衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2025年12月04日 閲覧数: 1046
<h3 style="text-indent: 2em;">第二節 第八識を如何にして証得するか</h3><h4 style="text-indent: 2em;">一、大乗の修行次第は先に第八識を証得して後に転依する</h4>

問:もし常に第八識に依止し、第八識に転依しているならば、時間が経てば意根も受け入れるようになるのでしょうか。

答:第八識を証得した後でなければ第八識に依止し、第八識に転依することはできません。まだ第八識を証得していない段階では、真に依止することはできず、頼ることもできず、ましてや真の転依は不可能です。真に第八識に転依する時には、既に初地菩薩の境地に修めています。況や、依止と転依は意識だけの事ではなく、主として意根の事柄です。意根がもし依止し転依できるならば、第八識を受け入れるだけでなく、第八識を証得し、かつ煩悩も滅除したことになり、その上で初めて転依について語ることができます。

このような説き方は修行の次第を丁度逆にしてしまいますが、しかしこのような似たような認識も、我見を断つ助けとなり、心も少しは清浄になり得ます。しかし真の智慧を生じさせるには、必ず禅定の中で自ら実際の観行と参究を行い、真に証悟して初めて問題を解決できます。絵に描いた餅では飢えを癒せません。

第八識の証悟は、意根自らが思量参究して証得するもので、親証と呼ばれます。もし禅定がなければ、意識の思惟は意根に熏染することができず、意識の浅はかな念いでは意根を真に受け入れることはできません。親証した後は次第に第八識の清浄性に転依していきます。転依とは意根が導き出す身口意行です。もし意根が証得しなければ転依できず、身口意行は相変わらず元のままで、変化はありません。

<h4 style="text-indent: 2em;">二、第八識を証得する正しい方法</h4>

問:私は普段から五蘊と周囲の一切を第八識の中に置いています。こうして徐々に五蘊を空と見なし、第八識を見つけることはできるでしょうか。

答:この説き方は逆です。第八識を証得していないのに、どうして中に物を入れることができるでしょうか。況や第八識は物ではなく、どうして人為的に中に物を入れることができるでしょうか。五蘊を空と見ようとするならば、禅定の中で如実に五蘊を観行しなければなりません。第八識を見つけようとするならば、参禅の中で第八識を参究しなければなりません。これ以外に、何らかの法を第八識の中に置く方法はありません。五蘊と周囲の一切は元々第八識を離れずに存在しており、第八識の外に出ることはありません。わざわざ第八識の中に置く必要はなく、その必要は全くありません。更に言えば、第八識を見つけていない段階で、どうして第八識の中に置くと言えるでしょうか。想像で作り出した第八識は、修行にとって大した益にはならず、仏法を学ぶ際にはできるだけ仏法を過剰に解釈しないように心がけるべきです。そうすることで実証に対する大きな障害となります。

正しい修行方法は、速やかに禅定を修め、禅定の中で参究観行し、意根を用いるべきであり、意識の推理分析や想像だけに頼るべきではありません。禅定の中で意識が深く細やかに思惟観察し、これらの法は全て生滅無常で変異するものであり、私でも私の所有でもないと理解し、意根を共に参究させます。証得すれば五蘊を空と見ることができ、その後さらに参禅を通じて第八識を証得します。第八識を証得した後、再び現に観察して第八識が如何にして五蘊を出生するかを知れば、五蘊が確かに空であり、生滅し、無我であることを知り、五蘊が全て第八識によって生起することを照見します。これが『般若心経』で説かれている、五蘊皆空の真理を照見するということです。第八識を見つけようとするならば、禅定の中で参禅参究する方法を通じて初めて第八識を証得できます。

<h4 style="text-indent: 2em;">三、積極的に参禅の方法を用いて初めて第八識を証得できる</h4>

問:第八識を証得するために、私はまず五陰十二処十八界を全て空と見なし、私ではないと否定し、私が現れるのを待つ、という方法は可能でしょうか。

答:第八識の私とは待って現れるものではなく、参究して現れるものです。修行とは受動的に待つことではなく、積極的に悟りの条件を満たし、能動的に参禅して初めて開悟明心するものです。参禅や公案を参究する方法を通じて、その真我である第八識を見つけなければなりません。五陰十八界を観透かすだけでは足りず、我見を断つだけでも足りません。我見を断った後も参禅を続け、参究して初めて明心見性できます。実は第八識は常に現れていますが、ただ私たちに定慧がなくて彼を発見できないだけです。定慧がある時には、能動的に彼を探し求めなければならず、待っていても来るものではありません。

