禅定の修めと参禅証道(第一部)
修行の目的は生死を解脱し、輪廻の問題を解決し、最終的に仏道を成就することである。この目的を達成するには、仏の教えに従った修学方法に基づき努力して実践し、その後仏の説かれた法を実証して解脱を証得し、不滅の真我である如来蔵を証得しなければならない。それによって生死の大事を解決するのである。仏は如何にして我々に修行を教えられたのか。仏在世に説かれた法は、一つは五陰を解脱させる四聖諦と十二因縁の法、もう一つは般若実相の法である。
我々はこれらの理論内容を理解した上で、これらの道理に従い一つ一つ実際に観行し思惟する。思惟が通達した後、仏の指し示す様々な結論を証得できる:一つは五陰無我、もう一つは真我実相の般若である。このような結果に達するには、修行によって相応の条件を満たさなければ証得できず、それによって解脱を得る。これらの条件とは布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若という菩薩の六波羅蜜であり、総じて戒定慧である。
八識の法義は必ず学ばねばならず、参禅の方法は掌握して活用できねばならず、禅定は必ず修めねばならず、福徳は必ず具足せねばならない。総括すると菩薩の六波羅蜜の条件を全て満たす必要がある。福徳が十分にあり、禅定も十分である時、般若の正理がある程度明らかになり、その時参禅し、公案を参究できる。如何に第八識を尋ね求めるかを知り、因縁が具足した時に第八識を証得し、明心して悟りを開くのである。証悟の後、大智慧を得て次第に心が解脱し、般若智・別相智・道種智・一切種智を具足し、最終的に仏果を円満するのである。
<h4 style="text-indent: 2em;">二、公案を見る時、精神は内に収斂するのか?</h4>参禅で公案を見る時は、注意力を全て参究している公案に集中し、他の事や外界の色声香味触法に置いてはならない。これが内斂である。公案が脳内にあるなら注意力を脳内に集中し、頭部が膨張するなら別の場所に置くか、あるいは何処にも置かない。時として公案が外界の音に付いて流れることがあるが、軽く引き戻し、音に流されないようにする。これが精神の内斂、内への収斂である。
公案を見る時は意識が清明である限り絶え間なく見続け、あらゆる時中で公案を見守る。そうすれば念念が一片となり、功夫は自然に純熟して力が生じ、疑情が生じやすくなる。疑情が生じた後、公案参究の段階に移り、自性如来蔵を参究しようと心を起こす。因縁が具足した時に悟道できるのである。
<h4 style="text-indent: 2em;">三、参禅は無念であってはならない</h4>問:日々自己を観照し、妄念が起きても従わず、次第に力がついてきた。無観無照こそ真の観照ではないでしょうか?
答:無観無照では智慧がなくなる。これは一方的に定を修める方法であり、参禅の方法ではない。参禅とは心中に公案と疑情と参究活動がなければならず、心に公案の念があるのであって、無念でも空の心でもない。無念は死水の如く生命力がなく、真心如来蔵を証得できない。なぜならそこに尋ね求める心も探究する心もないからであり、真理を発見できない。故に明心を望むなら、無念の定を求めてはならず、心中には参禅の念があるべきで、空に落ちてはならない。
<h4 style="text-indent: 2em;">四、証悟の時に初めて如来蔵の作用を観察できる</h4>問:観行とは如来蔵が如何に身体を生じさせ、如何に七識に随順するかを観行することですか?
