衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2025年07月12日 閲覧数: 3027

戒定慧が具わって初めて証悟を得て解悟を避けられる

仏は説かれた:戒によって定が生じ、定によって慧が生ずると。戒定慧は意識だけでなく、意根にも具わっていなければならない。意根が我見を断つ智慧、明心の智慧を得ようとするならば、禅定も必要である。禅定の中で無我の法を参究し思量し、真如仏性を参究し思量してこそ、我見を断ち明心見性することができる。

もし意根が自ら参究し思量できなければ、意識が教え込む道理を認めることができず、結局は意識の解悟に終わる。また意根が無我の理を参究し思量しようとするにも、同様に禅定がなければ、意根は散乱してしまう。もし意根に禅定がなければ、六識を散乱させ、六識が散乱すれば絶えず了別し、その内容を意根に報告し続けるため、意根は絶えず気を散らし、参究に集中できず、理想的な結果を参究し得ない。

いかなる方法も禅定に代わることはできず、解悟に至る修行方法は十分に注意しなければならない。世尊の教えに従って修行すれば、決して誤ることはない。仏在世の弟子たちは全員坐禅して定を修め、普段の行住坐臥においても心を定めて仏法を思惟していた。唐宋の時代から明清以前、民国以前の修行者たちは主に坐禅修定を行い、その後は行住坐臥の中に禅定を保ち、心を常に定めていた。こうして心が細やかになれば、破参の機縁が熟しやすく、縁に触れれば即座に証得した。我々が今振り返って彼らの証得を見ると、あたかも容易であったかのように思えるが、実は彼らの基礎修行は非常に優れており、善根福徳が具わり、三十七道品が具わっていたのである。もちろんそこには禅定も含まれており、思惟が明晰であったため、相応する法を聞けば即座に証悟できたのである。

あらゆる人々の説法の中で、仏の説法は最も円満で究竟しており、仏の智慧を超える者はいない。仏の言葉を信じることに誤りは絶対にない。いかなる時代であろうと、仏法は永遠に変わらず、あらゆる時代に適用する。多く仏経を読めば智慧が増し、無駄な道を歩まず、人に欺かれにくくなる。すべての菩薩の説法は、仏と比べると欠落や滲みがあり、円満究竟していない部分がある。したがって我々が仏法を修学するには、やはり仏経を主とすべきである。

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