけで、参通することはできない。仏道を学び始めた人は、まず福德の修行に力を注ぎ、多く福を修め、戒定慧が円満に近づいたときに改めて参禅すれば、一度参禅すれば容易に成功し、容易に開悟できる。もし福德が具足していなければ、修めている途中で脱落してしまい、さまざまな業障に阻まれ、道を退するかその場で足踏みするかのどちらかになってしまう。

頭脳の智慧が非常に優れているのに福を修めない若い人がいて、どんなに聡明伶俐でも修め上がらず、道心を退失する者が大勢いる。逆に、年齢の高い人の中には、自分の余命が短くなった、寿命が長くないと感じ、修行が非常に精進で、積極的に布施 (dāna) し、福德を積む人がいる。比較的鈍く、記憶力も良くないのに、ずっと修め続けることができ、しかも智慧も増長している。私たちは福を修めることを軽視してはならず、福を修めることは重要でないと思ってはならない。実は福を修めることは非常に重要であり、しかも修行の第一の関門なのである。福德が十分になれば、冤親債主もあなたをどうすることもできず、根本的にあなたを妨げることができず、業障に障されにくくなる。

福德を積むことは容易ではない。私たちは多生多劫にわたって心の中の慣性の勢力が大きく、慳貪吝嗇の心理作用が大きく、自分の財を布施 (dāna) に出すことを惜しむ。だから普段から、福德をむだに消耗しないように、あるいは福德の消耗を少なくするように注意すべきであり、世間の生活の中で享受を少なくする。さらに、福德を損減しないように注意し、できるだけ他人のために多く尽くし、他人に自分のために尽くさせないようにする。他人を多く敬い、他人を軽視蔑視せず、人として至る所で優位に立とうとせず、他人の恭敬や追従を求めず、人に対しては柔軟語、和やかな言葉を多く語り、人として事を行って報いを求めないなどである。特に父母や師長を怒らせてはならず、父母や師長に心を労らせてはならず、できるだけ父母や師長に孝行すれば、福を多くかつ速く得られる。

福を修めて福を得る中で最大かつ最速なのは供仏であり、毎日供仏を堅持すべきである。すべての精進料理は、生のものも調理したものも、すべて供仏に用いることができる。新しい衣や寝具も供仏でき、さまざまな野菜や果物、穀物・油・米・小麦粉もすべて供仏できる。礼仏も福德を積む良い方法であり、読経や坐禅による定 (samādhi) の修習も福を修めることであり、各方面の福を、私たちはみな修積すべきである。布施 (dāna) の福を修めること、財や物品の布施、衆生を助ける無畏布施。法布施は、自分にまだ仏法の証量がないときは、仏経を選び、人に仏経を紹介し、ネット上で仏経を発信するか、あるいは正しく有益な仏法と確信できるものをネット上に発信し、他の人に広めることができる。道友を紹介して正法を学ばせることができ、他人が利益を得れば、自分の福德も増える。他人があなたによって法益を得れば、自分は福を増す。逆に、他人の聞法を妨げれば、自分の福德を損ない、未来世には悪い果報もある。

<h4 style="text-indent: 2em;">三、先に我見を断ってから参禅するのが最も省力である</h4>

如来蔵 (tathāgatagarbha) を参究するには、定力を十分に修めてから参禅するのが最良であり、そうすれば五陰 (pañca-skandha) のさまざまな活動に対して疑情を生じさせることができる。定力が不足しているときは、五陰の虚妄性が観行 (vipaśyanā-caryā) によって通透しておらず、我見 (satkāya-dṛṣṭi) が断てず、如来蔵の体性の思惟がはっきりしないため、疑情は生じにくい。要点はやはり五陰の虚妄の理が通透していないことであり、心の中で五陰の一切の活動を否定していなければ、五陰のさまざまな活動は当然存在すべきもの、自然に有るものと思ってしまい、そうなると五陰の動力の源泉を疑うことができず、五陰がどのように現起するかを観行することもできず、五陰と同時に存在する如来蔵を参究し探求することもできない。小乗の素地がしっかりしていれば、我見を断った後、大乗の疑情は自然には生じないので、大乗法を薫修し、制心一処の定力が配合されてはじめて、疑情は自然に生じ、その後、如来蔵の参究が思いのままになり、容易に契入できるようになる。

五蘊を観行して我見を断じるときは、行住坐臥および言談語笑の中で自分の五陰全体の虚妄性を観察し、色身の虚妄性および意識心の虚妄性を観察しなければならない。知見の上では、理論の上では、身体は我ではなく、六識と作主の識も我ではなく、我は形も相もないことを知っていても、意根はまだ承認しておらず、意識心は自分が虚妄であることを知っていても実際の作用がなく、主導するのはやはり意根であり、身口意行の造作はやはり意根の言い分で決まり、意根は真理を知らないので、内心ではやはり意識を我とし、五識と意識の細微な機能作用を真実不滅のものと認め、自分の作主性を真実不滅のものと認めるのであり、このようにでは参禅は大いに手間取ることになる。