答:如来蔵が如何に五蘊を生じさせるかは、如来蔵を証得した時に初めて観察する能力が得られる。如来蔵が如何に七識に配合するかは、悟後長い時間を経て後得智と道種智を具えて初めて観察できる。悟前はまだ如来蔵を見出していないため、現量で観察できず、推測するしかない。推測分析の要素が多く、結果は如実でなく真実の結論を得られず、足場が定まらず真の智慧の生起を妨げ、ましてや後続の観察智を生じさせることはできない。観察は現前に物があって初めて観るのであり、現前に物がなければ想像に頼ることになり、真実性は語れない。
観行は虚妄の法に対する観察と真実の法である如来蔵への参究に分かれる。如来蔵への参究は五陰身の運行において如来蔵が何処に現れ、どんな作用を起こしているかを参究することである。見出した後に初めて現前に観察し、究竟的に如何なる作用を起こし、如何に五陰身と七識を生じさせ、如何に七識に随順して万法を生じさせるかを知るのである。
<h4 style="text-indent: 2em;">五、見知らぬ感覚と離脱感はどういうことか?</h4>問:時として動中の定が清清しく静かで、心の感覚は大きな空白のスクリーンのようであり、見聞覚知はスクリーンに現れる映像のようである。ただし空白のスクリーンも映像も共に意識の境界である。例えると、まるである人物が空白のスクリーンに筆を走らせて一筆一筆落書きしているかのようで、清静自在である。この感覚は主に耳根・眼根から生じる眼識と意識にあり、自分自身を虚無の意識の流れあるいは肉体と感じ、家族や親人を見ると見知らぬ感覚があり、存在する世間も見知らなくなり、自分が世間に属さない感覚、離脱したい感覚が生じる。心は清静だが虚ろで、離脱したい感覚がある。この感覚はどういうことでしょうか?
答:この感覚は禅定中の観行による感悟である。禅定中は五陰世間を極めて客観的に観察でき、世間の煩悩や情緒を降伏させ、世間への情執を低下させ、親人への貪愛を軽減し、心が清浄になり世俗法と幾分隔たりが生じるため、見知らぬ疎遠な感覚を覚えるのである。禅定が比較的深い時、心は非常に清浄になり、思惟観行は極めて深細になり、法に対する認知は明晰かつ深く、理解が適切に行き届く。故にあらゆる法の証得は必ず心に雑念がなく専心専意の状況下で感知・証得され、意根が自ら証明したものである。意根が自ら世の事の虚妄無常を感知し証明した時に初めて真の出離心を発起し、虚妄の世事を追求せず、転じて無上の仏道を進求するのである。
<h4 style="text-indent: 2em;">六、受想が軽微であるのは塵境に分別執着を起こさない結果である</h4>問:私は普段歩く時、自らの受に意を用いて、境に対し何の罣礙も起こさず、念が想の段階に入らないように訓練しています。これは着力が内相分にあるのか外相分にあるのか?このように念を受の段階に制御し、想に入らせないことは、将来我執を破る上で受用となるのか、それとも法執を破る上で受用となるのか?
答:ここでの受と想は主に六識の受想を指す。六識が対応了別するのは全て内六塵である。我々が対治すべきは自らの内心であり、何であれ内外相分ではない。外相分には我々は接触できず、多くの人は内外相分の区別を知らない。実際に我々が接触する一切の法は内相分である。
心を受の段階に制御する。この受は、最初は塵境を受け入れる領受領納であり、後続が苦楽憂喜捨の感受である。もし感受ならば、想(了別)の後に出現する。阿羅漢は一般に受を最初の接受領納の段階に留め、それ以上の了別執取を行わない。そうすれば次の感受がなく、心の苦受や楽受もなくなる。これが修行であり、貪愛を滅除し、苦を滅することができる。これは我執や自我への貪着を破る上で大いに益があり、同時に徐々に法執を破り、一切の法への執着を減少させる。この修行は非常に得られるものが大きい。
