衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2026年04月02日 閲覧数: 1264
<h3 style="text-indent: 2em;">第三節 禅定を修める利益</h3><h4 style="text-indent: 2em;">一、禅定があると感知が繊細になる</h4>

朝の静座中、QQのチャイム音が聞こえた時、最初はただ音を知覚するだけで、音の定義や概念はなく、いかなる感覚も生じず、単純な知に過ぎなかった。この過程は長く、これが耳識の了別であり、比較的粗いものである。その後、意識の了別が生じ、意識が了別して初めてQQの音であると分別し、定義と言葉が生まれ、感覚が生じた。同時にだらりとして動きたくなくなり、快適さに少し執着する感覚が生まれ、坐り続けたいと思う。これが意根の貪着である。耳識が音を聞く前は、意根の知であり、意根の知はぼんやりとして、何の音か判別できず、その内容も識別できない。意識が現れて初めて、徐々にQQのチャイム音であると識別できるのである。

もし静座して入定していなければ、この了別過程は非常に短く、あっという間に過ぎ去ってしまう。しかし定中では、心が非常に繊細であり、了別も微細である。耳識、意識、意根はいずれも普段より微細であり、過程全体がやや長く感じられ、内容も繊細になり、了知はより純粋になる。心は情緒を起こしにくく、煩悩を降伏させやすい。これらは全て意根の功徳である。もしさらに意根を降伏させ、チャイム音が鳴っても、それが何であるかを了別しようとしなければ、耳識や意識は生じず、五識も生じない。無覚無知の状態となり、二禅の境界に入るのである。

静座中、心は非常に繊細になり、感知は真実味を帯び、客観的で情緒を伴わない。それゆえ普段は気づかない事実の真相を発見できる。心が境界に入らず、純粋に感知し、客観的に了別するならば、我見を断ち明心することは比較的容易になる。

禅定のある者は、心が非常に繊細であり、微細な了別で人や物事を見極めるのが正確で、根本を捉えることができる。物事を行う時は心が細やかで、細部まで行き届き、新しい事物に接してもすぐに習得でき、過ちが少ない。人は聡明で智慧がある。心が散乱している者は、推して知るべく、心が粗く気が焦り、ぞんざいでいい加減である。

<h4 style="text-indent: 2em;">二、禅定は五欲煩悩魔を降伏させることができる</h4>

魔王波旬は、衆生が禅定を修めることを最も望んでいない。なぜなら、一度でも未到地定を具足して修めると、彼の禅定と同等になり、魔王はその者を管理できなくなるからである。一度でも初禅定を修めると、魔王の掌握から離脱し、魔王はさらに手出しができなくなる。したがって、もし誰かが我々の禅定修行を妨げ、禅定の作用を否定するならば、注意しなければならない。この世間は五欲煩悩が熾盛であり、禅定がなければ煩悩を降伏させ、断除することはできず、後世の果報は恐ろしいものである。

<h4 style="text-indent: 2em;">三、禅定があると思惟が明晰で透徹する</h4>

もし思考が十分に明晰でないならば、一つは智慧が欠け、論理的思考能力が不足していること、もう一つは禅定が欠けていることである。もっと禅定を修めて心念を専一にし、思考をより明晰にするべきである。定力が不足している時、意識の思考は一本の主軸に沿うことができず、あちこちに気が散り、重点がなくなる。それは気脈が一本の線に沿って運行せず、体内をあちこち巡るのと同じである。一人の論理的思考能力が強い者は、強大な定力に依って初めて専一を達成でき、錐が一点に深く突き刺さるようなものである。定力のない者は、板が地面に平らに置かれているようで、痕跡が残らない。

もし定力が十分で、知見も十分ならば、坐禅の静中定と組み合わせて定力を強化し、その後、仏法を観行し、五蘊を観行すべきである。その後、参禅し、心に常に参究の疑情を抱く。まず我見を断ち、それから参禅して明心する。法を学ぶ目的は、観行のためであり、その後で証得するためである。もし観行できないならば、思考力が十分でない、つまり定力が十分でないことを示している。思惟修のない禅定では実証できない。したがって禅定を修めることを学び、禅定が本来の作用を発揮できるようにすべきである。