本当に我見を断じたいなら、深く禅定に入り、さらに細かに思惟し、繰り返し意根を薫習して、意根に五陰の自己が確かに虚妄であり、真実でないことを了知させなければならない。因縁が成熟したとき、意根は五陰の機能作用は真実ではなく、我ではないと承認し、そのとき内心に大きな転換が生じる。その後改めて参禅して真心如来蔵を探求すれば、証悟は相対的に容易になる。

先に我見を断じてから参禅すれば、参禅が比較的楽になり、五陰が死に透した後にこそ疑情が生じ、疑情を抱いて参禅すれば、証悟は速い。定力が不足していれば疑情を生じさせることができず、慧力 (prajñā-bala) が不足していても疑情を生じさせることができない。常に自分の用功の方向が正しいか、方法が適切か、六度の条件に何が欠けているかを点検し、それから菩薩の六度を円満にする方法を考え、その後にこそ真の大乗菩薩になる機縁が生じるのである。

普段から、自分の菩薩六度の条件がどれだけ具足しているか、まだ何が足りないかを多く点検し、不足している条件をさらに努力して補い、これらの条件をできるだけ完成させるべきである。さらに自分の心性と願力がどうか、心量がどれだけ拡大したか、眼界がどれだけ広がったかを点検しなければならない。私たちが修めるべき内容は実に多く、一つ一つの内容をすべて着実に一歩一歩足跡を印して実際に修持してはじめて、知らず知らずのうちに層層と増進し、大乗真実義の菩薩になることができる。衆生を悲憫できる人は必ず真の菩薩であり、真の菩薩は必ず実義菩薩である。だから菩薩の標識は、総括すれば慈悲喜捨であり、これこそ菩薩の最も根本的な基準である。

<h4 style="text-indent: 2em;">四、我見を断じてはじめて如来蔵を触証できる</h4>

如来蔵を触証する前に、まず暖・頂・忍・世第一法が現れる。暖頂忍世第一法とは、如来蔵を参究することによって、あるいは阿含経の中の五陰無我の理を修学することによって、内心で次第に五陰を我とすることを否定し、智慧が次第に清明になり、次第に明朗になり、最後に完全に五陰は我ならず、しかし不異我であると承認し、我見を断除し、世間の凡夫を超越して、世間第一の人となることである。五陰を完全に否定した後、七識を我とすることを否定した後、六根六塵六識を否定した後にはじめて、真実の我を証得することができ、それによって開悟明心するのである。過去の禅宗の祖師は言った:「打得五阴死许汝法身活」、まさにこの意味であり、先に五陰の真実性を否定し、五陰を我とする我見を断じてはじめて、清浄 (viśuddha/pariśuddha) で真実な法身が生き生きと心中に顕現し、直ちにこれが自性である、これが如来蔵である、これが法身であると確認するのである。一死一活の後、成仏の基礎が築かれるのである。

両者の間に、極めて短い時間のうちに、あるいは五陰を否定した一瞬のうちに如来蔵を見出すこともあり得るが、それも我見を断じた後のことである。一般の人は明心の時またはその後に我見を断じると言うが、実際には五陰と七識を否定しなければ、如来蔵を証得することはできない。なぜなら五陰七識の迷霧が如来蔵の顕現を遮っており、魚の目が真珠に混じっており、しばらくは真偽を判別できないからである。ひとたび我見を断じ、偽りを否定すれば、真が躍然と現れ、如来蔵を証悟するのである。もし偽りの五陰を否定しなければ、智慧の眼が現起せず、如来蔵を識別できず、さらに参究を続け、我見を断除してはじめて、五陰十八界に属さない如来蔵を見出すことができ、それはおそらく一瞬の出来事である。

<h4 style="text-indent: 2em;">五、「桶底脱落」の前提条件</h4>

過去の参禅人は、参禅して第八識を見出し悟道すると、それを桶底脱落と言った。桶とは何か。楞厳経の中で仏は人の身体を肉の桶に譬え、その形はちょうど桶のようである。そして衆生はこの肉の桶を自分であるとし、真実存在して滅しない我であるとする。参禅人が第八識を悟得したとき、第八識は真実であり、永遠に消失せず、真の自己であることを知り、五蘊身は第八識が変現した仮の殻にすぎず、真実ではなく、我ではないことを知る。こうして彼はもはや五蘊を我と認めず、五蘊身という肉の桶を否定し、五蘊の重荷を下ろし、このとき身心ともに空となり、軽安この上なく、これを桶底脱落に譬えるのである。