これは同時に定を修める方法でもある。定があれば煩悩を圧伏または降伏できることを証明する。定がなければ、心は引き続き分別執取し、苦楽受を生じ、さらに貪取や厭棄を行い、業行が現れる。業行が現れれば業種が生じ、将来業報があり、生死を了することができず、三界を出離できない。阿羅漢たちは皆この点を理解しているため、彼らは可能な限り六塵境界を了別せず、六塵への覚受を減少・軽減し、心を清浄無染に保つ。そうして初めて三界の生死の束縛を受けず、生死輪廻の苦から出離できるのである。一方、菩薩の修行は弘法と衆生救済のため、常に生心动念せねばならず、定を修めるのは困難である。しかし菩薩は六塵境界が全て自心の現れであり、唯識所変であることを知っているため、境界が自らを纏縛することを恐れない。
時間がある時は少し身心を収斂し、自心と六塵境界を反観すれば、定力が現前し、一切の法に惑わされず、臨終にも顛倒しない。これは大福徳大智慧によって支えられる。この定を修める方法は、我執を断つにも法執を断つにも有益であるが、まずは我見を断つことである。所謂る執着とは、全て意根が五陰世間に執取することを指す。禅定の状態では、意根は攀縁執取が少なくなり、六識は了別せずあるいは了別が少なくなり、六識は造作せずあるいは造作が少なくなる。そうして初めて意根と意識を降伏させられるのである。
<h4 style="text-indent: 2em;">七、一切の法は第八識が七識に随順して生じる</h4>問:意識が次第に熏習されると、意根は将来、我及び我所がなく、全体が第八識であることを認めるようになる。七識が存在すれば万法が生じ、七識がなければ無余涅槃である。意根が何処に行っても第八識はその場所で万法を生じる。このようなことでしょうか?
答:意識が絶えず法を学び、意根を不断に熏習すると、意根は思量を起こし、日夜参究し、ある日無我と無我所の道理を証得し、我見を断除できる。しかし禅定がなければ意根を熏習できず、意根はこれらの法理を細心に思量できず、意識の思惟も浅く、実証できない。
世間全体が第八識であることを証得するのは、地上の菩薩の唯識種智の智慧境界である。開悟したばかりの者はこのような甚深な智慧を持てず、観行してもこのような結果は出せず、想像するだけである。七識が存在すれば万法があり、七識の存在がなければ無余涅槃の境界である。意根は万法を生じさせる動力であり、意根が何に攀縁するかによって第八識はそれに配合して何の法を変現する。第八識が何を見るかによって第七識もそれに従って何を見る。故に一切の法は第八識が生じるのであり、三つの能変識が共同で変現するのである。
<h4 style="text-indent: 2em;">八、参禅の一法のみによって明心見性できるのか?</h4>明心見性は成仏の道程における一つの小目標であり、また出発点でもある。仏道の修証は、第一歩は小乗の我見を断つこと、第二歩は大乗の明心見性であり、以後各段階で次第に深入りし、成仏までの距離はますます近づき、終着駅は成仏であり、阿耨多羅三藐三菩提を証得する。
修道の全過程において、最初の我見断除と明心見性から、諸地菩薩の修証、そして最終の仏地見道に至るまで、全て異なるレベルの智慧成就である。そして異なるレベルの智慧成就は、異なるレベルの観行と参究を離れることはできない。観行と参究のみが無明を破り、真理を証得し、世出世間の真相を明らかにする。これが智慧を得る唯一の途である。
ただし異なる修行段階において、観行と参究する法のレベルに違いがあるだけで、方法と方式は同じである。もちろんこれらの智慧は意識の智慧だけではなく、主に意根の智慧であり、意根の智慧が主宰と主線となり、意識がそれに緊密に従い、二者が並駕斉駆する。三度の大レベルの転識成智を経て、最終的に前五識の智慧も昇華・転変され、第八識も大円鏡智に転変される。四智が全て円明となった時、衆生は即ち三界の至尊となり、仏陀の宝座に坐するのである。
そして異なるレベルの観行と参究は、全て異なるレベルの禅定の中で成就する。禅定を離れれば、観行と参究はできず、ましてや三昧や見道は現れない。禅定は見道の必修科目であり避けられない道である。禅定のない学仏学法は全て修行とは関係なく、地図を研究する段階に属し、まだ道に出る条件を備えておらず、まして目的地に到達できるはずがない。