<h4 style="text-indent: 2em;">四、禅定は六根の機能を開くことができる</h4>

坐禅で極静に至った時、時として空中に非常に美しい音楽の旋律が聞こえることがある。これが中国の古人が言う天籟の音であり、仏経では緊那羅という天人の発する歌声であるとされ、これは天耳通に近い境界である。禅定は耳根の機能を開発し、心を開くことで、音を了別する障害を減らし、了別機能を強くする。禅定は如来蔵が耳根を通じてより遠方の音声の四大微粒子を摂取させ、耳識と意識に聞こえるように促し、天耳通が現れるのである。もちろん、このいわゆる遠方の距離は身根に対して言うものであり、如来蔵にとっては全く距離はない。これらの音は全て如来蔵が変現し執持するものであり、全て如来蔵の中にある。

衆生が禅定を発起できず、神通や道力を発起できないのは、心の散乱性、攀縁性、貪瞋痴の煩悩による遮蔽障害のためである。禅定を著しく阻害するのは貪瞋痴の煩悩であり、貪瞋痴が比較的重い者ほど受ける障害も深刻で、遮蔽障害も甚だしく、その自身の機能は阻害され、心は霊通しない。我々は本来、皆仏となることもでき、また一大千世界を所有することもできる。しかし貪瞋痴の無明煩悩の遮蔽障害のため、絶えず自己に執着する結果、一大千世界を得られないばかりか、かえってそれによって人身の自由を失い、徒らに無量の生死の苦しみを受け、小利に貪って大利を失い、得るより失う方が大きい。これによって衆生は無始劫以来、愚痴の業を造りながら自ら気づかず、衆生は皆このように微々たる小利のために一大千世界を失っているのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">五、静中定は智慧を生じやすくする</h4>

歩行と坐臥にはどのような違いがあるか。歩行時は、身識と意識は色身の動作に置かれ、注意力は色身と周囲の環境に向けられる。独頭意識が法義を思惟する注意力は減り、精力が足りず、専一になれず、思惟は深く細かくならず、智慧は生じにくい。一方、坐臥中は、識心が分散することが少なく、独頭意識の注意力はより集中し、思惟は深く細密になるため、智慧が生じやすい。したがって、坐臥の静中定は智慧を生じやすくすると言われる。坐臥中は心理的な負担がより少なく、精力を集中して細密に思惟でき、歩行中にどんな状況に遭遇するかを心配する必要がない。そのため心は安らぎ、静座は未到地定や初禅定を生起しやすいのである。

定によって慧が生ずる。この定とは未到地定と初禅定を指す。したがって証果や開悟には、最低限未到地定を具足していることが必要である。無念の未到地定や初禅定でさえなければ、定が深まるにつれて思惟はより細密になり、智慧を開いて新たな境地を発見することは問題ない。禅定がなければ観行はできず、定が浅ければ観行は力強くなく、心も細やかでなく、法と相応しない。したがって仏法を学び修行する際、三十七道品と菩薩の六度を修めた後は、禅定と観行を主軸として修行するのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">六、定を修めて心を養うことは道を養うことでもある</h4>

静座中の初禅定や未到地定では、いずれも仏法を思惟観行することができ、その思惟の程度は活動中の思惟よりはるかに繊細で深く、智慧はより開きやすく、より深く透徹する。二禅以上の定中は無覚無知であるため、仏法を思惟することはできない。坐禅で二禅定に入ると思惟はできないが、出定後の仏法思惟は非常に深く細かく、行住坐臥中の定力も相当よく保持される。

坐禅中に仏法を思惟すると、負担がなく、心は安らかで、内面は沈静し、浮つかない。下座後は一日中、身心ともに愉悅で伸びやかであり、煩悩がなく、思惟も敏捷である。坐禅の静中定は、真に身口意の活動中の定を資養することができる。活動中のわずかな定だけを修めても根本的な問題は解決できず、煩悩を降伏させることはできず、仏法の思惟は細密でも深く透徹してもいない。