<h4 style="text-indent: 2em;">四、推理想像と実証の差は極めて大きい</h4>

問:如来蔵と妄念が不二であると確定し、一切の全てが如来蔵を離れず、全て如来蔵の妙用であると非常に確信し、もはや疑いがなくなった場合、それは明心見性と言えるでしょうか。

答:これらの内容は全て悟り前の推理、推測、想像であり、一点の証拠もありません。どうして疑いを断つことができるでしょうか。仏経や他人の理論を手に取り、自分で思惟理解したものを自分の見解や観点とすることは、親証との間にまだ非常に大きな隔たりがあります。何の観行や参究もなく、理論は所詮理論であり、知見は所詮知見であって、結局は自分の真実の智慧ではなく、明心見性からはまだ程遠いものです。今多くの人々は自分で考えただけで高い証量があると思い込んでいますが、実は理解すら十分にできていません。

明心見性しようとするならば、具体的に妄念と如来蔵が如何にして不二であるかを証得し、現前に観察して如来蔵が作用の中で如何にして妙用を起こすか、如来蔵が如何にして五陰の運行に配合するか、彼がどこで作用を起こすかを知らなければなりません。これらは全て参禅を通じて初めて知ることができ、知った時が即ち明心です。明心した後、初めてどれが如来蔵かを知ることができ、その後で初めて現前に彼を観察し、彼の更なる体性を理解し、より多くの智慧を得ることができます。如来蔵が一切の法に作用していることを知るのは、明心見性には属しません。これは理論的な知見であり、経典にはっきりと書かれており、私たちは熏習を経て初めて知るものであって、証悟とは言えません。

<h4 style="text-indent: 2em;">五、禅定を修める方法だけでは悟れない</h4>

問:私たちが次々と念いを起こす時、これらの妄想念いは七識が作用しているものです。如何にして第八識如来蔵の存在を感じ取ることができるでしょうか。念いと念いの間の短い隙間、即ち無念の時こそが八識のものです。もし修定の訓練を経ていなければ、念いが絶え間なく移り変わります。修定の練習を経て念いを遅くし、ますます遅くして無念に至らせて初めて、第八識は現れるのでしょうか。

答:無念の時には第八識だけでなく、七つの識、第六識と前五識もあり、八つの識が一つも欠けていません。故に無念は悟りの境地ではなく、無念を修める方法は純粋に修定の方法です。一切の法は全て第八識によって出生され顕現されるものであり、妄想を起こしている時もそうであり、妄想を起こしていない無念の状態も同様に、第八識によって出生され顕現されるものです。第八識は至る所に存在し、常に存在しています。第七識も常に至る所に存在しており、そうでなければ色陰、受陰、想陰、識陰、行陰は存在しません。そして無念の時こそ五陰が全て存在するため、意根である第七識は存在しています。同時に第六識も存在して運行しており、色身には受覚があり、了別性があり、知性があり、自分が無念であることを知るのは、第六識の知性の作用です。もし更に色を見、声を聞き、香を嗅ぐなどの機能作用があれば、五識も存在して運行しており、八つの識が全て存在しています。

故に、念いの間に念いが無い時に初めて第八識が現れるのではなく、第八識は常に至る所に存在しています。また、この状態に修めたからと言って第八識であり、即ち開悟したとも言えません。念いの無い中間の状態とは主に意識心を指し、念いを離れた意識心であり、意識が偶に念いや妄想の無い境地に属します。即ち禅定の境地です。無念になったからと言って、念いの無いそれが第八識だとは言えません。ここには依然として八つの識、少なくとも三つの識が存在しています。

理論がまだ十分に通じず、禅定がまだ深くなく、六度がまだ大きく不足している段階では、常に如来蔵がどこでどのような作用をしているか考え込んではいけません。推測や推理想像は真の修行を妨げ、道業を阻害し、智慧の出生を妨げます。厳密に修行の次第に従い、菩薩の六度を徐々に完成させていくべきです。戒律を守るべき時は戒律を守り、禅定を修めるべき時は禅定を修め、理論を完成させるべき時は理論を完成させ、各方面の条件がほぼ整ってから初めて禅定の中で参禅を始めるべきです。禅定が無い段階で最終的な結果を考え込んではいけません。