禅定とは心の凝聚力である。心識が専一で散乱しなければ、心力が凝聚して突破力となり、一切の障難を突破する力となる。それによって意根と意識の智慧が湧現し、五蘊の曇りを剥がし、真如の太陽を見る。これにより心の地が開明し、無明が次第に薄くなる。もし心識が散乱攀縁すれば禅定はなく、凝聚力を形成して観行と参究ができない。故に必ず持戒によって心識の行為を規範し、心が矩を越えず世間の諸法に攀縁せず、菩提大道に従って行じる。そうすれば定慧を具足し、三昧の真火が無明煩悩の薪を焼き尽くし、三昧の真水が愚昧な心田を潤し、三昧の真風が世間の浮雲を吹き散らし、三昧の真地が無量の福慧功徳を蘊化する。この無量の福慧功徳によって次第に頂上に登り、衆望の帰する処である仏地の聖城に至るのである。
故に戒定慧は仏道を修学する三無漏学である。もし心に漏があれば、三学は欠け、なお不断に精進し、円満を期す必要がある。それでは明心見性は参禅の一法のみによって達成できると知るべきである。参とは観行参究であり、禅とは大乗真如の仏性である。戒定慧をもって参禅の始終を貫徹する。今世で参禅参究を学び、観行の功夫を修めれば、後世には師無くして自ら通じ、自然に持戒し、如何に定を修めるかを知り、自然に観行と参究を用いる。そうすれば見道は期して待つべきものとなる。
我々は楞厳経の二十五聖円通法門の修持や華厳経の善財童子の五十三参からも、最初の我見断除から等覚菩薩の智慧成就に至るまで、全て戒定慧の三無漏学の体現であり、観行参究の功夫を用い、異なる三昧境界が現れていることが分かる。それでは聖人の修行の方向に沿い、聖人の足跡を踏んで、勇敢かつ堅固に聖城へ向かおうではないか!
<h4 style="text-indent: 2em;">九、衆生はなぜ豚肉を食べられないのか?</h4>学人が問う:「如何にして階級に落ちずに済むか?」黄檗(おうばく)禅師は云う:「終日飯を食いて未だ一粒の米をも噛まず、終日行いて未だ一片の地をも踏まず。かくの如き時は人我等の相無く、終日一切の事を離れず、諸境に惑わされず、方(まさ)に自在人と名づく。更に時時念念一切の相を見ず、前後三際を認むること莫(な)かれ。前際は去ること無く、今際は住むこと無く、後際は来ること無し。安然として端坐し、任運にして拘わらず、方に解脱と名づく。努力努力!この門中には千人万人もただ三、五人のみを得。若し事と為さずんば、殃(わざわい)を受くる日有り。故に着力と云う。今生に須(すべか)らく了却すべし、誰か累劫に余殃を受くべきや!」
ここでの階級とは修行の次第を指す。階級に落ちないとは直接法の最根本・究竟の処に到達することである。如何にして直接空性を証悟したと言えるのか。黄檗禅師は答えて言う:もしできるならば、終日飯を食うことも一粒の米も食わなかったように、心は空で我に執着せず、終日歩くことも一片の地も踏まなかったように、心は空で我に執着せず、自らが飯を食い歩く相に落ちない。この境地に達した時、心中に人相も我相もなく、終日一切の事を離れず、諸境界に惑わされず、諸相に纏縛されない。そうして初めて自在人と言える。更に時時念念一切の相を見ず、一切の法に前際・現際・後際があると認めない。なぜなら前際は去らず、現際も念念止まらず、後際も来ないからである。一切の時中で安然として端坐し、任運に行じて法に束縛されない。これを解脱と言う。
これは禅宗の般若証悟後の境界であり、五蘊空の境界である。なぜ空なのか? 如来蔵が生じるから空と言うのである。この境界は小乗の空の境界より一歩進み、凡夫の有の境界よりはるかに高いが、それでも唯識の空の境界ほど究竟ではない。小乗と般若のレベルは人空であり、唯識のレベルは法空である。法空は人空の上に更に細かく深く、範疇がより広く深い。
例えば飯を食うことについて、般若のレベルでは我が飯を食うことはなく、飯を食う我はなく、我は飯を食う我相に執着しない。しかし唯識では飯の相すらない。例えば皆が興味を持つ豚肉を食うことについて言うと、五蘊は根本的に外相分の実質的な豚肉には接触できず、後頭部の中の内相分の豚肉にしか接触できない。しかし豚肉を食った後、内相分の豚肉が無くなるだけでなく、外相分の豚肉も無くなる。これはなぜか?