桶底脱落の前提条件は、戒定慧が具足していること、福德が具足していること、菩薩の六度も修め終えていること、入道の資糧もすでに具足していることであり、時節因縁の成熟した時にこそ桶底脱落するのである。このとき同時に小乗の初果須陀洹を証得し、三縛結を断じ、永遠に三悪道に堕ちない。なぜなら小乗の初果は五蘊十八界の苦・空・無常・無我を証するものであり、第八識を悟得したときには五蘊十八界は我ではなく、虚妄・空幻・不真実であることも知るからである。だから大乗の果を証得すると同時に小乗の果も証得するが、小乗の果を証得しても必ずしも大乗の果を証得できるとは限らず、これが大乗法が小乗法を包含するという道理である。

<h4 style="text-indent: 2em;">六、六度が満足した後に念仏 (buddhānusmṛti) する時にこそ証悟できる</h4>

念仏 (buddhānusmṛti) する心には二種あり、一つは真心、一つは妄心であり、両者が和合して一緒に働くことによって、私たちははじめて念仏できる。念仏という法の中には真心である第八識の働きがあり、念仏しているのは誰かを参究すれば明心開悟し、般若 (prajñā) の智慧を得る可能性がある。もし見出したのが妄心であれば、それは錯悟である。大多数の人は妄心を真心と錯認する。なぜなら福德・禅定・智慧などの資糧がいずれも足りず、真心を見出すことができず、妄を真と認めるしかないからである。

現前当下の一念の中にも、真心と妄心が一緒に和合して働いており、五陰のいかなる法の中でも、真妄が和合して一緒に働いている。たとえば眼は色を見、耳は声を聞き、鼻は香を嗅ぎ、舌は味を嘗め、身は触を覚り、意は法を思う。六根の門頭においていずれも真妄が和合して一緒に働いており、真もあり妄もある。大多数の人は妄心を認めることしかできず、まだ真心を認識できない。妄心は見つけやすく、多くの福德、禅定、智慧を必要とせず、多くの修行をしなくても知ることができるので、錯悟する人は山野に満ち、真に悟る人はきわめて少ないのである。

念仏 (buddhānusmṛti) するときは八つの識が和合して働いており、七つの妄心と一つの真心である。菩薩六度の条件が満足していなければ、念仏しているときの妄心を真心として担ってしまうが、それはどのような結果を招くのか。いかなる人がいかなる法門を修めても、仏の説かれた証悟の法門から離れることはできない。どのように修行しても、証悟したいなら、必ず菩薩六度の条件を満足しなければならず、この六度は誰であれ越えることはできない。極楽世界に往生した後でも、花開見仏のとき無生を悟るにも、この六度を満足しなければならず、さもなければ花は開かず、仏に見え法を聞いて無生を悟ることができない。十方世界の仏法はすべて同じであり、ある条件に達すればある果位であり、達しなければ、その果位の菩薩ではない。

学仏者は仏法の真実義について、どれだけ知らず知らずのままでおり、またどれだけ錯知錯解しているか。現在の衆生の仏法に対する認識の程度からすれば、たとえ過去世の真の祖師が再び来て、真実の仏法の道理を開示しても、衆生に信受されることは非常に難しい。衆生が過去の祖師大徳の説法を承認しようとするのは、彼らがすでに名声と地位を得ているからであって、衆生自身が真に祖師大徳の説かれた法を理解したからではない。もし彼らが今再び来たとき名声がなければ、やはり同様にめちゃくちゃに否定されるであろう。

衆生は名声の大小しか認めず、真の仏法を理解しない。これが現在普遍的に存在する現象である。もし真に祖師大徳の仏法を信受しているなら、衆生はとっくに今のような姿ではなくなっているはずである。祖師大徳の書物を手にして読んで、果たしてどれだけ真実の義理を理解したのか。真に理解したときは、開悟から遠くない。理解していないということは、まだ盲信・やみくもな信仰・崇拝の段階にあり、正信ではないことを意味し、正信の程度に修め至ることは非常に容易ではない。