<h4 style="text-indent: 2em;">六、第八識を推測することは偷心の行為である</h4>

問:妄想念いを通じて、第八識が作用していることだけを知ることができますが、第八識が如何にして作用しているかを明白に知り、かつそれを顕現させることはできるでしょうか。

答:第八識の作用を明白に知ろうとするならば、菩薩の六度を全て修め、条件を全て具足させ、参禅の方法を用いて明心し、第八識を証得して初めて、第八識が如何にして起用するかを知ることができます。実は第八識は常に顕現しており、決して途切れたことも隠れたこともありません。ただ無明に覆われているために証得できないだけです。私たちは今、菩薩となる条件を努力して完成させ、福徳と定慧を多く積むことに努めれば、第八識を証得できます。常に第八識を推測したり、あちこちで聞き回ったりしてはいけません。そうすることは修行にとって害はあっても益はなく、知ることは証得することに及びません。知れば知るほど証得しにくくなり、偷心が死ななければ智慧は生まれません。

<h4 style="text-indent: 2em;">七、参禅は推測ではない</h4>

問:死屍を引きずる(訳注:肉体を動かす主体)のは妙明真心如来蔵でしょうか。如来蔵は自力で悟り証得するしかないのでしょうか。

答:死屍を引きずるのは妙明真心如来蔵です。これは最終的な結論であり、私たちが参禅を通じてこの結論の正しさを証明する必要があります。その後、妙明真心如来蔵が如何にして死屍を引きずり、如何にして作用し、如何にして五陰万法を出生し、如何にして七識の運作に配合するかを知り、六祖大師が開悟した際に説かれた五つの「何期自性」に合致しなければなりません。修行とは実証を通じてこれらの理論の正しさを証明することであり、そうして初めて私たちはその然る所以を知る証悟の菩薩となるのです。

如来蔵の証悟は自らが苦労して参禅した結果であり、他人から直接答えを見つけることはできません。なぜなら答えを知っても何の功徳受用もなく、その参究と証明の過程こそが智慧を増長する鍵であり、身心世界の転換をもたらすからです。故に他人から結果を求めてはならず、必ず自らが千辛万苦して参禅参究し、果実を収穫し、参究して如来蔵が何処にあり、どのような作用を起こしているかを知らなければなりません。そうして初めて大智慧が生起し、解脱の功徳受用が得られます。意識が賢ければ賢いほど理解しやすくなりますが、証得しにくくなります。賢さが却って賢さの妨げとなり、賢さは永遠に智慧に及びません。

<h4 style="text-indent: 2em;">八、近道を行くことは真の修行ではない</h4>

問:我見が徹底的に断たれた後、如来蔵は自ら浮かび上がってくるのでしょうか。

答:これは偷心が死んでいない考えであり、近道をして努力と代償を払いたくないという考えは決して持ってはなりません。得をしたところが即ち失うところであり、骨の髄まで凍るほどの寒さを経験しなければ、梅の花の香りを嗅ぐことはできません。

如来蔵は元々明るく輝きながら存在し運行していますが、ただ無明の遮障のために証得できないだけです。最も深刻な遮障は五陰十八界を真実の私と見なすことであり、この我見が真実の如来蔵を隠し蔽っています。我見が徹底的に断たれると、大疑情が生じやすくなり、疑います:五陰の私は虚妄であるならば、なぜ五陰の作用がまだあるのか。参究を通じて五陰の背後にある主宰者である真心如来蔵を見つけ、その後はもはや様々な意識の境地を如来蔵として悟ることはなくなります。

我見を断つには、日常活動の中で五陰の虚妄を証得し、六識の虚妄を証得し、十八界の虚妄を証得し、五陰十八界の虚妄法の中の様々な私、様々な六識が全て虚妄であり、真実の私ではないことを証得しなければなりません。できれば身心の外に跳び出て身心の虚妄を観察するのが最善であり、これには内心に高度な警戒心が必要です。自心を反観する能力が強ければ強いほど、我見を断ちやすくなります。

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