実質的な豚肉を食べられないなら、豚肉を食っていないことになる。では口に入り腹に飲み込まれたものは何か? 口が飯を食うが、飯は後頭部の中の飯であり、口や歯や舌も後頭部の中のものであり、飯を食うあなたも空である。あなたは飯を食ったと言えるか? 飯を豚肉に置き換えると、あなたは豚肉を食ったと言えるか? あなたが食ったのは内相分の豚肉であり、外相分の豚肉は無くなっている。どうして消えたのか? 秘密、特大の秘密、一生かけて参究する価値があり、幾大劫も参究する価値がある。
この法は深く、小乗の我見断除と大乗の明心の基礎があっても参究しにくい。内外相分の生滅は全て如来蔵が作用しており、六識の機能も如来蔵が作用した結果である。法法皆如来蔵であり、悟らなければ根本的に参究できない。
無始劫以来、色声香味触法の六塵境界について、衆生は一度も接触したことがない。しかし刻一刻と六塵境界を己のものとし、心と言葉で念念有詞:「これは私のもの、あれは私のもの、私の身体、私の家族、私の言う言葉、私が聞く音、私が食う肉、飲む水、寝る床、私の権力地位名声等々、この香りあの味、あなたはどれにも接触できない。どれがあなたのものか? 生生世世追い求め追いかけ、元々は空と争い、空と遊び、しかも自分も空である。空と空が争い、ゲームの主役すらいない。所謂る争いも空である。皆さんは世俗法のゲームに時間を浪費するより、真にこれらの真理を探求した方が良い。そうすれば生生世世ゲームを無駄にせずに済む。真理はあなたを惹きつけられないのか?」
ある者は木の棒でトントンと机を叩き、そして確信を持って言う:「見よ:私は机を叩いた、私は威風をふるった、私は気を晴らした。」実際には、木の棒は後頭部の中の木の棒、手は後頭部の中の手、机は後頭部の中の机、行為は後頭部の中の行為、この行為を見るのは後頭部の中で見て、音を聞くのは後頭部の中で聞き、気が晴れたと思うのは後頭部の中で思う。全ての五蘊活動は後頭部の中で造作される。
後頭部はどれほどの大きさでこれほど多くの法を容れられるのか? これらだけではなく、億万の法、無量数の法が全て後頭部の中で発生する。空の法、実質性のない法だけが後頭部に落ちる。実質のある有相の法は後頭部に落ちない。世間の一切の法には実質がなく、皆空であり、皆影像であり、皆影である。故に皆後頭部の中の法である。豚肉も同様、豚肉を食うことも同様、私が豚肉を食うことも同様、その人もその事もない。何を執着し何を追求するのか? 愚か者たちよ!
この理を証得するには、まず我見を断ち、次に明心する必要がある。我見を断ち五蘊空を証得することは非常に重要である。内外相分の問題は、悟った後に参究する。禅定と智慧が深くなって初めて道筋がつく。如来蔵の角度から参究して初めて見通しがつく。なぜなら一切の法の実質は如来蔵の機能作用だからである。
如来蔵も五蘊も私は世間の如何なる法も接触し所有したことはない。しかし世間の一切の法の外相分と内相分はあのように不断に生滅し演変され、不断に造作されている。この現象は確かに人々に受け入れにくい。空の法は世間人が信じにくく、有に執着する習慣がある。しかし仏法は大乗も小乗も全て空を指し示す。空が究極に至り、一糸も掛からず、究竟空が徹底した時、成仏するのである。