末法の世の衆生は福が薄く、皆物質生活の享受のために奔走し、禅定を修める時間や環境的条件がない。そのため皆、自分に合わせて動中定さえあれば十分だと言うが、実際にはこれははるかに不十分であり、実際の問題を解決できず、仏法を実証しにくい。口先の功夫が多く、心は依然として非常に浮ついており、貪瞋嫉妬は依然として熾盛である。

現在の衆生は皆、喧騒で動乱の環境の中で生活しており、大多数の者の我執は強烈で堅固である。そのため闘争心が非常に盛んで、互いに争い合い、社会全体や各団体を烏煙瘴気に陥れ、収拾が非常に困難である。これは衆生の心に禅定がなく、煩悩を抑えきれないため、煩悩が氾濫するに至っているからである。このまま続ければ、仏教の分裂と衰弱は必然の趨勢であり、誰も仏教の消亡を阻止できない。そしてこの消亡は内部から始まり、仏教団体内部の分裂によって仏教は必然的に消滅する。仏法を学び修行するに禅定の滋養がなければ、真実の身心の受用はなく、衆生や仏教の発展前途にとって益はない。したがって、仏法を学ぶ者一人ひとりに、必ず静座して心を養うことを学ぶよう勧める。心を養うことは道を養うことであり、社会環境を浄化し、人心を浄化し、仏教事業の安定的な発展を促すことができるのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">七、初禅の功徳</h4>

四禅八定は仏門に通じるだけでなく、外道にも通じ、大乗と小乗の区別はない。しかし菩薩たちが修める禅定は外道よりはるかに殊勝である。初歩の定を得ると、身体に動く現象と動かない現象があり、随意に動転できる定は比較的柔軟である。動転しても心念は比較的専一で、妄念も少ない。欲界定中は、身体に軽く漂う感覚があり、歩くのは一陣の風のようで何の音もせず、身体は上に持ち上げられるかのように軽やかで、以前のように重く足を引きずって歩くことはなくなる。

初禅定中の身体はこれよりさらに軽やかで、身体がない感覚に近い。初禅には身体が痒くなる感覚はなく、全てが快適と軽安であり、感覚はこの上なく美妙で、人間の言葉では形容できない。人間界の感受と初禅定中の感受は本当に比べものにならない。このような美妙な感受があるため、人間界の五欲の楽しみを好まなくなり、財や色にも興味がなくなり、世間の五欲は比較的粗悪に感じられ、それゆえに憧れもなくなる。

初禅中の身体の感覚には重さがなく、全てが軽やかで軽安であり、身体は真っ直ぐ上に漂う。体内にも五臓六腑の感覚はない。寒さや熱さの感覚はなく、熱が出る感覚もなく、身体が渋い感覚もなく、いかなる不快感もない。内心は清明で、神気は爽快であり、昏沈はない。正反対に、美妙で軽やかという言葉でこの時の身体感覚を表現できる。もし少しでも良くない感覚があれば、それは苦悩であり、初禅が持つべき功徳の感覚ではない。

<h4 style="text-indent: 2em;">八、禅定があれば疑いを断ち信心を生じさせることができる</h4>

禅定が不足すると智慧は浅く、必然的に法に対して疑いが生じ、疑見が必ず存在する。特に深い法、唯識種智の法に対しては、誰もが程度の差はあれ疑いを持つ。禅定の智慧が不足し、福徳も足りないため、実証できず、現量で観察できないからであり、疑いはさらに深くなる。そのため仏は金剛経で衆生に疑いを断ち信心を生じさせるよう説かれたのである。自ら実証できない状況では、疑いがあるのは避けられないが、決して結論を下してはならない。結論を誤れば謗りとなり、果報は深刻である。智慧のある者は、自ら実証できない法義に対して、軽々しく肯んじもせず、否定もしない。自らに業障を加えないようにするのである。

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