<h4 style="text-indent: 2em;">七、参禅に必要ないくつかの条件</h4>

いわゆる参禅とは、観行 (vipaśyanā-caryā) 思惟参究によって如来蔵を参究し、真如仏性を証得することである。参禅は人を探すのと同じ道理であり、人を見つけたいなら、まずこの人を知っていなければならず、あるいはこの人の写真がなければならず、心の中でこの人の姿を知ってはじめて、この人を見つける可能性がある。次に、どこへ探しに行くかを知らなければならず、もし目的もなく盲目的にあちこち探せば、大海に針を探すようで、希望はきわめて薄いに違いない。さらに、この人が現れる可能性のある場所をすべてはっきり把握しなければならず、どこに人が隠れられるか、どこに隠し通路や仕掛けがあるか、すべて知っていなければならない。第三に、適切な交通手段があり、時間があり、旅費がなければならない。さらにこの人を見分ける眼力がなければならず、さもなければ向かい合って出会っても互いに知らないままである。最良かつ最も確実なのは、その人に会ったことがあり、その場所を知っている人が案内することであり、これが最速の道である。だから一人の人を探すことさえ容易ではないのに、まして私たちが無始劫以来ずっと知らず了知してこなかった真如仏性は、なおさら難事中の難事である。

だから参禅は基礎をしっかり固め、必要な条件をすべて備えなければならない。基礎を固めるとは菩薩六度を修行することであり、一度でも欠ければ証悟できず、参禅しても力を得ることができない。人を探す方法に比べて、参禅で真如心如来蔵を探すにもいくつかの段階が必要である。

まず、如来蔵の体性を了解しなければならない。大般若経、たとえば心経や金剛経などを薫修し、正知見を備えてはじめて、如来蔵の探求に着手できる。

次に、如来蔵がどこで顕現しているかを知らなければならない。般若を学ぶことによって、神様が五陰のさまざまな活動の中で現れ、六根が六塵に触れる中で現れること、いわゆる生縁処処、処処生縁であることを明らかにしなければならない。妄法の現れるところはどこでも、如来蔵の顕現があり、一つ一つの法の出生はすべて真妄和合である。真妄和合のところは非常に重要な観察の場所であり、この知見は必ず備えなければならず、きわめて重要である。

さらにその次に、如来蔵は五陰の活動の中で顕現するのだから、五陰の体性もすべてはっきり了解しなければならない。七つの識が色身に加わって五陰となるのであれば、七つの識こそが鍵であり、七つの識の体性もはっきり了解しなければならない。そうすれば真の法もはっきりし、妄の法もはっきりし、真妄が和合したとき、さまざまな五陰の妄法の中から真の法を見出すことができる。

これらはすべて正知見であり、正知見があれば、さらに福德が必要であり、相応の定力 (samādhi) があって参究しなければならず、最も重要なのは善知識の導きと助けがあってはじめて、無駄な道を歩まず、もはや盲目的に功夫をしないで済むことである。定力を具足したいなら、持戒と忍辱が前提であり、精進修持の心も備えなければならない。これらが菩薩六度の大体の内容と条件であり、具体的な内容はさらに自分で細かに経典を参照し、細かに体得し、それから具体的に行うことである。最後に、時節因縁が具足したときを待ってはじめて、第八識如来蔵を見出し、それによって明心悟道できる。だから菩薩となる条件を満足することが、私たちが現在努力して用功すべき方向であり、修行の手がかりとするところでもある。修行は焦って突進してはならず、一歩一歩足跡を印し、一段一段階段を上るように歩まなければならず、脚力が不足していれば走ってはならず、急功近利の思想は必ず克服しなければならない。

<h4 style="text-indent: 2em;">八、菩薩の条件が具足してはじめて証悟できる</h4>

話頭を参じて、参通すれば明心開悟し、般若 (prajñā) の大智慧を得て、真に実際の菩薩証量を有する菩薩となる。そして般若の大智慧の獲得は、菩薩六度を修行した結果である。それなら話頭を参じる前には必ず菩薩六度を修行し、菩薩六度を具足していなければならない。もし戒律を受持しておらず、布施 (dāna) を修行したことがなく、菩薩の福德が具足しておらず、修行の精進度が不足し、世俗の境界に対する忍度が不足し、如来蔵の法に対する承認度が足りず、禅定も修持されておらず、如来蔵般若の理も十分に理解していないなら、話頭を参じることは苦悩の事であり、たとえ一生参じても、やはり徒労に終わる。

真の菩薩になる前に、自分の心行・心性・心量が菩薩と相応しているか、菩薩の大業を担いうるかを点検しなければならない。禅定が不足していれば、いわゆる話頭を参じることも話頭を念じるだけであり、一句の言葉の文字を繰り返しているだけであり、心は一句の言葉の前頭に住することができず、みな話中や話尾をうろつき回っている。このような修行に何の意味があるのか。学仏者の修学がもしそれぞれ個人のためであり、利己的な心理を抱き、少しも人を利し他を利する心がなければ、自己中心的で狭隘な心は絶対に菩薩の心性と相応せず、菩薩が備えるべき福德を集めることができず、それでは真の意味での菩薩になることはできない。

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